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2006/07/13

癌について少し考える

green

僕は「末期の癌患者になった従兄弟」という話の中で、「それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである」、と書いた。
その眼差しで従兄弟のことをみれば、なすすべもなく崩れていった彼の姿しか思い浮かばない。癌との戦いは消耗戦であり、少しずつだが確実に彼の肉体を侵略し、ついには完全に屈服させられる。彼は癌との戦いに負けたのだ。

上記の眼差しは、 僕は知らぬ間に従兄弟が癌に罹った聞いた時点から、自分の気持ちの中にあったのだろう。そしてその癌への見方が、 「戦う」という文章になったと僕は思う。しかし今ではその見方が違うのではないかと思っている。

「癌との戦い」、癌治療に対し軍事用語が頻繁に使われる。癌は肉体を地図としたとき、まず人知れず橋頭堡を確保し、そこを起点として勢力を徐々に拡大していく。目立たずに侵攻する様は見事としか言いようがない。それに対応するには、進行(侵攻)を止めるべく行う化学療法、もしくは癌が在る部分(橋頭堡)自体の切除となる。

「戦い」と言うからには、双方に戦う相手が必要となる。片方は病気としての癌と言うことになろうが、もう一方は誰なのであろう。

おそらく患者自身は、癌との戦いに参戦している意識は薄いのではないかと僕は思う。人は誰でも重い軽いの隔てなく病に罹る。その時、例えば単なる風邪であっても高熱であれば、病人はただ朦朧とした意識の中で横たわるしかなく、後は自分自身の免疫力と、周囲の介護に身を委ねるしかない。意識の上での病人はただ無力である。

ただ、病としての癌のイメージとして、そこに戦争が在る限り、患者は突然の医師の宣告により戦場に投げ出されることになる。ただ実際に戦う意識を持つのは医療関係者と患者の家族かもしれない。そして双方の狭間で、患者は「癌との戦い」の兵士ではなく、単に戦場としての地図であることを意識し、人として無力感を持つに至るように思える。

従兄弟が腸閉塞と患部切除の手術を受けた後、医者は彼に対し食事と運動を強く促した。おそらく具体的に「戦い」に参戦せよとの要請であったに違いない。しかし彼は両者とも出来なかった。食事と運動、それが程度の問題に関係なく、その行為自体においても人間は力を必要とする。気力の問題以前に彼にはその力がなくなっていた、おそらく手術がその力を奪った、僕にはそう見えた。

癌以外にも人間はそれこそ多くの病気に罹る。でも「戦い」と公然に呼ばれる病は意外に少ないと思う。例えば「老人性痴呆症」は病であるが、だれもそれを「戦争」とは言わない。もしかすれば介護はそれこそ「戦い」に近いと思う。ただ仮に「戦争」と呼ばれたとき、戦うべき「敵」とは一体何を示すことになるのだろう。病としての「癌」のイメージは「戦争」に結びつく。そして誰も好きこのんで「戦争」に飛び込みたくはない。

だから検診などで癌マーカーが出ていない事を祈り、癌予防に効くと云われればそれを試し、発癌性物質があると言われる製品からその身を遠ざける。 でも企業などが行う定期検診の殆どは、法令で定められた最低限のことしか行っていず、そこでわかる病もあるが、
それ以上に見逃してしまう病のほうが圧倒的に多いのではないか、そう思っている。

実際は「癌」は人間が罹る病の一つでしかなく、重大ではあるが特別な病気ではない。
しかも早期発見をすれば完治する率が高い病気でもある。 しかし何故未だに多くの遅れてくる癌患者の多いことか。問題は病理学的な癌以上に、 癌という病いのイメージそのものにあるように思える。 そしてそのイメージが社会に蔓延することで、人は癌検診を受けるのを避けるようになるのではないだろうか。

社会に蔓延している癌のイメージとは、一つは上記に述べた悲惨な戦争のイメージであり、一つは長期入院を余儀なくされることから、競争社会の中でそれまで築き上げてきたキャリアをなくす恐れであり、一つは患者として社会から隔絶した病院の管理下に入るということである。 しかし癌と言えども全てが同じ症状になるとも限らない。癌の部位と程度、または肉体的な個体差により症状はまちまちだと僕は思う。

もしかすれば自分の身体を顧みて癌かもしれないと一人戦々恐々としている人が多いかもしれない。人は不調を続けて感じたとき、まず癌ではないかと疑う。しかし癌のイメージが病院に行くことを押しとどめる。そしてもうすこし様子を見ようと言うことになる。その不安感は、人を健康へと目覚めさせる。身体によいと聞けば様々なことを試し、暴飲暴食を慎み、生活態度を改めさせ、適度な運動を心がける。もしくは色々とある健康器具類をそろえる方もいるかもしれない。しかし、自分の健康への目覚めは良いことではあるが、それ以前にまずは病院での検診こそが必要だと僕は思う。

また病気に罹るということ自体で、患者は罪悪感に囚われる場合もある。まずは多くの場合、病院で医者から言われる 「何故もっと早くこなかったのですか」という一言が患者に罪があることを意識させる。そうでなくても患者は、「何故自分が」という不公平感に囚われているのである。そして過去を振り返り、生活が乱れていたとか、暴飲暴食をしたこととか、家系のこととか、様々な要因を自分から引き出し、気持ちを納得させようとする。でもそれは本当のところ難しい。癌の発生理由の根本的なところは、様々なことを言われているが全ては仮説であり、本当のところは誰もわからない。

癌は罪でも、ましてやその人の罰ではない。 癌に罹った理由を自分自身に求めることは、
病いに対して社会が造りあげた虚妄に乗るということだと僕は思う。また癌は外来的な原因によることも十分に考えられる。いずれにせよ患者に罪は全くない。ここで患者が自分に罪をかぶせると、それは先々医者とのコミュニケーションが、医者からの一方通行になる恐れがでてくる。自分の命(人生)を判断するのは、医者ではなく最終的には自分でありたい、
僕はそう思っている。

病いとは人間の肉体に及ぼす物理的な作用であり、だからこそ本来は癌への対応は技術的側面を持ってすべきだと僕は思う。よって病いに関しては、心理学的、 社会学的見地からの意見は必要ないのかもしれない。技術的側面とは、定期検診による自分の肉体の現状を知ること、癌に罹った時のために医療保険に検討加入すること、また信頼のおける病院を幾つか知っておくこと、医者とのコミュニケーションを円滑に行うべくノウハウを知っておくこと、自分の身体を守る為に時として疑問は残さないこと、また時として自己主張すべきであること、等のいわばハウトゥーである。

上記の事柄は当たり前のように聞こえるかもしれない。でも癌への様々なイメージは、隠喩として使われ、感動的な美談として映像化され、ロマンチックな悲恋物語の結末として小説化され、その他様々な状況・メディアにより再生産され続けている。現在では、癌を死と結びつけて考える人は少なくなったと思うが、それでも昔のイメージとしての癌はしぶとく生き残っている、と僕は思う。だからこそ、それらに付随する商業化した健康ビジネスの中で僕等は消費活動を続けているのである。

実を言えば僕も医者・病院嫌いで、滅多なことでなければ病院には行かない。だから上記の話題を書く資格はないのは自覚している。でも今回従兄弟のことを通じて僕が感じたことを少し書きたいと思った。まだ書き足りないのであるが、それらはまた別の機会に書こうと思う。

2006/06/30

従兄弟のこと

park bench

従兄弟が亡くなった。以前に記事で従兄弟が癌と宣告されたことを記事に書いた。それから約一ヶ月で彼は亡くなった。前日には、それまで寝たきりだったのが急に起きあがり、見舞いに訪れた人に元気な姿を見せていた。声も大きく、会話に参加する様は周囲に幾ばくかの期待を抱かせるに十分であった。

従兄弟は癌の末期症状から来る痛みにより、鎮痛剤を肉体に注入しているにも係わらず、眠れぬ夜が続いていたらしい。眠れぬといっても鎮痛剤により意識は朦朧としているのだが、それでも床ずれも含めて様々な痛みが襲う。そんな彼がひとしきり元気な姿を見せた後、急に深い眠りに陥ったらしい。眠りの初めは自然な姿であり、夜眠れぬ状態である事を知っている看護士からは、「久しぶりにぐっすり眠っているようで良かった」と言葉に出るほどであった。

それが眠りから昏睡状態にはいり、一度も目覚めぬまま息を引き取った。2006年6月29日午前11時7分の事であった。

僕が彼の死を聞いたのは、丁度亡くなって自宅の母に連絡が入り、その母を通じてだった。ふと身近な時計を見る。時計は11時半を過ぎようとしていた。これから遺体を自宅に運ぶとの事だった。

この記事は追悼文にするつもりはない。僕は間違いなく彼のことを忘れることはない。従兄弟にとって僕は弟のような存在だったかもしれない。でも父を幼い頃に亡くした僕にとっては、彼の姿に父親の姿を僅かながら見ていたのは事実である。身近な者の死は、追悼文などという姿にするまでもなく、僕が密かに誰に証すこともなく、自分の中の悼みとして一生持ち続けていく事になるのだと思うのである。人に対する悼みの気持ちとは本来そう言うものだと僕は思う。

ただあまりにも突然の死であった。「癌には語り合う時間がある」などという物言いが空虚に感じるほど、僕は彼と話をしていない。

奥さんの話を聞けば、従兄弟は前日眠る前にまで、自分が十分に治ると確信していたらしい。でも傍目から見る彼の病院での姿は、食事が出来ないために栄養剤の管が肉体に挿入され、その他に点滴と、腹水が溜まるのでそれを捨てる管、また痛みを抑える鎮痛剤の管、等が付けられていた。そして医者から家族にはもう長くないことを告げられていた。

腸閉塞の改善の手術は一応成功していた。でも僕から見ればその手術の後、従兄弟がベットから起きあがり元気に動き回る姿を見たことは一度もない。確かに手術は大きなリスクが伴うものだったとは思う。医者も最大限の努力をしてくれた。でも僕が誰にも告げずに思うことは、手術をしない方が良かった、強くそう思う。

勿論手術の是非については結果論の話なので、今更の話である。だからこそ僕は誰にも言える話でないこともわかっている。そしてその事は、いずれ僕自身が彼と同様の立場になったときに、自分がとるべき行動として深く記憶に刻むしかない。

遺体が自宅に戻ったことがわかり、僕は取り急ぎ従兄弟の自宅へと向かった。家では彼の姉妹達が全員来ていて、それぞれに目を赤く腫らし、彼女たちの悲しみの強さを表していた。特に彼が愛した娘達の姿は、涙が涸れることがないかのように、静かに涙が頬を伝わり続けていた。従兄弟の家は静かであった。限りなく深く静かであった。

従兄弟の母は別室で横になっていた。従兄弟の妹が老母に付き添っていた。「私が代わってあげれば」と何度も母はつぶやいていた。

彼の顔を覆っていた白いガーゼをめくると、そこには従兄弟が青ざめた表情で、眠っているかのように、静かに目を閉じていた。娘が従兄弟が横たわる布団の横で顔を埋めている。時折顔を上げて従兄弟の顔を静かに優しく触る。その仕草が痛々しい。僕は微動だにせず、 動くことも語ることも出来ず、じっと彼の顔を見続けている。信じられなかった彼の死が少しずつ、僕の中に受け入れられてくる。

正直に言えば、彼の死を受け入れる、という物言いは正確でもない。おそらく僕は彼の死を認めながらも、彼の存在を僕の周囲に求めることだろう。彼の顔は穏やかだ。ふと従兄弟を抱きしめたいという衝動に駆られる。抱きしめる変わりに僕は彼の顔に触れる。柔らかさと冷たさ、彼との思い出が触れることにより僕の中を混乱と共に駆けめぐる。
思わず嗚咽がでる。

一人の男が生き、そして死んだ。死にたいし、安らかに誰にもこれといった迷惑をかけることなく、最期に元気な姿を周囲に見せ、それこそあっけなく彼は逝ってしまった。彼の人生は、誰もがそうであるように、波瀾万丈であった。波瀾万丈との眼差しは、勿論他者からの眼差しであろうし、従兄弟自身はそう言うことは微塵も思っていなかっただろうと思う。それに波乱がない人生など何処にもないかもしれない。 しかしどういう形であろうとも、一人の男が僕と同時代に生きていたのは紛れもない事実なのである。

いずれ今回の様々な出来事が、個々の記憶の中で一つの符丁となって、新たに蘇ることだろう。例えば死の前日、あれほどものが食べれなかった従兄弟が、元気な姿に誘われて奥さんが出した好物のお稲荷さんを美味しそうに1個食べたこととか、それ以前に前日に元気な姿と明瞭な言葉での会話を交わしたこととか。喪失とは彼を取り巻く人々が抱く感情であり、従兄弟自身のことではない。そして喪失感から来る足りなさを、そうやって埋めていくのだろう。

でも間違いなく今の時点で僕が言えることは、彼は病気を治癒するつもりでいたと言うこと。そして、この言葉を吐けば悲しさが募るだけなのはわかるが、従兄弟は生きようと、生きたいと強く思っていたということ。そしてそれが叶わないまま、途中で彼は亡くなったと言うこと。そしてそれらのことは誰彼の区別なく、僕自身の死に対しても同様であろうと言うこと。まさしく美化することなく彼は僕にそれを最期にあらためて教えてくれたように思うのである。

いずれ僕は従兄弟の事を書きたいと思う。何も書き残さず、生来無口で多くを語ることの無かった従兄弟は、ただ同性として、僕とは少しばかりではあるが様々な事を語った。彼と接した人は、それぞれの眼差しの中で従兄弟の精神を思い描いていることだろう。どれもその方にとっては正しい。でもそれは従兄弟自身のことではない。少しであれば彼に歩み寄れるかもしれない。そんな思いを僕は持っている。

従兄弟が最期に奥さんと交わした会話は、他でもない僕のことだったという。つまり僕のオートバイの装備の事を気にしていて、病気が治ったらその装備を買ってやるんだと、言っていたそうだ。自分に対し一所懸命に過ごした彼は、人に対しても一所懸命な人間であった。

またいずれ逢いたい。逢うだろう。そう思う。

2006/05/29

末期のガン患者になった従兄弟

従兄弟が末期ガンの宣告を受けた。実はこういう話をブログに書くこと自体気がとがめる。勿論「僕の従兄弟」と書くことで、この記事を読む方が誰かと判明出来るとも思えないし、記事に特定の情報を書くつもりもない。また親戚の誰も僕のブログを読んでいるわけでもないので、僕が従兄弟のことを少し書くのを知るよしもない。でも彼のことを書いているということを、他でもない僕が知っている。そして僕は従兄弟のことを題材にしてブログを書く自分に幾ばくかの責めを課しているのである。さらに言えば、本当に書きたいことは従兄弟のことでもない。末期ガンの宣告を受けたと知ったときの自分の気持ちを書きたいと思うのである。

従兄弟は僕と二回りほど年が離れている。といってもまだまだ若いと僕は思う。彼は僕が幼い頃とても面倒を見てくれた。映画に連れて行ってくれた。遊園地にも一緒に行った。彼は優しく大きくそして豊かな感性と知性を持っていた。従兄弟が結婚し二人の娘を授かり、彼女たちに溺愛している姿を見たとき、僕は彼の娘達に軽い嫉妬心を持ったのを覚えている。
それまでは僕の方に目を向けていてくれた彼の変貌に子供ながらとまどいを持ったのだった。そのくらい僕は彼の事が好きだったし、彼への愛情は今も変わることがない。

従兄弟は医者嫌いで滅多なことでは病院には行かなかった。その彼が最近の不調に耐えかねて病院に行ったのはつい最近のことだ。そして2週間の検査を経て医者が対応しきれないほどガンが進行しているのが判明したのだった。まずは大腸ガン、そして患部に腸閉塞の恐れがあった。ガンはリンパ腺を通じ全身に転移していた。肝臓が侵されていた。水も腹膜に溜まっているらしい。

さらに問題は狭心症で心臓が弱く、手術と抗ガン剤に耐えられないとも言われたそうだ。つまりなすすべがないのである。従兄弟の今の状態では腸閉塞が始まればそこで終わり。医者の経験で言えば、早くても九ヶ月、過去の事例でもっても2年以内と言われたらしい。

宣告を受ける前に僕は彼の所に見舞いに行った。彼は普段と変わらぬ、穏やかな姿で僕に対応してくれた。「病院は退屈で死にそうだ」と笑いながら僕に話してくれた。宣告を受けてから僕は彼に会いにいっていない。彼は今どのような気持ちで過ごしているのだろうか、
よく眠れているのだろうか。考えるだけでも心が重たい。

その時、見舞いに行った帰り、僕は彼の家に足を向けた。そこには彼の奥さんと娘さんがいて、彼女たちと僕は従兄弟のことについて話をした。奥さんによれば従兄弟は昨年から自分の病気が重大なことを知っていたそうだ。そして医者から「診断書」を渡されていたが、それっきり病院に行かなかったそうである。その出来事に奥さんは「怖がったんじゃないか」
と言い、娘さんは「お父さんは現実逃避するタイプだから」と言っていた。現実を逃避する性癖は僕を含め一族男性の特徴でもあるらしい。

でも僕は二人の女性の話をすぐに頷くことも出来なかった。それにその時点で仮に検査に行ったとしても、現状が大幅に変わっていたとも思えなかったのもある。また奥さんは、従兄弟が検査入院をする前に医者から受け取った診断書を見せてくれた。大きく「診断書」と書かれた紙にはワープロ文字で従兄弟の病気について概略が書かれてあった。その中には「重大な状態(死)」という文字もあった。

その紙を従兄弟に渡し医者は「さぁどうしますか?」と聞いたそうである。それに対し彼は何も答えなかった。そして検査入院が決まる一悶着までの間、従兄弟はその紙を無視したのである。

「さぁどうしますか?とこの紙をいきなり見せられてもねぇ」と奥さんが言う。僕はその言葉に頷き、彼が医者から診断書を受け取ったときの状況を想像する。「さぁどうしますか?」の一言は医者として自分の敗北を認める言葉でもある。

でもこの際医者を責めても何の意味もない。この診断書を見つけた奥さんはすぐに病院に行ったそうである。そして検査入院の段取りを決めた。診断書には「進行性」と書かれてあったにもかかわらず、病院側が最初に指定してきた日は一ヶ月ほど後の日であった。それを何とか二週間先に交渉した奥さんは、その話し合いの後で医者からこう言われたそうだ。

「ガンと言ってもすぐに死ぬわけではないですし」

つまりこの時点で担当医は従兄弟がガンの末期であり回復は難しい事を知っていた。医者の言葉は従兄弟にガン患者の属性を付与し、ついで生者でありながら「死者」の属性も付け加えようとしていた。僕にとって大きくて優しい従兄弟は、いきなり今まで培ってきた個性、社会的位置、父親、夫、等々の様々なアイデンティティが単一で無個性な「末期のガン患者」に上書きされる、そんな気持ちを僕に抱かせた。

おそらく医者自身はそんな気持ちを見も知らぬ患者の親戚に抱かせたとは知るよしもないだろう。従兄弟は上書きされた自分の属性に抵抗したのだろうか。多分彼のことだ、無視という態度を装うことで自分自身を保っていたのかもしれない。そしてその姿が娘さんからは「現実逃避」、奥さんからは 「怖がっている」というふうに見られたのかもしれない。

属性の上書きはある意味正しいともいえる。それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである。その事実を誰彼とも忘れられないように、ガン患者の周りの人達はすすんで属性を上書きしていく。また、医者の言った言葉は多くの方が語る言葉でもある。ガン患者の体験記的な書物の題名にもなったことがある。

母が以前に膵臓ガンになったとき、実際僕自身も医者から言われた。つまり十分にお別れをし、気持ちの整理を付ける時間が持てるというわけである。交通事故で亡くなる場合はそう言うわけにはいかない。交通事故、脳卒中、脳梗塞などなどと較べて、確かに時間はあるかのようだ。

しかし「気持ちの整理」とは誰に向けての言葉であろうか。例えば従兄弟には明治生まれの老母が健在である。母にとってはいくつになったも息子は子供であろう。この年まで長らえ、人生の最後の時期に息子を見送る、彼女にとっては耐えられない事ではないだろうか。その母に向かって、医者の言葉は届かない。

さらにガン患者が幾つもの沸き上がる気持ちを乗り越え、自分を正しく見つめる中で、何かを得る事が出来、その結果において言葉として、医者が語った言葉を述べるとしたら、それは多くの人が聞くべき言葉になることだろう。医者といえども、外部の人間が内部に向かって語るべき言葉とも思えない。僕は経験者でしかその経験した事がわからない、などとここで言うつもりはないし、その様な考えを持っているわけでもない。ただ公共的な事項に抽出できない個人の問題に関しては、やはり言えるべき事と言えないことがあると思うのである。

つい先日、従兄弟の奥さんから電話があった。何も出来ないで手をこまねいて腸閉塞が起きて終わりでは良くない。出来れば腸閉塞の改善にむけての手術をリスクは高いが行う、とした医者の話があったとの事だった。開腹して腸閉塞の対処の他、状況次第では大腸ガン患部の切除も行うそうだ、あくまでも開腹して中を見ての判断だと医者は言っているが、従兄弟と奥さんにとっては一筋の光明が差し込んだ思いのことだろう。勿論僕も強く彼の奇跡的な回復を願っているし、出来るだけ長生きして欲しい。そして従兄弟がやりたいことをやり遂げられる事を願う。たとえそれが老母より一分でも長く生きることであっても。

2005/05/15

散歩をする

散歩でほんの少し遠くへと足を伸ばすと、時折迷子になるときがある。当方としては、意識的に迷子になるので、それは迷子と言わないかも知れないが、そうやって道に迷う自分を愉しむ。

構わずに歩いていくと、急に見知った街路に出て驚くこともしばしばある。その驚きは一瞬で終わるが、頭の中で散歩の経路を反芻し何でこの道にぶつかるのかと、自分の方向感覚に疑問を持つことも多い。人に誇れるほど方向感覚が優れているとは思わないが、未知の街並みはそう言う感覚を失わせるのもあると思う。

それでいて、バイクなどで長距離を走っても道を失うことはない。その時は主要幹線を走っているので当たり前と言えば当たり前なのだが、近所で道に迷い、遠方で道を失わない事に少しだけ不思議でもある。

学生だった頃、母と一緒に近くに住む知人宅まで歩いたとき、僕が近道だと思う道のりを紹介したら、母から「お前は裏道ばかり歩いている。今後の人生を象徴しているようだ」などと言われた。「私は常に大通りを堂々と歩く」と言った母は、確かにそう言う人生を今でも過ごしている。僕はと言えば、散歩をすれば未だに裏道とか見知らぬ細道に入りたがる傾向があり良く道を失う、そして今まで生きてきた過程を考えれば、確かにあの母の言葉は正しかった様に思う。

実際に裏道人生を歩んでいるわけでなく、何とか普通の会社員なのではあるが、それでもやはり盤石な事は一切なく、不安定な危なさを自分の中に常に感じている。それはリストラ不安とか、企業における今後の人事面の動向とか、そういう社会的なことだけでなく、自分の内にあるものだ。自分としては母のあの言葉は忘れられない。

その母はいまから7年くらい前に突如に膵臓ガンと診断され2ヶ月の検診入院の後に摘出手術を行った。あの時、医者から事前に報告を受けた僕は、膵臓ガンの情報を集め母の今後に悲観的な思いを持っていった。人は何というか愛する者に死に近い宣告をする者なのか、などとすっかり自分が宣告者になる者だと思っていたので、その事について勝手に考え深刻になっていた。でも、一週間くらいして、医者の方から母と姉夫婦を含めた家族全員に状況説明をさらっと、それこそさらっとしたときには、実際に凄く驚いたものだった。現実的にそういうときにはどういう風に進んでいくのか少しも知らなかったのだから、「ああ、こんなにも簡単なんだ」などと力が抜けた。当の母は医者から状況を聞いても、内容をすっかり理解していなかったようだ。自分ではガンではないと思っていたし、それは退院しても変わらなかった。また、膵臓摘出手術がいかほど大変な手術であることも認識していなかった。全て楽観的に捉え、大丈夫だとの信念を持ち続けた母が、あの状況を脱し得たのかもしれない等と今では思っている。

このブログで母の話をするのは多分初めてのことかも知れない。僕は時折感じるのだが、男は母の話を語りづらい雰囲気が世の中にはあるように思う。それは最近の事件でも取りざたされているように、親の過保護とマザコン、特に男性はマザコンが多いとの風潮があるのを感じ、自ら言い出しづらい面があるのだ。僕自身は他人から一度もそう言うことを言われたことがないので、男性はマザコンが多いとの論評には少々うんざりする。その点女性はそういうものから解放されている様に見える。ついでに言うが、親不孝も自覚している。憎悪と愛情、嫌悪と好感、無視と尊重、侮蔑と尊敬、それらの感情の境界線の間を揺れずに親を見る事が出来る子供がいるとも思えない。親は子供が最初に相まみえる他者なのだと思う。

散歩をすると様々なことを考える。くだらなくどうでも良いことが多いのは承知しているが、様々な事が浮かんで考えながら歩くのは楽しい。でもその時僕は風景を見ていないのも事実だ。

母は風景を見ながら散歩するようだ。だから道を見失わないのかも知れない。