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2010/05/30

古屋誠一 「メモワール.」を観てクリスティーネとの短い対話

chn11_rpt2152_TE_02_412 見ることは見られることだ。古屋誠一「メモワール.」のクリスティーネ。正面を向きカメラアイを正視する彼女の視線は、その写真を見る者に向けられた視線でもある。1985年に亡くなった彼女の物語は、写真撮影年を遡ることで最終的に伊豆での一枚の写真(1978)年に集約する。過去の時点から、それは彼女にとって最終時点でもある、さらに過去に辿るメモワールは、彼女への写真家の現在の思いを明らかにする。その意味で過去から過去への物語は現在に繋がる物語となっている。

「あなたは私の物語を知っている。それはアンフェアだわ。私は1978年には幸せだった。わかるでしょ。その時の写真を結果から見るのは正しいとは思えないのよ。1978年の私、1983年の私、そして1985年の私、それぞれの私はそれぞれの思いの中で生きていたの。この回顧録は無論私のじゃないわ。夫であった写真家のものなのよ。写真なんかに実際の私なんかわかりはしないの」

確かに1978年の写真の意味はクリスティーネの垂直落下によって変わってしまった。僕らは結果からしか物事を見えない。いやそれは物事を見ているとも言えない。振り返るのは前を見ていることとは決して言えないからだ。ただ僕らは過去の出来事を何らかの形で精算するほか未来に向かって歩けない。

「本当に過去の出来事を精算できると思っているの?人は決して忘れることが出来ないことがあるの。精算って都合の良い言葉だわ。結局、過去を歪め自分を正当化するか、紛らわせる何かを見つけるか、そう言う事でしょ。そんなことをしてもいずれは捕まるわよ。私という、あなた自身が造り上げた亡霊にね。私はね、忘れないでいて欲しいの。もし私を忘れて欲しかったら全然違う死に方をしたわ。そうじゃなくて。私と私の思いと共に生きて欲しいの。その上で、ああ、愛しい私の男の子、ごめんなさい、言える立場じゃないことは十分にわかっているけど、あなた達には幸せになって欲しいのよ」

そうだ、確かにそうだ。精算なんかできっこない。過去の出来事で僕らは苦しみ、その苦しみと痛みは生きようとする僕らを、まさにそのことで変えてゆく。変わるのは過去の出来事を精算するためではない。その出来事と共に生きてゆくために僕らは変わらざるを得ないのだ。

僕は東京写真美術館にて開催している古屋誠一「メモワール.」にて、写真ではなく、写真に写る「クリスティーネ」と僕の中でこうやって会話をした。無論現実ではない。

本展は、1989 年より20 年あまり発表し続けている「メモワール」の主題の集大成となる展覧会です。「彼女の死後、無秩序な記憶と記録が交差するさまざまな時間と空間を行きつ戻りつしながら探し求めていたはずの何かが、今見つかったからというのではなく、おぼろげながらも所詮なにも見つかりはしないのだという答えが見つかったのではないか」(2010年1月インタビューより)という古屋の思いは、ピリオドを打った展覧会タイトル「メモワール.」にも表れています。(東京写真美術館のサイトから)

「所詮なにも見つかりはしないのだ」 それは写真家の実感だろう。出来事と共に生きるという事は、出来事の理由もしくは意味を見つけることではない、と僕は思う。

古屋誠一 メモワール.
「愛の復讐、共に離れて…」 2010年5月15日 ( 土 ) ~ 7月19日 ( 月・祝 )

2007/12/08

ダイアン・アーバス さまざまな神話

裕福な家にひとりの女の子が産まれた。両親は厳格だったが忙しく、彼女の養育に関わる時間が持てなかった。だから彼女は使用人によって育てられた。ある時期まで彼女にとって世界は完全であった。欲しいと思うものは特になかったし、何かが足りないと感じることもなかった。

彼女は大人になり写真家になった。そして同じく写真家の男性と結婚し、二人の子どもを授かった。そこでも彼女の世界は完全であり続けた。完全な世界、それは逆に言えば壁に閉じられた世界でもあった。壁の中で、何かに守られながら彼女はその世界を全てであると感じていたし、何から守られているのか、という問いが脳裏に浮かぶこともなかった。異質なものへの興味は元々持っていた。しかし異質なものは壁の外にあり、それらが存在することは感じていたが、見ることも聞くこともなかった。

夫妻の仕事はファッション業界の写真撮影だった。ファッション写真、それは演出と構図を重要視する。それはイメージの強調であり、人が共有する美に基づいての作画でもある。ここで学んだことは、彼女の写真の礎となったのは間違いない。ある意味、造られた美は、裏面に元々備わっている美が刻印されている。造られた美を追求することは、そうではない美を追求することに繋がると思えるのだ。何故なら、造られた美には写真に本来写し出される決定的な何かの厚みが薄くファッション写真を撮るごとに、写真家はその足りなさを意識することになるように思えるのである。

彼女がその世界から離れ、異質なものに向かうきっかけとはいったい何だったのだろう。様々な要因のなかで、ひとつあげるとすれば、それは写真家として彼女の独立があげられる。彼女の写真の先生は言った。「今までカメラを向けたことがないものを撮りなさい」
カメラを向けたことがないもの、しかしそれは有意識に在ったものでもある。意識にないものはカメラを向けることさえ適わない。壁の外には何が在るのか、尽きせぬ興味、行ったこともなく見たことがないものは彼女には沢山あったのだ。そしてそこにこそ決定的に足りない何かがある可能性があった。

だからといって、彼女が写真家として独立しても、幼い頃に構築した世界(フレーム)から抜け出たというわけではない。彼女を守る壁、それは多少小さくなり「盾」と呼ばれるようになったが、いまでは首にぶらさげたカメラであった。彼女は街で見かける興味深い人たちを多く撮った。小人と巨人、双子と三つ子、サーカス小屋の芸人、諍う夫婦、泣き続ける赤ん坊、女装癖のある男性、多くのヌーディストたち、おもちゃの手榴弾を手にし興奮気味の子ども・・・・・・

彼女が撮った者たち、確かに彼らは今までに彼女がカメラを向けたことがない者たちであった。でも決して撮られない人たちもそこにはいた。例えば経済的に貧しい者たちとその生活、人種的マイノリティの人たち。その視点で見ると、彼女の多くは白人たちであったのは事実だ。ただ多くの写真で共通することは、彼女がカメラを向けた人たちの多くは産まれたときから苦悩を、それが彼女の世界からの視線であったのは事実だと思うが、背負わされていたということ。

彼女は言った。「彼らは産まれながらの貴族なのです」と。彼女は興味を持つ人たちを写真に撮るときは時間をかけた。彼らの世界に入りこみ、彼らの秘密を聞いた。親密な関係を結び、その上で彼女が望む写真を撮った。彼女の手法は正方形とストロボだった。それにより被写体の陰影をより強調させるのである。それらは恐らくスタジオ撮影からの技法を取り込んだのだろう。ファッション誌におけるモデル撮影と本質的には変化がないと言えば言い過ぎかも知れない。ただ、彼女の「貴族」という言葉から、彼らといかに親密な関係を築いたとしても、所詮は彼女にとって彼らは外部の人であるという事実を拭うことはできない。

彼女は彼女のフレームで重ねた世界をコレクションし続けた。彼女の一連の撮影までの行為は写真家と言うよりも、コレクターと言ったほうが近い。彼女が写し、公開と言う場のために選択した写真群はいわば彼女の世界の確認であるように僕には思える。いわば、自然に備わった美を写すことは一つの矛盾でもある。だからこそ被写体に対し「貴族」と言うフレームワークを与えるしかない。そしてその中で写す行為を自分に対し納得させるのである。それでは彼女は何をコレクションしていたのだろう。それは写真に写る何かである。そしてその何かは彼女にとっては、彼らが生まれながらの境遇を代償にして手に入れていたようにみれたのだ。彼女はそれを発見したのである。「貴族」とはフレームではあるが、別の言い方もできる、それは単なる写真に命を吹き込むもの、「写真性」である。

たとえばこんな逸話が残されている。あるとき彼女は巨人症の男性を彼の家で彼の両親と一緒に写真をとった。彼とその両親の三人が写った写真を彼女は友人に見せ次の様に語る。
あるとき、ダイアンは興奮した声で『ニューヨーカー』のジョン・ミッチェルに電話をかけた。「どの母親も、妊娠しているとき悪夢に悩まされることをご存じ? 生まれてくる赤ちゃんが怪物だったらどうしようという? わたし、エディを見上げているお母さんの顔を見てはっと思ったの。彼女はこう思っていたのよ。『ああ神様、あんまりです!』って」
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)
彼女が写したかったものは巨人の男性とその比較としての彼の両親の組み合わせではない。彼女が写したかったものは、写真に残され、彼女が後付で気がついたものだ。それは巨人の男性の母親の表情だった。さらに厳密に言えば、母親の表情も明確には彼女の言うようなももではない。でも明らかにそこには母親の残酷なまでの思いが不可視なフィルターとなってその写真にかぶさり、鑑賞する者の気持ちを揺さぶるのだと思う。そういう写真はダイアンが彼らの日常に入り込むことによってでしか得ることができないものであった。そしてその不可視のフィルターの有無が写真にとって不可欠だったのである。

彼女の写真で僕が一番に印象深いのは総合失調症の人びとを撮った一連の写真である。強烈な印象は、彼女の思惑を越えて存在していた。彼らを撮ることで彼女は自分の撮影を見失う。彼女は常々「撮影とは誘惑です」と話していた。その「誘惑」が彼らには通じなかったのだ。彼女にとって彼らは真の意味で異質な者たちだった。秘密の共有も、そこから来る親密な関係も、彼女が望むポーズも、けっして彼らは彼女に与えなかった。ここではカメラは「盾」には成り得なかった。彼女が自殺をした時、これらの写真は焼き付けられることなく、従ってタイトルをつけられないまま残った。

ファインダーから被写体を眺めるとき、カメラアイが身体の一部に拡張されることはない、それは逆に身体がカメラと言う機械の一部に取り込まれる感覚に近い。そのとき自分はもはや人間ではない。写真を撮る一個の機械となり、身体はファインダーとカメラアイとの間に置かれるのである。そしてその場所は彼女にとって安全な場所だった。しかし、その安全な場にいてはカメラを制御することはできない、と彼女は感じ始めていたのかもしれない。一般論でいえば、「写真性」の制御は撮影者にも被写体にも可能ではない。「写真」は撮影者にも被写体にも属してはいないのである。彼女は頻繁にカメラを使いこなせない難しいと友人に語り始めていた、まさにそのとき彼女は制御不能な「写真」を制御しようという、解決不能な問題を抱えたように僕には思えてくる。

それ以外にも、彼女は生前多くを語った。しかし、それらを時系列的に並べみても彼女の精神活動を顕わにすることはできないと思う。ひとつの言葉は、新たな言葉によって打ち消される。残された一群の写真は彼女がかつてそこにいたことを証明づけるが、果たして彼女を現しているのだろうか。写真群は印象が強ければ強いほど、彼女を実体とは違うあらぬ方向に流そうとしているかのようである。そしてそこから神話が産まれる。神話は自己生産的にあらゆるヴァージョンが誕生する。多くの者は神話を利用し自分の欲望を満足させる。どれもが正しく、そしてどれもが正しくはない。

スーザン・ソンタグは著書「写真論」の中の「写真で見る暗いアメリカ」のなかで彼女の事を多く割いて書いている。しかしソンタグの描き方はホイットマンの流れをくむアメリカ文化史の中に彼女を組み込んでいる。ソンタグにとって彼女の文脈はアメリカの中に位置している。藤田省三は一般論の積み重ねで彼女を描く。藤田の描く彼女は人間の各層の境界線を打ち砕くものとして描かれる。日本で刊行した彼女の作品集には拙くも無個性でそれゆえ愛の福音書のような語り口の彼女が登場する。パトリシア・ボズワースの彼女の伝記はまるで聖書(ボズワース伝)のようでもある。
彼女の自殺の事実が、彼女の作品は誠実なものであって覗き趣味ではなく、 またいたわりのものであって冷たいものではないことを証明するかのように見える
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 P46 近藤耕人訳)
写真が覗き趣味であるか、そのような疑問をいまさら呈する者などどこにもいない。覗き趣味といえばその通りだが、これ程までのデジタルカメラ普及を考えれば、時代はその言葉を陳腐化させている。街角では監視カメラが僕らの日常を撮し続け、携帯に装備された小型カメラで人々はところ構わずシャッターをきる。それは写真を撮るという行為では既になくなっている。自動機械としての撮影機、街角の監視カメラとなんら変わりない行為に写真を撮る行為は変化している様に思える。それはダイアンなどの写真家といわゆるアマチュアの間に引かれた一線ではない。むしろそれらの一線があいまいになっていく過程が写真を撮るという行為の変化過程でもあるように僕には思えるのだ。

たとえば、月探査衛星「かぐや」が写した月から観た地球の出と入りは美しく感動を覚えた。「かぐや」の写した映像は、「かぐや」に装備された機械と制御するプログラムによって写されたものである。それと人間が写した写真との違いは何もない。写真が写真足らしめるには、誰が写すというのは関係ないのである。むしろ写真を撮る行為はある意味人間でいることをやめさせる。写真は人間の経験の拡張でもある。既に僕らは、馬の走る姿もミルクの一滴に生じる王冠も経験している。ダイアン・アーバスの写真は相対性を「違和感」を露にすることで我々に新たな視点を(多くの人にとっては不快感と共に)もたらした。でも時代はその概念を既に受け入れ、流れの中で「貴族」たちは消えていった。

彼女の写真は、彼女個人の問題から発しているのだろうか。多くの識者たちはそのように彼女のことを語る。彼女の写真とは彼女自身でもあるかのように。でも それは少し間違っている。彼女が撮った写真に彼女はいない。彼女とは「彼女の見て構造化した世界」であるが、それらは決して写真に内在してはいない。被写体を選んだのは間違いなく彼女ではある。でもそれと写真が写真として成り立たせることは関係性がないと思うのである。彼女が撮った写真は、彼女に関係ない場所で写真として存在している。

ダイアン・アーバスの伝記を元に作られた映画が今年公開した。惜しくも僕は見る機会を逸してしまった。逸したのは僕の臆病さから来る躊躇なのは知っている。商業的に造りだされるアーバスに画面を通してとはいえ対峙することが僕は怖かった。ただ映画も新たな彼女の神話になることに変わりはない。映画は個人と写真との乖離をなおさら難しくすることだろう。でもそれは写真本来の問題というより、著作権の問題からと言うほうが正しいように思えるのである。

2007/09/26

ル・コルビジェ展の短い感想

Tower

先々週だったか日にちは忘れてしまったが、僕は六本木ヒルズの「ル・コルビジェ展」 に行ってきた。

もとより建築関係に造詣が深いわけでも関連業界にいるわけでもない。でもフランスがユネスコ文化遺産にコルビジェの作品群の一括登録に動いている、という話題が出るほど、彼は普通に知られている歴史上の人でもある。その彼の単独展を開催しているというので興味があった。僕の感覚では、ル・コルビジェは確かに偉大な建築家だが、日本で単独展が出来るほど知られているとも思えなかったから、どのような展覧会を企画者は見せてくれるのだろうか、という点が特に興味があったのである。

友人の設計者と少し前に色々な話をした。 その中で建築関連の話でもないのに普通にコルビジェの話が出てきた。彼は設計技師なので当然にコルビジェのことを知っていて不思議はない。 でも、その時多少の違和感を感じたのは、コルビジェという名前が建築関係者ではない人でも知っているのが当然という「自然さ」だった。

僕の場合、学生時代からデザイナーとか建築関係とかを志す人が回りにいたので、その影響もありコルビジェの著書を何冊か読んだことがある。だからこそ知っていると自分では思っていた。だから、彼が「近代建築の始祖」と呼ばれている理由とかはまったく知らないし、そのような目で見たこともない。一つ言えばテクノロジーとして人間を見つめ建物を設計した、その事がおそらく発端ではないかと思うくらいだ。

でも、例えばジョサイア・コンドルとか辰野金吾、曽禰達蔵、 片山東熊などの日本近代建築の始祖と呼ばれる人たち、もしくは堀江佐吉などの大工棟梁たちと、 コルビジェが何が具体的に違うのかは正直に言ってよくわからないのは事実だ。彼らもコルビジェと同様に、 建築する際に必要な基礎データ値は経験則として持っていたはずである。

さらにフランスが世界遺産登録申請したというのもフランスというお国柄があるからだと思っていた。つまり、あくまで一般的には知られていない人であり、展覧会の来場者は少ないと思っていた。人が少なく静かな美術館での鑑賞を僕は当然の事として期待していたというわけである。

でもその期待は六本木ヒルズで入場券購入の待ち行列を見てあっという間に吹き飛んでしまった。そこには老若男女が、乳母車に乗っている赤ん坊から杖を突いているお年寄りまでの方々が、長い行列を作りながらじっと鑑賞券購入の順番を待ち続けていた。その状況は僕にとっては想定外だった。後からわかったことだが、展覧会の入場券は六本木ヒルズの展望台への入場券と兼ねていた。だから多くの方の目的は展望台だったに違いない。ただ兼ねているのだから、展望台のついでに展覧会を観て行きましょう的なノリの方も多かったと思える。

だから、展覧会の総括をすれば、「騒々しかった」がまず浮かぶ。子供は走り回り、赤ん坊は泣く、それらは致し方ないことだ。それはわかる、でも静かな鑑賞を期待していた僕にとってその光景の落差は大きすぎた。では展覧会の内容はどうだったのかと聞かれたら、意外に面白かったのも間違いない。 意外とは、コルビジェの様々な側面を観る事が出来たことから、展覧会の内容が近代史を振り返る機会になったということで、それはコルビジェの建築面だけではおそらく知る事が出来なかったと思うからだ。また「面白かった」の根底には僕のコルビジェへの固定観念が偏っていたことの表れでもあるかもしれない。展覧会での表現が企画者の意図を的確に伝えていたし、それに対しては違和感はおきなかった。確かにコルビジェは「近代建築の始祖」と言えるのかも知れない、順路を辿りながら僕はそういうことを考えていた。

まさしく当該展覧会ではコルビジェと近代が離れがたく密着していた状況を的確に現していた。でも逆に言えば、彼の活動が近代という枠組みに組み込まれているのを理解すること自体が、近代そのものが現代とは違った時代であったことの証左になりえたようにも思えるのである。彼の作品には、根に僕らが失ってしまった 「大きな物語」が確かに横たわっていた。だから僕はコルビジェの作品群を近代史を見るように順路を辿ったのだった。

子供たちと赤ん坊の喧騒が、近代という時代の音色にも聞こえ、そこに一つの不思議な空間を作っていたように思えた。その中で僕は、展示物を、何故かしら懐かしさが伴った感覚の中で眺め続けたのである。

特にコルビジェの都市計画はそのことを如実に表しているように僕には思えた。 コルビジェの都市計画には、人間工学というテクノロジーに含める要素ひとつひとつの選択が「大きな物語」 を背景にして行われているように思えたのだ。だからコルビジェの計画した都市は、現代におけるそれと著しく景観が異なる。

例えば現代では要素としてバリアフリーとセキュリティが加わるだろう。でもそれ以前に「大きな物語」が喪失している以上、それは単にテクノロジーに必要な要素の1つにしか過ぎない。その結果、日本のどこに行っても同じ都市景観になるというわけである。だからといってコルビジェの都市計画を称賛するつもりもない。彼の都市計画には逆にそれだからこそ排除された人たちも多いはずである。

コルビジェ展が今年開催された理由は何だろう。 それは1つには回顧できる時代になったということがあるように思える。僕らはコルビジェを外部から眺め批評出来る立場にいるのである。 そしてその立場からコルビジェから受け取れるものはなんだろう。それは僕らが無くしてしまったものへの郷愁だけではないはずである。でも、この展覧会はコルビジェと近代との結びつきの強さを表現することは成功したとしても、それ以上の射程は持ち得なかったように思える。

現代におけるコルビジェの意味とは何なのか。おそらく今回の展覧会にあわせ多くの美術誌もしくは建築雑誌がそのことを特集に組んでいることだろう。僕はそれらを全く知らない。
ただ1つ言えることは、既に時代はコルビジェの時代に戻ることはない。コルビジェが実践した建築設計の各要素を、背景無くしてバラバラに取捨して利用するしか僕らには出来ないのである。

補足1:一般的に知られていない、 といっても当然に多くの方が知っているとは思っている。ここでの比較は、たとえばレオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」と較べての話。 無論混雑具合はモナリザ程ではないにせよ、僕的にはそのくらいの落差があったということである。

補足2:写真は六本木ヒルズの展望台から眺めた東京タワーと街並み

2007/06/14

頭上の風景



街の景観は徐々に変化する、しかし特にそれを意識することも少ない。それは鏡で見慣れた自分の顔の老化が日々気が付かずに過ごすことに似ている。

ここ10年ばかりの間、近所にはコンドミニアム風のマンションが通りに面して多く建築された。元々は人家であったが、各々のマンションは既に確固たる存在感を違和感なく風景に馴染ませ、かつてそこに誰それが住んでいたことを忘れさせる。
街の景観の変化は、それが巨大な建築物だとしても、建築の過程を毎日見ることで、すぐに馴れて、忙殺された日常の営みの中で埋没されることにより、強く意識することがないのである。

それでも一棟のマンションが現れると言うことは、それに対応したインフラ整備が当然の事ながら必要とするということでもある。そしてその変化は、頭上の電信柱間を繋ぐ各種ケーブルが造り出す複雑怪奇で幾何学的な、空をキャンバスとした模様によって現れる。

写真の電信柱は車道幅の若干の変更に伴い位置を移動した。その結果、配線のケーブルを変更をすることなく対処するために、写真のような器材を使い解消したのである。
無論、僕がかつてみた素朴な電信柱とは、インフラとして担っている世帯数が違うため様相が著しく変わっている。もしかすると、上記の物干し竿を支えるような突起物がなければ、僕はそのケーブル数の変化に気が付かなかったかも知れない。
電信柱に依存する様々なインフラは、社会と技術革新の中で常に変化し続けているというのに。

かつて映画のなかに登場した、無限とも思える荒野の中に延々と続く電信柱の姿に、何故かしら郷愁を覚えたものだった。今も僕のどこかにそれと同じ感覚は持ち続けている。だからこそ、頭上の見慣れた配線によって区切られた空を、僕は時折写真に収めるのかも知れない。

2007/05/25

ROSE

rose

米国の写真家ダイアン・アーバスは生前こんなことを語っている。
「写真とは、秘密についての秘密である。写真が多くを語るほど、それによって知りうることは少なくなる」

「写真が多くを語る」その中に色が含まれているのであれば、モノクロ写真の良さはカラー写真と較べて秘密が少ないことがあげられるだろう。

僕が一番好きな写真、それはとても個人的な写真だ。そしてそれはモノクロ写真でもある。僕が赤ん坊の時、母方の一族が集まり母の実家で撮った家族写真。その中で僕は母の胸に抱かれ、隣には今は亡き父が姉が少しのあいだ動かぬよう彼女の肩を押さえ立っている。十数名の顔は、何人かの女の子を除いて誰も笑っていない。コントラストの強く明瞭な輪郭の中で、若い父と母は少し不機嫌な顔でカメラに目を向けている。

何故その写真に惹かれるのか、それは僕にとって謎の一つだ。その中に写っている者の半数は既に亡くなっている。当時大学生で利発な眼差しをカメラに向けていた従兄弟は昨年に大腸ガンで亡くなった。しかし、その写真の中で、彼らの殆どは生きている、この写真を見る度に、そういう不思議な雰囲気に僕は包まれる。

僕はここでロラン・バルトの物語を自分に合わせて語ろうとは少しも思わない。ただ、その写真には多くのことが表象されているが、確かに僕には彼らのことが少しもわからない、という思いを時折抱くのも事実なのである。そこに写っている赤ん坊の時の僕は、今の僕ではなく、赤ん坊のままそこに留まっている。そして各々に名前は知って、今でも実際に会えば語り合える彼等ではあるが、赤ん坊の時の僕も含めて、その写真の中の彼等は常に変わらず謎を秘め続けている。おそらくその「謎」が、僕から見て、その写真を他から際だたせているのだと思う。

仮にその写真がカラーであったとしたらどうだったのだろう。実は、それから数十年経った時、同じように撮ったカラー写真がある。較べてみれば瞭然なのだが、写真の持つ力強さは圧倒的にモノクロのほうが勝る。つまりは、写真の持つ「謎」の深さは、モノクロの写真の方が勝っている。そう考えていけば、カラーが否かはそれ程重要ではなく、色などは写真にとっては二義的な存在でしかないのかも知れない。

あくまで僕にとって良い写真とは、その「謎」の部分が多い写真である。その「謎」とは、厳密に言えば、おそらくダイアン・アーバスの言うところの「秘密」とは同義ではない。ダイアン・アーバスの言う「秘密」とは、何か可算名詞的な部分も含まれるように思われるからだ。無論、上手い下手で言えば、僕の写真などは話にもならないのはわかる。ただ良い写真か否かの僕の基準を言葉にすれば、その写真に顕れる「謎」と語るしかない。(ただアーバスの言わんとしていることは、僕にもとてもよく伝わるし重なる部分も多いと思う)

この記事に掲載した写真は元々カラーの情報を保持していたのをレタッチでモノクロにしたものである。僕の好きな写真があまりにも個人的な写真であったので、代わりにオマージュとしての「rose」の写真を載せた。謎が少ない写真ではあるがご容赦願いたい。

2007/05/17

2007年5月16日 珈琲店前で



僕にとって人は常に行動もしくは活動している。

だから人を撮るとき、写真は焦点が合わずしかもブレているのが望ましい、と時折そう思う。

現代はどちらかといえば行動重視かもしれない。でも創作行為もしくは思考が活動であるように、両者は明確に違うし、活動が人にとって廃れることはないと思っている。

珈琲店の前を急いで通り過ぎる彼女、カメラはその理由を問う領域までは踏み込めない。

僕はゆっくりとコーヒーを飲んで行く人来る人の往来を眺めている。

2007/05/16

渋谷、夜

shibuya,tokyo

夜、渋谷。勤め人が家路を急ぐ
何台もの車がその横を通りすぎる
高架線の下、静かな雰囲気なのに
何故かあわただしい
しかし僕はこの場に漂う空気感が好きでたまらない。
人工物に囲まれ、道も所々壊れかけている
夜になると歩道の隅で一夜の寝床を求める人が集まる
その側を行き交う人たち
人の営みと、その重たさは
高架線を抜けた先の明るみでは逆に薄まる
薄まった明るさの中で、その明るさを求めて
人は急ぎこの場を通り過ぎる

代官山付近、深夜



渋谷・恵比寿・代官山、それぞれの地点から大体等距離にあるトンネル。
トンネルを抜けると、そこには深夜まで営業している銭湯があり、何人かの男性が湯上りを涼んでいた。
自転車を押して通り過ぎる男性。彼は家に戻るのか、それともどこかに向かってるのか。
トンネル内部は様々な意匠をこらしたペイントがなされている。街のトンネルは無地を嫌う。

トンネルに出口があることを意識したのは、そんなに昔ではない。
道を繋げるため、その先にあるどこかに向かうため、トンネルは造られる。
そしてこのトンネルの向こうには銭湯があるというわけだ。

2007/05/09

ヨンパチ




ハーレ・ダビッドソンは通常エンジンの型によりグルーピングされている。上記写真のエンジンは通称「パンヘッド」と呼ばれる。エンジンのヘッド部分がアルミで、その形がフライパンのように見えることから、そのように言われるようになったらしい。
ハーレーの中では、OHV(オーバヘッドバルブ)2気筒として2世代目のエンジンである。


写真のハーレーは通称「ヨンパチ」と呼ばれている。パンヘッドは1948年に登場したが、その48年の1年間だけフロントフォークサスペンションがスプリンガーフォークとなっている。リジッドフレーム(リアサスペンションがなく、振動はシートのスプリングで吸収する)とあわせて、独特の雰囲気を醸しだし、オールドハーレーファンには垂涎もののバイクとなる。オールドハーレの中では別格とも言える存在となっている。

近所のハーレーショップで初めて「ヨンパチ」を見た。店の方に聞いてみるとレストアに一年間かけたそうである。おそるおそる価格を聞いてみると300万円以上はするとのこと。で、写真を撮ることで満足した。
後日行ってみると、既にこのバイクは売れていて、購入者と思われる方と店の方がエンジン周りを確認しあっていた。その時に初めてエンジン音を聞いたが、フィッシュテールのマフラーからは、とても力強く重厚な音を発していた。

2007/05/07

鎌倉の海

連休中に急に海の写真を撮りたくなった。その思いは突然に僕の中に沸き上がった。
その時、近くの公園の様子でも撮りに行こうと僕は表に出たばかりであった。
空は青く、風は心地よい。僕は交差点で、公園を目の前にして真っ青な空を見上げた。
空の青さから海の青さを連想したわけでもない、甘い花の香りから潮風が恋しくなったわけでもない。
ただ、どうしようもなく僕は、今日これから海辺に立って海風に当たるプランを素敵に思ったし、それを実行したいと思った。
そして僕は海に向かった、というわけだ。






鎌倉の海に着いたのは午後の2時頃だったと思う。浜辺には思った以上に人がいて、それぞれに楽しんでいる。
浜辺以上に、海ではウィンドサーフィンを楽しむ人たちがいて、浜辺から見ると、それらの帆の色の鮮やかさが、海の色、空の色に映えてとても美しい。






海風は強く、上空ではカラスと海鳥が凧のように漂っている。
沢山の写真を撮った、でもそれらは写すと同時に、結果として良い写真でもないのがすぐに伝わる。
いつもの写真サイト(Flickr)に投稿しようとは思えない一連の写真。
写ったものは、鎌倉の海だけではない、僕の気持ちもどうしようもなく顕れている。
僕はカメラの液晶で絵を確認しながらそう思う。






しばらくして、 僕は海の写真を撮るのをやめる。おそらく計画のどこかで僕は間違ったのだ。
僕はこのような写真を撮りたいと願ったわけではない。
でも今日は、現在の僕は、こんな写真しか撮れない。
それは構図とか、露光とか、そういった技術的な問題ではない。
どうしようもなく僕の目は、周りの風景に写真を見つけてしまうのだ。
世界が写真に満ちあふれているのであれば、写真を撮る意味などどこにあろうか。






久しぶりの海だった。それはそれで楽しい思い出ではある。
ただその思い出は、これら一連の写真によってしか喚起されない記憶に成り果てることも間違いない。
僕は海の写真を撮りにここまで来て、そして失敗したというわけだ。
しばらく浜辺に坐り、ただ海を眺め続けた。
遠くで子どもの歓声か聞こえる。そして同時に母親の笑い声も。
幾分幸せな気持ちになる。






三浦半島の山間を抜けて僕は帰った。
所々に小さな畑があり、そこには色とりどりの小さな花が咲いていた。
空はどこまでも青い。雲は遠くの憧れのように、ゆっくりと流れていく。
道が二つに分かれている。僕はまっすぐを選んだ。
風が一段と強く吹いた。

2007/03/31

サクラよ

sakura

今年もサクラの季節が訪れた。昨年はあれほど熱中したにも関わらず、今年はサクラに対し一歩引いて冷めた眼差しで見つめている僕がいる。逆に言えば、昨年のサクラへの熱中が特別だったのかもしれない。

近所のサクラの名所を歩く。昨年と変わらず素晴らしい景観だ。でも昨年のような、心のそこから湧き上がるような郷愁感は訪れることがなかった。写真をとっても、換わり映えのしない姿に、おそらくこの場所で撮っても、日本でも名高いサクラの名所で撮ったとしても、同じ姿を僕に見せてくれる、そんなことしか感じられない。どこで撮っても同じ景観、一種の驚きではあるが、それが逆に今の僕にはとても痛い。

ここでいうサクラとはソメイヨシノのことである。無論、日本の銘木といわれるサクラは、殆どがソメイヨシノではないことは知っている。ソメイヨシノは銘木といわれる様になるほどの長い期間を生きることはできない。弘前城にあるソメイヨシノが記録上においては一番の高齢らしいが、それでも100年くらいではないだろうか。つまりはソメイヨシノの寿命は、人間の寿命とたいしてかわらない。仮に僕が死んだとしても、世界は変わらずに残り続ける、それでも今を盛りに花を咲かせているソメイヨシノはおそらく残らない。故に、それらが造りだしてきた景色も短期間で変わっていく。別面で見れば、ソメイヨシノが作り出す景観は、変化を繰り返してきた日本の姿を現している。

だからなんだ、と言われるようなことを僕は語っている。おそらく僕は今年のソメイヨシノを眺めながら、昨年のソメイヨシノを考えているのだ。写真を何枚か撮る。でもそれらの写真は少しも気に入ることはない。妙に感傷的なサクラの写真は、今年の僕には馴染めない。でも今の僕にはその嫌いな感傷的な写真しか撮れない。そしてそのギャップの大きさに我ながら驚きながらも、昨年の気持ちを取り戻そうと、僕はあがいているのだ。

公園を歩く、サクラの木の下では大勢の人たちが集まり、楽しそうに酒を酌み交わし語り合っている。それらを見て僕は不思議な気持ちになる。思い起こしてみれば、僕は桜の木の下で酒を酌み交わしたことが少ないのに気がつく。最後に友と桜の木の下で酒を酌み交わしたのは何年前のことだったんだろう。語り、笑い、そしてまた語る。たわいのない語りの中に、その人が本当に言いたいことが隠されている。きっと「桜の木の下で」とは「神の下で」の暗喩に違いない。酒を酌み交わし談笑する人たちを見て、僕はそんなことを思う。

sakura

夜の公園に再び出向いた。既に人影は殆ど無く、風は強い。枝ごと風で揺れる。揺れるごとに、街灯に反射し、闇夜にも係わらず何か大きな一つの生き物のように感じさせる。湿気の多い風だ、今夜は雨になるかも知れない。ベンチに座りその様を見ていると、昼間の不思議な感覚がよみがえる。この国に住む多くの人にとってサクラは特別な存在であり、それは僕にとっても変わりはない。でもサクラの一生は短い。だからこの特別な気持ちが、明日には一変することもあり得る。昨年、僕はサクラに熱中しながらも、サクラを擬人化すまいと心に決めた。その気持ちが少しだけ揺らぐ。明日、日曜日が穏やかな日であることを、僕は願う。

2007/03/26

「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 写真を撮ると言うことについて

「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に行った時のことを語ろうと思う。内容は主に写真を撮るという「行為」に偏るかも知れない。でもそれは致し方がない。何故なら僕自身が写真を始めた動機がそれについて知りたいと思ったからだ。

展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。

現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 15

と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、それを期待しているかのような行動をしていることだった。

発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 9

彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている)によって、企業の宣伝効果は高まる。

それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・
アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。

コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 10

おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。

それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。

写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 1

例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット)し続けている姿と重なったのである。

恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。

目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。
そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。

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消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。

スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」
前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。

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僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。

2007/03/07

写真よ、ブレろ!



最近自分が撮ろうと思う写真は、美しさを排除したい、叙情性を排除したい、感傷を排除したい、色彩を排除したい、明るさを排除したい、空気感を排除したい、そんなことを願う。

あるがままの現実など信じない。ただ写真にあるのは写真でしかない。自分が見た色を信じない。自分の写真のピントを信じない。僕はおそらく自分の撮った写真を信じない。

帰り道になんでもない月夜を撮った。ビルとビルの狭間にある暗い道。空には煌々と光る月。写真を撮る動機こそが、僕にとって重要な問題であり、根本はそこにある。写真を撮る価値を認めない写真を撮りたい。

後々詰まらぬと自分自身が見向きもしない写真を撮りたい。それらの写真の集積に、おそらく僕は僕を見つける。商品価値のある「自分」ではなく、その真逆の自分。もっとブレろ!、意識せずに写真よブレろ!

2007/02/05

Tokyo Tower、その陰影

Tokyo Tower

東京タワーを撮りに行く。一年に数回、無性に東京タワーを間近で観たくなる。そして、その欲望が発生する季節は何故か冬に偏る。着いた時間は、既に中には入れない時間で、駐車場にも車は数台しかみえない。数組のカップルがベンチで寄り添うように座り、じっとタワーを見上げている。寒い、東京タワーは吹きさらしの高台に建っているせいか、風が強い。カメラを持つ手が凍える。

何回か通っていても、思い通りの東京タワーが撮れたことは一度もない。じっとタワーを見上げると、そこには見慣れたいつもの姿が照明を浴びてたっている。見上げ続けながら、僕は周辺を歩き回る。

僕はどうやら遠景の東京タワーの姿が嫌いと言うほどではないが好みじゃないらしい。遠見に見える東京タワーは、上空に昇ろうとする意志を現す曲線、そしてオレンジと白に輝くロマン的な姿、それらが強調されすぎる。その姿は東京タワーの本質を見失ってしまう様に思える。

東京タワーの本質? それは相対化が一般的な状況では、それこそ、それぞれの思いの中で相殺されてしまう。でも多くの映画、TVドラマ、もしくは写真などで表象されるその姿は、概ね一つに固定化しているかのようだ。そしてそれが遠景のタワーの姿である。そして、僕はその姿に抗う気持ちが強いのである。

反作用としての東京タワーという意識からの見方ではない。もともと鉄筋を組み立てて造られているのは事実である。タワーの直下で見上げると、その様が手に取るようにわかる。そんなに美しいモノではない。そう思う。

では何故、僕は東京タワーを見に行くのか。おそらくその質問が逆に僕をこの場に向かわせているのである。約一年前に東京タワーについて書いた記事がある。今回読み返してみて、イメージが変わっていないことに少し驚く。逆に言えば、前段の質問から僕は止まったままでもある。さらに今は質問が一つ増えている。何故現在において、映画・TVなどで東京タワーのイメージの固定化が行われているのだろうかと。

2007/01/20

捨てられるから良いんです

reach out

近くの公園には梅林があり、ちらほらと花が咲き始めた。その中でも桃色の梅は花が早い。殆ど満開状態となっている。小正月が終わったばかりだというのに、梅花は春の到来が確実にくることを僕に教えてくれる。

見ると年の頃60代と思える婦人が、両手でデジカメを持ち、背伸びをし少しでも梅花に近づこうとして写真を撮っていた。僕はその姿を写真に撮る。するとそれに気が付いたのか、婦人が僕の方に振り向く。少し目線が合う。そして僕の方に近づき話しかけてきた。

「梅はどうやって撮れば良いんでしょうか?」

質問の意味がわかるのに数秒かかった。どうやら梅花を撮っても画面全体が暗くなり、自分が思ったイメージにならないようだった。

「日を背にして、日が当たる梅の花を撮られると良いと思いますよ」、と答える。彼女はふむふむと聞いている。

きっとデジタルカメラを購入したばかりなのだ、そんなことを僕は推察する。続けて彼女は僕のカメラを見て、 「私も以前はフィルムのカメラを使っていたんです。でも今はこれ。写ったものが捨てられるから良いんです」と話してきた。

「あ、これもデジタルカメラなんですよ」、と僕は答える。その答えに彼女は驚き、そして「ああ、今はこういうデジタルカメラもあるんですねぇ」と感心する。

それからはお互いのカメラ談義となった。婦人のデジタルカメラは、今使っているので2代目なのだそうだ。その前はコンパクトのフィルムカメラを使っていたとのことだった。

「デジタルカメラは便利ですよね、捨てることが出来るから」、そう彼女は話す。気が付けば、彼女のカメラ談義の中で何回も 「捨てられる」という言葉が出ていた。どうやら婦人にとって、デジタルカメラの最大の利点は「画像が捨てられる」ことにあるらしい。

その意見が面白いなと思う。
話を聞いていると、どうもフィルムカメラを使っているときは、自分が気に入った写真もそうでない写真も両方とも焼き付けるので、写真だけ溜まってしまいその処置に困っていたらしい。それがデジタル化することにより、気に入らぬ写真はその場で消去できる、そのことが彼女にはとても良いことと思えるのである。

「パソコンはやられるのですか?」、と僕は聞いてみた。残念そうに彼女は首を横に振る。「もうこの歳では無理です」

「そんなことはないですよ」、と僕は言いながら、確かに今のパソコンのマンマシンインターフェースは、ある意味、老齢を迎えられている方々には優しくないだろうなとは思う。
 (マンマシンインターフェースには色々と思うことがあるが、それはまた別の話)

では彼女はデジタルカメラをどのように使っているのかと言えば、デジタルカメラに差しているメモリカード(256MB)は1枚だけで、写真をある程度撮り画像が溜まれば、それを持って写真屋に行き、気に入った写真のみプリントアウトするのだそうだ。そしてその後、メモリカードの画像は全て消去する。

フィルムカメラはフィルム代・現像費・プリント料などお金がかかる。でも気に入った写真は何枚も複製が出来るという利点があった。デジタルカメラは、お金はかからないけど気に入った写真の複製が出来ない。そう彼女は語る。僕は面白いなぁと思う。

複製のしやすさ、画像の保存のしやすさ、画像管理のしやすさ、それらは一長一短はあるもののデジタル化の方に軍配が上がると僕は思っていた。それが彼女にとってはどうやら逆らしい。

どうやら彼女にとって「写真」とは、紙に焼き付けられた(もしくはプリントアウトされた)状態を言うらしい。その前の状態は「写真」とは言わない。それらは写真以前のもの、つまりはフィルムで言えばネガのような、そういう状態のようだ。そう考えれば、婦人の写真への対応の仕方には一本の筋が通っているし、パソコンを利用しないデジタルカメラの楽しみ方としては、ある意味合理的かもしれない。

婦人にとっては、フィルムもデジタルも関係ない。できあがる写真が気に入るか否かである。実を言えばその点で、僕は彼女に賛同する。さらに「写真」とは紙に焼き付けられた状態のもの、との意見にも別に異論をはさむつもりもない。

「捨てられるんです」の背景に、「捨てられなかった(プリントアウトした)」貴重な一枚の写真が見えるからである。個人が撮す「写真」とは「捨てられなかった」貴重な一枚の積み重ねにあるのかもしれない。そんなことを思う。

そのほかにも彼女から様々なことを聞いた。60代と思っていたけど、実際は70代だそうだ。夫が数年前に亡くなったこと。自宅は四国の高松であること。娘夫婦が東京に住んでいて、年の三分の二はこちらで暮らしていること。高松への往復時には必ず京都に途中下車し写真を撮りまくること。写真旅行で色々な場所に行ったこと。写真仲間の最年長で80代の方がいて、その方の写真がプロに褒められ、とても嬉しいと言っていたこと。四国に行くときは、瀬戸内海の小豆島がお奨めであること。カメラの他は手芸の趣味もあること。公園の近くに長渕 剛の邸宅が建築中であること、等々・・・。

だいたい一時間近くは話を聞いたかも知れない。でも話は面白かったし、第一僕は人の話を聞くのが大好きなのだ。

それに同じく写真が好きな僕にとって、年齢とは関係なく、彼女の話が自分に思い当たることも多かった。自分が気に入った写真を、自分の友達に見せ、同好同士が見せ合い、色々なコメントとか評価をもらう。褒められれば嬉しいに違いない。そしてそれら全てが楽しくてしょうがない。それは僕が頻繁にネットを通じてしていることと同じことでもある。

色々な人の意見を実際に試すことで、他人が喜ぶ写真が見えてくる、あとはそれと自分の感性との折り合いであろう。さらに彼女はデジタルカメラの操作を覚えたことから、携帯電話の操作、特にメールについて、違和感なく習得出来たそうである。

人生を楽しんでいるなぁ、僕は彼女の話を聞きそう思った。そしてその中心にカメラがあることが何故か嬉しかった。

2007/01/03

お雑煮の話

お雑煮

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

お雑煮は毎年食べる。大好きだ。と、言ってもこれは自宅での話ではない。毎年行く親戚宅でのお雑煮がすこぶる美味しい。親戚の奥さんが造る雑煮は、彼女が東北の青森出身であることから、その土地の味であると思っている。

実を言えば僕の母も青森出身。家は昔下宿屋を営んでいて、母は毎日学生のために夕食を造っていた、だから言わばセミプロである。それでもお雑煮だけは造ってくれた事がなかった。

一度だけ、何かテレビの影響だと思うが、子供の時にお雑煮を食べたいと母にせがんだことがある。その時に初めてお雑煮を食べた。でもそんなに美味しくはなかった。初めて食べたと言うのもあり、お雑煮とはこういう食べ物なのか、という落胆と共に自分を納得させたのは、お雑煮とは一種の儀式に近い食べ物である、という無理矢理の発見でもあった。

無論、日頃学生のために食事を造り続けている母への遠慮も、子供ながらあったのも事実だった。だからか、それ以降一度もお雑煮を造ってくれとせがんだことはない。

親戚のお雑煮を初めて食べたのは10年ほど前のことだ。初めて食べた時、今までのお雑煮に対するイメージがことごとく誤っていたのを知った。母が料理が得意であるのは間違いないが、お雑煮は苦手だったようだ。母が実はお雑煮が好きでなかった、ということを知ったのもその頃だった。

お雑煮はお国毎の味がある。お雑煮に決定版などはないと思う。単一などではなく複数の日本の正月の象徴のようにも思えてくる。この国は思った以上に懐が深く、各人のイメージの日本を常に超えている、と僕は思う。勿論、それは日本だけの話ではない。ただ自分が住む国の複数性を知ることが他国の複数性を理解できる要だと思えるのである。

PS:食べ物を写真に撮るのは慣れていない。少しも美味しく写っていない。でも僕にとっては最高のお雑煮である。

2006/12/29

僕が撮りたいと望む写真

After work

写真の一枚一枚には必ず5W1Hがついて回る。そしてそれらが写真の内容を示しているのなら、写真の一枚はどんなものであれユニークな存在でもあると僕は思う。

しかし写真は内容よりも様式(スタイル)の方が重みがあるとも僕は思う。様式を中心に見れば、僕が写す写真はどれも似たような写真に見える。しかもそれらはテクニック的に言えば、どれもこれも今までの写真の真似でもある。だからこそ、その中で自分のスタイルを確立することの難しさが見えてくる。

今から80年ほど前、「新即物主義」という美術運動があり、写真の世界も少なからぬ影響を受けた。彼らは「世界は美しい」との標語の元、様々な写真を写した。「新即物主義」の精神は、表現方法の道具としてのカメラと相性が良かったと僕は思っている。主観を廃した物の美しさへの表現はまさしく写真にとっておあつらえ向きだったにだったに違いない。

「世界は美しい」という発想は、今でも脈々と写真家の中に生き続けているように思える。ただアルベルト・レンガー=パッチュの写真集「世界は美しい」に掲載されている写真は、彼の主観を伴う美意識と構成したスタイルで貫かれている。それらを「新即物主義」の美術運動に組み込むこと自体、正直に言えば多少の抵抗が僕にはある。

さらにこれもよく言われることだが、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」からの「世界は美しい」に対する批評は、写真の対象への意味を露わにせず、またその現実さえも無視することを痛切に切り込み、未だにその力を失っていない。


僕自身が写真の内容(意味)よりスタイル重視と語る先に、「新即物主義」への再帰が当然の帰着として在るのだろうか。いやそういうことではない、おそらく写真のイズムの中にスタイルへの道程が導き出されるように思える。そしてその写真のイズムには、人間の現象界の境界線を乗り越えることは難しい。写真における新たな地平への模索は、僕にとっては悲観的なのである。おそらくそれは、新たなスタイルの構築だけではなく、人間を核とした新たなテクノロジーとネットワークを持ってしか実現可能性はないのでなかろうか。そんな気さえしている。


誰もが単純に「美しい」と思える写真ではなく、衝撃的な報道写真でもなく、それでいて人間の感性の枠を広げてくれるような写真。現有するカメラのシステムで、偶然でも良いし、一枚だけでも良いので、奇跡的な写真を撮してみたい。僕が密かに願っている事である。

2006/12/25

クリスマスの話題

Do Pigs Dream of Electric Sheep?

図書館に行く途中に、綺麗にガーデニングしている家がある。道路に面したその家は、正面は狭いがガーデニングに工夫を凝らし、道行く人を楽しませてくれる。垣根の隙間から中庭を観ると、様々な草木が愛情細やかに育てられているのがよくわかる。

工夫を凝らしたガーデニングが楽しかったので、持っていたカメラで何枚か写真を撮る。じっくりと見れば見るほど面白い。夕暮れ時、通りを何人かが歩いている。夢中で写真を撮っていると、突然に背後から声をかけられた。

「こんにちは」

振り返るとそこに一人の婦人がたっていた。年の頃は60の半ばと思える婦人は、僕を見てにこにこと笑い、「お好きなんですか?」 と聞いてきた。
咄嗟に、この家の方だとわかる、立ち上がり、「ガーデニングがとても素敵だったので、写真に撮らせていだきました。」と答える。
彼女は笑顔で僕の言うことを聞いている。そして再び「お好きなんですね。」と話す。

「はい、いえ・・・あの、ガーデニングが好きと言うわけでもなくて、草花の緑とか色の美しさが好きで、あ、そういうことが好きと言うことですよね。」
と、意味不明なことを語る僕。

そして彼女と家の前で少し話をする。5月になれば、家の周りはバラの花で覆われるのだそうだ。
「その頃にも来てくれると嬉しいです。」と彼女。
12月は家の外観をイルミネーションで覆う。でも年々とイルミネーションは質素になっていくとのこと。

彼女たち、つまり彼女とその夫が家の外観をイルミネーションで覆ったのは、今から35年くらい前との事だ。結婚早々の時、同居する親と一緒に家を建て直すことになった。その時に、新婚夫妻の新たな家への要望は一つだけあった、それはとても強い要望で、親の反対にも負けることはなかった。その要望とは、家に煙突を設けること。

かといって、暖炉を作るのではない。年に一度のクリスマスの時、夫がサンタクロースの格好をして煙突から降りるために、たったそれだけのための煙突なのである。
しばらくして夫妻に子供が産まれる。その頃から、家をイルミネーションで覆うようになった、一つには夫が日が暮れてから煙突に登るための明かりとしての役目もあった。その頃は、イルミネーションなど殆ど見かけない時代だった、だから夜の闇の中で、その家が輝くのが一際美しく、そして目立ったのだそうだ。

家の前で子供たちと、サンタクロースの姿をした夫の写真を撮り、イベントは終わる。
そのイベントは今でも続いているとのことだ、ただサンタは代が変わり、現在は娘さんの夫がその役目を担っているそうである。

「でもね」と婦人は語る。
「でもね、昨年のクリスマスの時、孫がサンタクロースがお父さんであると疑ってしまっているんですよ。今年はどうなるか」

昨日の24日、その家でサンタクロースが煙突から降りてきたのか、少し気になっている。

2006/12/20

新宿 照明器具販売店




どうも自分が気に入った写真というのは、他の人からは大したことがない様に感じられるようだ。根拠としてはFlickrのVIEW数なのだから、根拠がないと言えばそうなのだけど、これは自分の他の写真と較べての経験則から来る実感なので、当たらずといえども遠からずだろう。

この写真も気に入っている。最近、カメラを向ける対象が光りと色彩の多い方に偏ってしまう。やはり写真も様々な光と色だろうと思うからである。

できれば、被写体深度が浅いレンズが一本有れば、もっと自分のイメージに近い画像が得られると思うが、無い物ねだりは無意味な事だと思う。それぞれに今ある環境で行うしかないのは何事にも言えることだ。

ただ、僕の思考の中では、この写真はもっと違う。もともとこの写真を撮る際に持ったイメージ、こう撮りたい、があって、それと較べてみるとやはり違う。(写真は人に見られるためにあるのは間違いないと思う。僕のイメージ通りであれば、もっと多くの人に見てもらえたかもしれない。)

カメラが表象の世界を有り体に写すしかないのであれば、僕はこれほどにカメラに熱中することはなかった。逆に、カメラは世界の表象と僕の精神を繋ぐ事が出来る道具だと思えばこそ、できれば、結果的に表象を出力するのであっても、どちらかといえばより精神的な方に偏っていて欲しいと願うし、そういう写真を撮りたいと思うのである。

勿論、僕の精神が表象することはない。さらに上記のカメラに抱く願いも幻想に近いことかも知れない。ただ、例えば、美しさの意味を知らなくても、それを指し示すことが出来るように。哀しみの意味を言葉で伝えることが出来なくても、それを指し示すことが出来るように。僕の精神の僅かな一片でも、写真で指し示すことが出来たらと思うのである。

指し示すことに、どのくらいの意味があるのか、僕には解らない。ただ多様な世界の多様な人々の中の私の多様を知ることが、人間の複数性を知ることに繋がると思うこと、そして各々がその一助を行うことで、世界は少しずつ良くなるような、そんな気がしている。

2006/12/18

写真はスタイル

sunset

写真にとって一番重要な事は何かと問われれば、僕は「スタイル」であると答える。どの様なモノでも、写真家はファインダ越しに対象を捕らえるとき、スタイルを考えざるを得ない。光線の加減、構図の模索、色彩の配置、等々と写真家が考えることは多い。

写真の内容が重要視される場合でも、スタイルの重みが消えることはない。無論、写真の内容に重みが行くほど、選択するスタイルの幅は少なくなるとは思うが、決してスタイルの重みが軽くなると言うことではない。

写真に内容が求められるのは、いかなる場合だろう。例えば、親密度が高い関係の者の写真はそれに該当する。誰でも自分の愛する者の写真は、写真のスタイルの善し悪しとは関係なく、常にそれを見る者にある種の情感をもたらせる。

風景写真を内容重視でみれば、それは絵葉書に近いものになる。女性の裸体はポルノとなり、ある種の状況を撮した写真は内容重視で報道写真となる。いずれにせよ、そのスタイルは内容をより際だたせる方向となるのは間違いない。


写真は表象した世界を対象としている。よって写真のスタイルは、あくまでもその表象を崩すことには向かわない。例えば、椿の葉を撮すとき、写真家によっては葉の色をオレンジにするかも知れない、しかしその場合葉の形を変えることは殆どないだろうし、他者が撮された写真を見ても「椿の葉」であることが理解できるように配慮することだろう。

写真を撮す対象が表象した世界である限り、その枠を越えることは難しく、あくまでもスタイルは表象界の中で常識の範囲を超えることはない。Flickrなどの写真サイトで多くの人が「美しい」と感じる写真は、それ故に民族を越えて美しいと感じられることになる。

僕が写真を撮ることに熱中してからしばらく経つ。始めに興味を持ったのは「写真を撮る」という行為であった。

だから結果としての写真には、それほどの興味がなかった。ある対象を写真に撮りたいと思い、それにカメラを向ける。そしてカメラを通して対象の見つめ、色々と構図を決め、その中でピントを合わせるポイントを定める、実際にシャッターを押すかどうかは、それらの試行錯誤が、対象を見たときに抱いた朧気なイメージに近く、より具体性を帯びた内容になったと確信してからである。

スタイルが定まったとき、僕はシャッターを押す。無論、それで写真が出来たとは思えない。現像という処理が後ろに控えている。つまり、写真を撮るという行為には、写真に撮りたいという情動、その対象をどの様に撮すかの模索と確定、そして現像処理、の3つの段階が有ると言うことになる。そしてそれぞれに、写真家は「思考」と「意志」と「判断」という精神活動を行うことになる。

カメラという不思議な機械は、表象界(及びその身体性)を対象にしながら、強く精神活動にも結びついていることにあると、僕は思っている。時々僕は、「写真を撮るという行為」は「行為」もしくは「行動」と言えるのだろうかと疑問を持つ時がある。よく聞く、 「写真は対象と語りながら撮っている」という言葉、それは実際面では、一体誰と語り合っているのだろうか。

これらのことを含め、僕は写真についての思索を、時折、本ブログに書いていこうと思う。つまらぬブログで、さらにつまらぬ内容、でもカメラ、写真について、その技術面以外の話は僕にはとても大事なことのように思える。