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2006/08/16

MEMO 朝顔三十六花選、服部雪斎、朝顔のことなど

朝顔には大別すると大輪と変化の二つに分けられるが、現在では朝顔と言えば殆ど大輪系となる。変化種は絶滅しそうなほど少なく、一部の植物園で保存されるのみとなっている。ただ時代と共に朝顔の流行も、大輪中心と変化中心を繰り返していて、いずれは変化が流行る可能性もあるかもしれない。最近花屋で花部が桔梗型の朝顔が売られているのを見かけ、新鮮な印象を持った。

朝顔は熱帯・亜熱帯地域に原生する植物なので、それらの地域には様々な朝顔の仲間達がいるのも知っている。しかし、黄色い朝顔というのは未だ見かけたことがない。何故黄色い朝顔の話をするかと言えば、江戸時代後期に変化朝顔が流行ったときに、黄色の朝顔が図鑑に載っているのを見かけたからだ。その図鑑とは「朝顔三十六花選」である。

国会図書館のサイトに様々な図版が掲載されている(ギャラリー)のをご存じの方も多いと思う。その中の一つに「江戸時代の博物誌」というコーナーがあり、そこの「第二章 独自の園芸の展開」に載っていた。
「アサガオは文化末年から文政初年と弘化末年から文久初年の2回のブームを呼びました。この資料は弘化末年にはじまる第二次ブームの頃のもので、当時主役だった奇妙な形態の花や葉をもつ「変化朝顔」の数々が描かれています。なかにはアサガオとは思えない姿をした花もあります。当時は黄色い花をつけるアサガオもありましたが、現在では失われてしまっています。著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号で、図は服部雪斎によるものです。もっとも優れた朝顔図譜といわれ、書名のとおり、36品を所収しています。」
(国立国会図書館 「朝顔三十六花選」の説明文を引用)

 その黄色い朝顔の図版はおそらくこれだと思う。
確かに朝顔らしからぬ姿をしている。しかし考えようによっては、現在の朝顔も、突然変異(例えば色など、原生は青一色)と品種改良 (花部の直径、原生は小振り)により今の姿になったわけで、おそらく原生種の姿とはかなり異なると思う。

さらに、「朝顔の姿とは何か」の問いに、原生種の姿を求めるのは、何かしら純血主義的な感を持ち、個人的には好まないのもある。生物は、勿論人間も含めて、持続する為に変化していくものだと思うのだ。

この黄色い朝顔を読み解いてみる。黄色い朝顔の画のページ左上に朝顔の名称が書かれている。「変化渦南天葉極黄菊○○切牡丹度サキ」とある。朝顔の名称は、見方としては、交配した遺伝子の組み合わせの名称でもある。

「渦」とは葉の文様の事で、後の「南天葉」にかかる。「南天葉」とは1枚の葉が3つに大きく切り分けられた葉を言う。「極黄」とはおそらく色を示すのではないかと思う。「切」とは花が切れて別れているものをいう。そして「牡丹」とは、まさしく牡丹のような花の形であること、「度サキ」とは二重に咲いている花であることを示す。

朝顔の専門家に言わせると、「朝顔三十六花選」の中で一番の変わりものは、最後のページにある花だそうだ。名称は、「孔雀変化林風極紅車狂追泡花真曼葉数○生」と書いてある。ここまで来れば僕などが読み解くのは難しい。

朝顔、特に変化朝顔については次のサイトにで画像として参照することが出来る。
「朝顔三十六花選」の図は服部雪斎(はっとりせっさい)によっている。服部雪斎は江戸後期から明治の半ばまで活躍した画家で、殆どの画業は図譜(博物誌)の画を描くことだった。江戸後期は極限まで木版技術が進化した時代でもある。その中で雪斎はマニアックなまでに精密に対象を写生していく。 彼が担当した図譜(博物誌)は、国会図書館公式サイトで紹介する図譜の中でも比較的多い。
  • 貝の図譜 「目八譜
    (目と八を組み合わせる貝になる事と、人が傍らから見る事を「八目」と言うことから)
  • 食用となる鳥の図譜 「華鳥譜
    (華の字を分解すると、六つの十と一つの一からなる、61種類の鳥の図譜)
  • 虫の図譜 「千蟲譜

  • フクロウの図譜 「錦○禽譜
    (○はあなかんむりの「くぼみ」、音読みは「カ」)
  • 「写生帖」
  • 「写生物類品図」
  • 「本草図譜」
  • 雪斎写生草木鳥獣図
勿論上記以外でも雪斎は様々な図譜の写生を担当している。 彼のことは「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)に詳しく載っている。

その本によると、維新後、幕府体制下での庇護を離れ、市井の絵師として市ヶ谷に住んだ雪斎は、自らの職業を「写真画」と称したらしい。「写真」という言葉について、本では次のように語る。
もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
 (「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)
違う単語同士で同じ意味を持つ言葉はあるが、それぞれの言葉は生活の中で、微妙なニュアンスの違いにより使い分けられているように思う。「写真」と「写生」の違いは、後に「写真」がフォトグラフィーの訳語にのみ使われる経緯により、その両者の違いをうかがい知ることが出来る。
幕末から明治初期にかけては、下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一といった職業的な「写真師」がすでに活動していた。雲停や雪斎らが博物図譜のために動植物の「写真」をしていた頃には、すでに「写真」は別の意味をもち始めていたのである。
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)

 雲停とは雪斎と並び称される博物誌画家 関根雲停(せきねうんてい)である。特に本領は動物画で、その絵は動きに溢れ、「静」の雪斎、「動」の雲停と言われた。

雪斎の写真画は、現在で言うところのアートではない、と僕は思う。ここで言うアートとは、詩人リルケが語る 「個人の感覚の領域を拡げるため」の機能としての道具、それはまさしくスーザン・ソンタグが60年代後半にアートに対し述べたもの、とした意味と捉えての話である。

無論、現代の尺度で雪斎の画を計るのはフェアではない。しかし同様の評価は、明治になり、彼の博物誌画以外の作品に対し与えられているのである。維新以前は絵に対し、そのような見方をする者はいなかった。

江戸と明治の両時代をまたがって雪斎は活躍した。おそらく彼も、画に対する人々の眼差しの変化を、双方の時代の違いとして、感じ取ったことだろう。雪斎がフォトグラフィーとしての写真の存在を知っていた可能性は高い。もしかすれば直に写真を見たこともあるかもしれない。そして、当時の写真技術レベルであれば、自分が描く画と較べ精度の面で、自分の技能の方が優れていると思ったことだろう。しかし、その写真機械の可能性は感じ取ったはずだと僕は思う。

誰が撮影したにせよ、フォトグラフィーとしての写真には権威が既にある。図譜が明治の体制の中で博物誌と呼ばれ、知識の中央集権化が進む中で、当然に権威が求められる博物誌が、画からフォトグラフィーとしての写真へと移行するのは当然とも言える。

江戸後期は「見たまま」を忠実に写生する要請が強くなっていった時代でもある。そしてその要請に応えたのが、高度に発達した木版技術であり、雪斎らのような写真画達であった。しかし、彼等の時代は化学反応による写真の登場と、その急激な発達により、日本の美術史の中から早々に消えてゆくことになる。

僕は、何故だか理由はわからないが、国立国会図書館のギャラリーの多くの博物誌の中で、雪斎の作品が特に印象に残った。彼の画は、自己主張が殆ど無い。描く対象を、誰が見てもそれとわかるように、構図及び彩色に気を配っている。そして、だからこそ博物誌画家としての自尊心の高さが、逆に僕には見えるのである。

服部雪斎は明治21年 (1888) 以降の消息はつかめていない。忽然とではなく、近代以前から近代への歩みの中で、徐々にスライドが新たな画面へと切り替わるように、彼もまた徐々に消えていった。そんな風に思える。

2006/08/08

メタセコイアにまつわる雑感 「戦後におけるメタセコイアの意味」

metasequoia

駒沢公園にはメタセコイアが4本植えられている。いつに植えられたのかは定かではないが、多分公園が出来たときに一緒に植えられたのではないだろうか。そうすると約40年以上は経っていることになる。

少し前まで僕は第一競技場(陸上競技)脇に植えられている樹木は落松だと思っていた。明らかに針葉樹で、秋に紅葉し冬には落葉する樹木と言えば落松しか思い浮かばなかったのである。メタセコイヤ、和名「あけぼの杉」などは名前さえ知らなかった。勿論今となってはメタセコイヤが広く知られわたっている樹木であることは知っている。それでも以前、 例えば戦後間もない時期と今を較べれば、知名度は雲泥の差があるかもしれない。

80万年前に日本列島を最後に絶滅したと思われてきたメタセコイアが、中国に現存しているのがわかったのは、太平洋戦争直後のことだった。それまで多くの化石遺体として発見されてきた木は、米国などで現存しているセコイア属の一種だと思われていた。それを日本植物学者三木茂は別の属であることを化石から証明し、1941年の論文の中で「メタセコイア」と命名した。

そのメタセコイアが1946年に中国で見つかり、中国植物学者から米国植物学者へと標本が送られる。そして1948年に中国現地に米国植物学者が訪ね多くの標本・種子を採取する。その中の一部が1949年に日本(小石川植物園、昭和天皇)に届くのである。

齋藤清明著「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中央公論社)によれば、日本にメタセコイアの苗木及び種子が届いた時の状況を 「戦後復興のシンボル」と題して次のように語る。
「ところで、「生きた化石 米から苗木 日本で栽培へ」の記事が載った『毎日新聞』大阪本社版1949年(昭和24年)
11月11日付の同じページに、「ノーベル賞受賞 その日の湯川博士」も載っている。(中略)ちょうど1週間前の11月3日、ストックホルム特電で送られてきた「湯川博士にノーベル賞」は、日本中を沸かせたビッグ・ニュースだったが、その続編がまだ紙面を飾っていた。」
「またメタセコイアが載った同じページの下のほうに、
「古橋らの南米行きは見合わせ」というベタ記事もみえる。

(中略) 「フジヤマの飛び魚」とはやされた古橋たちも、当時の日本の誇りだった。 (中略) 夏の「水泳ニッポン」に続いて、秋の
「文化の日」に飛び込んだ湯川博士ノーベル賞受賞、そしてメタセコイアだった。」
「日本人科学者が戦中に命名した化石植物が、
中国で戦後すぐに生きた大木で見つかり、アメリカ人科学者が日本に苗木を届けてくれる。まず天皇に。そして日本各地に植えられる。
メタセコイアもまた、日本の誇りのように思えた。戦後の明るいニュースだった。」
   (上記総て 齋藤清明著 「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中公新書) から引用)
敗戦直後の状況で、水泳における古橋たちの活躍と湯川博士のノーベル賞受賞が、当時の人達にとって誇りに思えるのは僕にも理解できる。でも何故メタセコイアの苗木が日本に届くことが誇りに思えるのか、この本を読んでも、正直言えばよくわからなかった。
確かに明るいニュースであることは間違いない。でも誇りに思えるという、強い情動を持ち得る程とも思えなかったのだ。

昭和天皇に届けられた事だろうか。確かにそれもあるだろう。日本人がメタセコイアを命名したと言うことだろうか。確かにそれは強い動機となるだろう。

でもそれだけではないように僕には思えた。こう捉える事は出来ないだろうか。古橋らの活躍は「肉体」における自信回復、湯川博士のノーベル賞受賞は「頭脳」における自信回復、そしてメタセコイアのニュースは「日本」そのものの「再生」への希望を。

メタセコイアの記事により、多くの人は、列島で100万年~80万年前まで繁殖していたのを知っていたことだろう。そして、中国を除いて、メタセコイアにとって日本が最後の繁殖地だったことも。おそらく「メタセコイアが日本に届く」ということは、メタセコイアが故郷に戻るような、そんな感覚を持ったのではないだろうか。

そしてその事は、荒廃した日本の復興へ向かう時期に合わさることで、一度絶滅したと思われていた木が現存していた、と言う事実と共に、そこに「日本」もしくは自分たちの将来を重ねたいという願いもあったかもしれない。勿論、メタセコイアが繁殖していた時、「日本」などは存在しない。人も住んでもいない。でも例えば「富士山」に日本のイメージを重ねるように、メタセコイアに日本のイメージを重ねたとしても不思議でもない。

メタセコイアは、まず小石川植物園、次に皇居に植えられた。昭和天皇はこの木を愛されたらしい。メタセコイアの和名は「あけぼの杉」と言う。古くからあるという意味で「あけぼの」を付けたらしいが、僕にとっては「あけぼの」とは 「始まり」の意味もあるように思う。

昭和天皇は、メタセコイアではなく、和名の「あけぼの杉」での呼称を重んじられた。勿論、昭和天皇の御心を知ることは出来ないが、日本の復興と「あけぼの杉」の成長を重ねた御心は察することが出来る。このとき、日本の歴史の中でも希なほど、天皇と人々の気持ちが近かった。僕にはそう思える。

昭和天皇の巡幸と時期をほぼ同じにして、メタセコイアの栽培ブームが始まる。桜で言えば「ソメイヨシノ」が戦後に多く植えられたように、メタセコイアも各地に植えられていく。

天皇の巡幸と「ソメイヨシノ」及び「メタセコイア」の栽培。それを繋げてみることは考えすぎだろうか。「ソメイヨシノ」が日本の風土を一つのイメージにする為の栽培と較べると、メタセコイアの栽培は一過性のブームでしかなかったかもしれない。

ただ、当時の人達にとっては、人間の手により汚されていない時代の彼方から、突然に現れたメタセコイアを植えることにより、そこに現れる姿は、維新後・戦前の姿でなく、もっと遙か昔の「日本」誕生以前の姿であること、そしてそこから「始める」のだという思いも、
そこにはあったように僕には思えるのだ。それは戦争で荒廃した場所に「ソメイヨシノ」を植えることにより、イメージとしての「日本」を再生する行為とは異質の物だと思う。

しかし結局メタセコイアの栽培ブームは、ほぼ東京オリンピックの少し前あたりから冷めていくことになる。そうそれは「白書」で 「既に戦後は終わった」と宣言がされたのとほぼ同時期でもある。僕が駒沢公園で見たメタセコイアの木は、ブームの終わりに植えられたのである。僕も含めて、人々の記憶から「メタセコイア」は、「戦後の復興の象徴」としてでなく、単に「生きた化石」として残るようになっていく。

多分、戦後間もない時期に人々が思い描く「メタセコイア」のイメージと、現代人が「メタセコイア」に向ける眼差しは、全くと言っていいほど違うものだろう。しかし昭和天皇は違っていた。昭和天皇がご健康な時に出られた最後の歌会始 (昭和62年)で、お題「木」の御製は「あけぼの杉」を歌われている。
「わが国の たちなほし来し 年々に あけぼのすぎの木は のびにけり」
また昭和天皇は吐血後の小康状態の時、侍従に「あけぼの杉」の事を訪ねられたとも書いてあった。一人昭和天皇だけは、メタセコイアへの眼差しは戦後から変わることがなかった。
僕は、昭和天皇の日本の復興への思いの深さを知ると共に、それ以上に感じることは、日本は昭和天皇を置いて別の道を歩き始め、昭和の終わりにおける、その両者の距離の遠さである。

昭和天皇が踏みとどまったのではない、置き去りにされたのだ。そして最期の時は、装置として、メンテナンス報告を受けるかのように、毎日体温などの数値データを人々に提示し続ける存在として。メタセコイアは、天皇と人々の気持ちが近づいた戦後の物語に登場する。

そしてそれは語り続けられることのない物語かもしれない。僕は公園に植えられているメタセコイアの木が好きだ。真っ直ぐに、上に行くほど細く、遠望し見れば綺麗な円錐の姿、幹は無骨で木肌はささくれ立ってはいるが、堂々とした姿をしている。

四季折々に姿を変えるのも楽しい。しかしやはり緑が美しい初夏がよい。樹木の話をすることは人間の話をすることでもある、と僕は思う。メタセコイアの新たな繁殖も、人間の力を借りなければ成り立たなかった。それでも人間の思惑を越えたところに、樹木は存在している。メタセコイアを眺めるたびにそう思う。

2006/04/06

桜の季節 桜語りとは



shadow cherryblossoms Originally uploaded by Amehare.
今回僕が「桜の季節」と称して桜語りの連作を思い至ったのは、自分の中にある桜の特別な位置づけが、いかにして成り立ったのかを幾分かでも知りたいと思ったからだった。自分にとっての鍵語は「ざわつき感」であったが、桜を思えば思うほど「桜語り」の難しさを痛感する結果になった。桜語りの難しさは、理念化した桜が己の信念と結びつき易いことにあると思う。すなわち桜は擬人化されやすいし、擬人化したことに、僕自身も気がつかない場合が多いのである。

「桜語り」はまるで信念という光源によって映し出された影を語ることに近いかもしれない。
つまりいくら語ろうが桜に辿り着くことは難しい。それでいて自分が語る桜が影であることに気がつき、光源の外部に立って桜の実態を見たとき、そこにあるのも一つの理念化した桜ではないと誰が言えるのであろう。
その堂々巡りの言説の中に現在の桜があるとすれば、僕は桜を語ることができない。

おそらく「桜」を題材に「日本」と「日本人」について何でも語ることができることだろう。それはまさしく望みのままに「桜」を消費することが可能である。
「桜がでてくると、なぜか突然「古来から」や「日本人」が呼び出されてくる。でありながら、昭和十年代の桜の精神論のような明確な観念や思想はない。むしろ、ないからこそ安心して呼び出せるのかもしれない。なんというか、虚数空間を強引に跳躍するようなものだが、実定的(ポジティブ)な大きな物語なしに、個人化し拡散していく感情や記憶をただ一つの桜らしさへつなげていくには、たしかにこれが唯一の語り口なのかもしれない。」(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から)

今回の連作で佐藤俊樹氏の著作「桜が創った「日本」」を参照することが多かった。たぶん今後多くの「桜語り」はこの書籍を参照されていくことになるように思える。この中で「ざわつき感」について面白い話が載っていた。

よくソメイヨシノはヤマザクラの自然とくらべ人工的と多くの「桜語り」のなかでいわれる。でもソメイヨシノから見ると、自然・人工の区別はなく、「種の保存」の観点から見れば、単にソメイヨシノが人間の力を借りて種の拡大をはかったと言うのである。
そのためにソメイヨシノは人間が喜ぶ姿へと進化した。ソメイヨシノが人工的という語りの中にも、語る側の信念としての自然観があるのだと思うである。
「ソメイヨシノは彼らを取り巻く日本列島の生態系、その一部に人間社会をふくむ生態系全体にうまく適応して、空前の大繁栄を勝ちえた。それを「不自然だ」「俗悪だ」「醜い」と非難する方が、よっぽど傲慢だと思う。・・・(中略)・・・
私たちはソメイヨシノに深い不気味さや気持ち悪さを感じる。美しいにもかかわらず、どこかひどく心をざわつかさせる。それはどこかでこの自然・人工の反転に気づいているからではなかろうか」
(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から)

今年、ソメイヨシノを昨年以上に多くを観賞し写真にも撮った。美しすぎると僕はあらためて思った。
でもその感覚は梶井基次郎とも坂口安吾とも違う。話は脱線するが、なぜ坂口安吾のあの小説がこれほど高い評価を得ているのかも僕にとっては不思議だった。勿論よい作品だと思うが、少なくとも僕は、評論家の奥野健男氏が評価するほどとも思えなかった。
「グロテスクの極致がこの世のものではない美をつくり出した傑作で,民族の深層意識をえぐり,未来的な芸術を暗示している」
(奥野健男氏)

「民族の深層心理」とは一体何なのだろう。それは理念化した「桜」がそう思わせているだけではないのだろうか。この評価が成立する時代を僕らはとうに越えてしまったのではないか。そう思えるのである。

では僕の「ざわつき感」とは一体何かと問えば、それは僕の自己中心性からやってくるのだと思う。おそらく僕は春を待ち望んでいるのだ。自己の不全感が、春になり変わっていくような期待感の具体的な姿として「桜」があるように思えるのである。
自己の不全感を解消するのは他力ではない、それは当然に知っている。でも「桜」により動かされることもあると僕は思うのである。ゆえに梶井と坂口の感じる桜を、そういう部分もあることを少しは内心認めていながらも、僕はそれを自分から受け入れているのだと思うのである。

2006/03/14

Tokyo Tower-3



Tokyo Tower, originally uploaded by Amehare.

日本の文化は何かと問われれば、僕は東京タワーだと答える。この構造物に結実した姿はまごうこともない一つの戦後であり、新たな日本の近代の落し子でもある。「日本文化」について僕は否定的な態度を持つが、それは有史以来の連続とした姿をそこに見せるからである。文化そのものを否定しているつもりはない。ただ「文化」を語る際には、それが近代以降に誕生した言説であるがゆえに、「人種」「民族」「国家」と複雑に絡まり、特に「人種主義」の再生産に加担しないよう、慎重に言葉を選んで話さなければならない、と僕は思っている。

東京タワー公式ページには創業者前田久吉の心情を以下のように書いている。

「科学技術が伸展した現代では、300メートルの塔をたてるくらい、あえて至難の業でもあるまいと考えた。やれば必ずできる、と私は膝をうつ思いだった。つまり私の東京タワー建設に対しての自信と決意は、京都東寺の五重塔からあたえられた、ともいえる。」
京都東寺の五重塔は現存する木造建築の中で最長の塔である。東京タワー建築の背景に東寺五重塔が入り込むことに僕は不自然さを感じるし、「東京タワー建設に対しての自信と決意」が何故東寺五重塔から得られるのかもわからない。ただそこには敗戦国日本の復興と国民の自信喪失からの回復が、高さを追求するだけでなく、維新を遡る歴史に求める心情が見え隠れするのである。仏教建築の五重塔はもともと釈迦の舎利を納める場所である。つまりはお墓なのである。よってその意思は地下への指向性にあり、決して高みへの意思ではない。五重塔に高みへの指向を見るのは近代の思想でもある。
「どうせつくるなら世界一を……。エッフェル塔 (320m)をしのぐものでなければ意味がない」
まず東京タワーに求めたのは高さである。それはモノづくりから自信を回復してきたこの国にとって、建築途中を目で見えることで具体的な自信回復の姿となったと僕は思う。そして具体的な数値として、エッフェル塔の高さが与えられる。「エッフェル塔をしのぐものでなければ意味がない」、その言葉は、東寺五重塔から自信と決意を得られたとの言葉よりもリアリティを持って僕には受け取ることができる。それはエッフェル塔が当時自立鉄筋塔で世界一の高さを誇っていたことだけではない。何よりそれはドイツに占領されたとしても、戦勝国の一員でもあるフランスの、しかも欧州を代表する古都パリを表象する建造物である。さらに東京タワーのデザインはエッフェル塔に似ている。エッフェル塔よりも高い「エッフェル塔に似た塔」を敗戦国の首都東京に建築する、その意味を思う。
「東京タワーがエッフェル塔との対比においていかにも東京とパリという二つの都市の関係を、ひいては日本とフランスないし西欧との関係を、表象し象徴していることだ。具体的には、九割の模倣と一割の臆病な逸脱。」
(池澤夏樹「読書癖4」より)
高みからの展望は都市を一つの自然風景にする。眼下にある建築物に、通りに、家々に、人の生活感は薄まる。地上における感覚とは異なる感覚、さらにそれは夜景によって増幅する。映画化された江國香織氏の小説「Tokyo Tower」は、21歳の透と41歳の詩史、21歳の耕二と35歳の喜美子という二組の純愛を描いていると聞く、実は小説も映画もどちらも知らない僕が言うことではないが、江國香織氏の題名の巧みさに、この物語の内容がそれを知らない僕にでさえ伝わる。

2005/07/14

書籍「八月十五日の神話」感想でなく雑感

「八月十五日の神話」(ちくま新書 佐藤卓己著)はメディア論を中心にし、八月十五日が「終戦記念日」として日本人に受け入れられてきた理由を実証的に解明している。佐藤氏は学究者としての立ち位置を崩すことなく、あくまで実証的な態度で書いている。少なくとも僕にとっては良書だと思う。この問題を扱った他の書籍を読んでいないので較べることができないが、この書籍を出すのに日本は戦後60年の時間を必要としたのではないかという思いを持つ。

実証的な態度で書かれていると僕は言ったが、佐藤氏の背景に「敗戦後論」(加藤典洋著)の影響があるように思える。それは本書中に「八月十五日の神話」が重要な箇所で引用され、その考えが了解されているから感じるのであるが、だとすれば研究する佐藤氏の意識の中に加藤氏のいうところの「ねじれ」があったとしても不思議でない。多くの批判と論争を呼んだ「敗戦後論」について、僕としては加藤氏の意見に全てではないが納得することが多かった。だからこそ僕が佐藤氏のこの書籍に違和感を覚える事が少なかったのかもしれない。

八月十五日が終戦記念日となった理由の一つとして佐藤氏は以下のように書いている。
『進歩派の「八・十五革命」は保守派の「八・十五神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。』
(「八月十五日の神話」 佐藤卓己著 P256から引用)
進歩派の革命とは丸山真男の「八月十五日革命論」のことであり、保守派の方は九月二日の敗戦を象徴する降伏文書調印を忘れ、敗戦を終戦に変える意味である。さらに佐藤氏は、「八・十五革命」は戦前から戦後への連続性を見えなくする効果があるとも言っている。具体的には、敗戦によって破綻したメディア企業はほとんどなく続いているのである。この点が佐藤氏がさらに追求したい核みたいなものだと僕は思う。ただ、この書籍ではこれ以上は続かない。

「八月十五日の神話」の感想とは、具体的な本書の内容を書き表すことではないと僕は思っている。何故僕が今この本を読むのかという問いかけ、それは時代の雰囲気が僕に要請しているかだとは思うが、その問いかけに対して僕がどのように答えるかだと思うのだ。そして読んだ後に何が自分に残ったのかという事。その二つの質問に答えることが、この書籍の感想に値するのではないかと思う。でもそれにはしばらくの時間が必要なのは間違いない。

歴史は政治でもある。以下に本書に現れた主な日にちを記した。どの日を選択するかは、その人の考え方によって変わることだろう。佐藤氏は、沖縄の「慰霊の日」と「平和の日」から以下のように言っている。
『お盆の「八月十五日の心理」を尊重しつつ、それと同時に夏休み明けの教室で「九月二日の論理」を学ぶべきだろう』(同書 P258から引用)

1945年6月23日 沖縄 守備軍組織的戦闘終結「沖縄慰霊の日」
7月2日  沖縄戦米国側終結宣言
8月6日  広島原爆
8月9日  長崎原爆
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 玉音放送 1963年閣議で実質「終戦記念日」と法的に定める。
8月16日 日本軍への戦闘停止命令
9月2日  ミズーリ艦上での降伏調印 米国等の対日戦勝記念日
9月3日  旧ソビエト北方諸島ほぼ占領 ロシア・中国の対日戦勝記念日
9月5日  旧ソビエト歯舞群島占領完了
9月7日  沖縄 残存日本軍降伏調印 「沖縄 市民平和の日」
1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約調印
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 日本占領終了
1972年5月15日 米軍沖縄占領終了

ちなみに僕は、8月15日のラジオ放送において、玉音放送(4分37秒)の他に放送委員の解説と再朗読、さらに内閣の国民に対する告論、ポツダム宣言受諾までの経緯と各文書の内容などを放送し、総放送時間は37分30秒に及ぶ時間であったことを知らなかった。終戦詔書の漢文混じりの難解な文体を、即時理解できる能力があったのかと単純に思っていただけだった。その意味では僕は全くこの件に関して無知であったと思う。

2005/06/21

シガーの事など

新宿に会社があったとき、今は別の場所に移転したのだが、紀伊国屋ビルの1階にあるタバコ屋さんに時々いった。シガーを買うのである。キューバ産のシガーは一本数千円する。しかもそれらのシガーはワイン貯蔵庫のように冷蔵され保管されている。その一本一本を吟味し、今日買って楽しむのはどれにしようかと考えるのである。結局、垂涎のシガーは見るだけで、一本千円位ので我慢することになるのだが、色々と迷うのは楽しい。

シガーはカッティングが命だから、カッターが重要となる。ギロチンの様に一気に均等に切る。よく西部劇などで、シガーを歯で噛み切るシーンがあるが、あれは決して、してはいけないことだ。噛み切るくらいなら、爪でちぎったほうがよっぽど美味しい。

喫味はカット面が大きいほど薄くなり、小さいほど濃くなる。勿論、火はマッチで擦ってつける、マッチもシガー用マッチでつけなければ美味しくはない。シガー用のマッチは長くて、成分としてイオウ分が少ない。

吸うときは、煙を口の中で転がす様に、肺に入れるのは少なめ、シガーは煙の味を楽しむ遊びなのだ。逆にだからこそ、喫煙場所は選ぶ事になる。一本吸い終るのに数十分かかる。匂いもシガーによって独特なので、街中で吸うわけにはいかない。どこかの適切な場所、例えばシガーバーなどに行く事になる。もしくは自宅でしかすえない。バーなどでも、匂いがきついため、お酒の匂いを楽しむ人にとって、パイプと同様に嫌がられることもある。まずは吸って良いか聞く事から始まるのは、今に始まったことではない。

考え様によっては、タバコ自体、今では吸う場所がかなり制限されている。でも、シガーもしくはパイプ好きにとっては、本当に昔から吸う場所は少なかった。

映画俳優でヘビースモーカーといえば、現在ではまずジョニーディップがあげられるだろう。ジョニーディップがタバコを吸っている写真は多い。ある写真を見たが、どうもシガレットでなくシガーだった様にみえた。少なくとも紙巻タバコではなかった。煙たそうにタバコをすう姿が似合っている。

聞くところによれば、ジョニーディップが出演した映画「デッドマン」では、彼が演じる役はタバコが吸えない男だった。そして、その彼はまわりから「たばこがないか」と聞かれ、「俺は吸わない」と答えるそうだ。そのセリフはジョニーディップがヘビースモーカーである事をしって監督がわざと付け加えたのだそうだ。

日本人でシガーが似合う男といえば、やはり吉田茂だと思う。彼のシガーはキューバでの最古ブランドである「ラ・コロナ」であった。彼は、伝説のブランドであるキューバ産シガーを吸う事で、政治家として一つの演出効果をだす事でもあったと思う。

吉田茂と同じ時期の政治家としては、チャーチルもシガー好きであった。彼のシガーはハバナ産だった。

政治家で忘れてならないのは、ケネディだろう。これはあるサイトで知ったのだが、ケネディはキューバ産のシガーを愛好していた。彼はそのシガーを大量に買い占めた後に、キューバ経済封鎖にゴーサインを出したといわれている。本当かどうかわからない逸話だが、僕は信じている。

最近僕はシガーを買っていない。好きなことは好きなのだが、わざわざ買いに行くほど好きでもないのかもしれない。それに一本数千円というのは、よほどのときでない限り吸えないのも事実でもある。ジンクスとして、映画では吸っていないシガーを胸ポケットにいれ、成功したときに吸うシーンが出てくる。日本で言えば、達磨に目を入れるのと同じだろう。できれば、そのまま達磨に目を入れるジンクスでいて欲しいと願う。選挙当選でシガーを吸えば、きっとシガーのイメージが悪くなるように思えるからだ。まぁ、そんな願いはしなくても大丈夫だとは思うが(笑

2005/03/09

花森安治「戦場」とNHKスペシャルでの東京大空襲

NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」を見た。その時に花森安治さんの文章「戦場」を思い出した。その文章で花森さんは、東京大空襲の経験を散文調で書いている。「戦場」とは空襲にあった地域のことを言っている。しかし花森さんが「戦場」と呼んだ場所は、現代でもそうは呼ばれてはいない。だから、僕は彼の文章をブログを通して紹介したいと思った。
(以下 『』 内の文は全て花森安治さんの「戦場」からの引用です。)
『戦場とここの間に 海があった 兵隊たちは 死ななければ その海をこえて ここへは 帰ってこられなかった』
それまで米軍は軍需工場への爆弾によるピンポイント攻撃に終始していた。その作戦を変えたのはカーチス・E・ルメイ将軍だった。彼にとって民間人を攻撃する理由は、軍需工場の従事者を減らすこと、それと戦意を落とすことにあった。彼は日本の木造家屋を効率的に消失する焼夷弾の研究を行う。その結果できたのが東京大空襲に使用された焼夷弾だった。

この焼夷弾は投下後、空中で複数の焼夷筒に分裂し、日本の木造家屋の瓦屋根を突き抜け部屋の中に刺さる。その後、ゼリー状の燃えた油が飛び散り、家屋を内側から燃やしていく。その焼夷弾が100万発投下されたのだった。

まず攻撃地域の外側をぐるりと爆撃し、逃げ場を失わせてから、その内側を爆撃する。外に出る物があれば、B29の機関銃によって撃たれる。いわば「皆殺し作戦」でもあった。
『地上 そこは<戦場>では なかった この すさまじい焼夷弾攻撃にさらされている この瞬間にも おそらく ここが これが<戦場>だとは だれひとり おもっていなかった』
ある男性は学校に逃げ込んだ、襲いかかる炎をさらに逃げようと、彼は学校のプールに飛び込んだ。そこには既に大勢の炎から逃れた人で溢れていた。彼は、同じように学校に逃れた母と姉と妹の事を気遣うゆとりは全くなかった。
プールの中で人は押し合い、彼をプールの最深部の方に押しやった。プールの最深部は人が立つことができない深さだ。人に押され最深部で溺れる人が出てくる。そして、その溺れる人の上に乗って助かろうとする者もいる。
彼はそういうことにはならなかったが、助かった後に自分の妹がプールで溺れ死んでいるのを発見する。90才近い今となっても、彼は自分が(押すことで)妹を殺したのではないかと悩み続ける。

ある病院の看護婦だった彼女は、このままでは病院ごと患者さんが焼死してしまう恐れから、看護婦全員それぞれに患者さんを割り当て、病院から脱出する。
亀戸当たりまで逃げたとき、逃げる先が炎に包まれていることがわかる。患者さん達は、どうせ死ぬのなら病院で死にたいと看護婦さん達に願い、彼女たちもそうしようと再度病院に戻る。

決死の思いで再び病院にたどり着いたとき、病院は全焼していたが既に鎮火していて、患者さん達と共に一命をとりとめる。でも戻ってこない看護婦さん達が数名いるのに気が付く。戻っていない人は、重傷患者さん達に付き添った看護婦さん達だった。
生き残った彼女は、戻ってこなかった彼女たちの命の重さに、適うだけの人生を送ったのだろうか、と自問自答する人生を送ることになる。

幼い子供を背負い、夫と共に橋に逃げた彼女は、橋の上が人で溢れているのを目撃し、炎から逃れるため隅田川に入っていく。そこは3月の初旬、身も凍る冷たさだ。背負う子供が濡れないように気を遣う彼女。その時、寒さから猛烈な睡魔に襲われる。このままでは子供が危ない。そう思った彼女は隅田川に浮かぶ大八車にしがみつく。でもそこには既に多くの人がいて夫の場所までは確保できない。夫は無表情に隅田川の中で立ちつくしている。
彼女は大八車にしがみついたまま意識がなくなる。気がつくと既に朝、回りに夫の姿はみえない。夫は寒さから力尽き流されてしまったのだ。子供はうなだれ意識がない。子供も全身が濡れ凍死していた。彼女は子供を背負っていたので、背中が濡れず助かったのだった。
子供を守らなくてはならない親が、逆に子供の犠牲で助かったことを彼女は生涯思い続けることになる。

これらの証言は全て、NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」で放映していた内容を僕がまとめた。彼らの証言は尊い。そして誰1人、焼夷弾を投下した米国の話も、戦争に導いた当時日本の政府の話もなかった。割愛された可能性もあるが、放送を見て、彼らが語る表情からそれは感じることはできなかった。正直に自分の思いを語っている様だった。彼らにとって東京大空襲は、日米両国の戦争が原因であることは知ってはいるが、身内が亡くなった問題を自分の内で捉えている様でもある。彼らが見ていたのは、敵と相まみえる戦場の姿でなく、烈しく襲いかかる炎と、そこで焼け死ぬ人、逃げまどう人々の姿だった。
『爆弾は 恐しいが 焼夷弾は こわくないと 教えられていた 焼夷弾はたたけば消える 必ず消せ と教えられていた みんな その通りにした 気がついたときは 逃げみちは なかった まわり全部が 千度をこえる高熱の焔であった しかも だれひとり いま<戦場>で 死んでゆくのだ とは おもわないで 死んでいった』
『しかし ここは <戦場>ではなかった この風景は 単なる<焼け跡>にすぎなかった ここで死んでいる人たちを だれも <戦死者>とは呼ばなかった この気だるい風景のなかを働いている人たちは 正式には 単に<被災者>であった それだけであった』
NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」放映のきっかけとなったのは、最近見つかったリストによる。そのリストには犠牲になった方々の亡くなられた場所が書き示されていた。それによって、犠牲者が自宅からどのように逃げ回ったのかが推測できる。そのリストでは、犠牲者の欄名が「被災者」と明示されていた。

大本営の発表では、空襲があり何時何分に鎮火したとの報告しかなく、犠牲者の数は全国に知らされることはなかった。亡くなられた方は約10万3千人。これは広島長崎の犠牲者を上回る。これ以降、米軍の爆撃は焼夷弾投下中心に切り替わる。でもその対応と対策を当時の政府はなにもしなかった。あの炎の中では、深さ2mくらいの防空壕では何の役にも立たなかったと思う。防空壕の上を数千度の炎が通り過ぎる毎に、その防空壕の中の人は、地獄の責め苦の様な凄まじい死を迎えたのではないだろうか。彼らは民間人で、公式にはそこは戦場ではなかった、だからだれも彼らを戦死者として扱わなかった。そして、その様な死に方がふさわしい人なんて誰もいなかった。
『ここが みんなの町が <戦場>だった こここそ 今度の戦場で もっとも凄惨苛烈な <戦場>だった』
花森安治さんは焼け跡を歩き続けた。呼吸をしている自分を意識することで、自分が生きていることがわかる。そして歩き続ける。沢山の人が死んでいる。その中で花森さんは「生きていてほしい」と願う。しかし自分はこれからどうして生きてゆくのかわからない。
彼が戦後「暮らし」を守る為に戦う様になる。その出発点がこの焼け跡を歩くことだったと僕は思う。
『とにかく 生きていた 生きているということは 呼吸をしている ということだった それでも とにかく 生きていた』
3月10日の東京大空襲以降、数回米軍は焼夷弾による空襲を行う。そして5月の終わりには焼夷弾で燃やす物は東京にはなくなる。
東京大空襲と呼ばれる空襲は、3月10日の空襲を言う。大空襲の「大」とは、犠牲者の数でもあり、使われた焼夷弾の数でもある。でも空襲に遭った人から見れば「大」も「小」もない。
『戦争の終わった日 八月十五日 靖国神社の境内 海の向こうの<戦場>で死んだ 父の 夫の 息子の 兄弟の その死が なんの意味もなかった そのおもいが 胸のうちをかきむしり 号泣となって 噴き上げた』
『しかし ここの この<戦場>で 死んでいった人たち その死については どこに向かって 泣けばよいのか その日 日本列島は 晴れであった』
東京大空襲を計画立案したカーチス・E・ルメイ将軍について、NHKの取材に応じた米軍関係者によれば、倫理観が高いとは言えない人だったらしい。だから、空襲で女性と子供を含む民間人が犠牲になったことについて、なんら逡巡はなかった。

その後彼は、グアム島米軍爆撃隊の司令官となり、広島長崎の原爆投下に深い係わりをもったと言われている。

カーチス・E・ルメイ将軍はその後、航空自衛隊設立への高い貢献が認められ、日本国から勲一等旭日大綬章が送られている。それを送ったのは後にノーベル平和賞を受賞する佐藤栄作首相だった。

政府レベルでは、辛い過去のことを乗り越えて、未来志向で行きましょう、と言うことなのかもしれない。でも僕にとっては政治に未来志向の言葉にウソを感じる。政治はあくまで現実主義という名の「その場主義」だと思うのだ。

両国の狭間で、業火に逃げまどい、焼かれなくなって行った人たちの思いは、花森さんの言うとおりに何処に向かうのであろうか。

明日3月10日00:08に開始した東京大空襲から、もうすぐ満60年を迎える。犠牲に遭われた約10万3千人の御霊が安らかにと祈る。それは少なくとも、この記憶を風化させないことなのだと、今生きている僕は思っている。

2005/01/17

阪神大震災から10年目、河島英五の唄

産経新聞に毎日連載している記事に「凛として」がある。既に亡くなられた著名人をエピソードを中心に、その人となりを紹介している。今連載している人は「河島英五」だ。その中で、彼が「復興の詩」を始めるに至った話が出ていたので、少し紹介します。

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『それとは別に、長い目で、何か自分なりにできることがあればいいな…と、英五は乗り気を見せた。
「おれは大阪でやるわ。大阪は神戸の隣町や。これからずっと助けなあかんと大阪の連中に訴えたい」

前田との五時間ほどの打ち合わせで、広告費はかけず、収益は全額寄付することが決まった。
「生きてりゃいいさ」(昭和五十五年)をプログラムに加えてほしい、と前田が頼むと、「そうやな…考えとくわ」と英五は返事した。

英五は東大阪市で育った。「河内のど関西人」と言われもするが、そうしたイメージに縛られるのを嫌っていた。
シンガー・ソングライターとも自称せず、「一歌手」といい続けた。神戸と格別な縁はなかったが、開放的な港町が好きだったらしい。
「この街はいい街やな、という中に、坂道の函館とか尾道とか、神戸は絶対入るよね」と桑名に語っている。

一八二センチ、八〇キロの体格。思い立ったことは、その体で躊躇(ちゅうちよ)せず実行する。若いミュージシャンを引き連れ、大阪城公園やJRガード下で自らビラを配り、路上で歌った。

「四月二十九日、大阪城野外音楽堂で、河島英五プロデュース、復興の詩(うた)チャリティーコンサートがあります。よろしくお願いします」。
口上が終わると、一同はギターをかき鳴らし、数時間歌い続けた。』

(産経新聞 2005年1月10日東京朝刊 「凛として」から引用)

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第一回の「復興の詩」終了後、河島英五は経費を自己負担し10年は続けると宣言した。しかし10年目の「復興の詩」開催には彼の姿はコンサートで見ることはなかった。彼は7回目の直前、平成十三年四月に四十八歳で急逝したのだった。そして7回目は遺影での参加となった。

「復興の詩」開催するにあたり、河島英五の唄「生きてりゃいいさ」が大きな役目を持ったのは事実だろう。それ以上にこの唄が「復興の詩」開催の動機になったと言ってもいいのかもしれない。しかしその唄も河島英五という人がいて、歌ったからこそ、阪神大震災の多くの被災者達に勇気と感動を与えたのだと思う。

河島英五は、一見するとその体格の良さと、彼を代表する「酒と涙と男と女」のイメージから豪放磊落で酒好きのイメージがあるかもしれないが、実際にはその唄を作った時、一滴もお酒は飲めなかったらしい。常にギターを側に置いて離さず、少しの暇さえあればギターを演奏し歌った。名が知られるようになっても路上で歌い続けた。

「生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいさ
喜びも悲しみも 立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ」
(河島英五「生きてりゃいいさ」から)
僕のiPodには数が少ないが日本の歌も入っていて、その中に河島英五もいる。彼の歌を時折聴く。彼の歌声は正直言って美しくはないが、何か心を揺さぶるものがある。それは彼の音楽に対する真摯な気持ちが人に与えるのだと思う。それにしても、河島英五がいなくなり、後に続く歌手はいるのだろうか。歌の持つ本来的な強さを信じる事が出来る歌手は、今日本にどのくらいいるのだろう。ふと、そんなことも考えたりしている。

今年1月17日に阪神大震災から10年目を迎えた。その10年間に多くの災害があった。
新潟県中越地震、三宅島噴火、スマトラ沖大地震とインド洋大津波。1つ1つの災害がおきた日は、それぞれの被災者達にとって忘れることが出来ない日になることだろう。災害では多くのボランティア達が、人の為に働いた事も忘れることが出来ない。人を癒すのはやはり人なのかもしれないなどと、河島英五を聞きながら思った。

2004/12/10

DDIポケット、日本テレコムの八剱氏を社長に

DDIポケットが誕生したのが、今から10年前の1994年のことだった。実際には当時親会社であったDDI(現KDDI)での検討は1990年か ら行われている。当時検討に中心的な役割を担っていたのが、現在イーアクセスCEOの千本倖生さんだ。事業会社になってからもポケットの中心的な人物で あったが、何故か急な退陣となる。一説には当時DDI会長だった稲森京セラ名誉会長との軋轢があったと噂されている。

その後DDIはIDO、KDDと合併しKDDIとなる。DDIポケットはPHS事業としてはドコモ、アステルを押さえシェアでは常にトップで居続け た。ただし、PHS事業全体が携帯との違いを明確にすることが出来ず、市場では安価な携帯電話の位置づけとなってしまった。その後の携帯電話の値下げ・ i-modeなどの新サービス展開により、携帯に較べ影が薄かった事もあり、事業は先細りとなっていく。いつまでたっても利益を出せないDDIポケットは いつの間にかKDDIのお荷物的存在になっていった。

DDIが発足したとき、新電電3社として他に設立したのが、JR系の日本テレコム、トヨタと道路公団系のテレウェイだった。日本テレコムはその後鉄 道通信と合併し、国際新電電の1つであった日本国際通信と合併、その後様々な変遷しリップルウッドグループからソフトバンクグループ傘下になる。ソフトバ ンク社長は勿論あのYahooBBの孫正義さんである。テレウェイはその後KDDと合併する。

DDIポケット社長から突然の解任の後、DDIを退職した千本倖生さんはイーアクセスを立ち上げる。千本さんは元電電公社時代に技師として世界的に 名を馳せた人だったが、京セラの稲森会長に引き抜きにあいDDIに専務として迎えられた。千本さんと共に電電公社から移った人がDDIとDDIポケットを 育てていった。その中の一人が現KDDI社長の小野寺さんだ。またもう一人小野寺さんのライバルであった種野さんと言う方もいたが、競争に負け退職し今で はイーアクセスの千本さんの右腕として活躍されている。

日本テレコムとDDIポケットは昔はライバル同士であった。そのライバル会社の社長がDDIポケットの社長になる。時代の変遷を感じてしまう。
今年DDIポケットはKDDIからカーライル傘下になり、来年は社名をウィルコムにかわる。

僕のように文章で大まかに語る事は誰でも出来る。ただ、その中には無数の企業人達の営みがある。そして無数の大小のプロジェクトが行われ、成功したものや失敗したもの、それぞれに語り尽くせない物語がそこにはあるのだと思う。勿論それは何処の企業でも同じだとは思うが。

現在の通信会社は固定電話での収入でなく、インターネット、そして携帯電話事業による収入で占められている。それも時代の流れだと思う。勿論、日本 テレコムの社長がDDIポケットの社長になることが、1つの時代の終わりを示すことではない。ただ、ビジネスとして扱ってきた各サービスも、それを作って きた多くの人達にとって、単にビジネスで割り切れるものでなく、その人の人生の一部分をそれに投与してきた現れと思う。そして、この激しい通信業界で DDIポケットに関与してきた人達は、このニュースで一抹の複雑な思いをその胸に去来させたことだろう。

携帯電話事業の後に続く事業はいったい何であろうか?多分それは携帯電話のIP化であり、高速化であり、常時接続化であるのだろう。さらに小型軽量 化し多機能となっていくと思う。それらが社会に与える影響はどの様になるかはわからないが、監視端末の一端を担う事だけにはなって欲しくはない。

2004/11/20

水辺月夜の歌

口語体で新しい詩の境地を開いた萩原朔太郎は佐藤春夫の詩を評して現代的でないと言う。それに答えての春夫の言葉が、この二人の会話を文学史の中で 忘れられないものにしている。つまり、春夫は自らの詩を伝統に繋がるもの、和漢朗詠集と琴唄と藤村詩集とは僕の伝統だと答えている。萩原朔太郎は晩年に悩んだすえ文語の詩に回帰する。そして佐藤春夫は死ぬまで文語を捨てる事はなかった。

当然に僕は文語体の文章を知らない。それは言葉は生活に根付いているものだと思うからだ。文語体は平安時代の口語体が固定して明治維新まで繋がって いる言葉だと聞いた事がある。だとすると文語体は千年の間、さまざまな形で工夫が施されてきたことになる。繋がっている言葉とは、生活で普通に使われてい る言葉の事だ。生活感がない言葉で書かれている言葉は実感できないと思う。つまり言葉もやはり時代を写し取る鏡なのかもしれない。してみると、日本では平 安以降約一千年間、基本的には変わらぬ日常があったのかもしれない。いやいやそうでは無かったと考える。文語体がその時々の時代の変化に耐えうる言葉だっ たように思えるのだ。

生活に密接でない文語体の文章には実感ができないと書いたが、やはりそれにも例外はある。例えば島村藤村、北原白秋、佐藤春夫の一連の詩は、時とし て愛唱歌となり、人によっては自然に口ずさむ事もあるだろう。それらは歌になる事で忘れられない詩になったとも言える。それに詩に関しては文語体のほうが 何故かわかりやすい様に思える時もある。多分現代詩の場合、詩人達は色々なものを求め、そして詩に組み込み過ぎるからではないかと、素人ながら思う。それ に較べ以前の詩は単純で、例えば恋歌の場合、ただ人を恋いうる詩であったように思える。さすれば、前記の詩人達の心持を現代で真に継承したのは、アーティ ストと自らを呼ぶミュージシャン達なのかもしれない。

たまに映画で詩を朗吟する場面が出てくるときがある。映画で朗吟する詩は、演じる役所の社会で尊敬を受ける詩人が殆どのような気がした。また、朗吟 する詩を何を選ぶかで、その人の思想から性格まであらわしているようにも思える。それを考えると、日本の歴史で最も知られている朗吟は織田信長が桶狭間の 合戦に赴く時に「敦盛」の一節かもしれない。

「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

この詩は織田信長の人生観を現しているように思える。実際は「敦盛」は多くの武将が好んだらしいが、織田信長だからこそと思わせる内容が、この詩を して後世に伝えられたのだと思う。転じて現代の日本で朗吟する詩は一体何になるのだろうか。詩の選択には朗吟する状況にあわせる必要があるが、いかなる状 況を見ても僕には少しも思いつかない。佐藤春夫の詩は朗吟に耐えられる言葉の強さがある様に思えるが、如何にせん、僕が彼の詩で良いと思うのは恋歌ばかり である。


せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞしむ
もののあはれを知るゆゑに
水の光りぞなげかるる
身をうたかたとおもふとも
うたかたならじわが思ひ
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに


僕は文語体詩を懐かしく思い、無くなったものに対し美しく賛美しているのだろうか?それはないと思う。何故なら僕は文語体を知らないし生活の中で 使った事もないので、実際の所、美しいかどうかも不明である。だから僕には無くなったものに対する感傷はほとんどない。ただ、明治になり日本が無くしたも のと得たものを知りたいと思う気持ちが、この話題につながっている。そしてそれは明治から現代に続く道程でも同じ事が言える。かつ個々のプラスとマイナス の総計で理解できる範疇ではないように思えて仕方がない。

文語体から口語体に変わった一番の理由は、文語体が不便だったかららしい。でも現代でも、時折言葉を無くす状況に多く見舞われる。それは多分に自分 自身の語彙不足が原因だと思うが、単語自体に社会が持っている共通認識が崩れている事もあるように思える。だからその様な状況のときは言葉が冗長になり、 簡潔にはならず、そこから誤解を生じる事も多いように思える。

また別の角度で見ても、世代別に、「単語」とか「ことわざ」「慣用語」の内容は、それの正誤とは別に、日常会話の中で使われ方が違ってきている。今後ますますその傾向が強まり、大人達は子供達と会話をあわせるために、今まで使ってきた言葉を使わない傾向になると思える。しかし大人達にとってそれらの 言葉は、生活に根付いた言葉ではないので、そこに混乱が生じているように感じる。言葉が生活に根付いている限り、時代と共に変化する事は当然だとは思う が、その変化はネット、携帯電話などのコミュニケーションの輪が広がることで加速的な状況になっている印象がある。

言葉を便利にするために文語体から口語体に統一し、さらに新かなでやさしくなり、ネット等でコミュニケーションの輪が広がる中で、言葉が喪失の方向に向かっている事に皮肉を感じるとしたら、それは僕の認識不足なのだろうか。

追記:
・読み返してみると、内容にまとまりがない感を受ける。何気なく書き始めたけど、何か地雷を踏んだような気になっている。また時期をみて書いてみようと思う。
・実は朗吟の連想から最初に思い出した詩は、西脇順三郎だったが、続けて思い出したのはバイロンだった。「口づけ」という詩で、短いけど情熱的で若さがある。少し恥ずかしいけど載せる。

A long long kiss
A youth of kiss
and love
(長き長き口づけ、若き日の口づけ、そして愛)

2004/10/26

棟梁 堀江佐吉

以前に西洋館の事に興味を持ち、書籍で現存する色々な写真を眺めた事がある。その中で特に一人の棟梁(注1)の名前が目に付いた。主に明治後期に青森県弘前で活躍した堀江佐吉である。しばらくこの名前を忘れていたが、再び思い出すきっかけになったのが、「斜陽館」の重要文化財指定であった。彼が設計・施工した建築物で重要文化財になったのは3点目となった。

堀江佐吉は幕末に津軽藩お抱え大工の子供として1845年に弘前にて産まれた。産まれながらにして非凡な大工の血筋を受け継ぎ、子供の頃より熱心で 好奇心が旺盛だった彼は、当時大工の必読書と呼ばれる書籍(注1)を朱線を引いて熱心に勉強する。又、15才の頃には当時海外事情を伝える絵入り本「海外 余話」(酔夢痴人著、1851年刊、全5冊)を絵も含め克明に書き写したほか、外国の風俗画を見入っては興味を募らせていたと伝えられている。

幕末で活躍した人達の伝記を読むと、大体は子供の頃に猛勉強をしたとなっている。堀江佐吉もそれにもれずかなりの勉強家だったようだ。それに「海外余話」の 絵は聞くところによると結構細密画に近い絵だったようなので、それを書き写す事は、大工にとって必要な画才と文才が磨かれていった事だと思う。これほど好 奇心が旺盛で、しかも才能豊かな大工である佐吉は、外国に行きたい気持ちは人一倍強かったのではないだろうか。多分、色々な異国の書籍を読みながら、若 かった頃の佐吉は内心色々な思いに駆られた事だろう。

その当時、明治政府は西洋建築の技術を学ぶため英国より才能豊かな一人の若い建築家を雇った。名前をジョサイア・コンドルと いう。イギリスでは一流建築家の登竜門であるソーン賞を受賞した新進気鋭の建築家だった。彼は1877年に来日して工部大学校教師に就任した。彼の元に は、その後、明治の近代建築家を代表する人材が集まり育っていった。辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊と言った面々である。コンドルを含む、彼らの業績を簡単 に記す。

ジョサイア・コンドルは鹿鳴館(1883)の建築がまずあげられる。その後1884年に 工部大学校を解雇させられている。その理由はわからないが、その後に就任したのが彼の一番弟子である辰野金吾である。解雇後も日本にとどまり、建築事務所 を開設し多くの財界人の依頼で建築を行っている。ニコライ堂(1891) 、岩崎久弥邸(1896) 、三井倶楽部(1913) 、諸戸邸(1913)等。日本文化を愛し、日本人の妻をめとり、終生日本で暮らした。彼はその後日本近代建築の父と呼ばれた。

辰野金吾は、コンドルの元で勉強し主席で工部大学校を卒業、その後イギリスに留学し戻ってから工部大学校教授となる。代表作は日本銀行本店(1896)、奈良ホテル(1909)、東京駅(1914) 等
片山東熊は一生を宮廷建築家として活躍した。代表作として赤坂離宮(迎賓館)があげられる。山県有朋の厚い信頼を得ていたと伝えられている。
曽禰達蔵はコンドルと同じ歳であり、特にコンドルとの親交が深く、かつ強い師弟関係の間柄であった、そしてコンドルと共に丸の内の街並(オフィス街)を作った。他に代表作は慶応大学図書館がある。彼には辰野の2番手の印象が強いが、人望に篤く人格者だった。

僕は日本に現存する西洋館の中で、諸戸邸(洋館部)は特に美しい建築だと思っている。諸戸邸は典型的な和洋折衷の建物で、コンドルはその洋館部分を設計した。
こ れら4人の建築物を見てみると、建築における日本の歴史の表舞台といった印象を受ける。政府および財閥からの依頼による建築が殆どなのだ。語られる歴史は 常に中央の歴史かもしれない、でも歴史は中央だけでは造る事は出来ないと思う。いや、もっと踏み込んで言えば、歴史は語り継げる事のない人々によって、実 際は造られているのだとさえ僕は思う。ちなみに、百科事典で上記の4人の名前を探し調べる事が出来る。でも堀江佐吉は百科事典(エンカルタ)には載っても いなかった。

話を堀江に戻す。堀江は外国に行きたいという強い気持ちを抑えながら、父(堀江伊兵衛)の元で修行を続ける。初仕事は16 才、堀江家菩提寺の専徳寺の欄干の竜の彫り物だった。見事な彫り物だったと伝えている。その後21才で結婚(妻の名前はさた)し10人の子宝に恵まれる。 仕事は熱心で骨身を惜しまず、リーダシップもあり、若くして棟梁となる。佐吉は、技は天才、剛胆、無欲、自らが先に率先して動き、義侠心に富み、統率力と 包容力を持っていた。

現代で考えると、僕が書いた佐吉の人柄は完璧すぎるので、疑いをもって見られる事だと思う。でも伝え聞くところによ ると、若い時から棟梁として、数百人の大工を率い、家には一切の貯えがなく、しかし信用は落ちる事がなく、田舎大工の風采で仕事に没頭する。弟子達と部下 の大工を大事にして、息子達には熱心に大工の技を教えていく姿が、今でも伝えられている。彼の碑が弘前市に現存しているが、高さ7mの立派な碑であるとい う。大工棟梁の碑が造られる事自体(多分日本では彼だけだと思う)、佐吉が如何に慕われていたのかがよくわかる。

確かに今では組織がしっ かりして、無能有能に関係なく役職はある程度上がる事が出来る。もう一つ言うと、現代の組織では、役職が上がれば上がるほど、無能になっていくというパラ ドックスを抱え込んでいる。良くある話だが、最初有能な社員として創造性に富み、数多くの改善を行ってきても、上に行けば行くほど具体的な仕事から遠ざか り、ついには何も自分では出来なくなる。判断能力を磨ければ良いと言うが、ある程度の詳細が把握できなくて、どうやって判断すれば良いのだろうか?

最近、ブームとしてのリストラの結果、優秀な人材が抜け組織力が弱まった。その為、やはり一番重要なのは人材であるとの、当たり前の認識に戻り、人材育成が 各会社で流行っている。でも人を育てる為には、その根本から知らなければならないと思う。そしてそれらは、MBA教科書にも、それに類するビジネス書には 載っていないと思う。佐吉を含め、日本には数多くの優秀な教育者がいる(佐吉は勿論、職業としての教育者ではない)、これら先人達の事を識る事が、もっと も近道のような気がする。

堀江佐吉は明治12年(1879)に函館に仕事に行く。これが佐吉にとってそれからの人生に大きな転機となる。 明治12年頃の函館は佐吉にとって外国と同様だった。函館は長崎、神戸、横浜と並ぶ国際港として、各国の領事館があり西洋の情報が集まっていた。しかも、 多くの西洋館が建ち並び、日本でありながら異国そのものだった。その函館で佐吉は異国の空気の中で貪るように西洋建築を学んでいく。生来勉強家で好奇心の 旺盛な佐吉は、スケッチブックを持ち、仕事の合間に函館を歩き回った。そして西洋建築をスケッチしていく。又時には、建築関係者と会い、話を聞き、設計図 をもらったりもした。設計図は勿論、日本のそれとは書き方も違っただろう。でも佐吉にとっては、それも勉強の1つだったと思う。毎日が楽しく、感動する日 々であったと想像できる。たぶん瞬く間の1年間だった事だろう。でもその1年間でそれからの仕事の内容が変わるのである。

弘前に戻ってき た佐吉は精力的に仕事を続ける。この頃が棟梁として円熟期だったかもしれない。仕事の内容も多岐にわたっている。学校、病院、役所、教会、警察署、兵舎、 橋、等々。全ては堀江佐吉の設計・施工の手によるものだ。彼は大勢の部下達を率いているが、設計だけは彼が全て書いていた。彼の名声はこれらの仕事で徐々 に高くなっていった。

明治37年、第五十九銀行本店竣 工。当時の銀行頭取に「堀江さん貴方の好きな様に造ってください。何も言いませんから」の一言に感動した佐吉は、これまでの経験を生かし、かつ今までにな い自由な構想をもって設計を行う。設計はいつものように丹念に、精密に行った。外観はルネッサンス様式。一見すると石造りの印象を受けるが木造2階建であ る。防火のために、内側は土蔵作りの技法を取り込んでいる。頂上には展望台兼用の装飾搭を置いている。木材は佐吉が山中を歩いて、探し回った青森産のヒバ とケヤキを使っている。完成までに2年かかっている。現在は青森銀行記念館として現存している。国の重要文化財指定でもある。そして、この建築によって佐 吉の名前は全国に知られるようになった。

ますます名声が高まる事により、仕事は頻繁に依頼されるようになった。
明治39年、軍都でもあった弘前の第八師団関連の請負工事で得た利益を公共に還元するために佐吉は弘前市立図書館を竣工する。
弘 前に第八師団が設置されたのは明治29年の事だった。当時の陸軍はプロシア、ドイツを範としていた。その為、陸軍の欲する建物は洋風であった。その時に堀 江佐吉を弘前に擁していたのは陸軍にとっても、佐吉にとっても幸運な事だった。結果的に弘前は日本でも西洋舘が多く立ち並ぶ街となった。第八師団関連の請 負工事とは日露戦争とは無縁でないと思う。日露戦争により軍部は色々な面で拡張する事になる。その関連工事での利益だと思う。

この図書館 を造るとき、佐吉は図書館として将来にわたり残り続けるのだからと、予算枠を完全に超えても納得のいく仕事をしたと伝えられている。木造3階建て、八角形 の双塔に赤いドームの屋根をもつ。、漆喰塗りの外壁、縄で開閉する上げ下げ窓、和風造りの庇など、西洋建築の中に日本建築の良い部分を取り入れている。し かし、この建物は佐吉の意図とは逆に、その後売られ民間のアパート、喫茶店として昭和62年まで使われていた。現在は弘前市が買い取り保存している。

弘前市立図書館竣工の頃より、佐吉の体調が悪くなっていく。明治40年には、弘前偕行社(陸軍士官社交クラブ)、斜陽舘などの設計を行うが、施工は息子達が行う事になる。弘前偕行社は現在国の重要文化財に指定されている。
偕行社は現在、弘前女子厚生学院所有となっている。この学校は保母さんの学校で、偕行社は保育園として使われていた。陸軍士官の社交の場が子供達の社交の場になっているのが面白い。

明治40年8月19日、斜陽舘、偕行社の仕事を最後に佐吉は、家族と大勢の弟子達に見守れながら安らかに永眠する。
佐吉は生前に家族に常に言っていた言葉がある。
「わ れのことを世の中の人は、棟梁と呼んでくれるが、棟梁なんてそんな柄ではない。大工の家に産まれ、産まれながらにしてチョウナの音を聞いて育ったのだ。た だよい大工になろうというのがわれの望みだった。大工という仕事に誇りを持ってやってきたのだから。死んで葬式を出す時も、旗に書くときは大工佐吉とだけ 書いてくれ。そのほかはいらない。」

言葉通りに、霊旗には「大工佐吉之霊」と書かれた。しかし、彼を慕って葬式には数千人の人がきたとされる。

弘前は軍都でありながら、京都・奈良・鎌倉と同様に空襲を免れた都市でもある。その結果弘前には佐吉が設計した建物が多く残されている。勿論、佐吉だけではなく、そのほかの古い建物も多く残っている。
又江戸時代から始まった堀江家の大工の血は今でも続いている。そして「堀江組」は今でも弘前で活躍している。

堀江佐吉は、中央でコンドル達が活躍した時と同時代の人である。中央ではイギリスから専門家を招き、西洋建築を基礎から徹底的に学んだ。堀江佐吉はその様な 先生はいなかったけど、彼の想像力と旺盛な好奇心、何よりも大工の誇りをもって、独学で西洋建築を学んでいった。佐吉の時代には形だけ真似ての西洋舘が多 かったが、佐吉の場合は形だけでない西洋建築だった。佐吉は非常に珍しい存在だったとも言える。
両者に接点はないけど、僕はその時代における、中央と東北地方の建築家の相違が面白いと思った。

僕は建築家は芸術家ではないと思っている。それに、少なくともこれらの人達は自分の事を芸術家と考えてはいないと思う。でも彼らの仕事は創造的で独創的だと も思う。特に佐吉の場合はそう思う。そして設計し竣工した建物が時として美しいと感じる。別に僕は芸術家を否定するつもりはないけど、人は美をそうやって 造ってきたと思うのだ。

最後に堀江佐吉は、自分が納得できるまで設計を何枚も書き直したと言われている。又、その結果、予算を超えてしまう事が度々あったそうだ。その時佐吉は自分のお金を使ったと聞いている。大工に誇りを持った佐吉は、大工として見事に自分の人生を建てた様にも思えてくる。

(注1)建築の設計から施工まで一手に行う大工を、棟梁建築家という。堀江佐吉は多くの大工を束ねる親方でもあり、常に人からは棟梁と尊敬をもって呼ばれていたと思う。

(注2)「大工初心図解初編」「新選早引、匠家雛形之編」「番匠町雛形」などの書籍が当時の大工の入門書籍だった。

今回色々な文献にお世話になった。本来であれば、それらの文献をここに列記するべきかとは思うが、なにせ個人が楽しむBlogで遊びとして書いているのだから、その点は容赦してもらいたい。

今回、僕は読んではいないが、堀江佐吉の伝記としては「棟梁 堀江佐吉伝」がある。堀江佐吉を語るときには不可欠の資料となっている。発行は白神書院、著者は船水清氏。この本を読まずに堀江を語るなかれと言われる本だけど、読まずに語ってしまった・・・

2004/10/11

昔この国にオリンピックがやってきた


1964年(昭和39年)10月10日に第18回オリンピックが東京で開催された。アジアで最初のオリンピックでもあり、オリンピックに向けて日本が莫大なエネルギーを集中した時期でもあったと思う。例えば、神宮外苑にある国立競技場は昭和32年に起工、33年には竣工という早さで、2ヶ月後のアジア大会ではメイン会場となっている。

よくオリンピック以前と以後というように、東京はオリンピックを境にその姿が大きく変わった。首都高が出来、新幹線が開通し、道が拡張舗装され、ホテル等の建物が建築された。特に会場となる運動場の周辺は大きく変わったと聞いている。駒沢総合運動場はオリンピック以前は駒沢球場で東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)のメイン球場だった。駒沢球場の周辺は何もない湿地帯だったと聞いた事がある。なにしろその前はゴルフ場であり、明治帝の御狩り場だったこともある地域だ。駒沢運動場の周りで舗装されている道路は国道246号線くらい(戦前246号線は戦車道路と呼ばれた。厚木基地と首都圏との連絡道路の役割のため早いうちから整備されていたと聞いている)

僕は経済には疎いけど、その時期はオリンピック景気と呼ばれ主に土木建築業界と鉄鋼業界がこの国の経済を引っ張っていったのだと思う。そしてそれが後年の「日本列島改造論」に結びついていくような気がしている。

脇目もふらず、ただ前を向き目的に向かって全力で走り抜ける。その結果、東京オリンピックは大成功を収める。でもなくした物も沢山あったのではないのだろうか・・・・

市川混監督の記録映画「東京オリンピック」はまずビルの破壊のシーンから始まる。破壊そして建築。それは悪い事ではないかもしれない。でも破壊された物は二度と戻らない。新たに建築されたとしても、それは破壊した物の代わりではないのだから。

お江戸日本橋の上に首都高が通っている。初めて日本橋を見に行った時、勿論随分昔の事だけど、広重の浮世絵のイメージが強かったせいか日本橋を見つける事が出来なかった。人に聞きやっとたどり着いたのは、探しながら何回も通った橋だった。川の上に首都高が通っている、確かに川の上に作る方が用地買収などで楽だったのかもしれない。竣工までの期間が短い建築だったと思うので、合理的な方法をとったのかもしれないと思うけど、道路起点の場所としては少し寂しいものを感じる。

東京オリンピック以降、東京への一極集中はさらに強まった様に感じる。その結果前記の「日本列島改造論」が出る事になるのだけど、改造論では地方に東京並の街を作り一極集中を緩和しようとの目論見ではなかったのだろうか。結果は益々の一極集中となっている。

僕は「東京オリンピック」は戦後復興における一大イベントであり、それが素晴らしく成功した事を同じ日本人として誇りに思う。それと同時に僕は戦後復興から現在まで続くこの国がなくした物達を偲ばずにはいられない、それはこれから続く道の大事な指標になり得ると思うからだ。

追記:実は円谷選手のことを書きたいと常々思っている。東京オリンピックのことを書きたいと思っていた背景には円谷選手の事が脳裏から離れないためだった。でも結局かけなかった。彼の死を書くにはあまりにも僕の筆力では足りなすぎる、そんな気がしたのだ。人は視点によって、見る内容は著しく変わる。そして彼の死をその土俵に乗せることは僕にとっては不遜の様にも思えた。「頑張れ」と常に言われ。それに答えようとした円谷選手に当時の光と影を見てしまうのは、これも結果を知っての「後出しじゃんけん」なのかもしれない。