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2007/02/03

Phllips Glassの音楽 「Einstein on the Beach」の「knee1」

フィリップス・グラスの音楽の情報量の多さに僕は耐えられなくなる。 それはひとつの拷問に近い状況に一瞬陥る。でも聴かずにはいられない。例えば「Einstein on the Beach」の 「knee1」、これはもう僕の感性では音楽と認められない。僕の思考がネット上を駆け回り、その際に様々な思考、それも数十億規模の思考が僕の中に入り込み、それらの情報を処理せずにはいられない状況、理由不明にも関わらず突然の焦燥、処理しきれず勝手に動き回る手足、制御できない思考のうねりの中で、僕はただもがき続ける。それから逃れるにはストップボタンを押せばよい。でもそれが出来ない。

思考上の言語ゲームの中で革新的な人はいる、僕はそれに理解を示し受け入れることが出来る。表象のゲームの中で衝撃的な視覚現象を創造する人もいる。でもいずれそれも慣れる。思考することと見ること、それは同じ線分上にあるのかもしれない。強度はいずれ、さらなる強さを持つ何かによって変わられると思うのだ。でも聴くこと、それに僕は慣れない。

グラスの反復は、単なる繰り返しではない。無限に繰り返されるように思えるフレーズも、一番目と二番目、さらには三番目・四番目・・・・とは違って聞こえるのである。音符という記号の組み合わせは同じだろう、でも僕の耳には違って聞こえる。突然に、ドゥルーズの
「反復とは差異」の言葉を思い出す。そうかも知れぬ。グラスの音楽の中で、僕は何かが閃く。そうなのだ、時折グラスの反復は、僕の思考の波長と同調し、そこから何かが訪れる。その何かを期待して僕は彼の音楽を聴き続ける。

2005/06/07

グレン・グールド、はじめのいっぽ

結局、杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」から読み始めた。読み始めると、そこから宛もなく出口を求めて彷徨う蔦のように、関連する書籍へと流れていく。時には一時中断して違う道を歩むときもある。読書の仕方は紛れもなく散歩の仕方に相通じる。
たとえば、今僕の手元にトーマス・ベルンハルトの「破滅者」とグレン・グールド著作集がある。両者とも杉田敦氏の著作で引用していた書籍である。そして僕は「リヒター、グールド、ベルンハルト」に栞をはさんで閉じ、ベルンハルトの「破壊者」を読もうとしているのだ。また元の道に戻れるのであろうか、多少不安になるが、これも性分だから致し方ない。

グールドを起点に脇道として考えたことが二つある。一つはクラシックを演奏すると言うことについて、もう一つはフィリップ・グラスの音楽と言うこと。
クラシックを演奏すると言うこと、については別にクラシックでなくても何でも良い。僕が一脈通じるかなと思ったのは、朗読劇を聞くと言うことであった。高嶋政伸は朗読劇をライフワークにしている。彼のサイトには貴重な朗読劇を幾つか見ることが出来る。僕は彼のサイトで、泉鏡花の「天守物語」とか、チェーホフの「桜の園」とかの朗読劇を見て、その面白さに夢中になったことがある。「天守物語」には泉鏡花という作者がいる。その「天守物語」を書籍で一人で読むのと、朗読劇で聞く違いとは一体何なのだろう。そう言うことを考えたとき、それはクラシックを演奏するのを聞くのと一脈通じると思ったというわけだ。

中学の時、ベートーベンの交響楽第三番が大好きでカセットテープがすり切れるまで聞き続けた。あの時僕はベートーベン交響楽第三番を聞いていたと思ったし、だから指揮者とか楽団の事は一切気にもしなかった。カセットテープがすり切れ、別途ダビングしなくてはいけなくなったとき、僕は少し困った。なぜならその曲はCDでなく、カセットテープで購入したものだったからだ。そこで、CD屋に行き、学生だったのでお金もないことから、一番手頃な価格の第三番を購入したのだった。で、家に帰って聞いてみると、それは以前のとまったく違っていた。勿論曲としては同じなのだが、それを聞く僕としては、新たに買った方は聞くに堪えられないほど違っていた。

同じ楽譜、そこにはベートーベンによる細かな指示が書き込まれていることだろう。だから、誰が演奏しても同じになると中学の頃の僕は単純に思っていた。それに僕は、ベートーベンを聴きたいのであって、某の指揮者による、どこそこの楽団の演奏が聴きたいわけではなかったのだ。それが人によってこうも違ってくるのだろうか、そう思ったのだった。そう考えると、僕は以前に聞いたものは一体何だったのか解らなくなった。それはベートーベンの曲であって、ベートーベンの曲ではないような、そんな感触にさえ囚われたものだった。

それらのことを、再びグールドによって思い出したのだった。グールドは自らのことをこう語る。

『グレン・スタインウェイ、スタインウェイ・グレン、ただバッハのためだけの』

バッハ~演奏者~聴衆、バッハと演奏者の間には楽譜が存在するし、演奏者と聴衆の間には語る者とそれを聞く者の関係がある。グレンはピアノ(スタインウェイ)と一体化する事でバッハとの距離を縮めようとしたのでないだろうか。しかも、コンサートを拒否し、映画を編集するかのように自分の演奏を編集することで、さらにバッハとの距離を縮めようと試みた。

勿論、グレンが求めるバッハは、グレンが信じ確信する「グレンのバッハ」であるのは間違いない。それでも、そのバッハは追い求めるだけの価値があった。そんなふうに思っていたのかも知れない。

まだ、生半可なグレン・グールド感であるので、僕がこんな事を書いてもちゃんちゃら可笑しい事だろう。だから、この辺でひとまず終わる。朗読劇のこととか、演奏することとは、については、もう少し整理してから書きたいと思う。

もう一つのフィリップ・グラスについて考えたのは大したことではない。単に、「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読みながらフィリップ・グラスを聞いていただけの繋がりなのだ。

でも、フィリップ・グラスの音楽について、上記に取るに足らないベートーベンの思い出から、なにかを直感的に感じたのだ。それが実は上手く言葉にならないで、内にもやとして漂っている。反復する旋律、高低差の少ないトーン、それは浜辺に寄せては返す波の動きに似ていると言えば似ている。でも簡単にそうは言いたくない気持ちが強い。彼の音楽は、反復の面では同じではあるが、本質的にはまったく違う、そんな気がしている。そのうちに言葉となって出てくるかも知れない。