2009/12/09

男と女、無性と有性

例えば、質問としてよくあるのが、「今度生まれ変われるとしたら、男と女どちらが良い?」
 おそらく生まれ変わっても、女性は女性に、男性は男性にと答えるケースが多いように思う。

一度会社の同僚の女性に質問してみたことがある、その答えが面白く印象に残った。
「うーん、一度女性を経験したから、今度は男性でいいかな。あはは」
生れ変りが実際にあれば、前世の記憶を引き継げれば良いかもしれないが、残念なことにそれは誰にもわからない。(例と思われるのも僅かしかない)

ある生物は食料が得やすく生き延びる機会が増大すると無性生殖となり、逆に環境が厳しくなれば有性生殖へと切り替えることで種の存続を図るという。つまり、人間に男女の区別があるのは、多様な遺伝子を組み込むことで、進化の速度を促し、環境の変化への対応が有利に進めることが出来るからだと言える。
(参考『雌と雄のある世界』 (集英社新書) 三井 恵津子 著)

現代の医学では男性女性のそれぞれの性は手術により転換をすることが可能となっている。
ただ法整備は整ってはいない。しかも人間は人間としての種が出来て以来、男性女性と性が分れ、それを前提とした精神と社会を構築しているため、転換は時として不幸な結果を招く。

例えば一定の割合で産まれている両性具有者が、産まれた時点で本人の意思に関係なく性が確定される場合とか。性同一性障害により性転換を行ったが周囲の性偏見により苦しめられたりとか。

さらに男性を定めるY染色体は劣化の一途をたどっているため、いずれ男性は人間の性から無くなるのも確実だと言われている。そのうち女性だけで、様々な技術を使い生殖を行っていくことになるのだろう。ただ、そこに至る前に、おそらく性への概念は今とは全く違ったものになっているように思う。 例えば、女性から男性に、もしくはその逆も、装置もしくは薬剤で簡単に転換できる様になっているかもしれない。その時代は、人間の常識・倫理・道徳などは全く様変わりしていることだろう。結婚の制度も意味を失うため消失しているはずだ。性だけではなく自分の姿も簡単に変えられるようになっているかもしれない。ただその時、その生物は人間と言えるのかは、僕には何ともわからない。

もしかすれば現代は既に性が揺らぐ時代へと突入しているのかもしれない。ふとそんなことを考える。男性も女性も、互いに違う性があることを前提にしていることが如何に多いことか。だからいずれ社会的にもしくは心理的に、それを乗り越える人間の新たなデザインが必要となるのでは、と僕は思っている。万能細胞の技術革新もおそらく、難病が治るとか、失われた肢体が復元するとか、そう言った再生医療への可能性だけではないように思えるのだ。今はあくまで感覚的なものでしかないが。

こういうことを言えば、それらはクイア・スタディにて理論的に構築もしくは実践中ではとの声も上がることだろう。確かにクイア理論は新たな人間へのデザインの萌芽となるかもしれない。僕はクイア理論について殆ど無知でもあるので積極的に展開することが難しいが、ただこの理論はもともと非異性愛者からの切実な思いから発しているため、異性愛者からの切実さに欠ける点がある様に思う。そしてそこが根本的な問題でもある様に思えるのだ。

さらに言えば、僕は性のない世界という現時点では荒唐無稽なところから発している。人間の進化と技術的な進歩から、あながち荒唐無稽でもなく、逆にその方向から生殖への思考を進めるのも良いのではないかと言う発想からだが、その前に性もしくは生殖に係わる解決すべき問題群が巨大であるのも感覚として知っているつもりだ。

何かまとまりのない文章になってしまった。もう少し語れるようになるために勉強しなくてはと最近特にそう思う。

柴又へ

家から柴又帝釈天に行くには幾つかの電車を乗り継ぐ必要がある。まずは半蔵門線で終点の押上まで行く、押上で京成電鉄に乗り換える。そこまでは僕でもわかる。難しかったのはそれ以降だ。

丁度来た電車は青砥(あおと)行きだったのでとりあえず乗り込んだ。青砥で乗り換えると思っていた。でも幾ら待っても柴又方面の電車は来ない。時刻表を見るとどうやら昼間は高砂から出ているらしい。でもその高砂がどこなのかが全くわからない。駅員に聞いてみる。

「柴又に行くにはどうすればいいのですか」

「一度、高砂まで行ってください。そこで金木行きの電車に乗り換えてください」と駅員

「高砂とはどちらですか、あっちですか?こっちですか?」

指で上りと下りを示して聞く。内心まるで「初めてのお使いシリーズ」だと恥ずかしくなる。
駅員は僕の動作に面食らった感じで、少しだけ間が空く。

「あっちです。このホームで待って次の電車に乗ってください。一つ目の駅です」

待っていると確かに電車が来た。でも車両側面には北総鉄道と書かれている。一瞬京成電鉄じゃないのかと迷うが、駅員が間違うはずもなくそのまま乗り込む。あっさりと高砂に着いた。ホームに下りしばらく待つと金木行き電車がホームに入ってくる。調べてみると高砂の次の駅らしい。つまりは迷った青砥から二つ目の駅ということになる。しかしこの間30分以上はかかっている。遠い。

柴又の駅は、何度も寅さんの映画に出てくるのでなじみがある、はずだったが、どうも映画とは少し違うようだ。向かって左側面が工事中だったので全面を見ることが出来ないのもあるかもしれない。それに映画だと駅前は少し広場のようになっていたと思う。実際も広場にはなっているが狭く感じる。これでは浅丘ルリ子演じるリリーの帰りを寅さんが待つ場所が見当たらない。

既に駅前から帝釈天の参道となっている。これも映画とは少し違う。リリーと相合傘で寅さんが歩く距離が短すぎる。これではロマンチックになる前に家にたどり着いてしまう。

しかもだ、リリーが寅さんに会いに行くとき、一度は帝釈天の方から歩いてきたように思う。しかし駅からだと帝釈天に向かうので、彼女は柴又駅からではなく別の駅(例えば新柴又駅)からくることになる。その距離をハイヒールのリリーは歩いたと言うのだろうか。

またまたリリーが餃子を造る為に寅さんと買い物をするシーンがあるが、参道には八百屋も肉屋もなかった。彼らはどこで餃子の材料を買ったのだろう。

それもまして参道の人の多さはどうだろう。ちょっとした原宿の竹下通りに近い。この人の多さは寅さんの映画の世界には全くなかったと思う。無論近くには印刷工場などなく、参道のお店で人が暮らしている感じもしない。

映画の柴又と現実の柴又を比べること自体が誤っているのかもしれないし、休日と平日の違いもあることだろう。それはわかる。でも寅さんの、しかもリリー3部作にこだわっているファンの心情も理解して欲しい。

しかしわかったこともある。寅さんもしくは出演者が江戸川の土手で別れるシーンが時折あるが、別れた際にどこに向かうのかがわからなかった。でも土手を下流に向かって歩くと京成線にぶつかるのだ。20分近くは歩くことになるとは思うが。

そんなことをだらだらと書けば、いかにも僕が熱心な寅さんファンだと誤解をされそうだ。
「好きなんですね」、と聞かれたら素直に認めよう。ただ僕の場合は、浅丘ルリ子演じるリリー3部作(実際には4作品)しか見ていない。少し変則的なファンなのだ。(この日記でリリーしか登場しないのはそういう訳だ 笑)

たまたまテレビで放送していて、それをたまたま観て、こんなにも面白いのかと驚いた。何よりも浅丘ルリ子のリリーが女性として魅力的で可愛く、どちらかといえば彼女に惚れて観始めたといったほうが正確かもしれない。

・男はつらいよ 寅次郎忘れな草     11作目 公開1973年8月4日
・男はつらいよ 寅次郎相合い傘     15作目 公開 1975年8月2日
・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 25作目 公開1980年8月2日
・男はつらいよ 寅次郎紅の花      48作目 公開1995年12月23日

このうち最終話となった48作目の「紅の花」は別格扱いなので、通常はリリー3部作となっているのだそうだ。確かに48作目は、寅さん役の渥美清さんの内側から来る生命力が感じられない、だからかいつもは寅さんが演じる役回りを甥の満男(吉岡秀隆)が肩代わりをしているようだ。

映画と実際の違いは時代の違いもあるかもしれない。11作目は今から36年前なのだ。そのころであれば、まだ映画と実際は限りなく近かったかもしれない。ただ町並みとか帝釈天は寅さんの映画のイメージがあった。そんなことをあれこれと考えながら僕は柴又の参道を歩いた。

帝釈天で参拝し、帰りに草団子を食べた。店の人は愛想良く対応してくれる。

すっかりとテーマパーク化している柴又に、テーマパークしていることを求めて僕はやってきたという事だ。そしてテーマパークが徹底されていないと嘆き、テーマパーク化されていることにも嘆く。わがまま極まりなく無責任な観光客の一員として僕は柴又を楽しんだ。そしてそれを柴又の参道は受け入れてくれた。

テーマパークと書いたが、それこそ失礼だったのかもしれない。テーマパークの代名詞でもあるディズニーと言えども東京で開園してからまだ30年しか経ってはいない。「男はつらいよ」1作目から今年で40年である。それ以前に帝釈天の参道として賑わいを見せてからは、200年以上は経っている。テーマパークとしても、お客さんを接待する伝統と重みが違うのだ。寅さんであろうと新参者であることに変わりはない。でもとっても強力な新参者であることも間違いないが。

寅さんのリリー3部作の感想を書こうと思ってからだいぶ時間が過ぎた。書こうと思う都度、僕はこの映画を観た。既に何回見たのか忘れるほどだ。でも一向に飽きることがない。寅さん、リリー、さくら、おいちゃん、おばちゃん、その他多くの人たち、柴又の街並み。観るたびに、何かを教わると言うより、知らずに引き込まれ楽しんでいる自分を見つけるのだ。同じ箇所で笑い、同じ箇所で照れ、同じ箇所で感動する。あらかじめ筋がわかっていても関係ない。今回の柴又に行くのを決めたのも寅さんが発端だし、おそらく多くの人が僕と同じだろう。

帰りに江戸川の土手を少し歩いた。矢切の渡しが見えた。実に多くの人達がそれぞれに楽しんでいた。風はあるが雲一つない青空だ。少し歩くと寅さん記念館があるという。ここまで来て行かないことはない。柴又にも当たり前だが多くの人が住んでいた。彼らは寅さんの幻影を求めてこの街に住んでいるわけではない。閑静な住宅地は、まるで僕の思惑を知っているかのように、逆に堂々と暮らしの有様を見せる。おそらく寅さんはこの暮らしの中にこそいるのだと、その時僕は初めて気がついた。

2009/12/08

ポパイ

Googleの検索サイトに行ってみたらロゴがポパイだった。
調べてみるとポパイの原作者であるエルジー・クライスラー・シーガーの誕生日なのだそうだ。ポパイにも原作者がいたんだ、という当たり前のことが最初の印象。そりゃぁいるだろうと即座にアホな疑問を打ち消したけど、それが率直な感覚だった。だからエルジー・クライスラー・シーガーも今回初めて知った。

でもこのGoogleのロゴはポパイの雰囲気を良く出している。網掛けの色使いからくるポップな感覚は今でも十分に通用しそうだ。

ポパイと言えばほうれん草、ほうれん草会社がこの漫画のスポンサーであると真しやかなうわさが流れたことがあった。しかし、ほうれん草会社のイメージが全く浮かばなかったし、ほうれん草の缶詰だって売っているものを見つけたこともなかった。

ポパイは今の漫画と較べれば品質面で劣るように思うが、それでも観てしまえば最後まで見てしまう面白さがあった。何よりも難しいことなどどこにもない大らかさ、オリーブとブルータスとの絡みの単純さ、結末がわかる安心感が、そこにはあったように思う。しかし戦前から日本に紹介されていたとは全く知らなかった。(それを考えれば十分に品質は高いとも思える)

しかもWikipediaによれば、ポパイは最初脇役だったのだそうだ。当初の主人公の名前はハム・グレイヴィ、ハムの恋人は勿論オリーブ。それが脇役であるポパイの人気が上がり、ついにはオリーブを奪い、ハムを主役から追い落とした。実はこのことに僕はとっても興味がわく。といって掘り下げるつもりもないが。

ポパイは雑誌の名前にも使われた。ご存知の通りのマガジンハウスの雑誌である。創刊が今から30年以上前だというから、すごい雑誌と言えるかもしれない。雑誌ポパイでは、そのターゲット層が10代後半から20代ということもあり、男性のことを「~少年」と呼んでいたように記憶している。今では少年はそれほど使われなくなり、変りに「女子」と対抗しての「男子」が使われるようになった。でも僕はこの「~少年」という言い方の方が好きだ。

「男子」が男性一般的な使われ方をするのに対し、「少年」には明らかな年齢の区分がそこにはある。だから使われ方としては、大人に対して少年とは言わずに、「少年のような」という言い方をする。どうも「男子」と繋がるのは「トイレ」とすぐに発想してしまう、この身の発想の貧弱さがそこにあるのも事実だが・・・

雑誌ポパイが世の中に受け入れられた理由として、よく言われるようにポップカルチャーの隆盛にある。そしてそれは深化を続け「かわいい」から派生した携帯文化で現在に至る。その経緯で外面もしくは年齢よりは、より内面の状態を前面に出した文化でもあるように僕には思える。その文化はIT技術を背景にしたヴァーチャルと自分の内面を重ねることで、自分を一種のアバター化してもいる。

ポップカルチャーの流行の一端を担った雑誌の名前がポパイであることは偶然ではないと僕は思う。ポパイの漫画の中に既にその芽が見出せるような、Googleのロゴを見てそんなことも思った。

ちなみに原作者のエルジー・クライスラー・シーガー(1894/12/8-1938/10/13)さんが誕生してから今日が115年目となる。

図補足:上が2009/12/8のGoogleロゴ、下がポパイの前の主人公で、オリーブの元彼。

2009/12/07

白い原野

僕の中には一つの懐かしいと感じる風景がある。原風景と言えば聞こえはいいが、その風景がそれに該当するのかはわからない。それは荒涼たる白い原野だ。白い原野とは津軽の地吹雪が吹き荒れる雪に覆われた場所であり、その吹雪に耐えて家が静かに建っている光景となる。通常は地吹雪からの被害を防ぐために風に面して壁を造るのだが、僕のその光景に建つ家はその様なものが一切ない。ただただ冬の強風で舞い上がり叩きつける雪に耐えている。

無論、東京産まれの東京育ちの僕にその様な場所で生活をしたという経験はない。ただ3歳から5歳くらいまで家の都合で東北は青森に暮らしたことがあった。青森市内でも決まった午後のある時間になると地吹雪に近い状態にはなり、身をかがめて歩く街の人々の印象は強く残っているが、だからといって白い原野の光景と同じではない。

その光景に強く惹かれるのに気がついたのは学生の頃だった。その頃に読んだ東北詩人高木恭造の詩集「まるめろ」にその光景が写された写真が載っていたのである。初めてその写真を見たとき、それは書店だった、強い衝撃と言う程でもなかったが、ただその写真から目を離すことが出来なかった。詩集を購入し、詩を読みながらも、それ以上に僕はその写真を眺め続けた。

眺め続け、僕の中に浮かぶ何かを言葉に出すのは難しい。でも僕はその何かを知っていた。知らないわけがない、だからこそ僕はその光景に眼が奪われたのだ。知っている何かは、子供時代の記憶と結びつく。その情景を言葉に紡ぐことはできる。ただ、それらを紡いだところで、その何かが現れるわけではない。その頃からの僕の一つの願い。その写真と同じような光景を、実際にその場にいて撮影してみたい。写真から僕はその何かに気がついたのだから、きっと同じような写真が撮れる事だろう。

今思えば、写真から何かを感じ得ていたことって意外に多い。そのどれもが人が撮った写真からだ。自分が撮った写真から浮かぶことは少ない。自分が撮る写真は、ただそこにあるものを見るような、そんな感じに近い。

2009/12/03

平山郁夫氏悲報に接し思い出す幾つかのこと

ゴーギャン展で国立近代美術館に行った際、閉館までに時間が多少あったので常設展示を見て回った。想像以上の素晴らしい作品とその量だった。これは嬉しい誤算だと喜んだが、とてもじゃないけど閉館時間までの短い時間では落ち着いて観る事が叶わなかった。
急ぎ足で館内を歩き、その速度を緩めることなく作品を一瞥する。記憶にも残らない鑑賞の仕方だが、とりあえずは下見のつもりだった。

最上階だったと思う、奥の一間が薄暗い照明で何点かの日本画が展示されているのがわかった。閉館間際の美術館の最上階、殆ど人はいない、静かな雰囲気と薄明かりに照らされた日本画がとても自然に調和している。そしてその前に一人のご婦人が佇んで一枚の絵を観ていた。微動だしない自然体の姿勢は、絵画への照明で黒いシルエットとなって浮かび上がっている。

何の絵を観ているのだろうか、と彼女の真剣な眼差しの先にある方向を見ると、そこには平山郁夫の絵が飾られていた。大きな絵だ。タイトルは実を言えば覚えていない。でもそのご婦人の美しい姿勢と真剣な眼差しが印象的だった。

僕は平山郁夫の隣に飾られていた上村松篁の「星五位」という絵のほうに気持ちが動いていた。ゴイサギが5羽バランスよく立ち姿が描かれていた。素晴らしい絵だと思った。
今朝の新聞で平山郁夫氏が亡くなられた事を知り、まず思い出したのがそのことだった。新聞を読むと平山氏は若くしてその才能を開花された方らしい。日本画家のイメージから、勝手に晩成された方だと思い込んでいた。国民的な画家だから、誰もが彼の絵のスタイルを知っているし、逆に言えば、彼の絵を十分に知らずに既に飽きている気持ちにもなっていた。

それが国立近代美術館での見知らぬご婦人の真剣な眼差しに啓発されたのか、今までとは少し違った目線で平山郁夫氏の絵を観ることが出来そうだと感じている。ゴーギャン展の感想日記に、今度は常設を観に行くと書いたが、その背景には、これらの話があったのだ。
もう一つ、その時に特別展示されていた川田喜久治氏の写真集「ラストコスモロジー」のオリジナルプリントを観ることができたのも幸運だった。写真が近代美術館に展示されることへの多少の違和感はあった。それは写真が表現芸術として認めるか否かの素朴な問いかけから発するものの、結局は絵画(美術)と写真はまったく別のものだという感覚から来ているのも間違いはなかった。

ただ川田喜久治氏の写真は紛れもなく表現芸術の一つであった。何かを明確に写してはいないが、そこには何かが写っていた。写真が面白いのは、何かを写すとき、その何かが表象として崩れれば崩れるほど、別の何かが立ち上がってくるということだ。そしてその立ち上がった何かが、写真の衝撃を僕らに与えるように思える。
平山郁夫氏死去の記事から繋がる最近の事柄を書いてみた。最後になってしまったが、平山郁夫氏のご冥福をお祈りいたします。

2009/12/02

外苑銀杏並木の黄葉

外苑の銀杏並木が黄葉したという。行ってみたが予想より多くの人が集まっていた。
銀杏の黄葉は青空が似合う。外苑の銀杏は一本一本が見事な大木でもあるから、それが並木となれば見ごたえがある。大勢の人が写真を撮っている。黄色い葉が日差しを受けてキラキラと光る。

僕の横を子供連れの一家が通り過ぎる。お父さんが子供たちに向かって「どうだ、来て良かっただろう」と聞いている。子供たちはそれに答えずはしゃぎまわり、代わりにお母さんが「本当にね」と答えている。

乳母車に子犬を数匹連れた夫婦も見かけた。子犬を落葉した黄色い葉に置いて写真を撮っている。多くの人たちは絵画館を背にして記念撮影をしている。片手でカメラを持ち顔を寄せ合い撮っている恋人たち、若いお父さんがお母さんと子供たちにカメラを向ける、もしくは友達同士でカメラを向け合いシャッターを押すたびに喚声を上げている女の子たち、それぞれが銀杏の黄葉の中で生き生きと笑顔で楽しそうだ。

無論僕と同じように写真が目的で来ている人たちも多い。しゃがみこみ地べたすれすれにカメラを構えている人、並木の一群を構図を考えながら撮る人、思い思いにファインダーを覗き、そして何か新たな視点を求めてカメラを構えなおす。

実を言えば僕は写真を撮る人たちを眺めているのが好きだ。何故だかとてもその姿に惹かれる。僕は銀杏の紅葉の写真を撮りながらも、カメラを構えている人たちにもレンズを向ける。

外苑の銀杏並木でカメラを向ける先は人様々だろう。でも一つだけ共通していることがある。それは親愛なる人たちであれ、美しい光景であれ、カメラを向け写真に残したいと思う何かがそれらにはあると言うことだ。その何かを見つめるとき、人の目は輝きを増す。そして僕はその眼に惹かれるのだろう。

絵画館前の噴水広場には丁度半円まで屋台が建ち並び、焼き鳥やら、おでんやら、たこ焼やら、焼きそばやらが売られている。多くの人たちが同じように半円に並べられているテーブルで食べて談笑している。

外苑という場所柄もあるのかもしれないが、もみじの紅葉と比べて銀杏の黄葉は何かにぎやかだ。万葉の歌は黄葉の歌の方が紅葉よりも多いと聞いたことがある。おそらく今では紅葉といえばもみじの紅がイメージされるが、遥か昔はそうではなかったのかもしれない。

青空と笑い声、そして銀杏の黄葉。押しなべて全体を語るつもりもなく、個々には様々な出来事があることだろう。でもここでは皆思い思いに初冬の黄葉を楽しんでいる。そのひと時がたまらなく美しい。

2009/12/01

12月、美しい人、悲しい出来事

12月に入った。単に11月から12月になっただけなのに、このザワザワ感は一体何なのだろう。

所詮、年末とは人間が造り上げたものでしかなく、しかもグレゴリー暦での世界だけの話だと、斜に構えて語ったとしても僕に染み付いた感覚は拭いようもなく、取り立てて何かがあると言うわけでもないのにただ落ち着かない。

仕事はどこでもそうである様に、筍のように後から後からと生えて来る。筍であればまだ食べられるから良いとは同僚の言葉、煮ても焼いても食えないものばかりだと彼は笑う。仕事は会社がある限り忙しいものだ、必要にして十分な仕事だけのはずなのに、得てしてそれだけでもないようにも思えるのは、これも皆が感じることだろう。

12月に入って、知人たちからの年始挨拶のお断りの手紙も届き始める。大抵はご両親だったり、祖母祖父だったりとするのだけど、それでもその方が見知った方であればそれなりに寂しさも募る。昨日届いた喪中のはがきは、灰色の枠組みに書かれていたのが知人その人だったのでとても驚いた。

僕には姉がいて、その姉の先輩に当たる女性だった。僕にとっては歳の離れた大姉と言う感じの人だ。彼女のことで覚えているのは、メンズクラブという男性向けファッション雑誌を創刊号から読んでいたということ。生粋のアイビーだったので、その頃アイビーを知るにはメンクラしかなく、女性のファッション雑誌もなかった時代、メンクラを読み続けていた。
それは徹底していて、彼女が和服を着たとき、会社の人から足元はローファーを履いてくると信じられたほどだった。

彼女はおしゃれでセンスが素晴らしく、そしてとても美しかった。アイビーもしくはトラッドを徹底することで、着こなしの基本的なルールなどをしっかりと身に付いてもいた。そんな彼女は小さい頃の僕の憧れの女性であり服装の先生でもあった。素敵な女性を思い浮かべるとき僕は彼女を思い出す。

はがきにはご主人の手書きでこう書かれてあった。

「妻の強い希望でお知らせしませんでした。良い想い出のなかに自分を留めておきたいと言っていました」

既に今年の2月に亡くなられていたらしい。原因は何だったのかも書かれていない手紙には、彼女の強い意志と願いを感じたのだった。そしてそれは彼女そのものだった。
急いで姉に電話する。姉のところにもはがきは届いていて、ショックを隠せない様子だった。

「きっと癌だろうね。余命も知っていたんだろうね。せつないね」と語る姉の言葉を頷きながら電話越しに聞く。

一人の人が死ぬと言うことは、おそらく一つの世界がなくなるということだ。その方は女性であり、妻であり、母であり、友人であり、そして憧れの女性でもあった。人の様々な視点の中に様々な彼女がいるのだろう。でも人は、その人がいかなる関係の人であっても、彼女の世界に完全に入ることは出来ない。彼女の世界は彼女だけの世界で、そして今年の2月にその世界は消えていたのだ。その重さに、僕は彼女を知るがゆえに畏れおののく。そしてその畏れこそが僕の彼女の冥福を祈る気持ちの現れなのだ。

今年は29日から年末年始の休暇となるらしいが、前後にお休みをとられる方も多いのだと言う。クリスマスと続く年末年始に、今から早いが皆様のご健康を祈らずにはいられない。

2009/11/29

穏やかならざる心で「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン展」を見ての感想



金曜日までの仕事が残響として土曜日の僕の中に残り続けていた。それは僕の身体の中で別の何かと共振し、そして反響し合いながら、時として増幅され、時には穏やかな湖面のような波となりながらも、決して休まることがなかった。

それほど気分転換は下手なほうではない。少なくとも自分ではそう思っている。ただ時折こういう状態にもなる。こういう日はおとなしく家でアクション映画でも見ながら時間が過ぎるのを待つしかない。でもどういうわけか僕は恵比寿の東京写真美術館にやってきている。
「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」という写真展だ。

写真界における二人の巨人の写真展と言うこともあり、普段よりは鑑賞する人が多い。こうやって二人並べると、活動する地域的な場所の違いがあるにせよ、二人はとてもよく似ているのがわかる。それは二人とも同じカメラとレンズを使い街頭でのスナップ写真を主としていると言うだけでもない。

無論それは写真撮影のスタイルを定めるからとっても重要だ。ただそのスタイルは何をどう写したいので決まるのだ。似ていると言うのはカメラを向ける対象、つまり何を写すかの選択だと僕は思う。

ただ似ているからといって、二人の写真に対する考え方まで同じとは限らない。似ているからこそ、二人の微妙な違いも際立つこともあるのだ。いわば二人はお互いを補完しあわない。二人は競合しあう。

違いが際立つのは、彼らのカラー写真への考え方の違いに現れている。美術展ではその違いを次のように説明していたと思う。木村伊兵衛は写真的現実のなかで色が定まるとし、アンリ・カルティエ=ブレッソンはカラー写真は現実の色を表すのは不可能と考えていた。

写真的現実が一体何を指し示すのか、おそらくそれはリアリズムに近いように思う。写真を写真として際立たせるのであれば、極端な話、色などどうでも良い。突き詰めるとそういうことになるのかもしれない。現実の色がカラーフィルムでは実現出来ないとしたアンリ・カルティエ=ブレッソンにとって、現実の色とは彼の視覚経験での色のことだろう。私が見るこの色を出せるフィルムなどない。

ここで、僕は違いと称したカラー写真への考え方が、二人とも根底では合い通じることに気がつく。つまり色を正確に表すことは出来ない、と言うことだ。ここにきて「東洋と西洋のまなざし」と区分けされた違いが同じとなる。ただ一つ、二人の写真を眺めることで、僕の中に浮かんだ違いは、木村伊兵衛の写真は「静」であり、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は「動」と言うことだ。

こういうことを考えながらも幾つものうねりが僕の心を襲う。一度は美術館中央の長いすに座り落ち着くのを待った。それらは、誰それが会議で言ったこととか、期限のこととか、やり残した幾つかのこととかが、漠然としたイメージの波として僕の中に現れる。それらのイメージを拒否することは、更なる大きなうねりとなって再び現れることに繋がる。そして思考は入り乱れ収支がつかなくなる。

人が写真を語るとき、技術的側面か、もしくは写っている対象についてかのどちらかの話となる。それらの話はその一枚の写真がわかったような気にさせる。TV番組「美の巨人たち」を観て理解したような錯覚に陥るのと同じ話。絵画などの表現芸術は記号としての言語と同じかもしれない。写真も記号と言えば記号かもしれないが、それは言語とは少し違うように思う。写真を語ることの難しさは、写真の本質を垣間見せている。自分の見るままを言葉に出すのが苦手なように。

木村伊兵衛の写真のなかで特に気に入ったのは、永井荷風を写した写真だった。街中で撮られた写真は文学者永井荷風を写しながらも優れたスナップ写真でもあった。写真を9分割し構図を表せば、永井荷風は右の線上に二マスいかないくらいの大きさで正面を向いて立っている。街はどこかの商店街風で、最初僕は浅草寺の参道の風景を思い出した、遠近法で商店街の入口が見える。しかしその奥から手前への商店街を歩く人は少ない。逆に殆どの人たちは商店街を横切り歩いている。そして永井荷風は横切る人たちの少し前に立っている。彼は黒っぽい背広で帽子をかぶりステッキを握っている。横の流れの中で正面を向いている彼の姿は、時代の流れから離れ自分を貫く、もしくは結果として貫かざるを得ない一人の人間として、写真に表されている。この写真は永井荷風を写しながら、永井荷風を指し示してはいない。日本社会から少し離れざるを得ない一人の近代人の孤独と自尊が現れているように僕には思えた。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は既に何枚も見知っていた。写真史に登場する何枚もの写真は、有名だからこそ、ある固定観念が伴って僕の前に現れた。彼が唱えた「決定的瞬間」とは、写真とは何かについて、彼がどう考えていたのかを端的に表す言葉だろう。彼の多くの写真にはその「決定的瞬間」があった。彼のスナップ写真は現代でも構図として参考になるものばかりだった。しかし、写真を「決定的瞬間」と言い表すほど僕らは単純でもなくなってしまったようにも思う。

なんていうか、二人の巨人の写真に囲まれても僕の心は支離滅裂だった。50年ほど前の写真の多くは、50年前へと続く窓のようなものだったが、僕はそういう感想よりも、なにかこういやに生々しい現実を実感していた。二人の写真に写された人々の多くは、おそらくこの世には既にいない。それでいながら、写真には彼らの笑い声や話し声で満ちていたし、その声を僕は騒々しく感じていたのだった。写真を見ながらも、僕は自分のことで精一杯だったのだ。

かといって二人の写真展が面白くなかったのかと言えばそんなこともない。僕は行きつ戻りつする心のなかで、写真と自分の落ち着きどころを探し彷徨っていたし、その中で、逆にその中だからこそ写真を面白く感じていた様にも思うのだ。

2009/11/28

篠山紀信さんの公然わいせつ罪容疑について

篠山紀信さんの路上ヌード撮影が公然わいせつ罪容疑に問われた事件について、写真を愛好する者として意見を述べるべきとの感覚から日記に書こうと思ったが、既に僕が書こうと思っていたものと似たような内容が産経新聞で飯沢耕太郎氏が述べていた。

今回の篠山紀信さんの公然わいせつ罪の要は、作品のわいせつ性が問われたわけではなく、路上撮影の違法性が問われている。しかし篠山紀信さんにとっては20年近く前から路上撮影をしてきている訳なのだから、問題は何故今頃になって、という素朴な疑問に尽きる。

それについて、飯沢耕太郎氏は『時代背景を考えるべき』と語り、続けて次のように言う。

『日本の写真表現は、ずっと縮み傾向にあると思う。危ないもの、怖いものを覆い隠そうという意識が強い。クレーム社会になって、文句を言われそうなものはやめよう、出さないでおこう、と自己規制も強まっている。写真家も萎縮してしまって、悪循環が続いている』

公募展へはヌード写真が少なくなってきているのだそうだ、また街頭スナップでは人の顔が写った写真も減っているのだそうだ。

写真は、それを写す者が意識をするしないにかかわらず、結果的に日本の社会を写している、ということなのだろう。(ここでは写されないということで)

数年前から携帯電話で死に顔を写す若者が増えているといった新聞記事を読んだことがある。街では歩く人の写真を撮ることが心理的な圧迫を感じるようになってきている。この双方に何らかの繋がりがあるように思えるのは何故だろう。

ここで僕はかつて友人の女性が教えてくれた話を思い出す。

あるとき彼女が公園で花壇に咲く花を携帯で写真を撮っていた。その時何か自分が見られているような感じを受けた。少し首を動かし視界を変えてみると、そこに一眼レフのカメラを彼女に向けている男性の姿を見つけた。彼女はそのカメラを凝視する。するとその男性はカメラの先を少しずらし何食わぬ顔で周囲を撮っているようなそぶりを見せた。

彼女は彼に意識して、それでもなお花壇の花を撮り続けた。でもまたカメラが自分に向けられているような感じを受け、再度彼を見つめる。少しの間があり、そのうちにその男性が彼女の元に近づき、「写真を撮らせていただいても構いませんか」とたずねてきた。彼女は言下の元で拒絶する。

気分が悪かったと彼女は言う。私を写真を撮ったとして、それがネット時代の中でどのような使われ方をするのかわからない。そして彼女の友達にその事を話す。友人たちは口々に「私だったら撮してもらうわ、そのくらい良いじゃない」と言ったそうだ。「でも私は嫌だ」と彼女は断言する。

友人たちの言葉は、他人事でもある。ストーカ、もしくは犯罪に使われることもあり得る。おそらく自分が同じような眼にあったら、友達も嫌悪するだろう、彼女はそう思っている。

同じ彼女が今度は何かのイベントに参加した。そのイベントはテレビカメラが入り、放送は全国放映されるのだそうだ。「もしかして私が写るかも知れない」などと僕に告げた。少しだけテレビで彼女の姿を見る。後から聞くと、少し落ち込んだ様子でこう語る。「がっかりした。自分の年齢相応の姿がそこに映っていた。やはりそう若くはない」

写真で撮られることに嫌悪感を持つ彼女が、テレビカメラに勝手に写されることへの反応の違いが、彼女には意識することがない。僕は黙って頷き、「そんなことないよ。テレビの写りが悪かっただけだ」などと慰める。反応の違いを指摘することはない。なぜなら僕もその違いが、現代では、違いとして存在しないとわかっているからだ。

テレビだけではない。至る所に配置された監視カメラは治安強化の名目で、さらに増え続けている。無機質な監視カメラには責任を伴う撮影者はそこにはいない。

今を生きる僕としても、人の写真を撮る行為がどういうことなのか理解をしているつもりだ。肖像権があり、プライバシーの問題もあり、なにより人からカメラを向けられる事へのいらだちが以前より増している感覚とか。それらの感覚は、死に顔を携帯で取る行為が増えているということと、監視カメラに写されているという「安心感」と、テレビカメラに写りたいという気持ちと、そして今回の篠山紀信の路上撮影での公然わいせつ罪の適用とかに、今日の日本人社会の底で繋がっているように思える。

新聞記事の中で飯沢耕太郎氏は次のようにも語っている。

『若い人が、篠山さんでもダメなんだから、やめておこうと思うのがこわい。路上ヌードは撮れなくなるかもしれない。この傾向が強まれば、すべての路上写真がだめになる。ヌードに限らず、公共の場で一切の撮影ができなくなってしまう。そんな危機をはらんでいる』

そのような日が来て欲しいとは思わないが、確実に近づいていると僕は思う。現時点では、すくなくとも僕は篠山紀信さんを応援する他はない。

2009/11/25

2009年11月15日 晴れ時々散歩

半蔵門線の水天宮駅で降りたのはたんなる気まぐれだった。最近写真の趣味を兼ねた散歩は地元付近から少し離れつつある。といっても沿線上だからそれほどたいしたことでもないが。

半蔵門線水天宮駅は人形町の水天宮に近い。降りると七五三のお参りをする人たちが多かった。思い思いの着物を着た(殆どの子供は着物姿だった)子供たちが親に連れられてちょこちょこと歩く姿は見ているだけで楽しい。でも親は一所懸命だ。子供が走り出すのを追いかける和服姿のお母さん。デジタルカメラで写真を撮るお父さん。おじいちゃんおばあちゃんは皆良い表情をしている。

古い写真だが、僕にも七五三の写真がある。姉と一緒に千歳飴をもち多少緊張した面持ちで写っていた。姉が歯が痛く顔を多少歪めている。僕にとってその日の記憶は殆どない。ただ写真が残っていることで、それが契機になってほんの僅かな記憶の断片が蘇る。

今日の散歩では50mm(F1.4)を1本のみだった。デジタルカメラの場合、35mm換算では50mm焦点のレンズは約75mmのレンズとなる。それは僕が好んで撮る光景には合わなく、普段は殆ど使ってはいない。でもたまにはと練習を兼ねて持ち出したのだが、慣れるのに最後まで苦労した。ただ背景のボケは普段持ち歩いている30mm(F1.4)よりは美しいように感じられた。レンズが変ると写真の雰囲気ががらりと変り、そのレンズに慣れるのに時間がかかる。

僕はどちらかと言えば絞り優先での撮影が多い。ゆえにどうしても絞り値が変るようなズーム系レンズは苦手となる。かといって開放値が変らないズームは高い。さらに言えばズームは重たい。で、結局レンズはズーム系ではなく単焦点レンズとなる。近寄りたければ自分の足で、それも僕には合っている。

途中から50mmでの散歩は難しいなと思い始めていた。次からはやはり30mmにしよう。
こういうふうにカメラのハード面を考える時の写真は良くはない。少なくとも僕にとってはそうだ。カメラのことなんか気にしたくはない。そうじゃなく写真のことを気にしたい。それに自分のイメージが先行するような写真も撮りたくはない。ただ何となく撮った写真が何となく良い、そんな感じの写真が撮れたら最高なのだ。

水天宮を離れた僕は隅田川の方面へと向かった。人通りは少ない。平日であれば会社員達で埋まると思われる大通りは地元の人たちが自転車で行き来する。こういう雰囲気が好きだ。東京はどこに行っても人が多いといわれるが、実際は偏っているだけなのだと思う。人が集まる場所に行けば多いに決まっているが、その分殆ど人がいない場所もでてくる。平日のオフィス街。平日の官公庁街、問屋さん街などなど。それらの場所の平日にはない空気感が心地良い。

歩くと芭蕉記念館があるという。僕はとりあえずの目的地としてそこを選ぶ。芭蕉記念館はこじんまりとした記念館だ。僕は中には入らず、案内板で芭蕉庵の史跡庭園が近くにあると言うのでそちらの方に向かった。歩きながら、ここが深川なのだと意識する。
江戸と言えば日本橋だけではなく深川とも言える。深川は江戸の頃は殆ど海岸であったという。そういう思いを馳せながら、僕は隅田川沿いを歩く。

史跡庭園の隣に面白い店があった。「深川番所」というアートギャラリー、そしてその1階にある「そら庵」というブックカフェ。こういう店を見つけると思わず入りたくなる。僕は迷うことなく深川番所へと階段を登った。そこでは 「しゅんしゅん 点と線の間にあるもの スケッチ」展が開催されていた。気持ちの良い空間に配置した彼の素描が心地良い。とてもこの空間に合っている。そう思いながら観ていると、どこかで見かけたような女性と眼が合った。

偶然の出会いとはこういうことを言うのだろう。その方は写真サイトの繋がりで何回か会った事がある女性だった。一瞬戸惑うが、向こうは平然と挨拶をしてくる。その平然さにますます混乱する。
聞けば、この深川番所の番頭役のかたが同じ写真サイトの繋がりで来たのだと言う。僕を見かけたとき同じ流れで来たのだと、さして驚かなかったようなのだ。

でも僕のほうはそういうことは一切知らない。ただ、たまたま何気なく入ったギャラリーで、しかも芭蕉の史跡とはいえ、それほど人が多くない場所で、見知った人がいるとは想像だにできなかったのだから。この幸運な偶然の出会いによって僕はその「深川番所」の番頭さんと、ギャラリーでの展示者であるしゅんしゅんさんと知り合うことが出来た。
お二人とも若いがとてもクリエイティブな方たちだ。何かを造り出そうとする人たちは、若者たちに対し色々と言われているが、案外に多いような気もしている。そしてそれであれば、これも案外に、この国の将来はそんなに悪くはないかもしれない。

ギャラリーの下にあるブックカフェ「そら庵」はとても気持ちの良い空間だった。コーヒー・紅茶300円でいつまでもいて構わないのだそうだ。こういう店も増えてきている。
少しずつ今までの価値観が変りつつある、そんな気にさせる。

深川番所:http://gallery.kawaban.net/
そら庵:http://www.geocities.jp/sora_an_111/

それから僕は清澄白河まで行き、そこから電車に乗って帰った。
その間では芭蕉史跡の展望台へも行ったし、2~3の隅田川支流の橋も渡った。また清澄白河の商店街、のらくろという漫画の主人公がイメージキャラクターになっている、に行き閑散とした商店街の歩行者天国も歩いた。歩きながら隅田川の川沿いとか商店街などに懐かしさを覚えているのに気が付いた。昔、僕が子供だった頃、こういう風景に僕も囲まれていたような、そんな印象を持ったのだ。

それは夏が知らずに終わり、そしていつの間にか秋も過ぎようとする中で、僕に与えてくれた突然のささやかな贈り物のように思えた。また来週もここに来ようか、うん、その時のレンズは30mmを持ってこよう。それ以上にそら庵で読むべき本も忘れずに持ってこよう。そんなことを考えていた。

清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」を読んでの初めての感想

写真について書かれた書籍の中で、僕は清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」が最上だと考えている。この評論は写真を語る上で極めて重要な評論であるのは間違いないにもかかわらず、それほど多くの方が読んでいないことが残念でもある。無論、これは僕の考えでしかない。一歩身を引いて考えれば、写真一般について考えるのは、哲学について考えるのと同様に、人生においては意味は殆ど無い。故に、残念であるというのは僕の感傷に過ぎないとも思う。

「不可視性としての写真」は1995年にワコウ・ワークス・オブ・アートが数量限定で発行している。殆どが関係者に配布されたため、実売部数は殆どなかったのではないだろうか。僕は清水穣氏の写真評論の仕事に注目をしていたため、この本の名前だけは聞いていた。しかしどの図書館に行っても置いてなかった。国会図書館にはあると言うことだったが、国会図書館から借りた書籍は、家に持ち帰ることができず、かつコピー機での複写も許されてはいない。それを聞けば借りる気が失せた。

それでも2年ほど前、どうしても読みたくなり近くの図書館を通じ国会図書館から借りることにした。そして一読し是非とも手元に置いておきたくなった。そこで全文を手書きで複写することにした。手書きとはいえ、複写は著作権の関係上、約半分までしかできない。しかし本書が多くの人の眼に入らないのは文化的損失だと僕は思う気持ちもあった。

手書きの複写は会社帰りに2時間使い十日間ほどかかった。短い評論ではあるが、読んで不明点があれば繰り返し読んで、それから手書きでの複写なので、思った以上に時間がかかった。書いている間は夢中だったが、それでも時折思ったものだ、俺は一体何をやっているんだろうと。

どうやら僕は元来こういう無意味なことをしたり考えたりするのが好きらしい。
多くの人は「意味のないことはない」と語る。確かに社会においては「意味のないことはない」と語るべきなのだ。脆い社会を維持するためにはそのような神話は必要なことだと僕は思う。その意味で僕も「意味のないことはない」もしくは「努力は実を結ぶ」に同感する。社会を離れて人間を考えることは難しいが、それでも一歩離れて考えれば、逆に「意味があることが」珍しいことだと思えるし、「努力が実を結ばない」事例はいくらでもある。

「不可視性としての写真」の手書きでの複写は、「意味もなく」かつ「努力が実を結ばない」典型的な例だと思う。ただ僕はそれまでの写真論に飽き足らない気持ちが強かった。日本の写真論と言えば、ベンヤミン、バルト、そしてソンタグの三人を中心に回っていたし、おそらく今でもそうだろう。(僕は密かにこの三人を写真の御三家と呼んでいる)

この三人の思想を解釈し咀嚼しそれの解説書を書くのはそれはそれでよい。ただそれだけであれば日本の写真論の深みは全くと言って良いほど得ることは出来ない。もっと変わる何か、そしてそれは出来れば一般理論であればよい。僕はそう考えていたし、それを望んでいたのだった。そして「不可視性としての写真」はその僕の願いを叶えてくれた初めての、そして唯一の書籍だったのだ。

「不可視性としての写真」の要の一つに、まず写真に対する前提にあると思う。清水穣氏は写真についてまずは以下のように語る。

『写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。』

そして「写真性をもった写真」とは、表現形式で語るモノではないとしたうえで以下のように続く。

『写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、 ヒエログリフは既に写真であった。』

僕はこの言説に納得をし正しいとさえ考える。しかしこの写真性による写真の範囲を広げる理由は他にもある。それは写真がカメラという機材を使ってのみ得られるモノであれば、それは人間の手の内にあるモノでもあると言える。それば例えば椅子とかランプとか炊飯器とかベッドとか、そういった類のものと同等であると言うことだ。そしてもしそうであれば、写真について僕らが不思議だと感じることとか、難しいと感じることとか、衝撃を受けることとかは、解決可能であるし、その理由についてもお互いに合意が出来ることだろう。

しかし現実には写真には、「写真の問題」と言うべき問題が隠すまでもなく厳然と在ると思われるし、そしてその問題から醸し出される謎が写真の一つの魅力を造っているようにさえ僕には思えるのだ。

写真性があるものが全て写真とすることで、写真を人間の手の内から解き放し、そのことで一般論として語る意味を冒頭で清水穣氏は宣言しているのだと僕は思う。しかしこの点は極めて重要なことだと僕には思える。写真について語る意味、写真の問題が議論に値することとして提示するには、その問題を明らかにする必要があるからだ。

ただ、「不可視性としての写真」は哲学的な体裁を持ちながら、あくまで評論でもある。そこがこの書籍の全体を通しての問題でもあるのだが。僕がこう言うこと自体、優れた評論家である清水穣氏に対して不遜なことであるのは重々承知している。ただ哲学的な視点で見れば、この評論の言説は理由が明らかにされずに論理的飛躍が随所に見られるのだ。

『さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、あなたとはあなたが見ている世界である。』

まず「主客分離に先立つ」ことが「あなたとはあなたが見ている世界である」も繋がることが僕には不明である。なぜ清水穣氏は「あなたとはあなたが見ている世界である」と言い切れるのであろうか。それが言い切れること自体、主客分離されていることではないのだろうか。ここで清水穣氏はいとも容易く「他我問題」を乗り越えている。

「私とは私が見ている世界である」と何故言わないのだろう。ここでは「私」と「あなた」とはイコールで結びついているのではないだろうか。つまり一般的な「私」は「あなた」と同じなのである。しかし、「私とは私が見ている世界である」と私が叫んだとき、その私とは一般的な私ではなく、まさにこの私のことでしかない。

言うなればこの乗り越えが容易く行われたことが、この評論の根本的な問題を潜在させることになった。

まぁそれも無視しよう。でも残念なことに。重要な言説である「写真性」の説明が僕には伝わってこない。「写真性」の存在は、僕にとって、実感が伴い生々しく感じることが出来るというのに、逆にその説明および写真性がある場所を含めて疑問を呈する結果になっている。つまりは今のところ漠然とだが、「写真性」は清水穣氏が語るモノではないような気が徐々にしてきているのだ。

簡単に言えば、この評論の肝とも言える「写真性」の説明について、こういう反論はできないだろうか。
例えばある写真があるとする。その写真にある人は写真性があると公言し、別のある人はその写真に写真性はないと断言する場合、どちらが正しいのであろうか。というか、どちらが正しいと判断を示す根拠など原理的にないのでなかろうか。つまりここでも「他我問題」は執拗に絡んでくるのだ。

おそらく清水穣氏のその後の評論を読めば、写真評論する者の鑑識眼を鍛えると言うことになるのかも知れない。ただ写真性に関して言えば、それが心理面に左右する以上、その限りではない。写真の問題はこう展開すべきだったと僕には思える。「何故写真は写真として生成された瞬間から心理面のみとなるのであろうか」と。

具体的に僕の意見も書かずに批判的な事を述べているかもしれない。ただこの冒頭で言ったように、「不可視性としての写真」は優れた評論であるのは間違いないし、それはある意味ではバルトもしくはソンタグの写真論より優れているとも言える。僕はこの写真論を批判的に学習することで写真について勉強することが出来た。そしてそれはおそらく今後も続くことのように思える。まだまだこの書籍から離れることは出来ない。

2009/11/03

久々の小説、あるいは解釈と感想の違い

僕は映画観ると殆ど全部を面白く良い映画だと考える傾向にある。以前にそのことを自覚したとき、自嘲気味に映画評論家には間違いなくなれないと悟った。まぁなるつもりもなかったけど。あるとき友人のそのことを話したら、それはきっと観た映画がそれなりに素晴らしかったからだと言われた。つまり良い映画しか観ていないから評価も良かったというわけだ。

試しに誰もが観て後悔する映画を一度観ればよいとも言われた。例えば、「悪霊の盆踊り」とか「尻怪獣アスラ」とかそういった類の映画のことだと思う。幸いなことにまだ前記二つの映画を鑑賞してはいない。そんなことで自分の感性を試すつもりもないし、評価を下せないのなら、それはそれでそういう性格をしているのだろうと思うことにしたのだ。

だから映画を観たときは、僕は殆どが評論ではなく感想となる。評論と感想の違いは何かと考えたことがある。おそらく評論は解釈で感想は省察だと思う。例えば、解釈の場合、自分とは外部に基準を置き、それと較べて評価を下す。しかるに感想の場合は、面白かったとしたとき、何が自分にとってどう面白かったのかを書くことになる。僕としては後者の方が自分の性に合っている様に思う。

一時は評価を下せる人が羨ましいと思うこともあった。しかし今では感想が書ける自分で良かったと思う。解釈とは世界を自分に合わせることだと思うのだ。自分に合っていない世界は当然のことながら評価は低くなる。感想は受け入れることだと思う。受け入れ、それに対する自分の反応を見つめること。それにより内側から世界への眼差しを変えていくことのように思う。

実を言えば、昨日に久しぶりに小説を書店で買った。ちょこちょこと青空文庫で小説を読んでいたりはするのだが、書店で買って読むのは、もしかすれば3年ぶりくらいだと思う。村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」という小説。
村上春樹は「海辺のカフカ」より前の作品は全て読んでいると思っていた。村上春樹の全小説を集中的に読もうと考え実行したことがあったのだ。でもこの本は読んでいなかったので、どうやら抜けがあったようだ。

「回転木馬のデッド・ヒート」はまだ全てを読み終えていないが、冒頭の「はじめに」の部分ですっかりと参ってしまった。何故か作家の心情がとてもよく感じることが出来たのだ。それは僕の感性と言うよりも、村上春樹さんの巧みさだと思う。
『自己表現が精神の解放に寄与するという考え方は迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。』
(「回転木馬のデッド・ヒート」 村上春樹 はじめにから)
僕は村上春樹さんのこの言葉にとても強くリアリティを感じる。昔、書くことは人間に与えられた「業」のようなものだと思った時期があった。今でも多少そんな思いがある。無論、僕は小説家でもない。でも書くという行為は何も小説家に与えられた業というわけではなく、言葉を持ってしまった人間であれば誰でも同様なのだと思う。問題はそれを意識するかしないかだと思う。そして意識する必要もないことだと思うのだ。意識しなくても人は生きてゆける。逆に村上春樹さんのような考えは生きることを必要以上に重くすることだろう。

例えば歴史上の多くの革命家、発明家、思想家、哲学者などの人たち。彼らを凄いという人もいるが、僕にはそういう評価の根拠がわからない。歴史に名を残そうという発想は、よくわからないが、何か感覚的に言えば比較的新しいような気がする。多くのこれらの人たちは、おそらくそんなことを意識して行動していたわけではない。なんて言うのだろうか、僕は思うに、彼ら・彼女たちはやむにやまれぬ思いから、それしかできない、もしくはそれを解決しなければどうしようもないから、解決しなければ自分が生きることさえ危ぶまれるから、それぞれのことを行ったと思うのだ。そんなこと考えなくても、もしくは行動しなくてもすむのであればそれにこしたことはない。

僕は村上春樹さんの言葉からそんなことを考えた。考えたと言うよりも漠然と感じたといった方が正しいのかもしれない。

「回転木馬のデッド・ヒート」を買って読もうと思ったのは、その中の一編に「嘔吐1979」があるからだ。まず買ったときに一番にそれを読んだ。面白かった。小説には読んだときに驚きがあったほうが面白い。その意味で十分に驚きがあった。嘔吐とは何か、嘔吐をする男性にかかってきた電話の意味とは何か、そういうことを考えるとき、考える人はすっかりと村上春樹の手のひらで踊っているようなものだ。こういう小説はただ楽しめばよい。そういう風に思う。でも何かを考えて、書いてしまうかもしれない自分がいるのもわかる。

次に「はじめに」を読み、そして「レーダーホーゼン」を読んだ。「レーダーホーゼン」は少し怖い小説だった。決してホラー系というわけではなく、男性として怖いと言うこと。

ある時点での全小説を読み、もう二度と読むことはないと思っていた村上春樹の小説だったがまだまだ面白そうだ。

2009/11/02

弱い紐帯の強さ、もしくは新GREEに関する消極的捕捉

NTTドコモが主催している「iのあるメール大賞」の投稿作品を少し読んでみた。それぞれが素晴らしい。携帯でのメールという短い文章に、送る方の、大げさな表現を使えば、万感の思いが、ちゃんと受け取る方に伝わっている。
(iのあるメール大賞:http://i-arumail.jp/pc/PcIndex.html

例えばこんな携帯メールがあった。ご主人と結婚をされた25年前、散髪は奥さんが行っていた。
でも素人ゆえにご主人の頭は段違い平行棒のように段々がはっきりと見えてしまい、会社に行く手前、それ以降は近所の床屋に行くようになったそうだ。定年退職を迎える時、ご主人の髪の毛が少し伸びたと思った奥さんは、そろそろ床屋に行ったら、とメールをする。
ご主人からの返信は・・・「お母さんでいいよ」。
それを読まれた奥さんは涙があふれるのを止めることができなかったのだそうだ。このメールにはご主人の奥様への思いが言葉に語れぬほど詰まっている。

絆の強さとは文字数ではない。ただ絆を深めるためには、様々な積み重ねが必要なのだ。積み重ねの結果として、この短い返信メールがある。積み重ねもなく、短いメール文章の繰り返しだけで絆を強めることなど到底出来ない。

ただSNSに強い絆を求めることは何か違うようにも思う。SNSの場合、絆が弱いことに意味がある様に思えるからだ。

1973年に社会学者のマーク・S・グラノヴェターは一つの仮説を立てた。その論文はネットワーク理論の古典として今でも広く読まれている。「弱い紐帯の強さ」と題するこの論文は、強い紐帯(家族、親友、仕事仲間)だけの結びつきであれば、そのネットワークは同質性や類似性が強まり、ネットワークとして孤立する傾向にあると言う。そして弱い紐帯は強いネットワーク同士を結びつけるブリッジのようなものだと語る。

SNSのような結びつきは人間関係の絆としてはとても弱い。そしてその弱さがSNSでの醍醐味とも言える。逆に、だからこそ普段では知りえない人の考え方、様々な視点を得られるともいえる。
例えば、リアルであればこれほど多くの友人と均等に付き合えることは難しい。強い絆で造られたグループは、属する人にとっては極めて重要なのは間違いないが、硬直化しやすいし、そのグループの中では発言出来ないことも多い。

また論文「弱い紐帯の強さ」では、弱い紐帯によって伝達される情報や知識は、受け手にとって価値が高いことが多い、とも分析している。GREE・mixiなどのSNSの基本的な考え方は、この36年前のネットワーク理論を基礎にしているのは間違いない。ネットワーク的視点で俯瞰すれば、SNSに参加することはハブとしてのネットワークへの紐帯を作る事と言えるかもしれない。

弱い紐帯だからこそ、SNSでは出会いと別れが日常茶飯となる。そしてその繰り返しから全く新たな結びつきが生まれるのだと思う。この短い周期でのダイナミズムがSNSの醍醐味だとも思うのである。しかしネットワーク理論と言っても、そこにあるのは結びつきの紐の話でしかない。結びついたのは人間同士なのだから、そこにはきちんとした人間関係の構築と維持があるとは思う。

人間関係の深さは文字数では決まらない。仕事で多くの言葉を語り、そして受け止めたとしても、退職すればその繋がりは絶える。仕事関係などの強い結びつきでもそうなのだからSNSの場合はなおさらのことだろう。

僕の場合、何事も長文になる傾向がある。それは単に僕の趣味でしかない。長文で書くことが、SNSで弱い紐帯を少しは強めることが出来るのかと自問すれば、読み手の価値観がそこに係わるため、僕にはなんとも言いようがない。

今後のSNSの動向は、さらにTwitter化の加速が進むように思われる。それは弱い紐帯の広がりを示している。ただ弱い紐帯が人に占める割合が高くなればなるほど、強い紐帯が脅かされることにならないだろうか。そういう状態が続くとき、逆に反発として強い結びつきを求める方向に転化するこもありえるだろう、既にそうなっているのかもしれないが。
(例えば、家族・仲間の絆の強さを強調するTVドラマが多くなっているとか。ただこれらは寧ろマスコミが存続のためにそれらを指向せざるを得ない状況にあるともいえるので、例としては悪いかもしれない)

僕は前回の日記で、新GREEへの変化は遅すぎたとも見える、と書いた。それは早くリニューアルすべきだったという意味ではない。遅すぎたのだから、Webサービスの流行に乗るのではなく、さらにその先を行く内容でリニューアルすべきだ、を暗に含めたつもりだ。

そしてその先とは、弱い紐帯での関係を、少しでも強くすることへの指向ではないかと思う。SNSの歴史を考えると、リアルでの強い紐帯をそのままネット上にかぶせたことから始まり、紐帯は徐々に弱い方向に向かい、そして携帯からの多くの加入によりかなり弱まった、と言える。そのかなり弱い紐帯を多少なりとも強める方向に、新たな技術を使い指向することと僕には思える。

****************************
CNETで本件に係わる記事があったので紹介します。そこでGREEのリニューアルで、旧GREEのPC版はなかったことになりました、と軽く答えている。利用者をここまで考えない企業が今の日本に存在するとは、少し信じられない気持ちだ。
『グリーの田中氏は今回のリニューアルについて、「ひとこと機能を中心にして、よりリアルタイムなSNSにするというのが趣旨です。Twitterのようなサービスが最近流行っていることを受けて、日記を書き合うという昔のスタイルから、もっとリアルタイムにいま何しているかを書き合うように全面的に変えました。過去のPC版は完全に一新され、なかったことになりました」と語る。』
(CNETより引用)

2009/10/31

PC版GREEのリニューアルで思うこと

今更こんな話をするのは遅れているとの意見が出るのは承知の記事(笑)

11月初旬にPC版GREEが正式にリニューアルする。すでに試験的に運用されているので、使われている方も多いに違いない。今回のリニューアルの主旨は一言で言えば、『リアルタイム性重視にリニューアル』と言うことらしい。

具体的には幾つか機能追加と逆に機能削減があるが、方向としては「日記」+「足跡」のコミュニケーションからTwitterのようなリアル(今、何を)への変更だと言える。この考えはWebの世界では新しくもない。すでに数年前からWebコミュニケーションの流れであると言われ続けてきた。

結果的に「日記」はサブ的な位置づけへと転落することになるし、その為PC版の日記が持っていた幾つかの機能もなくなる。競争が激しいWebビジネスのことを考えれば、GREEの今回のリニューアルは別面で見れば遅いのかもしれない。
ただ、それまでは携帯に資本投資を集中し、一定の成果を上げてきたことを考えれば、GREEとしてはこれも計画の通りなのだろう。

生き残りをかけて厳しい戦いをしている。その為に変化をし続けなければならない。またその変化が正しいかどうかは誰にもわからない。
さらに変化は必ず利用者の不満をかうことにもなる。誰もが喜ぶ変化などおそらくないと思うし、切り捨てられたと感じる方もいることだろう。そしてその感覚は常に正しいと僕も思う。そしてビジネス的にGREEは離反率も予測を立てているに違いない。

ただGREEが自信を持って行うリニューアル、それは1千万を超えるユーザー数を背景にしているが、PC版にリニューアルが本当に今回のような『リアルタイム性重視』で良いのか、それがビジネス的に正しいのか?
つまりは携帯で培われてきた文化がPCでも同様に適用するのか?
そう考えると、まだ直感の域をでないが、違うのではないのかと言う思いも確かにある。(携帯でしか使えなかった伝言板がPCでも使えるのは嬉しいが)

つまり、携帯とPCの双方がコミュニケーションするための道具としたとき、両者はそれぞれの文化で棲み分けが今よりもっと明確になっていくのではなかろうか。携帯とPCとで同じものを同じように使えるようにする方向は正しい。しかし携帯とPCでの利用する環境および動機などは違うのではないのか。その違いが『リアルタイム性重視』という一つの方向でまとまるとは思えないのである。

利用者は携帯でGREEを利用するけど、場合によりPCでも利用する、そして両者の使い分けはその時の動機によって分ける、と言った選択肢を狭める結果となりはしないかと危惧しているのだ。それらをTwitter的なショートメッセージ化する方向での統一は誤りではなかろうか。少なくともPCに関しては。

どういう結果になるのか僕には正直わからないし、それなりに成功するかもしれない。(とGREEの経営者たちは言うことだろう)
ただ今回のリニューアルで、日記を中心としての素晴らしい書き手がGREEから少なくなるとしたら、とても残念なことだと僕は思っている。
(Webサービスと言っても、結局は人で成り立っているのだろう?)

*蛇足*
携帯で日記を書く場合、携帯に読みやすいように言葉を使い改行も行われる。PCの場合も同様だ。僕は殆どPCで文章を書いているので、おそらく携帯の人にとっては読みづらいことだろう。逆にPCからすれば携帯で書かれた文章は読みづらい。でもそういうのはそれほど大きな問題でもない。読まれる文章は結果的に何で書かれようとも読まれる。

2009/10/27

サルガド写真展のパンフレットを買わずに追分団子を買って帰った話

セバスチャン・サルガドの写真展に行った際、売店でパンフレットを購入しようかと考えた。価格も2200円なので写真展のパンフレットとしてはそれほど高くはない。そのつもりで手に取りパラパラとページをめくる。多少写真が小さいのは価格を考えると致し方ない。しかもパンフレットにはサルガドの言葉とか評論家の解説なども載っているから読み物としてもおもしろい。そんなことを考えてパンフレットの後ろにある解説を読んでみた。

名前は忘れてしまったが女性漫画家の解説と言うよりは個人的な感想文だった。彼女の感想は次のようなことが書かれていた。サルガドはフォトジャーナリズムを芸術の域まで高めた、ほかの芸術はもっとわかりやすくすべきだ、云々。

何を言っているんだろうこの人は、というのが正直な僕の感想。でもネットでサルガドのことを調べてみると案外に芸術家であるとの評価を持っている人が多いのに気がついた。どういうことなのだろう。

例えばだ、今回の写真展にこんな写真があった。ルワンダ紛争から一年後の1995年に撮影されている、ある学校にある数百のツチ族の遺体の写真。サルガドらしくその写真には吐き気を及ぼすような嫌悪感は少ない。しかし、この写真を芸術作品と言えるのだろうか。

その漫画家に聞きたいことは、彼女が考える芸術の定義そのものだ。仮に僕がフォトドキュメンタリーの一人だったとしよう。社会の問題点を僕の視点で切り取った写真が高く評価されたとしよう。その際、僕がその社会の問題を写した写真を観客が見て芸術性が高いと言われたとき、僕はジャーナリストとしてどう思うのだろうか。芸術という称号を与えられて喜ぶのだろうか。そんなことはない。逆に、芸術性が高いと言うことで、ジャーナリズムとしての写真の価値が下がるように感じることだろう。はっきりと言えば、自分が芸術家だろうがなかろうがそんなことはどうでも良い。それが一部の人たちにとって褒め言葉になるのだとしても、そういう称号に何の意味があるというのか。

芸術としての称号を与えることは作品を特別な位置に高める、という凡庸な考えはどこから来るのだろう。僕には殆ど理解できない。そして、それを基準にしてものを語る感想ほどつまらぬものはない。

それから芸術はもっとわかりやすく云々について、誰にとってわかりやすくなのだろうか。彼女がそういう風に思い語ると言うことは、その漫画家にとってわかりやすいということなのだろう。一般的にと言うのであれば、その基準などを明確にすべきであろう。そうでなければ単なる愚痴でしかない。さらに言えば、いわゆる芸術家たちはあなたのことを考えて創作活動を続けているわけでもない。

などと、その感想文を読んで頭の中で思った。お金を出してこの手の感想を読まなくてはならない道理などどこにもない。だから僕はパンフレットを買うのをやめた。

帰りに渋谷の東急東横店のれん街にて追分だんご本舗のみたらし団子などを約2000円分買った。これがセバスチャン・サルガドのパンフレット代わりだと僕は思った。

2009/10/26

東京写真美術館 セバスチャン・サルガド AFRICA展



セバスチャン・サルガドの撮る写真は美しい。そしてまさしくそのことが彼の写真の問題であると僕は考える。そして彼の写真が世界に多く受け入れられた理由としてその美しさがあるのも間違いない。

サルガドは現在でも活躍している著名なフォトジャーナリストでもある。その彼の30年間に及ぶアフリカでの撮影をまとめた写真展が東京写真美術館で開催されているので行って来た。美術館で入手したカタログには「フォトジャーナリズム」ではなく「フォトドキュメンタリー」とあった。そして彼はその「フォトドキュメンタリー」の先駆者でもあるらしい。

「フォトジャーナリズム」と「フォトドキュメンタリー」の区別は、両者は報道写真(フォトジャーナリズム)の範疇に入りながらも、前者がニュース性を求めることに対し、後者は写真家の視点を残しながら淡々と現状を切り取っていく姿勢にある。故にフォトドキュメンタリーの場合、写真家のスタイルが全面に出ることになる。セバスチャン・サルガドのスタイルを僕が簡単に説明することは難しい。ただ一目瞭然なのは、モノクロで広角レンズを多用し画面を大きく構成しているということだろう。

写真には不可視な何かが写っている。その何かを写真家はカメラのシャッターを押せば写りこまれるというわけではない。清水穣は、「それは写真に写っている対象の真実でもなく、写真を見て感じる我々の心理や感情とは無関係」として、その上で、「写真の奇跡は、見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである」とした。そしてその何かを写真的不可視であると語る。

写真として成立するためには、その不可視な何かが写っていなければならない。それを写真性と呼ぶのであれば、それでも良い。ただこの何かは写真家の思惑を超えて在るわけではなく、写真家とは無関係に在るのだと僕には思える。写真家のダイアン・アーバスは常々カメラは自分の思い通りにならないと言い続けた。思い通りにしようと望むこと自体、それは不可能なことなのだろう。

写真家が出来ることと言えば、多くの写真を撮ること、そして多くの写真を見ることしかないのでなかろうか。その上で、不可視の何かが写りこまれている写真の選択にのみ写真家の自己表現があるといったら言いすぎだろうか。

写真は写すものを美しく見せる、とは確かスーザン・ソンタグの「写真論」での言葉だ。彼女の写真論の基軸には「他者の苦痛へのまなざし」があるように思う。そしてこの基軸の言葉はそのまま次の写真論のタイトルにもなった。

彼女はこの「他者の苦痛へのまなざし」の中でセバスチャン・サルガドのある一枚の写真「集団移住者の群れ」に向けられた批判を肯定している。批判とは「スペクタクル的で映画的とされる美しい構成をもった大きな写真」を写したことで、個々の問題と悲惨さが無化され、かつ抽象化され、それらの問題解決に向かわないということにあった。
『現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している』
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
記号としての写真は、これも清水穣の言葉を借りるのであれば、表象がない指向対象(レフェラン)のみの特殊な記号である。例えば雲の写真は雲が写真にあるのではなく、雲の指向対象(レフェラン)が写っているということになる。それであれば、他者の苦痛が写っている写真のレフェランとは何になるのであろう。

原理的に他者の苦痛を僕らは知ることは出来ない。それでも人間の社会構造はいかなる文化であろうとも同一であるという立場から、僕らは他者の痛みがどの様なときに起こるのかを把握する。苦痛の原因・苦痛の表象・苦痛の内実、僕らにわかるのはそのうち原因と表象となるのだろう。アフリカでの苦痛の原因の多くを僕らは知っている。貧困・飢餓・紛争・破壊・病気・虐殺などなど。そしてそれらの原因と表情に現れる苦痛とで、その写真に写る人の痛みを感じることとなるのだ。つまり苦痛の対象指向とは、写真の誰それに向かうと同時に僕らにも向かうのである。
『震撼させる写真が衝撃の力を必ず失うとはかぎらない。だが理解するということにかけては写真はそれほど助けとならない。物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。』
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
つきまとうのは何か。それは僕らに向かうレフェランではなかろうか。仮に写真に写る不可視の何かが薄まったとしたとき、もしくはレフェランが弱い場合、その写真には何が現れるのだろう。無論、これらは可算名詞なのかと言った問いかけもあるとは思う。その点について僕には未だ分からない。ただサルガドの写真を説明する際、その言い方が適切のように僕には思えるのだ。

セバスチャン・サルガドが写した様々なアフリカの風景は美しい。砂漠を写した写真は何度見ても飽きない。10頭近くものシマウマが並んで池の水の飲む姿は、シマウマの模様が群れ全体で一つの調和をなし、それだけでも何らかのデザインとなっている。アフリカに住む人々の姿は躍動感に満ち、瞳は美しく、命の美しさを讃えているかのようだ。

そして内紛・紛争・虐殺に逃れた人々の難民キャンプの風景も美しい。ある写真では、兵士二人が砂丘に立ち、その足元には完全に腐乱し人間の原型をとどめていない死体が大の字になって倒れている。兵士の顔はその死体に驚くこともなく平然とした顔つきで立っている。その写真は不思議なことに嫌悪感を持つことがない。美しいのだ。兵士も、彼らが立つ風景も、そして無残に朽ち果てた死体も。

また別の写真では食料の配給を待つ女性が体を斜めにし顔をカメラに向けていた。彼女の目は不思議な模様を見せていた。説明文を読めば砂嵐と慢性の眼病で視力が失われているのだそうだ。しかし写真の構図とまっすぐにカメラを見つめるその姿は美しい。

セバスチャン・サルガドの写真はよく言われるように映画的である。それは僕らが美しいと感じる構図とコントラストによって構成されている。こうあるべきだという美しさのフレームワークに僕らは逃れることはできない。そしてそれは逆に僕らが望んでいる美しさでもある。美しい写真は、人間である限り同じ価値観を共有するという安心感を根拠無く与えるが、写真の衝撃とつきまとうものは殆ど無い。

スーザン・ソンタグの問題提議を無視することは難しい。ただサルガドへの写真評価に係わることは、批判する者も擁護する者も、両者の倫理観もしくは写真に係わる信念の対立とも言える。それらの闘争にどちらが勝っていると誰が言えるのだろう。

サルガドの写真にはレフェランの強さがない。もしくはレフェラン自体が欠けている。故に写されたものは、その写真に留まることになる。写された対象は写真の構図の中で留まり、よって対象とその構図からの美しさが全面に現れる。例えが悪いが、サルガドの写真は観光地の絵はがきに近い。しかもそれは廃刊となったリーダーズダイジェストなどに掲載される珍しくも美しい写真に近いかもしれない。

ただその観光地の絵はがきに数十万人の難民が生活するキャンプも写され、その中で暴動・殺戮が頻繁にある姿があったとしたら、見る者は美しいと同時に一種の違和感を感じることだろう。そういう種類の違和感が、サルガドの写真を見終わった後に残り続ける。それはまとわるといった種類ではないが記憶には残る。

確かに写された人々の個々の問題はサルガドの写真では無化するほかはない。それはサルガドの写真の本質に係わる部分だからだ。だからといってアフリカの現状を伝えていないというわけでもない。サルガドの写真は写真であることを抑えることで、逆にアフリカの状況を伝えているのだと僕には思える。

※写真は、「パガラウ放牧キャンプのディンカ族、南部スーダン、2006年」
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セバスチャン・サルガド アフリカ
生きとし生けるものの未来へ

東京写真美術館
■会 期:2009年10月24日(土)→12月13日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2階展示室
■料 金:一般 800(640)円/学生 700(560)円/中高生・65歳以上 600(480)円

2009/10/24

Windows7

昨夜Windows7をインストールした。会社から帰宅しすぐに始めた。

僕のPCはDELL製ノートブックで製品名はinspiron1520。DELLサイトを見るとこのノートはWindows7対象製品扱いではなかった。しかもOSはWindowsXP。ただこれを購入するときに、VISTAもしくはXPが選択可能になっていて、僕はXPを選んだのだから、当然にVISTA対応PCでもあると考えていた。VISTA対応PCであれば問題なくWindows7をインストールできるはずだ。あとはやってみて何か問題があればその都度対応すればよい。いつもの気楽なノリで始めたのである。

実を言えば、なぜか昨日は気持ちが穏やかではなかった。こういう時は1ヶ月のうち何日かある。イライラとする訳ではなく、ただ気持ちが定まらずに落ち着かないのだ。おそらく僕のそういう気持ちの状態を他の人は分かることはないだろう。僕だけが感じ、そして大抵は普段通りに動きながら、内心はじっとこの落ち着きのなさが通り過ぎるのを待つのだ。

昔、友人にそのことを話したら、それは男の月のものだと一笑にされた。冗談のつもりで彼は言ったのだろうが、僕はそれを信じている。生命が雌と雄に分化した際、雄は雌から造られた。生命にとっては子孫を産む機能を有する性の方が重要なのは当然なのだから、雄は言わば種を存続させるために雌から産まれたようなものだろう。逆に言えば、男性は女性の機能のほとんどを有している様に思う。子を産む以外は。だから、彼の冗談は僕にとっては冗談ではなく、その通りだと思ったのだった。

ただこれまでの過程の中で、社会的な役割分担の結果、些末な差異が男性と女性に現れているとも思っているが。

その落ち着きのない気持ちの状態の中でWindows7のインストールは行われた。
WindowsXPからのインストールはクリーンインストールとなる。つまり、PCの中のものは結果的にすべて消去することになる。だからまずはバックアップをとらなければならない。僕にとって重要なデータは、文書データ、音楽データ、そして写真のデータだ。そのうち文書データはネット上で常にバックアップはされている。さらに文章を書くのは、今ではほとんどがGoogleドキュメントなどのWebアプリを使っているから、バックアップする必要はない。メールデータも同じだ。写真データも同様にネットを含めて常にバックアップをしている。さらにソフト類もネットに繋がってさえいれば概ね復元は可能だ。

OSの再インストールをするときにはいつも思うのは、僕の個人情報はGoogleそのほかのサービスプロバイダーに握られていると言うことだ。その反面に僕は利便性を手に入れている。このモデルは今の社会に至るところにある。それが良いのか悪いのかはもう少し先に行かなければ分からないかもしれない。

ただデータの中で音楽データだけはその限りではない。僕は音楽の再生に
AppleのiTunesを使っている。音楽データだけで40GB近くある。そしてその殆どをiPodに入れている。容量が多いためネット上に置いておくことは全曲となれば難しい。だからこれに関してはきちんとバックアップしておかなければならない。そう、それに気がつけばの話だが。

ここまで読んでくださった方であれば、すでにおわかりのことだろう。音楽データの幾つかを僕は消去してしまったのだ。

Windows7へのインストールは思った以上に簡単で早かった。新規インストールのボタンを押下すれば、後は殆ど自動的に行われた。全く問題がなく僕はWindows7に移行することができた。
Windows7の操作性はXPと較べると全く違う。VISTAを使ったことがなかったので最初は戸惑ったが、それも1時間くらい触っていれば慣れた。早さもXPと較べて違和感がなかったから、VISTAと較べればだいぶ早いに違いない。

音楽データの幾つかを消去してしまったことに気がついたのは、Windows7になれ始めた頃だった。特に一番ショックだったのは、「マーティン・スコセッシのブルース全集」。これはあのTSUTAYAにも置いていないと思う。(単品では幾つか置いてあるとは思うが・・・)僕はこれを図書館で1年以上待って借りてきた。しかもこの全集はiPodにも容量の問題があり入れていなかった。

そしてもう一つ、これは蛇足だけど、いつも使っているネットサービス「NHKオンデマンド」もWindows7対応になったいなかった。人形劇「新・三銃士」をみることができない・・・

Windows7には今のところ満足している。XPと同等の速度があり、機能的にも洗練されているのであれば文句はないだろう。ただPCとは自分のやりたいことをするための道具だとすれば、いくら道具が優秀でも材料がなければやはりものは造れない。無論、Windows7の理由でも何でもなく、僕の問題だとは知っているが。

2009/10/20

Nikon Small World

神々の創造はミクロに宿る。猫の造形は既に遺伝子の中に宿っているし、その遺伝子は数十億年と言う生命の繋がりの中で形成してきたのだから。
つまり神の創造は生命誕生のその瞬間にあることになる。ただその瞬間は地球と言う銀河系辺境の惑星があればこその起点でもある。ゆえに神の御手はさらに遡る事が出来る。最終的には宇宙誕生の瞬間にこそ神の奇跡が行われたと言う事になるかも知れぬ。それであれば、宇宙誕生以前の無の中で神は一体何処におわしたのだろう。

ミクロの世界への旅はゆえに広大な宇宙への旅に似ている。そしてどちらもが人間の領域を離れる旅でもある。しかしその領域も一旦写真に収められれば状況は一変する。写真として撮られることで、その領域は人間の場所に変っていくのだ。写真は、いわば植民地主義の尖兵の役割を担っている。それはキリスト教伝播の際に神父を最初に送り込むのに似ている。

写真はどこが神父に似ているのだろう。宗教と科学という区分けはあまりにも陳腐かもしれない。中世と近代と言う歴史区分はあまりにも欧米的だとの謗りを受けるかもしれない。それに僕自身がこのような時代区分に組しないのもある。ただカメラ及び写真技術の誕生と発展は近代と密接に絡んでいるようにも思えるのも事実だ。

カメラと言う道具は単に化学・物理的反応を起こす箱に過ぎない。問題は写真そのものにある。例えば、写真史を認識論を中心にして眺めると一つの疑問が浮かんでくるのだ。「一体何故僕らは写真に写りこまれた画像を過去の事実として信じるに至ったのか」という素朴な疑問が。現代では、写真は聖書に変る新たな伝道の書として僕らの眼前に提示される。その点において写真と神父はそれほど変わることはない、と僕には思える。

Nikon Small World写真コンテスト2009年度の発表が先だって行われた。
顕微鏡写真は色鮮やかで美しく、造形も変化に富んでいる。おそらくミクロの世界は人間の時間より早く進んでいくのだろうか。毎年のコンテストで発表される一連の写真群はどれもが違う。僕らの領域が未だ太陽系を超えられないと同じように、ミクロの領域も当然のことながらあるのだろう。

ただ顕微鏡写真の技術面は年々その未知なる領域をも侵犯している。
Nikon Small Worldの一群の写真を見るとき、その美しさに息を呑むのだが、それでいて衝撃を受けるということでもない。既に僕らの眼は、日々生み出される無限とも思われる写真によって、新たな映像に対する感受性が鈍っているのかもしれない。

いやそうではない、と僕の感性は告げる。既にこれらの世界は見知った世界なのである。土星の衛星タイタンの写真を見たときも驚きは特になく、そこまでに人間が到達したのかと言う感慨しかなかった。タイタンの姿は想像を超えていたが、それでも僕らが信奉する物理学の枠を超えて存在しているわけではない。人間は対象をモデリングしイメージとして捉える。その中に、これらの一群の顕微鏡写真もあるのだと僕には思える。

無論、美しいし、見ることによって何らかのインスピレーションを得られるかもしれない。これらも我らの世界の一部に変わりはないのだから。

http://www.nikonsmallworld.com/

Kiss

a long long kiss
a youtuh of kiss
and love

長き熱きくちづけ
若き日のくちづけ
そして愛
(ランボー、堀口大學訳)

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あなたの柔らき唇
私の牧場
かすかに触れる
熱の吐息に震える心
命の芽生えにも似た
その息吹に
何故か昔を懐かしむ

紅きくちづけ
閉じられた眼差し
濃密な光
差し込むその中で
あなたの火照る耳たぶを
その熱さと共に
私の体内に
包み込む

私とあなたとは
137億年の彼方
今ここにいる不思議さに
意味も理由さえ
呼ぶ必要のない
その瞬間に
私は存在の危うさの中で
あなたを確かに
触れるのだ

永遠の如きくちづけ
想い出のくちづけ
そして愛
(ランボー、Takeru意訳)

アルチュール・ランボーは1854年10月20日に生まれる。今日は生誕155年目。この詩は中学のときに知りとても感動したことを覚えている。今となってはその感動も薄れてしまった。
ランボーの詩に影響を受けた日本の詩人と言えば中原中也。彼の有名な詩「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れちまった」とは「自意識の過剰云々」とは聞くが、具体的に言うと「嫉妬心」ではなかったのかと僕は密かに思ってる。

2009/10/13

感性についての拙いメモ

果たして僕の感性は年齢と共に衰えているのだろうか、と自問してみる。

答えは既に僕の中に用意されている。論理的には回答不能であり、問題にはならない問であるという結論だ。

人間はそれぞれに一回性の生を生きている。その人生の中であらゆる出来事は一回性の出来事である。仮に10年前と全く同じ出来事が今日起きたとしても、それぞれに一回性の出来事なのだから、その両者はその意味で違うことになる。

その違う出来事同士の比較は、感性を果たして比較可能かどうかは別として、表象される事象での比較にならざるを得ず、それは両者が違うことの証とはなりえるだろうが、価値評価までは難しいと思うのだ。

ただしかし、過去に抱いた感性の記憶が、現在のそれと比べ、衰えていると感じるのは、感じるその人にとっては実感でもある。その実感を否定することは僕にはさらに不可能なことと考える。
ちなみに僕の場合は、若いときの感性は素朴であった、だから素朴ゆえの強い説得力を持っていたかもしれない、ただそれは現在が衰えているということの証拠には繋がらない、程度には言えるとは思う。勿論、それは「そう思う」としか言えず、証明することは不能だと考えるし、これから先のことはわからない。

ただここで僕として注意しなければならないのは、年齢による衰えと言葉を綴った瞬間に既に一つの価値観で縛られていると言うことだ。衰えとは、おそらく現在では良いとはされていない。年齢による感覚の「衰え」の中に記憶力の「衰え」があるとしたとき、記憶力の衰えは記憶力が悪いという言葉に繋がる。言葉を正確に言えば、これらは「衰え」ではなく「変化」であろう。

言葉が内包する価値に反抗して物事を語ることは不可能に近い。仮にそれが出来たとしても、相手に伝わることがないのだから。言霊とはよく言ったものだ。象形文字から変化し、その組み合わせから成り立つ漢字を母体にした日本語表記は文字一つに様々な意味を持つ。明治以前は日本には5万語に及ぶ漢字が使われていたのだそうだ。その時代であれば、僕が伝えたいことを漢字で表すことができたかもしれない。勿論、漢字の量の多さでも難しいと直ぐに気が付くが・・・。

「感性」という言葉は西周が造った。つまりそれ以前には存在していない日本語だった。その他に「理性」「悟性」「主観」「客観」「意識」「現象」などなど、西洋から伝わった概念は何故か漢字二文字の熟語が多い。西周が造ったこれらの言葉には漢字文化圏を背景を持ちながら、そこにキリスト教的世界の価値観が挿入されている。おそらくこれらの言葉は、僕らが知らずのうちに使っているにせよ、それらから逃れることは難しいだろう。

話を元に戻す。感覚は人間の感覚諸器官からの刺激を受けて情報の取捨選択を行う機能を持っている。人間関係の中で、感覚が合う合わないは取捨選択する情報を表象することで実感することになる。感覚は実感を伴う。

肉体的な感覚機能が変化したとき、例えば視力が良かった人が、老眼により近くのものが見えづらくなったとき、その方の感覚はそれに応じて変化するのだろうか。正直に思うのは、影響を受けないはずはないということだ。ただ感性の違いを他者がわかることはないのではなかろうか。よってこの問は無意味なのかもしれない。

仮に、皮膚から突然に何も感じなくなった人がいたとする。痛いも寒いも感じないその方は、それでも痛い寒いがどのような状況で現れるのかを記憶している。よって他者とのコミュニケーションの中で、相手にそれを感じさせることなく対応することが可能となるし、おそらくその様に対応することだろう。

感性は感覚からの情報に価値判断を付与する。「美しい」「美味しい」「うまい」「良い」などの価値評価を下すことになる。おそらく感性は感覚を土台にするが、感覚と感性はそれぞれが独立しているようにも思う。例えば富士山を認識するが、それに対し「美しい」とかの価値判断を行えない人はいるかもしれない。ただ僕としてはその逆は無いと考えている。富士山を認識せずに「美しい」とは思えない。

感性の違いは価値判断の違いとなって現れる。これは人間関係の中で、特に価値観の相違となって現れるように思う。よく聞く「価値観が同じ人」というのは感性が似たような人と同義ではないだろうか。そしてその価値観は、生来から持つ動物的価値観と訓育から得る価値観との二つに分かれるように思う。勿論、ここで言うのは訓育で獲得する価値観のことである。

感性はその枠を広げることは可能だと僕は思う。広げるためには感覚への新たな刺激が必要となる。その際に、感覚として捨て去る刺激ではなく、逆に捨て去ろうとすることを防ぐ力が必要となるように思う。ただそれは感性だけでは難しいように考える。おそらく悟性が必要となるのだろう。悟性とは自分であり続ける意識のようなもののように今のところ思っている。意識との違いは視点の違いだけかもしれない。

感性が豊かなこと、感性の枠を広げること、それらは一概に良いと言うことではない。物事にはやはり一定のバランスが必要なのだ。無論、僕はバランスが必要なことを証明することはできない。ただ人間社会の中で、並外れた豊かな感性を持っている人と殆ど枠がないほどの感性の広がりを持っている人がいたとき、これらの人はおそらく社会から排除されるか自滅をしていくことだろう。

全てを肯定することも認めることもできるわけではないのだから。

2009/10/12

2009年10月11日、新宿

2009年10月11日の朝、目覚めたとき友人宅に行こうと思った。外は快晴、雲一つ無い青空が家の中でもわかる。手短に行く準備を済ませる。何も持たなくても良い、カメラさえあれば。朝食は途中の適当な場所で済まそう。まずは渋谷に行くのだ。

渋谷から大宮へ、そして新幹線を使い高崎に。頭の中でルートを確認する。時刻表を調べずとも行った先で一番速い電車を乗り継げばよい。今からだと11時前には目的地に付けるだろう。

大宮に着いたとき、念のため友人の携帯に電話する。友人が出る。久しぶりの声だ。
「久しぶり、元気か。今大宮だ。これからそっちに行こうと思う。大丈夫か」
一瞬電話の先で声が詰まるのがわかる。嫌な予感だ。
「悪い、今家じゃないんだ。仕事でちょっと出ている。悪いな」
「そっか、気にしないでくれ、いきなりだっったこっちが悪いんだ。またな」

こうなると大宮に留まる理由がない。上野まで行くか。上野周辺で写真でも撮るか。予定を切り替えるのもこうなると早い。そして丁度来た上り電車に飛び乗る。しかしどうやら、今日の僕の運勢は予定通りに事が運ばないようだ。乗った電車は上野行きではなく、神奈川方面行きだった。それに気がついたのは、電車が池袋に止まったからだった。それまでは全くわからなかった。しょうがない、それじゃあ新宿にでも行こう。

予定通りに行かなければ、こちらから失敗を予定とすればよい。単純なことだ。それに新宿も久しぶりだ。歌舞伎町から新大久保・大久保あたりを歩こう。それはそれでワクワクする計画であった。

僕が住んでいる場所からすれば新宿は近いながらも殆ど行く必要がない場所だった。だいたいが渋谷で用が足りたのだった。それでも学生時代から、映画その他で年に数回は新宿に来てはいた。ただ歌舞伎町付近には足を向けることはなかった。足を向けなかったのは特段の理由はない。例えば物騒だとか、そう言う理由は全く考えなかった。たまたま行く機会が無かっただけのことだ。

歌舞伎町および新大久保周辺に行き始めたのは社会に出た後のことだ。仕事に疲れたとき、新宿は僕にとって疲れを癒す場所であった。飲んで憂さを晴らす場所という意味ではない。もしくは風俗と言うわけでもない。ただ、新宿には発散し収まる場所を知らずに渦を巻く欲望の気がそこあそこにあったように感じたし、その中にいることで、その中をただ歩き回るだけで、僕は何故か癒されたのだった。

その当時は、少なからず新宿から新大久保までを歩き、そして様々な人を見てきた。そこにはおそらく日本にいるあらゆる種類の人が濃密で圧縮された空間にいるような印象を持った。大久保周辺では街に立つ女性は区画毎に国籍が違っていた。道を曲がるたびに、ロシア語・スペイン語・英語・韓国語・中国語などなど、が飛び交い。そして歩く男の腕を引っ張っていた。

何度か殴り合いも見たし、危険な状況にも遭遇した。ただ僕のような見るからにサラリーマンにはこちらから向かわない限り、相手も無視していた。彼らにとっては大事なお客さんでもあるのだ。

久しぶりの新宿を歩き僕はそんな昔のことを思い出していた。その当時と今とを比べると、再開発もしくは色々な法律の施行により、すっかりと当時の面影が無くなっていた。無くなるというのは、見えなくなったと言うことと同義でもある。通りはゴミもなく綺麗で人は行儀良く歩いている。歌舞伎町と大久保の真ん中にある公園では子供達がバスケットで遊んでいた。化粧の濃い女達が通り過ぎるが、今の目線で見れば彼女たちも普通に見える。

昼の歌舞伎町・大久保はどちらかというと観光地でもあるようだ。行き交う人はカメラを携え、方々で写真を撮っていた。カメラを持っているのは僕と同じだが、旅行者はすぐにわかる、彼らはだいたいが男女二人連れで、そのうちの一人だけが写真を撮っているのだ。

元新宿コマ劇場前の広場で歌舞伎町祭りが開催されていた。舞台では女性が歌っていた。歌い終わると自分の芸名を連呼していたが、聞く段から忘れてしまった。舞台前では50人くらいの人が椅子に座っておとなしく歌を聞いていたが、殆どが年配者だった。周囲には椅子に座らずに地べたに座り舞台を眺めている男達がいた。会話も少なく、昼間だというのに、彼らは眠たそうな眼をしていた。

それ以上に気がついたのは巡視している警官の多さだった。至る所で警官が歩いていた。見上げると監視カメラが方々に設置されている。通りは広く、そして昼間と言うことだけでなく明るい。

大久保周辺はコリアタウンとしてすっかり観光地化していた。韓流の品々を売る店では女性達が列をなして並んでいた。少し路地を入ると、そこには韓国料理の店が並び、それなりに人が入っていた。

初めて大久保に来たとき、僕はその街に多くの韓国人が住んでいるとは知らなかった。そこにキムチ専門店があると人から聞いてやってきたのだ。その当時はコリアタウンという名称もついていなかったように思う。普通のどこにでもあるような街だった記憶がある。

僕が大久保の韓国人社会の事を知ったのは、一人の女性と知り合ってのことだ。彼女とはたまたま渋谷の書店で知り合った。日本の勉強ということで書籍を探しているのを手伝ったのだ。それが縁で僕らは時々会うようになった。無論、単に友人としての関係だった。彼女は韓国で舞台俳優の経験を持ち、また若いながら青年実業家として雑誌に紹介されるほどでもあった。しかし事業に失敗し、逃れるように日本にやってきたのだった。

たいていに連絡をよこすのは彼女の方からだった。僕はその都度彼女の家に行き、そこで色々な話をした。そしてそこで大久保の韓国人社会の話を聞いたのだった。数十人で集まり、月々一定のお金を集め、お金が必要な人がそれを使い、後で返済するような仕組みを、横の繋がりの中で行っていることも知った。また金貸しもいて、取り立ては日本のそれよりも厳しく、決まった時期に払わないと売られてしまうことになるとも聞いた。さすがに人身売買の話が出ると無茶な話だと思ったが、それがその当時の、もしくは今でも、日本で生活する外国籍女性の現実でもあるようだ。

野心的な彼女は日本で事業を興すために風俗で働いていた。最初の事業はだからか風俗店の経営だった。しかし店員である女性との金銭問題でつぶれてしまう。その次は韓国バーの経営だった。その際は東京を離れ地方での事業だったが人が集まらず数ヶ月で店をたたむことになる。二度の挫折と、その度ごとの身を売る仕事。そして彼女は再起を果たすこともなく韓国に帰国していった。

彼女の人柄を僕はどう語るべきか。最初から最後まで僕らは友人だった。そして僕は会話の中で、彼女から人間について色々なことを教わった。彼女は凛として気品があり聡明で美しかった。時としてその気位は、共に仕事をする女性から見ると嫌気がさしたかもしれない。そのくらい彼女は自尊心が強かった。常に率直な意見を言い、僕の意見に誤りがあるときは容赦がなかった。しかしそれでいて友人を気遣う気持ちを忘れることも無かった。だから僕は友人として彼女を尊敬していたし、それは今でも変わらない。

時々思うことがある。一般的な意見として、男性と女性が付き合うとき、女性は上書きするが、男性は常に以前の女性を覚えているのだそうだ。そうであれば、ある女性がその時にその場所にいたという事実とその女性の物語を語るのは男性の役目なのかもしれない。韓国籍の彼女と僕は完全に友人同士ではあったが、彼女の物語を僕は忘れることはない。

2009年10月11日の大久保での徘徊は、写真を撮るのも忘れ、そう言う記憶の中で行われた。

それから僕は再び新宿に戻った。そして思い出横丁で写真を撮る。新宿再開発の嵐の中で、この思い出横丁は取り残された空間のように写るが、しかしそれはそうではないことにすぐに気がつく。路地の真上に通された電線・ライト・監視カメラの配管は、そうすることで生き残りをかけた横丁の意志が現れているかのようだ。つまり横丁は以前の横丁ではなく、他の開発された新宿の地域と同じく、テーマパーク化されているのである。

開発は常に以前の街のコミュニティを破壊することで行われている。街のコミュニティを破壊するか、もしくは残すことで時代の流れの中で朽ち果てるか、現在ではその二者択一しか残されていないかのようだ。その別の解としてテーマパーク化があるとしたら、それはそれで良いのかもしれない。

僕のその語りが野暮なことは知っている。新宿の街を訪れる人たちはそんなことは百も承知の話なのだ。あえて言うことの無意味さと素朴さに我ながら嫌気がさすが、それも久しぶりの新宿に来たことで表面化した感傷なのだろう。

2009/10/06

SAICO「mother」を聴いて曝け出す謎を思う

2005年のSAICO「CEREAL」を2009年に聞き始める。90年代、僕の音楽に鈴木彩子は欠かすことができない存在だった。再起不能と言われるほどの大事故、そしてリハビリ、再起後のCD発表後にメジャーから姿を消す。そして復活して最初のCDである「CEREAL」を2009年に僕は聞いている。

WikipediaでSAICOを調べると以下のように説明がなされている。

『SAICOの特徴として、自らの個人的な生い立ちや体験を積極的に歌詞の中に織り込むことがある。歌詞だけではなく、ラジオのトークなどでも紹介される。非常に重いエピソードもあるが、それをも曝け出すことで支持を得ていることも事実である。』(Wikipedia SAICOより)

「CEREAL」の曲の一つである「mother」では父親の焼身自殺未遂と愛人通いそして両親の離婚が綴られている。それだけを聞けば確かにWikipediaに書かれていることが事実の様に聞こえる。

『パパとママが愛し合い抱き合って産まれてきたの
だけどいつからか二人寄り添うことはなかったの
川辺で焼身自殺をはかった父は今も
生まれ変わらずに愛人にへばりついているみたい
それでいいよ、すきにしてよ』
(SAICO 「mother」より)

「曝け出すこと(さらけだす)」とは、辞書によれば、「おもてに表れていなかった物事を、隠すところなく出す」行為だという。例えば言わなければ分らなかったことを語ることとか、服で包まれた裸体を他人に見せることとか、そういうことを言うのだろう。

でも程度により「曝け出す」とは言われないこともある。昨日の夕食に何を食べたかを語ることを曝け出すとは通常は言わない。腕に傷を作り絆創膏を貼ったのを、袖をまくり見えてしまうときも同様だろう。「曝け出す」と言われる場合と言われない場合がある。その線引きは言葉として明瞭であるかと言えば、僕らは言葉を濁す。ただ僕らは何故か、多少のグレーゾーンはあるが、それらを知っている。

SAICOの作詞において僕が感じるのは彼女の誠実さである。彼女が暴露趣味があるとか、そういうことではなく、作詞をする際に何故を繰り返すことで帰着する自然な結果だと僕には思える。特に内省的な作詞が多ければ、その作詞を行う契機を振り返り、その大元を辿る結果として「曝け出す」ことになるのだろう。

アーティストの多くはそう言う人たちなのではないだろうか。そして、音楽も文学も絵画も、その視点で言えば、自らの何かを曝け出している結果と言えないだろうか。しかも彼らは「曝け出すこと」を目的にしているわけでは決してない。そのように評価しているのは僕ら観客の様に思える。

「曝け出す」とは彼女の曲を聞く側からの感覚のように思う。何もそこまで書かなくてもという感覚もそれはそれで通常だろうとは思う。しかし、おそらく彼女にとってはそうではなく、そこまで書かなくては見えてこない世界があって、それを現したいように思えるのだ。そして、そうさせるのは彼女のアーティストとしての誠実さであると僕は思う。

詩人は作詞の際に読者を想定せず、音楽家は作曲の際に聴衆を考慮せず、画家は絵を描く際に観客を考えない。彼らはおそらく他者を喜ばせるために創作してはいない。SAICOは5年ぶりのCDを出す際に良いものを造ろうと思ったはずだ。もしくはそれも考えなかったのかもしれない。良いものとは、それは自分の中にある。決して他者にあるわけではない。自分の中にある良いものを追求すること、そして表現すること、それに集中すること、それのみが彼女が思っていたことのように僕は思う。

SAICOの曲を聴いたとき、作詞に曝け出したSAICOの姿を見たとき、その姿を見たものはSAICOの何を見ることになるのだろう。「曝け出す」ことの線引きは、おそらく「曝け出された」ものの衝撃の大きさによって決まるのだろう。では衝撃が大きければ、「曝け出された」ものが多ければ、「曝け出された」分、それを見る者・聞く者・読む者全ての者たちはSAICOのことが解るのだろうか。

米国の写真家ダイアン・アーバスは生前こんなことを語っている。
「写真とは、秘密についての秘密である。写真が多くを語るほど、それによって知りうることは少なくなる」

例えば、彼が、彼女が裸になれば、僕は、あなたは彼を、彼女を知ったと言えるのであろうか。彼と、彼女とSEXをしたとき、僕は、あなたは、彼を、彼女を全て知り得たと思うのであろうか。多くを語るものは、多くの謎を聞くものに与えるように僕には思える。謎とは、何も情報がないことだけではない。情報過多のときにこそ謎は発生するのだとも思える。

愛している彼女を、彼を抱いたとき、そこから全く新たな謎が産まれるのだ。辿り着こうとしても辿り着けない先にあなたがいる。僕はSAICOの歌を聴くときそれを感じる。それを人はなんて言うのだろう。その状況下で愛は私とあなたをつなげることができるのだろうか。

曝け出すことで、観客はわかったという幻想を得ることになる。衝撃が大きければ大きいほど、その衝撃しか見えていないのにも係わらず、何かを得たと思うのだ。しかしそれだけでは長く彼女の歌を欲する者たちがいることの理由にはならない。曝け出すことで支持を得ているとは、いわば初動的な要素でしかない。彼女が5年のブランクの後復活したときに、それを待っていたファンの多さが、それだけでないことを証明している。

2009/10/05

だらだらと書く今日(2009/10/4)の日記

昨夜はどうも知らないうちに眠ってしまったようだ。気がついたら朝の七時。窓の外は今日の天気が良いことを示すかのように青空が見える。しばらく布団の上に座りボケーとする。どうも僕は起きてすぐに行動がとれないタイプのようだ。昔は低血圧だからと言い訳にしていたが、最近高血圧気味であることを知ってから使えなくなった(笑)。

しばらくパソコンで昨日撮った写真を整理した。朝食を摂り、パソコンで作業をし、ちょっと本でも読んでいたら、気がついたらお昼になっていた。休みの日は何でこんなに時間が経つのが早いのだろう。毎週思うこの感覚。昼食を摂り、それからさっきまで読んでいた本をまた読み返す。横になって読んだためかいつの間にか寝てしまっていた。そして気がついたら夕方の4時。

一瞬理由もなく慌てる。慌てながら何を慌てているのだと考えると可笑しくなった。ちょっと出かけるかと思い立ったのは、理由もなく慌てる気持ちがそうさせたのかもしれない。かといって今の時間から遠くに行けるわけもなく、ただ単に読書をするために近くのファーストフードに行こうと思っただけのことではあるが。

そこで1時間半くらい音楽を聴きながら読書に没頭する。それはそれでとても楽しい時間だった。表に出るとあたりはすっかり夜になっていた。さぁ帰ろうとしばらく歩く。そして昨夜見ることができなかった月を見ることができた。月につられて僕は少し公園でも歩こうと思った。

僕の右目は2年ほど前に眼底出血で三分の一くらい霞がかかっていて見えづらい。そのうえに両目とも近眼で強度の乱視でもある。その僕の目からはお月様は何重にも重なって見える。3つか4つのお月様が重なり、一つの大きな月となって見えることもある。また幾つもの月からの明かりは思いのほか強い。

この右目のせいで僕は幾つもの機械が右目専用であることを知った。例えばカメラは右目用に作られていると思う。右目でファインダーを覗き左目で対象物を見る。だから最初カメラのファインダーを左目で覗くことに慣れるのに少々時間がかかった。でも良いこともある。僕の目から見る世界はとても美しいのだ。

この目のおかげで以前より周りが美しいと感じることが多くなったように思うが、これは歳のせいもあるかもしれない。

ただ美しさというのは一つの価値観でもある様に思う。そして僕らはそれを幼い頃からの訓育で獲得してきた。だから時代というか社会と共に美しさの基準が変わるのもあることだろう。

ただ、この夜空に浮かぶ月の美しさを感じる心は、この惑星に生きる人間への神様から与えられた贈り物のように僕には思える。地球上で、どこかの地域で、この月を汚いと思う人たちはいるのだろうか。などとそんなことを考える。おそらくそういう人たちは、僕と同じ価値観を共有することは難しいことだろう。

無論、この価値観を押し広げ一歩間違えれば、とんでもない価値観が表れることかもしれない。それに月を汚いと感じる人の心も、もしそういう感覚を持っている人がいたとしても、それはそれで人間の感覚であることには間違いはない。

公園にヒマラヤスギが林立する場所がある。そこでヒマラヤスギの枝の隙間から月を眺める。

近くには硬式野球場がありライトが付いている。その明かりに照らされ、周辺はコントラストが強く明暗がくっきりと分かれる。何人もの人がジョギングで走り抜けてゆく。そしてその頭上には、濃い群青色をさらに深みを増した夜空に月が浮かぶ。

しばらく走る人と同じ方向に歩く。少し歩くとそこには公園の中央階段があって、何人もの人が会談に座り話をしている。そこには野球場のライトから離れ、夜の丁度良い暗さとなって落ち着きがでている。人はそう言う場所で何を話すのだろう。もしくは恋人同士、言葉少なげに夜のこの雰囲気を楽しんでいるのかもしれない。

時計を見ると7時を少し回っているようだ。公園の間を抜ける都道の上にかかる橋を渡る。何枚か写真を撮る。手ぶれを防ぐために橋の欄干にカメラを置いて固定してシャッターを押す。ありふれた風景の一枚が僕は好きだ。何事もないどこにでもある日常の一枚。それはたぶん他の人から見るとつまらぬ写真だろう。でもそれを撮した人にとってはどれもが大袈裟に言えば特別なものだと思う。

そう言えば秋の月が何故良いのか、テレビで検証していた番組を見た。夏の月は高度が高く見るためには上を見上げなくてはならない。冬の月は低すぎて樹木とか建物に隠れる。春の月はもやではっきりとは見えない。秋の月が高度も適当で空気も澄んでいるために良い月見ができる。とか言っていた。なるほどなと妙に納得した。実際に今夜の月を眺めると、確かに首を上に傾けるまでもなく視界に入っている。

そんな感じで僕は公園をだらだらと歩いた。まだ公園には人が多く、しかし夜の闇のせいか、その多さを感じることも少なかった。そういう夜だからこそ、人は思い思いの自分の姿で、気持ちで、そこにいることができる。それを夜の優しさと思うか怖さと思うかは人それぞれだろう。

2009/09/26

映画「毛皮のエロス」感想ではなく迷宮で彷徨った記録

映画「毛皮のエロス」(2006年)をDVDで観たのだがどうもしっくりと来ない。「毛皮のエロス」はダイアン・アーバスをモデルにしたフィクションだと映画の冒頭で語っている。でもダイアン・アーバスが名前だけではなく、主人公の生い立ちまで参考にしている以上、現実のアーバスと重ね合わせてしまうのは無理からぬ話だろう。

「毛皮のエロス」は簡単に言えば、夫に従うだけの主婦が芸術家へと目覚めていく過程を描いた映画のように思う。アーバスが芸術家へと目覚めたことは、映画冒頭でのシーンと映画最後のシーンとを状況的に同じにし、それへの対応の仕方が違うことで明らかにしている。そしてその差異がしっくりとこないのだ。

主人公であるダイアン・アーバスを演じているのはニコール・キッドマン。彼女の演技力と美しさには毎度のことながら眼を見張るものがある。
映画の中で彼女はダイアン・アーバスを演じきっていた。しかしそれは僕がイメージするところの現実のアーバス個人では勿論無い。でもそれはそれで一向に構わない。映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよいと思う。

このしっくりこなさは、映画と実際のアーバスを較べてしまうことに発するにせよ、観客に共感を得やすいように、アーバスが変っているのは彼女が芸術家だからだ、といういわばステレオタイプに包括させてしまっていることにある。また、ダイアン・アーバスが写真家であり、カメラ及び写真がアーバスに与えた重みも全く描かれてはいない。

「カメラは道具であり、写真は単に表現者が選んだ素材にしかすぎない」
、という、おそらく一般に浸透するこの考えは確かなことなのだろうか。
でも実際のアーバスは違っていた。彼女はカメラを特別な機械と考えていたし、写真に写るものの中にこそ、自分が現したいことがあると考えていたと思える。アーバスをモデルにする場合、少なくとも、この視点を外すことは出来ないと僕は思うのだ。

映画に現れる数々の映像と言葉はこの映画のメッセージを露骨と言えるほど声高に語る。例えば、原題「fur」は毛皮を意味する、アーバスは高級毛皮商人の子供、映画の冒頭の毛皮ファッションショー、熊と呼ばれた多毛症の男性、その全身長毛に覆われた男の毛を剃るシーン、毛を剃ると現れる気品ある男性の顔、ヌーディストキャンプでの撮影時に言われる「服を脱げば撮影可能です」の言葉、などなど。

芸術家とは自分自身の欲望の発露に忠実であること、そのために内側からくる情熱を受け入れ開放すること、その当時に好奇の眼に晒された人々こそ貴族的であること、など上記の映像から受けるメッセージは現代においては受け入れやすい。

映画は観客のことを考えなくてはならない。だからこそ、観客に受け入れやすいように、様々な操作が行われる。これも僕らにとっては何を今更と言う話だろう。それによって、実際のアーバスとの乖離は修復不可能となる。僕は二人のアーバス、この映画のアーバスと僕が知りえたアーバスの間で揺れる。ただ勝者はほぼ決まっているのだ。

結論から言えば、この映画でダイアン・アーバスをモデルにするフィクションであれば、設定を大幅にかえるべきである。また、ダイアン・アーバスの名前さえ使わないほうが良かった。アーバスを多少知る者がこの映画を観たとき、混乱を与え映画を楽しめることが適わなくなる。

・・・・・・・

OK!! 僕の進め方はフェアじゃないのを認めよう。確かに僕はアーバスを、僕なりのイメージとして持っている。アーバスの生い立ちを含めた記録も知っている。そこから映画へ逆にたどり評価するのはアンフェアなのを認める。その行為は、「映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよい」という自分の考えにも反するのも認める。

このカルト的な映画は、映画だけでなく観客との相互作用により何かを創造するべく組み立てられているように思う。この映画を観る人は多少のアーバスの知識を持ち合わせていることだろう。アーバスのことを知らずにこの映画を観る人はある意味幸福なのだ。その人は葛藤を知らずにこの映画に没頭できる。

実際のアーバスは語る。映像は虚構で写真は現実だと。ここでアーバスの言葉を引き出すことはルール違反なのは分かる。ただこの映画の姿を知るためには必要不可欠な言葉だと僕には思える。
文脈を提示せずに言葉のみ提示するのもフェアではない。僕が受けるアーバスのこの言葉は、補助線をつけることで分かりやすい。

「映像は虚構のように見え、写真は現実のように見える」

この映画は、映画冒頭で語るようにフィクションである。だから僕が考え書いていること自体、殆ど意味はないかもしれない。ただ僕はこの映画を通じて、あらためてアーバスを見直しているのも事実なのだ。そしてそれは、この文章がそうであるように、新たな迷宮へ歩むことだと僕は感じている。

それにこの映画の制作者は実際のアーバスのこの言葉を当然に知っているはずだ。だからこそ、あえてアーバスをモデルとしたフィクションを製作したのだと思う。それを根底にすることで、僕はこの映画の意図・姿を、おぼろげながら、言葉として伝えられないが、垣間見れるように思う。

垣間見れるのは、アーバスにおけるブレなのだ。逸話は殆どフィクションであるが、人としてのアーバスとは微妙に重なるのである。アーバスの逸話を全て載せるのは不可能だ。だからこそ、その象徴として多毛症の男性を登場させる。幾重にも張られた伏線は、映像を飛び出し、実際のアーバスとも絡まるようになる。逆に言えば、写真では全く見えないアーバスを、映画の虚構に取り込み、虚構の中で虚構と宣言し、実際にはない多毛症の男との絡みのなかで、アーバスの現実をあぶり出しているようにも思える。

虚構と現実の両方のアーバスを観客の中で化学反応させることで、よりアーバスという人間を知ることが出来る。それを目的とした映画のように僕には思える。

2009/09/21

敬老の日に思うこと、そして再びゴーギャン

以前にある女性から「歳をとりすぎて生きるのは悲しいことだ」という趣旨の言葉を聞いたことがある。その女性は僕の親戚の一人で、夫を亡くしてから年老い体が不自由になった義母の面倒を見ていた。僕は彼女の現状とか経緯を知っていたので、その彼女の言葉の持つ意味を理解したし、それについて何も言うことは出来なかった。しかし、もう一つの面では彼女のその言葉に対し、「そうではないんだ」と言いたい気持ちも同時にあった。

僕は彼女の言葉についてここで語ろうとは思わない。問題なのは、僕が彼女の語ることに同意したことと、同時にそうではないと思ったことにある。この二つが僕の心の中に同じくらいの重みを持ってあることが、僕にとっての問題だと思うのだ。さらに言えば、僕の心の中の二面性は、大げさに言えばこの国の問題でもあると思う。

敬老の日は祝日法では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」とされている。地域によっては一定の年齢の方にお祝いをされている所もあるだろう。またはご家庭でお祝いをされる場合もあるだろう。長寿を祝う気持ちは自然な感情だと僕には思える。その反面で、高齢化は少子と結びつき、医療費や介護や、はたまた年金保険問題などにも絡み、あまりよい文脈で語られることがない。

日本は、特に女性の場合は、長年平均寿命は世界一を保ち続けている。新聞などでそれが記事になったとき、大方のニュースキャスターは「おめでたい事」ではなく「高齢化社会」の文脈で語る。世界に誇るべき事だと思うのだが、何故か社会は白けているように見受けられるのは、僕のうがった見方なのだろうか。

ゴーギャン展でのあの絵の感想を既に2回ほど書いてきた。でも未だ書いていないこともある。あの絵「我々はどこから来たのか~」は、美術展の説明に寄れば三つの構成によって分けられている。絵の右側から女性二人の部分までが「我々はどこから来たのか」、中央のイヴ付近が「我々は何者か」、そして左側が「我々はどこに行くのか」となっている。

僕がこの絵の中で一番に不明な点が「我々はどこに行くのか」の部分である。それはゴーギャンの絵の全体にも言えることなのかもしれないが、彼の絵にお年寄りは描かれているのは少ない。しかも、あの絵に関して言えば、お年寄りは「我々はどこに行くのか」の部分の左端に死のイメージで描かれているのみである。

左端に描かれた老婆は、ペルーのミイラの姿を模して描かれている。それはゴーギャンが死のイメージとして他の絵にも描いているモチーフでもある。それは勿論、お年寄りイコール死、という短絡的なものではないとは思う。一つの象徴的な記号なのだろう。それでも、その記号に老婆を使い、その他にはお年寄りは登場しないのも事実である。

僕は思うのだが、僕らはあの絵のタイトルとゴーギャンというブランドと、そしてそのゴーギャンが遺書の代わりに描いたという背景によって、騙されているところもあるのではないだろうか。何を騙すというのか。それはあの絵のタイトルに示された問いかけの答えがそこにあるのではないかという思いだ。無論、それはゴーギャンの責任ではない。そしてあの絵が素晴らしいことに何の異論も持ってはいない。

ただ一つそのことで僕が思うのは、ゴーギャンの死生観でもある「我々はどこに行くのか」の部分は、あまりにも思想的に底が浅すぎるのではないかということだ。
そこには「歳月が重なるにつれて、人生は私にとっていっそう豊かな、好ましい、神秘に満ちたものと感じられてくる」という考え方は微塵もない。

これは想像でしかないが、仮にゴーギャンが55歳で死ぬことはなく80歳を越えて生きたとき、おそらくゴーギャンはあの絵を再度描き直すように僕には思える。あの絵は、素晴らしい絵なのだが、それでも49歳のゴーギャンの考えでもあるのは事実だと思うのだ。ただ、その時点でのゴーギャンの身に降りかかったことを考えれば、それはそれであの絵が描かれたのは一つの奇跡でもあるだろう。だからこそ、80歳のゴーギャンがまた新たな奇跡を持ってあの絵を書き直したとき、どのような世界があの絵に宿るのかが知りたいと思うのだ。それが叶わぬ夢であるとしても。

2009/09/07

9.11と写真

評論家であり翻訳家でもある近藤耕人は、「今日あらためて写真を論じようとすれば、01.9.11のテレビ映像から出発しないわけにはいかない」と語る。
その理由として、ある編集者が 知人の電話でWTCから煙が上がっていると聞かされるが信じられない、そしてテレビのスイッチを入れ映像を見て初めて現実となったエピソードをあげている。

「映像が現実認識に取って代わったという事態が、人間の現実感の喪失と転位を含意しており・・・」

確かに9.11は21世紀で語られるニュースの先頭を飾る。僕もその時、家のテレビに釘付けになりその映像を見続けた。家人は横に座り僕と一緒にテレビを見ていた。

誰もが思うように僕もこれから何かが変わると思った。隣の彼女は疑いを持った眼差しで映像を見ていた。そして僕に言った。

「これって本当の出来事なの?」

「もちろんだよ。疑う必然性は何処にもないよ」

あれから8年経ち、毎年9.11がきて、過去の映像をどこかのニュース番組で流すたびに、彼女から同じ質問が繰り返される。

「これって本当の出来事なの?」

9.11以降の世界に幾つもの争いが起きたように、家にも様々な出来事が起きた。
それは「テロへの戦い」という名の覇権・利権争いの一方に日本が組み込まれざるを得ない状況の中で、争いから来る悲惨さのどれ一つとっても我々に関係ないことはないという事への、いわばさざ波のような余波が家を襲っていたのかもしれない。

今から思えば、仕事をコントロールしているようで実は流され、愛すべき人達を守ろうと逆に傷つけていた。それは何処にもある極めて平凡な一つの時代でもあった。

9.11から世界は変わったわけではなく、仮に変わったとしても、それは9.11が変化し続ける人間社会の中で大きな変化に至る過渡期の一つの現象でしかないと今の僕は思う。
変わると認識した僕も含めた多くの人達は、何かが起きるという潜在した意識を9.11の出来事で解放しただけなのだ。

冒頭の近藤耕人の言葉は次への続く。
「その錯誤のために、過去160年にわたって人間の現実感覚を深め、研ぎ澄ましてきた写真が、ついに自ら墓穴を掘って墜落したのである。」

彼の言うところの「人間の現実感覚」とは一体何を示すのか僕には正直わからない。ただ、「写真が現実を撮してきたのか」と言う問いに対しては、「現実とは何か」という問いと共に相殺される問いだと僕には思える。それを「人間の現実感覚」の根底においてあるのなら、その言葉自体が無意味に陥りかねない。

カメラは、写真は、常に僕らの現実とは無関係に存在している。さらに、写真が写っている「何か」に僕らにとっての現実を見たとしても、その写っている「何か」を指し示す「何か」は、僕らにとって経験がなければ、単に表象でしかない。僕らにとっての現実とは、そこに痛みを伴う内実そのものなのだ、と僕は思う。

9.11以降多くの内紛、虐殺、紛争、戦争があった。それらは映像として僕らの前に提示されたものもあったが、殆どは隠された。しかし隠されてもなお、それらは僕らの日常を写す幾多の表象の中に姿を変えて現れる。そして僕はそれらに囲まれて軽い苛立ちを覚えるのだ。

今年もまた9.11がまた巡ってくる。人類がその歩みを止めない限り、時間は止まることは無い、9.11が追憶の彼方に消え去ったとしても、名前を変えてそれは現れることだろう。

今年もまたニューヨークの空に巨大な二本の光の柱が登場するのだろうか。そしてそれを美しく写真に収める人もいるのだろうか。写真はどのような情景も美しくさせる力がある。光の二本の柱は、夜空を確かに美しく、9.11とそれ以降の悲惨を感傷的に彩ることだろう。

8年の年月は僕に何をもたらせたのか。営みの中で僕が感じ確信として得てきたものは何だったのか。おそらくそれは家人のこの言葉に集約されている。

「これって本当の出来事なの?」と。

2009/09/04

映画「窯焚-KAMATAKI-」の長い感想

正直に言えば、映画「窯焚-KAMATAKI-」(2008年日本公開)の事をどこまで書こうかと迷っている。思っていることをそのまま書けばよいのだろう。普段であれば臆面もなくそうしている事が、今回は出来ないでいる。おそらくそのこと自体が、この映画への最大の感想ともいえるかもしれない。

「自殺未遂をした日系カナダ人のケン(マット・スマイリー)は、死亡した父の兄の住む滋賀県信楽へと降り立つ。彼は叔父で陶芸家の琢磨(藤竜也)にも心を開こうとせず、初めは女性に奔放な琢磨に嫌悪感を抱いていた。しかし、琢磨の作品を見つめ、窯焚の10日間をともに過ごすうちに、その人間的な魅力に心を開いていく。(Yahoo!映画より) 」

映画「窯焚-KAMATAKI-」の公式サイトには映画の予備知識として「窯焚」の説明が載っていた。
「劇中使用される穴窯(あながま)は日本最古の窯として広く使用された窯のひとつである。(中略)この工程上、作品は生地(素焼きをしていない作品)のまま窯に詰められる。窯焚き中、燃えた薪から生じた灰が炎によって窯中に行き渡る。そして温度が高温になり炎の色が赤色から白色に変じる頃、生地が溶け、作品に粘り気ができ、それに灰が付着し溶けて自然釉となる。このような状態になるには、かなりの温度ーおよそ1300度以上ーを保つことが必要になるため、通常穴窯での窯焚は8~10日間もの日数を費やし、その期間は日夜約7~8分ごとに薪をいれる。」
性的暗喩が散りばめられたこの映画で「窯」が何を象徴しているのかをイメージするのは容易い。ただそれだけでもない。そして主人公であるケン(マット・スマイリー)が自殺未遂者として登場するにも理由がある。ケンの叔父である琢磨(藤竜也)は映画の中程で彼に向かって語る。
「健康な者は飛び降りようなどとは考えない、健康じゃない者はSEXしたいとは思わない」
琢磨の言葉には、人間の三つの状態、「健康」「健康でない状態:病気」「死」が描かれている。病気「飛び降りると言うこと」によって死につながり、「SEX」は健康な状態を表している。琢磨はこの言葉を気の利いた冗句の様にケンに向かって語る。しかし琢磨の行動自体は、特に女性に対する積極性は、この言葉を裏付けているように描かれる。

無論僕にとっては容認しがたい言葉だ。健康な者と病人の境界が明瞭だとは思わないし、病気の状態でのSEXも日常にありふれていると思うからだ。おそらくケンにとっても、違う意味で同様だったのだろう。彼は琢磨に反発する。琢磨の言葉はケンの心を揺さぶるし、別面ではそれが目的の言葉だったのかもしれない。つまりは無茶な言葉であることは琢磨も承知の話だったと僕には思えるのだ。

映画の最後に琢磨はケンに、もう自殺は考えないだろう、という趣旨の言葉をかける。それを聞いてケンはうなずく。この映画はケンを通して、病気からの恢復を描いていると言っても良いかもしれない。逆に言えばそれまでの間、と言うことは映画本編の殆ど、彼は病気であったことを示している。つまりはこの映画は恢復を題材にするがゆえに、病気の状態(病人)を描いているともいえる。

ここで素朴な疑問がわいてくる。ケンは一体いつから病人になったのであろうか。彼が自殺未遂を試みたその瞬間だろうか。それとも父親が亡くなった瞬間だろうか。ケンは父親の死の前からだと語っている。しかしその時期は彼にもわからない。病気は徐々に彼を浸食していったに違いない。そしてその始まりはとても曖昧でぼやけているのだろう。

では逆に病気が治ったと誰がわかるのであろうか。病気の始まりが曖昧で徐々に進みゆくように、病気からの恢復も同様なのではないだろうか。確かに発熱状態から平熱に戻ったとき人は恢復を意識する。それに対して僕は異論を言うつもりはない。でも状況として熱が平熱に戻ったとして、それで病気が治ったと誰がいえるのであろうか。私の肉体を構成する細胞の一部が、内臓の機能が、血管を流れる様々なものたちが、病気によって損なわれ、病気の浸食に対して抵抗を続けているかもしれない。

ケンは確かに自殺は考えないと琢磨の言葉に頷いた。でも健康な状態に戻ったとは言ってはいない。健康と病気は明瞭に分け難く、そしてその中で病気でもある自分の生を受け入れたのではないだろうか。ケンにとって恢復とは、病気から健康へと肉体の状態が単純な推移を意味するものではなく、病気も生の一つの姿であること、つまりはその中で生きるという気持ちを持つことであると、考えたように僕には思える。

自殺は死への自由な選択の結果の元で行われるわけではない。選択とは可能性のことであり、自殺が不可能性であることから、自殺を考える場合それが唯一の解決と思えるのである。だから自殺は何もかもを否定する。自由を否定し、個人を否定し、愛する者たちを否定し、健康と病気を否定し、希望と絶望を否定し、生を否定し、そして死さえも否定する。

ケンの自殺未遂が病気の現れだとしても、しかし他の道を歩む病気の生き方もあるのだ。おそらくケンはそういう道を見つけたのではないだろうか。

穴窯では釉薬は使わない、高温で長時間焚き続けることで灰による自然釉となるのである。監督は穴窯の技法と恢復を重ねている。ケンは病院に通うことなく、琢磨の親密圏の中で刺激を受け、徐々に自分自身を形作っていく。自分を取り戻すとは僕は語らない。取り戻す為には、前の状態が静止されていて記憶されていなければならない。でも人は静止することなどなく流れてゆく。親密圏の中の刺激とは、琢磨との語らいであり、信楽焼の魅力であり、窯焚であり、女性たちとのSEXである。

この映画でのSEX描写は都合4回ある。それらは琢磨とケンの交互に繰り返す。面白いことにこの4回の描写は連続した流れとも受け取れるし、それぞれの描写は対をなしているとも受け取れる。

1回目の描写は琢磨とバーのママであるが、その描写はポルノのように生々しく描かれる。2回目はケンと琢磨の弟子であり留学生のリタ(リーソル・ウィルカーソン)で、若い二人がお互いを求める姿に激しさはあるが、琢磨とバーのママとの絡みのように肉体が全面に出てはいない。

リタとのSEXは窯焚の期間にある。それまでケンは女性に対して、特に性に関して嫌悪感を持っているかのようであった。琢磨とバーのママとの関係を知り、ケンは琢磨をモラルを口実に罵倒する。しかしそのケンはその後飲酒運転で警察に捕まる。ケンの琢磨への怒りは、目の前に差し出された動物的で圧倒的な生への戸惑いと逃避から発せられたのだろう。直後の酩酊状態での運転がそれを表している様に僕には思える。

そのケンがリタに女性に対する欲望を感じる。窯焚の燃えさかる炎をみつめ、二人は交じり合う。生きる情熱を確認するかのような描写が2回目となる。

3回目は琢磨と、彼の亡き師匠の妻である刈谷先生(吉行和子)との描写である。踏み入れてはならない部屋があり、好奇心に駆られたケンはその部屋へと入る。その中でケンは琢磨と刈谷先生との関係を覗き見てしまう。その行為は1回目のバーのママに通じるが、ケンは二人の行為に嫌悪感は示さない。それはまるで何かの儀式のような印象を受けるのだ。

4回目の描写へと移る前に、急遽琢磨は窯焚を行うとケンに告げる。それは予定ではない突然の窯焚であった。突然の窯焚の最中に琢磨は突然に病気を患う。不安となり琢磨の元へと行くケン。しかし琢磨は病気だと姿さえ見せない。

琢磨の病気に関しては、いろいろな事が想像できる。そもそも突然の窯焚は何を目的として行われたのか。おそらくケンに捧げるためのものだったに違いない。つまり突然の窯焚における、不意の琢磨の不在は、ケンの成長を促すために、琢磨が意図的に仕組んだと考えることも出来る。そうかもしれない。ただ、琢磨の病気が計画的であろうがなかろうが、それは映画にとって些末なことでしかない。

この琢磨の不在は、ケンにとっては過去にさかのぼる事でもあったに違いない。ケンが病になったきっかけは父親の死去だった。それはケンにとって、多感な時期における父の不在でもある。窯焚の最中の琢磨の不在がそれと重なる。僕は、琢磨の不在は、父親の不在に対応する、「死」を現しているように思えて仕方がない。

窯焚を「誕生」「創造」の象徴とするならば、やはり「死」のイメージがそこになくてはならないのだ。そしてケンは「誕生」と「死」の狭間の中で、混沌とする「生」を生きなければならない。僕は琢磨の突然の不在こそ、この映画のメッセージそのものの様に思える。

4回目の描写は、ケンと刈谷先生の関係となる。刈谷先生はこの映画では謎の人物として現れる。彼女は「生」のイメージが強いこの映画の中で、逆に「生」を感じさせない。それが対比となり、彼女の存在感を際立たせるが、それでも台詞が少なく影が薄い存在であることには変わりはない。その存在は、琢磨の対極にあるようにさえ思える。

ケンと刈谷先生の描写は、「癒し」のイメージだと僕は思う。それはケンに「自殺」をする事を止めさせる力を持っている。ケンとの行為の中で刈谷先生は静かな涙をこぼす。あたかもケンの苦しみを受け入れたかのように。それはこの映画の、幸福とは言えないまでも、静かなエンディングでもある。

日本では、この映画はR18指定だった。ただ、この映画にとって4回のSEX描写は不可欠だと思える。それはケンの恢復の過程を示していると僕は思うからだ。

無論、この映画で、僕が馴染めないメッセージを感じる箇所もある。そしてその馴染めにくさが、この映画の見え方を大きく変える場合もあるだろう。だとしても、この映画がもつ様々な隠語が指し示すものが、「誕生」「性」「生」「死」と思われることから、「恢復」がテーマと思うことに、それほどの誤りはないように思えてくる。


追記:この映画の概略を下記に示す。

製作年:2005年(日本での公開は2008/2/23)
製作国:カナダ=日本
配給:ティ・ジョイ
監督・脚本・編集:クロード・ガニオン
第29回モントリオール世界映画祭
最優秀監督賞。
国際批評家連盟賞
観客大賞
エキュメニック賞
エアカナダ賞
第56回ベルリン国際映画祭のキンダー部門において審査員特別賞

さらに補足:
この映画は2005年にカナダ・米国で公開され、日本での公開はそれから3年後の2008年、そのときに映画館で観て、その感想がこの文章、書き上げるのに1年半かかったというわけです。笑

2009/09/01

稲越功一の写真「心の眼」

本年2009年2月25日に亡くなられた稲越功一氏の写真展が恵比寿にある東京写真美術館であったので行ってきた。本写真展は生前稲越氏が自ら構成を慎重に準備を進めてきた。亡くなられた時、写真展をどうするか話し合われたそうで、稲越氏の奥様を含めほぼ全員が開催の意向を示したと聞いている。また、その時に本写真展は没後の初めての写真展ではなく、稲越功一最後の写真展として開催するとも決まったそうだ。

稲越功一氏は雑誌カタログなどの書籍をデザイン的に美しく、かつ読みやすくするための、エディトリアルの写真家として活躍されてきた。つまりはその活躍の場の多くを商業的な場で行ってきたことになる。それでも、プライベートに自分が好きな写真も撮り続けてきた。今回の写真展はそのプライベートな写真、特にモノクロームの写真を中心に集めている。

僕が写真展に行った際に、鑑賞する仕方はいつも決まっている。まずは少し早めに全体を鑑賞する。次に写真展会場に大抵部屋のほぼ中央にある長椅子にすわり、そこから全体を見回す。そして写真展の雰囲気というか空気感を感じ取るように心がける。写真展は大抵は薄明で静かなので、椅子に座りながら、ぼんやりと考えることには最適なのだ。それから、また最初から今度は少し丁寧に鑑賞する。そしてまた長椅子に座りぼんやりする。そういうことを3サイクルくらいやっている。そうするとなんだかこの写真展会場と一体感みたいなものを感じるときがある。

だからといって写真展の何か真実が見えてくるというわけじゃない。そんな大それた事は少しも考えない。おそらく僕は、美術館、写真館、の会場独特のひんやりとした空気感が好きなのだ。作品にスポットライトが浴び、そこに人が立ち鑑賞している、そういう姿をぼんやりと眺めているのが好きなのだ。

稲越功一氏の作品はどれも良かったし面白かった。中央の椅子に座り、モノクロームの写真が飾られている壁を見る。作品の一つ一つにはタイトルはないことに気がつく。これは稲越氏のプライベートな写真へのこだわりなのだろう。タイトルがないことで、写真そのものへの回帰を促しているように思えてくる。

写真は記号論でみたとき、表象が無く指向性のみの特殊な記号だという言説に、僕は一般論として賛同する。つまり、僕らが愛する人が写っている写真を見るとき、その写真を見ているのではなく、実際はその写真が指し示す愛する人を見ているのだ、ということだ。それであれば、この写真に写っている愛する人は何なのかということになる。ロランバルトはそれを「それはかつてあった」と呼んだ。

稲越功一氏の写真集に「meet again」(1973年)があり、今回の写真展にも作品が飾られていた。その作品群はどれも一見したところ焦点があっていない、しかも写っている対象の多くは人の部位となっている。例えば、腕時計を触る手、ポケットに入れている手、ボール、などだ。写真家にとって、カメラを向ける先の何に焦点をあてるのかは、何を写真で表現するかの要となる。逆に言えば、稲越功一氏の焦点がぼやけているかのような写真群は、表現自体を焦点をぼかすスタイルをとることで、なおかつ人の部位のみ載せることで、写真が指し示す対象を曖昧にさせ、その写真自体に指向性が留まる効果を与えているのではないかと思う。

ただ「meet again」の写真群はそれだけでもない。あらためて見ると、写真のそれぞれに、写真を引き裂く亀裂が撮し込まれている。その亀裂の幅は太いものもあれば、線のように細いものもある。また色も黒だったり白だったりする。おそらく現像時に稲越氏が意図的に挿入させたものだろう。

もしかすれば、焦点が定まっていないと思ったのは誤りだったのかもしれない。ふとそんな気がしてくる。仮に、「meet again」の写真一枚一枚が、何らかの写真の一部の拡大とした場合、極限まで拡大すれば、あたかも焦点がぼけているように見えることだろう。そしてこれ以上拡大すれば写真として成立しない点、つまり写真としてぎりぎりの写真、それらがこれらの写真なのではないだろうか。

写真として成立するぎりぎりの写真、写真を分断するかのような亀裂、それらのスタイルは、見る者を戸惑わせる。焦点が定まらぬ写真は観客の焦点に影響を与えるのだ。そして観客自身が、自らの中の記憶の断片に焦点をあてなくてはならなくなる。写真の対象として、どこにでもあるもの、どこにでもある風景、が選ばれているため、その傾向は強まることだろう。観客の中でその写真は再構築される。それは写真の本質への反抗のようにさえ思えてくる。

「meet again」の次の写真集である「記憶都市 東京」(1987年)も印象に残る。その写真集に載る写真は全て建物となっている。そして人は写っていない。建物の多くは木造で、建てられてから相当の年数が経っていると思われる風情がある。それらの建物に人が住んでいるかはわからないが、当然に人が住んでいた時期もあったのは間違いない。記憶都市と古い木造建築の繋がりを想像するのは容易いし、それは正しいとも思える。しかし僕がこれらの写真群をみて考えさせられたのは、写真の対象物ではない。

それらの写真の共通するスタイルは、焦点が明瞭であること、全体的にグローがかり薄いもやのような幕がおりていること、モノクロームでコントラストが強いこと、などだ。また対象となっている木造建築も、確かに古いが、だからといって特別な建築物ではない。かつてどこにでもあり、見慣れているようなそんな建物なのだ。それらの写真は、見る者がかつてその建物を知っていたかのような錯覚を持たせると思う。

2009年の今となってはどうかはわからないが、写真集が出版された1987年は、かつて知っていたと今より思わせることだろう。つまり「記憶都市 東京」も前作である「meet again」と写真家の表現の方向性は同じだと僕は思うのだ。

稲越功一氏の写真とは、写真の記号としての指向性を曖昧にすることではなく、逆に指向性を強めること、それは写真を見る者が自らの記憶の一片に向かわせること、のように僕は思う。だからこそ、あえて写真家は写真の一枚一枚にタイトルをつけてはいない。その写真の指向性を具体的に写真家が設けることは避けなければならないからだ。

しかし、それにしても稲越功一氏のモノクローム写真は美しい。全て銀塩写真だという。デジタルとの差異を述べるつもりはない。問題はそう言うことではないと僕は思うからだ。稲越氏はプライベートでエディトリアルの現場では撮すことが出来ない写真を撮ってきた。しかし、その技術の殆どはエディトリアルの現場で培われたものだ。特に現像の技術が素晴らしいと思う。「meet again」「記憶都市 東京」を含む全ての写真にそれは当てはまる。

僕はもう少しこの写真展の中に留まりたかった。モノクロームの写真に囲まれた静かな空間で、もう少し自由な想像の世界に浸っていたかった。でも閉館時間が迫っていた。外は台風が近づいている。またこの場に来るかもしれないと僕は思った。この写真展は10月12日まで続く。こういう場合、僕の予感は外れることがない。

2009/08/31

選挙の日に

総選挙は民主党の圧勝に終わった。その日、僕は午前中に投票に行き、そしてすぐに選挙のことを忘れた。台風が近づいていると言う。窓から外を見上げると、灰色の雲からの柔らかな光が周囲を包み、とても静かな印象を与える。

8月はあっという間に過ぎた。暑さと肌寒さとが交互に繰り返し、やがて秋になる。そんな肌に感じる季節感が今年は少し違う。8月のイメージにそぐわない今年の8月。9月も同様なのだろうか。

2009年8月30日、日曜。僕には前々から予定があった。恵比寿にある東京写真美術館に行くのだ。雨が降る前に出かけ、そして帰りたい。台風と選挙、それが重なる確率はどのくらなのだろうと、少し考える。でもそれは僕にとっては吉兆なのだ。おそらく静かな時間を過ごすことができるだろう。

外に出ると、思いのほか風が強い。風は台風が近づいてくる前触れだろう。おそらく、この気象の中で、今日の一日を一喜一憂する人々が多くいることだろう。彼らの喜びや悲しみや夢や希望や失望やその他諸々の感情から発せられる力は、この風の中でどこに飛ばされていくのだろう。
僕は少し身をかがめ駅へと歩く。

写真展は想像以上に色々なことを感じた。写真家の主とするテーマは記憶にあるらしい。写真から記憶に結びつけるのはどうしてだろう。写真展の中央にある長いすにすわり、鑑賞する人たちの後姿を見ながら考える。発端はおそらくプルーストなのだろう。でも彼の記憶は円環のなかにある。だとすれば、写真を鑑賞する人が得られる記憶もまた自らに回帰するのだろうか。そんな具にもつかぬ事を、ぼんやりと考える。

写真展を出ると雨が降っていた。普段だと人も多いモールの広場は、横からの雨でベンチが濡れ、人もまばらだ。それでも、何人かの人たちが楽しそうに談笑しているのが見える。2階からの展望なので笑い声は聞こえない。突然、弾けるように少女が笑う、聞こえない歓声が僕の耳に届く。

2009年8月30日の1日はそうやって過ぎた。その後僕は恵比寿駅からJRに乗って帰った。家に帰りTVをつけると、既に選挙の体勢は決まっていた。
16年ぶりの政権交代は、僕らの暮らしにどのような変化をもたらすのだろうか。台風が明日には関東に来るとのニュースも入る。窓から夜の闇を見る。雨が一段と激しく降っているのがわかった。

2009/08/27

宮沢賢治と猫

賢治は猫が嫌いだったという説がある。彼の詩「猫」が発端のこの説は、無論取るに足らない話である僕には思える。

詩「猫」は短い詩だ。宮沢賢治が友人宅で年老いた猫と顔を合わせたところから詩は始まる。賢治はその猫を見て「パチパチ火花を出すアンデルゼンの猫」を思う。
年老いた猫は賢治の方に歩いてくる。そして彼の「猫は大嫌い」という言葉が続く。その年老いた猫が賢治の方に歩いてくる描写がとても美しい。
「実になめらかによるの気圏の底を猫が滑ってやって来る。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)」
(宮沢賢治 「猫」より抜粋)
猫は賢治のそばで身繕いを始める。その姿を見た賢治は、何か得体の知れない網のようなものが猫の毛皮を覆うように感じる。その後、年老いた猫は小さく鳴いて暗闇の方に去っていく。また賢治は思う。「どう考へても私は猫は厭ですよ」と。

この詩に登場する猫はまぎれもなく現実界に存在する猫だ。そして「猫が大嫌い」という言葉とは裏腹に、猫を正確に、しかも文学的に描いているように思える。
賢治が年老いた猫の登場から去るまでの間、その猫を凝視していたのがとてもよくわかる。だからか、この詩の短さの中に、賢治の内的な時間の経過が読み取れる。
正直に言えば、僕は、この詩はそれほど優れた作品とは思っていない。ただ賢治のまなざしは的確に現実の猫の存在を捉えていたと僕は思う。

宮沢賢治の童話の中に登場する山猫を含めた猫たち。特に山猫ではなく猫が登場する童話として「猫の事務所」が知られていいる。
ただ「猫の事務所」に登場する猫たちは擬人化されていて、詩「猫」の猫とは全く違う。
擬人化は、直接に語り得ないことを、動植物を擬人化することで、そのものに語らせるための文学的手法だと僕は思う。だから、「猫の事務所」に登場する猫たちは、猫として登場するが、実際は猫ではない。

賢治の「擬人化」を多言語主義もしくは植民地主義を背景として初めて捉えたのが、西成彦「森のゲリラ宮沢賢治」だったと思う。

山猫を含め擬人化された動物たちは、日本語と、そして彼らの言葉と、複数の言葉をしゃべる。何故、彼らは複数の言語を操るようになったのか。何故、山猫は自分たちの文化を恥じなければならなかったのか。
この問いかけは、もう一つの方向もあると僕には思える。何故、複数の文化と複数の言語が単一にならなければならなかったのか。

詩「猫」に登場する猫は、賢治にとって嫌な存在として写る。(しかしそれでいて彼は猫の体の中を考えることが出来るのだ。)その年老いた猫は賢治に擬人化をさせることを許さない。それは1個の存在として賢治に対峙する。だからこそ、逆に賢治はその年老いた猫に一種畏怖に近い感情を持ち、「私は猫は大嫌ひです」となったのではないかと、僕は考える。
それはあくまでも、彼の文学的感性ゆえの言葉、詩作ならばこその言葉であったと僕には思えるのだ。

ところで、詩にある「パチパチ火花を出すアンデルゼンの猫」とは何だろう。アンデルセンの童話は絵本としても童話としても読んだが、この猫だけははっきりと思い出せない。ただ「みにくいアヒルの子」の中で、猫とニワトリの会話において、そんな猫が登場していたような記憶がある。違っただろうか。

2009/08/25

感想 映画「剣岳 点の記」

久しぶりの映画館。この映画に出不精の僕が足を向けたのは、山を中心とした映画だからだ。しかも原作者が新田次郎であればなおさらだ。

観に行く映画の候補は幾つかあった。家人は、それであれば全部見に行けば良い、と言うが、不器用な僕としてはそうはいかない。一つの映画を観ると、良い映画であればあるほど、僕の中で消費する時間がかかるのだ。大抵は、見終わった後に混乱が生じ、頭の中で整理し、自分の思いをそこに付け加える、そして気持ちがあれば文章を書く。ここまでのサイクルは早くて1ヶ月はかかってしまう。映画とは僕にとって一つの問題でもあるのだ。

場合により、性急に解決しなければならない映画もあるのだが、映画「劔岳 点の記」は差し迫った問題ではなかった。
もちろん、良い映画であることに間違いはないのだが。

この映画の監督はカメラ出身とのことだ。だからか山々の描写がとても美しい。

四季の移り変わり、一日における変化、青空と樹木の緑、白い岩肌、そして紅葉。赤く染まる夕焼け、夕闇迫る灰色の彼方に黒く浮かび上がる山々。その壮大な山々の中を、連なる蟻のように列を成し登る人々。

後から映画のサイトを眺めるとCGは使ってないのだそうだ。だから良いとは、現在の技術力を持ってすれば一概には言えないが、この映画においては良い結果になったといえると思う。山の描写だけでもこの映画を観る価値はあるように僕には思える。

ところで、この映画のコピーとして幾つかの言葉が並べられている。
「誰かが行かねば、道はできない」、もしくは「人がどう評価しようとも、何かをしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事です。悔いなくやり遂げることが大切だと思います」などだ。

実は新田次郎の原作を僕は読んではいない。でも想像するに上記の言葉は小説の中の重要な一文なのだろう。

しかしだからといって映画のメッセージと小説で語りたいことが合致するとは限らない。小説と映画は違った表現方法なのだから、同じになるという方が難しいように僕には思える。

この映画のメッセージは、小説を読んでいない僕が言うのは不適なのはわかるが、小説のそれとは違うのではないだろうか。それは上記の映画のコピーが台詞として語られる場面の不自然さにある。不自然と僕が感じるのは、その言葉が大事であれば、発せられる必然性が丁寧に描かれるはずなのに、少しばかり唐突に語られていたからだ。

映画のメッセージは、カメラワーク、脚本、演出、演技、音楽、道具立て、そして編集などによって、映画全体から発せられるものだと思う。台詞は言葉として、そのメッセージを要約することもあるが、だからといってそれが生かされるかどうかは別問題なのだ。

この映画にとって要はやはりカメラワークにあると僕は思う。

例えば、カメラワークは山を舞台にするとき(山の内)と、山から離れて人の営み(山の外)を舞台にするときとでは違っている。

山の内では、山々の自然の壮大さと美しさ、そして対比しての人間の小ささが出ている。望遠を生かした撮影が所々に現れる。
山の外では、屋内を舞台にした撮影が多く、役者の近くに寄ったカメラワークが主体となっている。
山を舞台にした映画なのだから、それはそれで当然と言えばそうかもしれない。しかしその対比は顕著であった。

それにカメラ出身の監督もカメラが要であることを意識していたのではないだろうか。だからこそCGを使わず、俳優たちを実際に体験さえ、その映像を撮り続けたのではないかと思える。

またそのカメラワークと相まって、脚本・演出の面でも、山の内と山の外では違っていた。山の内では人間は謙虚であり、目的に対し献身的で、仲間として互いに敬愛の情で結ばれていた。対する山の外では、人の虚栄心、名誉欲、競争心、などが全面にでていた。

自然に「大」を付けるようになったのはいつ頃だろう。日本語の「自然」という言葉には様々な意味がある。どれも程度の違いがあるにせよ、人工ではないと言うことだ。

ただ、人工については、語る側の信念がそこに強く挿入されてもいる。例えば、人が人やものに対して「自然だ」とか「自然ではない」とかの物言いがそれにあたる。

その意味で、ある意味「自然」「人工」という言葉はイデオロギーの一種になっているかもしれない。自然の前に「大」を付けたのは、それらイデオロギー化された「自然」と、人間が踏み込むことが困難な環境としての自然とを分ける意図があるのだろう。無論、この映画での「自然」は「大自然」のことである。

その大自然に対峙する人間は謙虚になる、とは一つの文化コードでもある。人間は人工のなかでしか生きられない、とはアレントの言葉だった。だから大自然の中に入り込む場合、人工物である生活一式を全て携えなければならない。

この考え方はいかにも欧米的でもある。しかし、この映画の測量隊も日本山岳会の双方とも、近代登山の黎明期の中で、この思想に則った登山を行っているのだ。大自然への謙虚さとは、自然と人工、自然と人間との、距離感にある。そしてその距離感は、近代登山と共に始まったように思える。

この文化コードが映画の中でも現れていた。測量隊の中に、若く実力があるが横柄で自信家で、サポートする強力たちにぞんざいな口をきく男がいた。映画の観客たちは、謙虚さの中で一人だけ異質なその男性が、いずれ壮大な自然の中で変わってゆくのだろうと期待する。そして期待通りに彼は徐々に謙虚になっていく。

それに対応する人物が映画の中で「行者様」と呼ばれた修験者だと思う。修験者にとれば、自然との間に距離はない。彼にとってみると、初登頂という概念自体がないと僕は思う。

劔岳への初登頂を、測量隊と日本山岳会の両者が競い合っていた。測量隊は三角点を建て、測量することが目的で、初登頂が目的ではない。でも測量隊の軍本部では日本山岳会に負けるなと命令し、マスコミ、日本の人々は両者の競い合いに注目していた。
結果的に測量隊が日本山岳会よりも先に劔岳に登るのだが、実際は測量隊よりも先に山の修験者が登頂を果たしていた。

測量隊と日本山岳会以外の人たち、軍本部・マスコミ・人々にとって劔岳の初登頂の騒ぎは無意味だったと感じる。しかし測量隊と日本山岳会にとってはそうではなかった。

測量隊が地図を作成することに目的があるように、日本山岳会は山頂への道(ルート)を造ることが目的だったのではないだろうか。初登頂はその目的の副次的なものでしかない。お互いが切磋琢磨し、山という共通の環境の中で、それぞれの目的に献身的に動く。その姿勢は双方とも共有するところだ、その過程でお互いを認め合い、そこから尊敬と共に、ある種の絆が産まれる。

映画の終わりに、測量隊と山岳会の人たちは、劔岳と向かい合う山の頂に立ち、お互いに手旗信号でエールを交換する。そしてお互いに目的のために努力をした仲間であることを意識する。そして映画は終わる。

スタッフ紹介のテロップが流れるその先頭には「仲間たち」と書かれている。ただ当然のことながら「仲間」には、軍本部の上司たち、マスコミ、周囲の人たちは含まれていない。「仲間」に「みんな仲間」などという線引きはありはしない。

僕はこの映画のメッセージの要は「絆」だと思う。その理由は今まで書いてきたとおりだ。「仲間」とは「絆」を具現化したものだと僕は思う。そして、映画のメッセージは原作のそれとは違っているように僕は思う。

仮にその違いが著しいのであれば、僕の見方が誤っている可能性と共に、この映画の問題の可能性もあるだろう。僕はこの映画が原作に重きを置く結果、映画に詰め込みすぎた印象を持った。
もう少し的を絞れば、もう少し編集において場面を減らせば、より的確にメッセージが伝えられたのではないか、と思う。

ただ、映画というものは、仮に前記の通りに的を絞り場面の削除などを行えば、逆に映画として成立しない可能性もある。
この映画はこの映画で完成されている。そうも思う。

まだこの映画で書きたいことは色々とある。例えば、現在国土地理院所蔵の記録「点の記」から見た映画の印象、俳優の演技のこと、行者のこと、それぞれの役の位置づけで不明な点がいくつかあること、などだ。それらについては別途書くかもしれない。

2009/08/23

「地球」という言葉

映画「地球が静止する日」を観て面白い場面があった。
宇宙人の男(キアヌ・リーブス)は地球外生物学者ヘレンに「地球を救いに来た」と告げる。それをヘレンは「人類を救いに来た」と誤解する場面だ。

ヘレンにとっては、そのように誤解するのは致し方ない。宇宙人に地球の言葉を解することの方が難しいと思うのだ

学術もしくは特殊な専門用語などを除き、殆どの言葉には人間が内包されている、と僕は思う。もちろんそれは「地球」も例外ではないと思う。
さらに「地球」という言葉には、人間以外の地球上のあらゆる生命とか環境も含まれていると考えて間違いないように思う。
だから、「地球のため」もしくは「地球を救う」とは、「人間のため」「人間を救う」も内包されていると僕は思う。

ヘレンが誤解したのもやむを得ない話なのだ。

漫画「寄生獣」のミギーは次のように語る。
「わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」という人間がきらいだ・・・・なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな」

人間以外の生物に語らせることで、「地球」という言葉から人間を除外するすることが出来た。それは「地球が静止する日」の宇宙人と同じだ。
ミギーには人間の言葉の意味を技術的にしか知ることが出来ない。つまりは一般的言語としての記号でしかない。

ミギーが「りんご」と言った際、「リンゴ」が指し示す、あの熟すと主に赤い実となる果物のことしかない、と僕は思う。

でも「リンゴ」と日本語で語る場合、僕らに受ける「リンゴ」が指し示すものは、「あの熟すと主に赤い実となる果物」だけではないはずだ。もしかすると果物屋での値段を気にするかもしれない。作っている方のことや、産地のことを気にする人もいるだろう。なによりもまず、好きとか嫌いとか、美味しいとか不味いとか、酸っぱいとか甘いとか、そういうことを思い浮かべるだろう。でも根底にあるのは、「リンゴ」は人間が造り人間が食べるものであるということだ。ミギーが解する言語とは、そこが根本的に違う、と僕は思う。

でも実際に、何故かミギーのように「地球」を語る人は多いのも事実だ。
しかしそれはその語り自体に矛盾があるように思う。人間の言葉から人間を排除すること自体、それは不可能だと思うのだ

追記:「地球が静止する日」(2008年)は1951年のリメイクであることは知られている。1951年の日本語タイトルは、「地球の静止する日」で一字だけ違う。