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2007/05/09

ヨンパチ




ハーレ・ダビッドソンは通常エンジンの型によりグルーピングされている。上記写真のエンジンは通称「パンヘッド」と呼ばれる。エンジンのヘッド部分がアルミで、その形がフライパンのように見えることから、そのように言われるようになったらしい。
ハーレーの中では、OHV(オーバヘッドバルブ)2気筒として2世代目のエンジンである。


写真のハーレーは通称「ヨンパチ」と呼ばれている。パンヘッドは1948年に登場したが、その48年の1年間だけフロントフォークサスペンションがスプリンガーフォークとなっている。リジッドフレーム(リアサスペンションがなく、振動はシートのスプリングで吸収する)とあわせて、独特の雰囲気を醸しだし、オールドハーレーファンには垂涎もののバイクとなる。オールドハーレの中では別格とも言える存在となっている。

近所のハーレーショップで初めて「ヨンパチ」を見た。店の方に聞いてみるとレストアに一年間かけたそうである。おそるおそる価格を聞いてみると300万円以上はするとのこと。で、写真を撮ることで満足した。
後日行ってみると、既にこのバイクは売れていて、購入者と思われる方と店の方がエンジン周りを確認しあっていた。その時に初めてエンジン音を聞いたが、フィッシュテールのマフラーからは、とても力強く重厚な音を発していた。

2005/09/22

8月11日のツーリング記録、オートバイで「走る」ということ

2005年8月11日早朝、僕は夏休みの一日を使ってオートバイでのツーリングに出かけた。日帰りツーリング、それは日常から数センチほど飛び出した程度のたわいのない話だと思う。それでも人は数センチの違いでも、様々なことを考えるものだ、と僕は思う。1ヶ月も経ち、忘れることは忘れてしまった、今残っているのはそのツーリングの肝みたいなものである。出来るだけ簡潔に記述したいと思う。

東北道を下るつもりで家を出た。ところが思わぬ環八の渋滞に嫌気がさし中央道に切り替えた。その時点で、目的地は未定。気ままな、いつも通りの無計画の旅となった。

途中のサービスエリアで地図を広げる。このまま諏訪湖にあたりに行くのも良い。しかし、地図で中央道を辿ると大月JCから富士吉田市にのびる支線がある。この道は以前に友人と富士急ハイランドにスケートに行くために使ったことがあるが、その時はバスであった。オートバイにとっては初めての道である。今回のツーリングの起点はこうして決まったのである。

Aoki-ga-hara

富士吉田から青木ヶ原を通る。雲が多いというのに日差しが強い。そういえば富士山方面に向かっているというのに、富士山を意識して探すこともなかった。富士山方向に雲が多く隠れ、その雲の白さが風景にとけ込み、ないことが自然だった。ないことが自然とは僕の感覚が少しズレ始めているのかもしれない。

Lake Motosu

本栖湖に立ち寄る。湖岸で水遊びをしている子ども達、それを見守る夫婦。手を繋いでボートを物色するカップル。夏の日をそれぞれに楽しんでいる。人がそれなりにいるのに、不思議と喧噪を感じない。そして日差しが強く暑いのだが、心地よい風が吹き、空の白さと相まって、全体が幻想的な雰囲気と感じ始めている。その感覚に少し気まずさを覚え僕はその場を立ち去る。

Lake Motosu

このルートを選んだとき、僕には走るべき道があった。国道300号線、本栖湖から山を越え身延町へと続く道だ。地図上で見ると気持ちの良さそうな曲線が続いていたのだ。山道に入るまで本栖湖の湖岸沿いに道は走っている。途中でオートバイを止め本栖湖を眺める。先ほどの姿とは違う姿を見せる。富士山は相変わらず見えない。そしていよいよ日差しは強くなっていった。

村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」の後半に登場する「嫌なカーブ」は実在すると僕は思う。小説上でそれは「あちら側」へと繋がる道であった。オートバイに乗ると、カーブには「嫌なカーブ」と「心地よいカーブ」の二種類があることを実感する。国道300号線の多くのカーブは僕にとって「嫌なカーブ」の連続だった。左手に美しい本栖湖岸、右手に山が迫る。緩やかなカーブだと思い、本栖湖の風景に眼を曲がると、途中からカーブがきつくなった、所謂複合カーブ、曲がりきれなく、下り坂でスピードが出ていた。後輪が滑りながらぎりぎりで曲がりきる。手足の筋肉が固まる。実を言えば一瞬ぶつかるとあきらめかけた、気を緩めるなと自分に言い聞かす。本栖湖で感じた白昼夢的な感覚に囚われ続けていたのかもしれない。

山間の道を抜けると、そこは山村の風景が点在する。途中で道の駅で休む。本栖湖からここまで、殆ど対向車も人も出会うことがなかった。道の駅にいたのは、地元の女性一人と家族連れの4人だけだった。

Minobe-town

身延町につく。身延は久遠寺となるが、南アルプスへの一つの玄関口でもあると思う。着いたのが午後の2時頃だと思う。ある程度知られた町なので、それなりの人混みを予想していたが見事にはずれた。この町でも人に出会うことが滅多になかった。駅前で売っていた「身延まんじゅう」を食べる。空は全体が雲で白く、身延の町並みの不自然なほど白く綺麗な町並みに相乗し、本栖湖での感覚が少し蘇る。富士川がきらきらと日差しを反射して流れる。

Minobe-town

富士川沿いに52号線を使い東海道まで上る。52号線は好きな道だ。ここでも対向車線を含め車と出会うことが少ない。適度なアールのカーブを、心地よくリーンウィズで曲がる。適度な筋肉の緊張が気持ちよい。

国道52号線は東海道の興津港に繋がっている。しばらく国道一号線を走るが、大型トラックを含め相当なスピードの流れに乗り走ることに嫌気がさし、旧道へと入っていく。由井、蒲原と通り過ぎる。ここら辺は桜エビ漁で知られている。知人からここでしか食べることが出来ないという桜エビ丼が旨いぞと聞いていたので、食指が少し動いたが、道沿いにはそれを告げる看板を見ることがなかった。ここから富士市近くまで渋滞となる。今まで感じることが少なかった暑さを感じる。暑い、そして日差しが強い。

kannbara-town

蒲原といえば、小学の時に叔父から貰った切手を思い出す。持っていた中で一番好きな切手だった。安藤広重の図版では確か雪が降っていた。今では想像も出来ない。途中で給油をする。ガソリンスタンドのおばさんと少し話す。旧道沿いの商店が日中だというのに閉まっているのが気になって聞く。おばさんは僕の質問を聞くことなく、ここら辺はいつも渋滞しているのですよ、と答える。僕は、そうですかと言って、店内から外を眺める。

Fuji-city

富士市は東海地方の有数の工業地帯として知られている。特に富士川の水を利用した印刷工場が建ち並ぶ。海岸沿いに立ち並ぶ工場の姿は化学工場も多い。いずれにせよ工場関係の人が多いのでないだろうか。富士市のJR駅前までいき、すこし町を歩く。人が少ない。閉まっている店も多い。そして外国人が多い。この町で生活することを想像する。それは普段と変わらぬ日常を想像することでもある。つまりは今とそれほど変わらぬ生活なのだろう。

東海道を上り沼津市に至る。大きな都市だ。以前来たときはこれほど大きな町と意識することもなかった。富士市の風景と沼津市の風景、恐らく数十年前は両者の見た目の違いは少なかったのではないだろうか。発展することの善し悪しは問えない。ただこの違いに少し驚くだけである。

沼津市から国道246号線を使い帰宅することにした。沼津からは山間を抜けるカーブの多い道となる。しかもそれほどの込むことは少なく、通る車はそれなりに速度を出している。急激に気圧が下がるのを感じる。薄暗かった夕暮れが、上空の黒い雲でいきなり暗く、そして突然に大粒の雨が降り出した。土砂降りの雨には幾度となく遭っているが、闇夜の状態となっての雨は初めてだった。視界が極端に悪くなる。数メートル先が定かでない。それでいて、車は平気で速度を落とすことが無く走っている。流れに乗ることが出来ずに、僕は途中の山際に停車し、雨に濡れるまま、安全になるまでたたずむ。日中に感じた幻惑感は既に無かった。雨は1時間ほどで治まった。濡れた身体は寒かったが、走っているうちに乾き、家に着いたときは何事もなかったかのようであった。

僕にとってオートバイに乗るとは「走る」ということと同意語である。しかもそのオートバイは「走り続け」なくてはならない。走って走って走り疲れて家に戻り泥のように眠るのだ。「走る」ということは、その状態において、眼前の出来事に対処する事が何事においても優先すると言うことだ。ほんの一瞬の気の緩みから事故を起こすこともある。周囲に気を配り、動き去る景色に目を奪われることなく、僕は肢体を常に緊張させ続ける。また、対面で受ける風の感触、気温・湿度の状態、各々が直接乗り手である僕に影響を与え、風景の中に身も心も一体化する感覚を持つ。

「余計なことは考えるな、目の前に集中しろ、感覚を研ぎ澄ませろ、危険を体で予知するのだ」内なる声が僕にささやく。僕はその声に従う。機械を自らの意志で操り、拡張した身体機能で得られる体験は、勿論通常のそれとは違う。それは愉悦を僕にもたらせるが、同時に身近の「死」を意識することでもある。でも人はその状態にも慣れるものだ。いつしかオートバイで感じた愉悦は日常にとってかわる。

走って走って走り疲れて泥のように眠る、それは見方を変えれば、僕の父母もしくは祖父母たちの日常でもあったかもしれない。今でもそのような日常をおくる人々は世界には多いことだろう。それを時として求める気持ち、それは僕の中で些末なことで悩む自分を別の状態におくことでもある。逆に言えば、そういう日常をオートバイという非日常に転換しなければ、僕自身「走る」という意味の「生きる」と言うことを実感できなくなってきているのかもしれない。

2005/07/21

ツーリング計画

なにかしら忙しくなるとツーリング計画を立ててしまう。今考えているのは青森までの東北ツーリング。途中に仙台にいる姉のところに寄り、平泉に立ち寄り、青森を目指すコース。のべにして一週間くらいの旅程になる。平泉に寄るのはNHK大河ドラマの影響を受けたから。いけたとしたら中学の卒業旅行以来の訪問となる。

泊まるところは全て親戚宅を利用する予定。具体的には仙台と青森の黒石。ただ黒石を起点にどこまで足を伸ばすかが未定状態。それ以前にこの計画自体が空想のまま終了する可能性も高いのだけど。

東北道の車が少なく見晴らしの良い素敵な道を走る空想を巡らせている。空にはぽっかりと夏の雲が漂い。前方には少し濃いめの海が広がる。
そんな光景はないのかもしれない。様々な出来事と忙しさから逃れたいという気持ちが強いのかもしれない。確かにそういう面はあるとは思う。でも僕はそれが悪いことだとは少しも思わない。

このツーリング計画が実行できる可能性は今のところ半々だ。休みについてはリフレッシュ休暇という制度が会社にはあるのでそれを使うつもり。問題は、実際に行くという強い気持ちを持つことだと思っている。ただ、短い期間とはいえ残すものも大きい。さてさてどうなることやら。

2005/06/19

2005年6月19日の日記

■今日は久しぶりに朝よりツーリング。行き先を決めずにまずは東名に入る。走りつづける。しかしいやにハーレーが多いなぁとおもうが、気にしない。気になるのは、行き交うハーレー乗りが挨拶をしてくる事だ。昔であれば、ツーリング時は所謂ピースサインがすれ違いざまに交わされていたが、現在ではそういう共同体幻想は既に崩れているので(笑)、滅多に交わす事はない。
それを考えると今日はすごい。
時間を決めず、のんびりと、つまりはPAとSAに止まり止まり走り、御殿場で東名を降りる。箱根に行こうかと思ったが、箱根方面には嫌な雲がかかっている。そこで、山中湖方面にいき、そこから中央道に入って東京に戻る事にする。途中で、昼食を取り、見知らぬ土地を散歩し、またオートバイに乗る。そんな事の繰り返し。
時間と共に、オートバイの何台も見かける、しかも同じメーカー、行き交うオートバイは全て僕と同じと思えるほどだ。少し不思議に思い始める。
途中で右のウィンカーが電装系トラブルと思える状態で、点滅しなくなる。そこでコンビニエンスに立ち寄り状況を確認する。そこにたまたま一緒になったライダーと語る。勿論その方も同じメーカー。
「なんでこんなにハーレーが多いのでしょう」
と聞く僕に、彼は驚いて僕を見る。
「え、貴方はあれに来たんじゃないの}
「はぁ???」
聞けば、年に一度開催しているハーレーの祭典「富士ブルースカイヘブン」が行われていたとの事。そう云えばそういうのあったなぁ、と思い出す。しかも僕は入場券もバイク屋からもらっていたっけ・・・
気がつかずに、開催地と同じ場所に向かっていて、知ったときは終わっていたという、なんというこの身のアホさ加減。まぁ知っていたとしても行かなかったとは思うけど、その物言いが、負け惜しみに聞こえるのが不思議なところ。

■本当は別途記事をあらたに立ち上げたいほど最近気にしている事がある。それはブドウだ!
東京世田谷の自由が丘の近くにぶどう園があって、そこのブドウがたまらなく美味しい。世田谷で昔から果物を栽培していた農家があった。飯田さんといいう方で、その方のブドウは手間隙をかけつくられとても美味であった。その飯田さんのを師匠として、高橋さんがブドウを作り始める。僕が毎年行くぶどう園は高橋ぶどう園である。高橋さんのブドウへのこだわりは大きい。(世田谷ブドウ研究会のサイト)
ブドウの品種は本当に多いが、高橋ぶどう園で食べる事が出来るのは、黒系では「高尾」と「高墨」「ピオーネ」、赤系では「紅瑞宝」「安芸クイーン」と「ハニーレッド」。
殆どの方のお目当ては「高尾」である。「高尾」は東京生まれの巨峰系ブドウであり、巨峰より若干小粒だが、甘味が強く、巨砲より断然に美味しい。種無し。
美味しいブドウを食べたくて、山梨まで行こうと思っていたとき、ためしに高橋ぶどう園の「高尾」を食したとき、他に行く気がしなくなった。黒系でこれに次ぐのは、藤沢のブドウくらいかも。
といっても全国には、食した事がない美味しいブドウがたくさんあると思うので一概には言えないとは思うが。でも出来れば一度「世田谷のぶどう」を食べて欲しい。
8月の一日、今だ決まらぬ日にちだが、指折り数えるブドウの日である。

2005/05/18

「禅とオートバイ修理技術」でのオートバイ文章

『オートバイに乗って休暇を過ごすのは、他にない一種独特の趣がある。車は、いわば小さな密室であり、いったん慣れ親しんでしまえば、自然の何たるかを知りえない。窓の外を移りゆく景色は、テレビを見ているのと何ら変わりがない。私たちは、ただ枠のなかを流れてゆく景色を漠然と眺めている受け身の観察者にすぎないのだ。
だがオートバイにはその枠がない。私たちは完全に自然と一体になる。もはや単なる傍観者ではなく、私たちは自然という大きな舞台のまんなかにいて、溢れんばかりの臨場感に包まれる。足下は唸るように流れていくコンクリートは、現実のものであり、足を踏みしめて歩く道路そのものである。 (中略) すべてのもの、すべての経験、これらは決してじかの意識から逸脱することはない。』
(ロバート・M・パーシグ 「禅とオートバイ修理技術」 五十嵐美克、児玉光弘 共訳)
「禅とオートバイ修理技術」は最近の風呂専用書籍(笑)です。1974年の米国ベストセラーで、今から30年ほど前の本だが、内容において古さは少しも感じない(時折出る名詞で感じるときもあるが) 。

僕にとって時代を感じさせたのは、著者の友人が乗っているオートバイが「BMW R60」であること。ボクサーツィンの空冷水平対向2気筒オーバーヘッドカムエンジンのオートバイ。キックスタートのエンジンで、現在このバイクに乗っている人がいたらかなりのマニアだと思う。

現行のBMWのボクサーツィンは新型で見た目はすっきりとなったが、美しさで言えばこのR60の方がある。ちなみに言えばBMWは航空機メーカーが発祥だが、次ぎにオートバイ、その後に車を生産している。勿論いまでもオートバイを造り続けている。BMWはオートバイに関して相当なこだわりを持っている様に思う。こだわりというのは、オートバイメーカーとしての「らしさ」の追求で、それゆえ、BMWのオートバイは遠目でも一目見てそれだとわかる。

昔ツーリングしているときに、山口の秋吉台付近で、後ろから音もなくBMW(R100)に抜かれていった事を思い出す。そのコーナリングはとても美しかった。

「禅とオートバイ修理技術」の文を引用したのは、僕が感じているオートバイの良さがとてもよく表現されていると思うからだ。少し補足する。

僕らが車に乗る時、身体の外延は車のそれと同じ境界となる。だから、車体が少しでも何かにぶつかりそうになるだけで、僕らは驚く。その驚きは、車体が破損したときの損害の大小でなく、まずもって車体ではなく身体への障害のそれに近いと思う。
オートバイの場合、ライダーの身体の外延はオートバイのそれと同じになるが、オートバイ自体が人間の身体が露わになる乗り物なので、人間の身体そのものとほぼ同じとなる。
だから、オートバイは車に乗る以上に自然と一体化となると僕は思っている。風を受けて走る爽快感は、まさしくリアルな人間の感触である。勿論、人によって違うと思うので、万人が僕と同じ事を感じるとは全く思わないですけど。

「禅とオートバイ修理技術」は、元教授が病気で電気ショック治療を受け、その事から過去の記憶の一部が喪失する。その失われた記憶を求めての話と、息子クリスとのツーリングなどの話が書かれている。中心となる話がテクノロジー批判なのだが、文体はかなり読みやすい。
残念なことに、この著作を発表した後、数年して息子クリスは強盗に襲われ刺殺されてしまう。それを知って読むと、本でのクリスの姿がとても印象的になる。

多分この本については、読み終えた後で感想を書くと思う。

追記:この本ではモータサイクルでなくオートバイと呼んでいるので、それに合わせた。

2005/05/16

モータサイクルに乗り豪雨に遭う

touring in rain

少々寒いが慣らしを兼ねてモータサイクルで第三京浜(世田谷・横浜間)を走る。第三京浜は直線が多く、制限速度80kmを守る車など皆無に等しい。久しぶりの自動車専用道路でもあるので、速度を出すのが少し怖い。左端車線を制限速度内で走行する。

第三京浜の終点料金所を抜けてすぐに休憩施設があり、そこには多くのモータサイクルが集まる。その姿を長椅子に座り珈琲を飲みながら見るのが楽しい。初めて見るモータサイクルがあった。水冷6気筒と思われる巨大なエンジン。エルキュワーレと呼ばれるホンダのモータサイクルがあったが、その改造版の様な姿に目が奪われる。それにしてもBMWのモータサイクルがやけに多い。

モータサイクルを眺めていたら、いきなり目の前に稲光が走った。ゴロゴロという音。空を見上げると黒い雲が低く流れている。「やばいかも」と雨を想像する。また稲光。一本のギザギザの光線が瞬間に現れ消える。
「自宅に戻った方が良さそうだ。途中で雨に遭うかも知れないが、とにかくここを出よう」
そう思い、再びエンジンを回す。

帰りの第三京浜に入る直前に、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。「おっくるな」と思ったとき、突然にスコールとなる。それはバケツに満杯になった水を上からかけられたような感じに近かった。ヘルメット越しの視界が効かない。道の端は小さな濁流となって流れている。雨具の準備はしてこなかった。ただ風を防ぐためにマウンテンパーカを着てきたのが、数少ない正解だった。しかし、ズボンを含めなにもかもがあっというまに濡れる。それはいきなり服を着たまま川に落とされる感じに近かった。

モータサイクルに乗っていると、突然の雨は当たり前のことだし、さらにひどい豪雨にもあったこともある。だから、それもまた楽しいと思う。雨に濡れながら走るというのが、楽しいと言うのは、かなりの開き直りがあるのだが、濡れるのが嫌であればモータサイクルには乗れないとも思う。

雨が降って怖いのは、何より車道の中央にあるマンホールの蓋である。あれは濡れると滑る。しかも、丁度モータサイクルの通り道にあるから不思議だ。コーナリングの途中で濡れたマンホールの蓋に乗ると転倒するリスクはかなり高い。
さらにトラックの水しぶき、速度を控えめにする事による後続車ドライバーのいらつき、等々と危険は色々とある。

だから、第三京浜にそのまま入らずに、雨宿りをする場所を探した。丁度良い場所があったのでモータサイクルを止め、雨が弱まるのを待つ。激しい雨だ。上空を眺めれば、西の方は雲が切れて青空が見える。激しい雨は長くは続かない。それは時間にすれば大抵は短い。だから僕も雨が弱まるのを期待して待つことが出来る。そうこうしているうちに、雨が弱まり太陽が顔をだす。

着ていたマウンテンパーカを見れば細かい埃が沢山付いていた。あの激しい雨は、空中に漂う塵を洗い流してくれたのかも知れない。太陽が雲間から日差しを差し込んでいるが、雨はやまない。でも雨は日を浴びてキラキラとしてとても綺麗だ。虹を期待したが、それは見ることが出来なかった。

2005/05/08

久しぶりのバイク

DSC03832

バイクに乗った。久しぶりだった。

最初渋谷のバイク屋で自分のバイクを見たとき、一目でそれだとわかったけど、何か自分のバイクじゃない感じを受けた。何かが違う。側に行ってタンクからシートにかけて触れる。艶やかなメタリックな濃いグリーンのタンク、なめらかな曲線、タンクからシートにかけて流れるライン。タンクに残る細かな数本の線は見覚えのある傷跡だ。シートのほつれから、少し恥ずかしそうに覗く素材。それは紛れもなく僕のバイクでもある。

でもこの違和感は何だろう。以前よりグリーンがくすんだような気がする。以前はもっとエンジン回りがピカピカ光っていたような気がする。
バイク屋からエンジンキーをもらいエンジンを動かす。セルスイッチを入れた瞬間に、まるで疾走前の馬が筋肉を振るわせるように1450ccのV型が2・3回大きく揺れ、地響きのような低音を轟かせた。その感触、身体に伝わる音とエンジンの振動は身に覚えがある。

それは確実に僕のバイクであった。でも実感として目の前にあるバイクは、全体が少しずつずれていた。タンクはタンクとして少しズレ、シートはシートとして少しズレ、その他の箇所もねじ1本に至るまで奇妙なほど同じ分だけズレていた。

多分、久しぶりで慣れない事による感覚的な問題かも知れない。もしくは、数ヶ月の間で、僕の中でバイクのイメージが膨らみ、それと実際のバイクとの間で、少しズレが出たのかも知れない。まぁ、どこにでも良くある話だと、一人合点する。

バイクにまたがる、思った以上にフロントとリアのサスペンションが沈み込む。クラッチを握り、ギアをローに入れる。スコーンと音を立てローになる。半クラッチにしてバイクを少し動かす。良い感じだ。

通りに出て、ローからセカンドにセカンドからサードに、連続してアップする。クラッチとの繋ぎも良い。信号だ、ブレーキをかける。ブレーキのききも遊び具合も悪くない。
徐々に、初め感じた違和感が払拭していく。

246号線は車は多いが流れている。路肩駐車をしている車が怖い。流れに乗りながら慎重に走行する。それでも後方から数台のバイクが僕の横を追い抜く。

総重量300kgの車体は、思った以上に軽い。ロングホールの為、直進性も悪くはない。それ以上にロングストロークのV型オーバーヘッドバルブエンジンが奏でる3拍子の排気音と、シートを通し、もしくはハンドルから伝わる震えが心地よい。

フォーサイクルエンジンなのに3拍子のエンジン。それは一つの、そしてそれぞれのハーレー乗りにとっては、伝説への一つの鍵でもある。(一人泥酔状態)
以前、このバイクで様々な所に行った。風を受けながら、それらの幾つかを思い出す。その時、僕はいつも信号などで止まるたびに、タンクをぽんぽんとたたいた物だった。それは馬の首を触り、感謝を捧げる仕草に似ていた。わざとでなく、自然とそう言う動作をしてしまうのだ。

でもまだそこまでは、関係は戻ってはいない。
人によっては奇異に感じることかも知れない。たかが道具で機械である。その通りであるが、自然と長距離ツーリングするとそう言う気持ちと動作が出てくるのである。機械であっても道具であっても、人はそれらに感謝する事が出来る。そう思う。
家に着く。渋谷からとろとろ走って約30分。再度バイクを眺める。幾分ズレが少なくなったような気がした。

2005/04/21

ブラフ・シューペリア

ブラフシューペリア

T.E.ロレンスはモータサイクルが大好きだった。彼が乗るバイクは決まっていた。1921年に操業開始したブラフ・シューペリアである。バイクのロールスロイスとして名高いこのバイクを彼はこよなく愛した。

ブラフ・シューペリアの歴史は1908年イギリスのノッチンガムから始まる。父であるW.E.ブラフが始めたモータサイクル事業を息子であるジョージが引き継いだのである。別途会社を興したのは、一族の不和が原因とされている。

バイクのロールスロイスと宣伝した理由の中で最も大きいのは、値段が高いことだった。勿論、高品質でありスタイリングも良いことから、高くてもこのバイクは売れた。ブラフ・シューペリアがその歴史を閉じたのは、第二次世界大戦で戦時協力としてバイク製造を辞め、1940年に航空機部品の製造に転換した事による。その後二度とバイク製造に戻ることはなかった。

T.E.ロレンスはブラフ・シューペリアのSS100シリーズの全シリーズを購入して、友人であるジョージの名前を付けた。ご存じの通りにロレンスはバイク事故が原因で亡くなるのだが、その時に乗っていたのはジョージ7号であった。実はジョージ8号を既に購入済みで納品の為の整備中でもあった。最後に乗っていたジョージ7号は現在英国「The National Motor Museum 」で展示している。

T.E.ロレンスが「アラビアの」と形容詞を付けて紹介されたのは映画による功罪が大きいだろう。功としてみれば、この極めてユニークな男が認知されたということ、罪で言えば、ロレンスがその時点から面々と続く中東問題の一つの責任を担っていると誤解されたことである。

ロレンス研究でも明らかなように、ロレンスに現在の中東問題における責任は一切ない。
そのロレンスの言葉に「スピードの向こうに永遠が見える」がある。本当にこのような言葉を彼が語ったのかは真偽の程は僕にはわからない。ただ、彼の言葉としてふさわしい印象を受ける。実はこの言葉は漫画「ケンタウルスの伝説」から知った。以前に(今でもあるかわからないか)「ミスター・バイク」という月刊雑誌があり、そこに連載されていた漫画だった。

横浜にあるバイク屋「ケンタウルス」のマスターとそこに集まるライダーの物語であり、登場する男たちは殆どが中年だった。バイクという乗り物の一つの姿をそこに僕は見た。
その漫画で、ある時コーヒーを飲みに行くことになった。行くべき珈琲屋は神戸にある。それを日帰りで飲みに行くのだ。横浜から神戸まで。漫画の中では「600マイルブレンド」と称していた。チーム・ケンタウルスとは実在するバイク屋なので、この話も実際にあった話だとおもう。馬鹿な男たちだが、格好が良いのだ。

今から考えれば、その珈琲屋は「茜屋珈琲店」ではないかと想像する。神戸三宮に昭和41年に船越さんが開いた「茜屋珈琲店」は、船越さんが軽井沢に転居することより、店を軽井沢に移した。家の近くに暖簾分けした「茜屋珈琲店」がある。そこのカレーが美味である。

1935年5月13日、肉屋の店員バート・ハーグレーブスと友人のフランク・フレッチャーは、商品の配達のため、自転車で走っていた。後方からブラフ・シューペリア(ジョージ7号)に乗っていたロレンスが近づくが、道は見通しが悪く、避ける間もなくバートの自転車と衝突してしまう。ロレンスは投げ飛ばされ頭を強く打ち意識不明となる。そのまま病院に運ばれるが6日後の19日の朝死亡する。46才であった。映画では自転車を避けるための単独事故と扱われたこの事件は、ロレンスの英雄像を造る意図がそこにある。ロレンスは少なくともステレオタイプに語られる英雄ではないと僕は思う。でも何故か、リンドバーグと共に惹かれる。

ブラフ・シューペリア SS100
エンジン:OHV 2気筒
ボア・ストローク:80×99mm
排気量:998cc
推定最高出力:45馬力
気化器:ブラフ・ダブル・フロートチャンバー
点火方法:マグネト?発電機
変速機:4速手動変速
フレーム:チューブラークレードル
ブレーキ:前後ドラムブレーキ
重量:181kg
最高速度:161km/h

ロレンス参考サイト:「アラビアのロレンスを探して」
ブラフ・シューペリア参考サイト:ブラフ・シューペリア

画像はロレンスが最後に乗っていたジョージ7号

2005/04/02

ライダーズハイ

以前に山川健一さんの「ライダーズハイ」という短編小説集を読んだことがある。「ライダーズハイ」というのは「ランナーズハイ」と同様に、オートバイに乗ることで高揚感がで、一種の陶酔状態になることだ。真面目に考えれば、そんな状態で走るのは危険だとなるが、そういう感じに近い「気持ちよさ」程度と思って欲しい。

日本海を見たくて、東京から二泊三日のツーリングをしたことがある。日本海までの道程は、概ね林道の利用を計画していた。でも林道自体が舗装されていたり、台風などの災害で寸断されていたりして、実際に気持ちよく走れたのは奥志賀スーパー林道くらいだった。

愛車はホンダXL250R、単気筒、250CC、OHCエンジンのオフロードバイク。ホンダ製の単気筒エンジンは、そのタフネスぶりで知られている。そのうえ、シートが素晴らしく、長時間座っても痛くならなかった。

日本海にたどり着き、海沿いの道を走り、直江津に着いたのが夜だった。ツーリングの時は寝る場所なんて何処でも良いと考えているので、途中の無人駅で寝ようと思っていた。だから、そのまま山道に入っていった。山に近づく毎に街灯は少なくなり、そして全くなくなった。谷間を縫うように走る道は、国道で完全舗装されているとはいえ、急カーブが連続し、僕は走ることに集中した。

夜の9時頃だと思う。突然にヘッドライトとスピードメーターの明かりが消えた。一瞬にして暗闇の世界だ。バイクを止めて懐中電灯片手に点検する。どうも電球が切れたらしい。でも死んだのはハイビームの電球だけだった。ほっと安心して、懐中電灯を消したとき。僕は驚いた。

9月の初め、天気は晴天、空には満天の星。月も出ていない。北アルプスの峰々が星明かりで、闇夜にさらに黒く浮き上がる。車の往来さえない山道の真ん中で一人僕は立っている。不思議な感覚に襲われた。自分がそこにいるような、いないような感じ。闇夜に融け込み、ただ意識だけが地表にとどまり浮遊している一種の目眩に似た幻惑的な状況。

しばらくそこに立ちすくんでいたと思う。それから僕は道ばたに腰を下ろし。空を見上げた。独りだなんて少しも思わなかった。恐怖も全くなかった。それより安心感が僕の心を占めていた。
風景と一体になったとも思わない。でもそれに近い感覚だろうと思う。しばらくこのままでいたいと僕は願った。でも長くは続かなかった。ゆっくりとバイクにまたがりエンジンをかける。単気筒の心地よいサウンドが夜の山間にこだまする。

実を言うと、この後僕は恐怖を味わう。でもそれは別の物語だ。今から思うと、この時の自然とのシンクロによって、普段では感知できない「何か」を取り込む準備が出来ていたような気がする。人には不思議なことがおこる。それは事実だと思う。

2005/01/23

バイク窃盗団からの手紙

バイク窃盗団が捕まり、僕のバイクは証拠品として警察が預かっていたが、2週間くらい前に引き取って下さいとの連絡があった。でも寒い事と、修理とバイク屋に運ぶ手間と金銭的な事から、もう少し警察においてもらおうと思い、手続きはまだ行っていない。

そんな中、今日見知らぬ弁護士からの封書が僕宛に届いた。「オレオレ詐欺」「フィッシング詐欺」の事件が多い中で、弁護士に対する信頼度が彼らに関係なく落ちている中、弁護士からの封書に少し緊張したが、読んでみるとバイク窃盗団の国選弁護士からだった。

手紙の内容は、窃盗団の犯人が罪を悔いている様子を、弁護士と犯人の手紙で綴られていた。具体的な内容は相手もいることなので明かすことは出来ないが、この手紙の内容が真実であれば、確かに同情する点が多い。つまり、やむにやまれぬ状況で犯罪行為におよんだと言うことだった。(誰でもそうかもしれないが・・・)

実を言うと、こういう展開になるのは予想外だった。僕にとって窃盗団は、あくまでビジネスの一形態と彼らが認識している、と信じていたからだった。勿論、これらの犯罪行為は反社会的であり、ビジネスが社会に閉じられた行為であるのであれば、ビジネスとは言えないかもしれない。

ただそこには、盗む者、分解する者、搬送する者、組み立てる者、売る者の専門分業化され、効率化を求めた形態がある事。そして何より、日本市場(盗む場所)より高く売れる市場に商品を持ち込み売る、という行為にビジネスを感じてしまったのも事実だった。

だから、窃盗団は僕にとって「ドライ」でなければいけなかったし、犯人がその行為に恥じる事があるとは想像もしていなかった。
さらに言えば「WHOに対するアンチテーゼと世界を支配するグローバル企業への反乱」などとウソぶいて欲しかった気持ちも多少あった。

例えば、日本重要文化財の掛け軸を盗み、法廷で「文禄・慶長の役で日本に略奪された文化財を取り戻すため盗んだ」とウソぶいた韓国人窃盗犯の様に。ただ、この窃盗犯の場合は歴史を用いてしまったので、根拠がない事がすぐにばれてしまったのが、浅知恵といえばそれまでの話だけど・・・

勿論、この弁護士からの手紙の内容は、日本人の心理を巧みに利用し、出来るだけ被告人の罪を軽減する為の方法かもしれない。だから人が理解しやすい犯罪動機を提示し、犯人が「人である」事を示したのかもしれない。そしてその作戦は、見事に僕には的中したようだ。

僕は彼ら犯人の罪を軽減しても良いと思っているし、その為に何をしたらよいかを国選弁護士に聞くつもりでいる。そしてその気持ちの中には、早く家族の元に戻してあげたい気持ちと、自分の妄想とは違う現実の姿を見る事で、自分がこの窃盗事件に対し気持ちが収まった事が確かにある。

2004/11/25

小泉八雲雑感

以前このブログでも少し書いたが、二十代前半に九州までモータサイクルを使って旅行したことがある。 その時九州までのルートに日本海側を使ったが、それには幾つか理由がある。東京に生まれ住み、北陸山陰に縁者のいなかった僕にとって行く機会が将来にわた り数少ないことが予想される事、つまり滅多に行けないのならこの際行ってみようとの気持ちがまず最初。その次ぎに山陰には高校大学を含めて読んだ書籍から 受ける数多くのこだわりがあった事。そのこだわりの中に松江の小泉八雲がいた。

小泉八雲が松江に住んでいた1年と3ヶ月の短い間に書かれた中に「神々の国の首都」があり、僕はその中の松江の風景に憧れたのだった。
「松江の一日で最初に聞こえる物音は、緩やかで大きな脈拍が波打つように眠っている人の丁度耳の下からやってくる」
小泉八雲がこの時書いた松江の朝の状況は、勿論今では失われた風景でもある。しかしその風景は彼にとっても失われるに至った時間は短かった。
後日松江を再訪した小泉八雲は同じ風景、同じ友との交わりの中に少なからぬ違和感を感じている。その違和感は小泉八雲にとっては過去の印象が「知らなかった故の幻想」と捉え、「出雲再訪」の中で次のように書いた。
「やがて私は、人の幸せの大方(おおかた)は物の実体を知らぬ事にあるのではないかと考えはじめていた」
「幸せ」には個性があるので、人によって様々だと思う。小泉八雲が考えた「幸せ」に異論を言うつもりは僕には全くない。ただ僕にとっては、小泉八雲 は一人の旅人であり、旅人の目で「神々の中の首都」の松江を描いていた様な気がする。そして最初の印象は旅人としての彼の心象風景でもあった感を受ける。

「松江再訪」での小泉八雲は既に旅人ではない。実体を知り且つ急速な日本の西洋化に幻滅を感じた彼は、祖国に戻る気持ちもあるが、既に家庭と子供を持ち日本での生活を選ぶにいたる。その時点で彼の心は旅人のそれではなかったと思うのだ。

彼の言う「実体」とは一体なんだったのだろう。それは明治という急激な時代変化とは無縁ではないと思うが、やはり僕には「旅人」と旅を終えての「生活者」への意識変化のように思えて仕方がない。

「生活者」になれば、日本は神々の国ではなく、そこに住む人々も妖精ではなかった。彼が見る急激な日本の変化は、裏を返してみれば、彼の旅人だった頃の心 象風景への回帰を望む心の叫びだったように感じてしまう。だとすれば彼の希望は、根本に外的要因でなく内的要因があるので、時代の変化に関係なくかなえら れることはなかったように思うのだ。

僕の二十代のツーリングでは、宍道湖畔にたどり着いたのが真夜中だった。真夜中の静寂の中で僕は静かな湖のさざ波を聞いた。それもまた一人の旅人の 心情だったと思う。その時に地元のライダーと偶然に知り合いしばらく湖畔で話を交わした。主にモーターサイクル談義であったけど、最初に地元の見所として 紹介してくれた場所が「小泉八雲記念館」だった事を覚えている。今思い返せば、彼の中にも小泉八雲が書いた松江の美しさへの誇りがあったのかもしれない。

画像は小泉八雲とその家族。妻(節子)と長男(一雄)。今年は小泉八雲没後100年の年でもある。

2004/11/16

「モーターサイクルダイアリーズ」を見て「旅」を考える

この記事は「モータサイクルダイアリーズ」を見た感想でも、チェ・ゲバラの紹介でもありません。映画 をみて「旅」の事を考えた「試案」と思ってください。映画の感想とチェ・ゲバラの事を期待して読んだらきっとがっかりするでしょう。「試案」ですから内容 は不十分です。それを覚悟してくれる優しい人はどうぞ^^ちなみに、映画の感想は「素晴らしい」の一言です。
「旅行計画:4ヶ月で8000km走る。方法:いきあたりばったり。目的:本でしか知らない南米大陸の探検。移動手段:怪力号。1939年式のノートン500だ。」

別に大志があるわけでもない二人の若者が無計画な旅に出る。何処にでもある風景だと思う。僕もこの二人と同じ時期にモーターサイクルで旅に出た事が ある。僕の場合は日本国内だけど、東京から縦断して新潟に、そこから日本海沿いに九州長崎まで行き、帰りは福岡から船で神戸経由で東京に戻ってきた。延べ 日数約2週間。映画と同じように無計画。泊まりは野宿。長崎は友人の家に着いた時、友人は夜逃げをする前日という状況で、おかげで僕はその手伝いまでさせ られた。でもその話は今回では余計な話。

旅の移動手段を何にするかは結構重要な話だと思う。二人は旅の前半モータサイクルを使った。その理由は自動車を使うほどのお金がな かったのかもしれない、もしくは南米の悪路で取り回しが聞くモータサイクルを選択したのかもしれない。でもいずれにせよ、旅の道具としてモータサイクルは 適切なような気がする。

僕にとって旅の感覚で大事なことは「もっと遠くに」という気持ちだ。家から出て遙か遠くに来たと感じる事が旅の感覚だと思う。それは 心で感じることだから、実際の距離の問題ではない様に思える。人生が旅だと良く聞くけど、それはその気持ちが同じだからかもしれない。そして遙か遠くに来 たという感覚は、移動する過程で過ぎ去る土地の空気に触れる事と無縁ではないように感じる。空気に触れるとは、自分が慣れ親しんだ土地とは違う感覚を味わ う事で、それは過ぎ去る景観の違い、家々の違い、そして土地の人々との会話で味わう事など、旅人が感じる総体として心に伝わる様に思う。だから、移動手段 としては徒歩、自転車、そしてモーターサイクルの順番で人は旅を感じる様に思える。モータサイクルが適切だと思うのは、乗り物(飛行機・船・自動車)の中 では比較的その空気を感じることが出来ると思うからだ。勿論徒歩には敵わないとは思うけど。
「お母さん、ブエノスアイレスを出て、惨めな生活とも退屈な講義ともお別れです。」
旅は人を開放的にする。それは「遠くに来た」という感情と無縁ではないように思える。自分の生活空間の引力から脱した時に開放感を味 わうと思うのだ。モータサイクルのタンデムシートに乗ったゲバラは両手を鳥のように水平にのばすシーンがあるけど、それはその開放感を良く現していると思 う。開放的になると人は生活する場所では考えられない行動を行うときがある。映画の中に出てくる逸話は、貧乏旅行での知恵を見せているが、その知恵が出る 背景に旅の開放感は無関係ではないように感じる。

ただ、ゲバラは旅の前半は自分の生活を引きずっていて開放的にはなり得なかった。それは彼の性格に依るところが大きいけど、僕にとっ ては2つの理由も幾分あるように思える。1つは恋人への気持ち。もう一つは彼の持病である喘息。彼女への気持ちは、具体的には彼女から預かった15ドルが それを現している。アルベルトがその15ドルに気がつき、そのお金を使わせようと色々な事を言うが、その都度チェ・ゲバラは頑なに拒否する。その時にアル ベルトが言う言葉「お前はあの女に骨抜きにされているんだ」は、旅に出て既に開放的になったアルベルトが、未だに生活を引きずっているゲバラに対して言う いらだちの言葉のように聞こえる。それがなくなるのは、彼女からの別れの手紙(だと思う)を受け取ってからだ。一日海を見てゲバラは彼女を失った世界を受 け入れる。

開放的になると言うことは、心の状態が様々な外的変化を受け入れやすくなっている様にも思える。考え過ぎかもしれないが、彼女との別れから、ゲバラは旅の様々な出会いに自分の心をより開いていった様に感じる。

旅人は旅人である限り傍観者の立場になる。旅人は移動する者である。移動する限り、その旅の過程での出来事は傍観者の立場にならざるを得ない。

ただ、ゲバラは自分が傍観者であり続ける事は出来ないと感じている。そう感じたのは、砂漠で出会ったインディオの夫婦との出会いからだった。仕事を求めて 放浪する夫婦は、旅が目的の旅を理解する事が出来ない。ゲバラにとってインディオの夫婦が自分に向けられる目は厳しく感じたことだろう。その時、ゲバラは 自分が、インディオの夫婦を取り巻く世相に対し、傍観している姿に恥ずかしさを覚えたように思える。傍観者であれば、全体を見つめ客観的に世相を批判する 事は出来るかもしれない。でも傍観者である限り、苦しんでいる人達が自分の姿に共感を持つ事は難しいだろう。だから、それ以降彼は旅人であることを意識的 にやめようとする。僕にとって彼女から預かった15ドルをそのインディオの夫婦に渡す事は、ゲバラがその夫婦側に入る事を象徴しているように思えるのだ。

それ以降彼は旅人でありながら、積極的に人の中に入っていく。それでも傍観者の立場であることには変わりはなかった。その立場が大き く変わるのはハンセン病診療所に着いてからだと思う。「モータサイクルダイアリーズ」での旅の終わりはベネズエラのカラカスではないと思う。二人の旅の終 わりはこのハンセン病診療所のように感じる。彼らはいずれこの診療所からいなくなる人ではあるが、それを考える事なく二人はここに止まって働く。その時既 に二人は傍観者ではない。それが象徴的に現されているのが、ゲバラが診療所で迎える誕生日に河を泳ぐシーンだと思う。若さ故の情熱と言えばそれまでだが、 僕にはゲバラが自分の命を省みず、傍観者であることをやめ、積極的に彼らの中に入る姿がそこにあるように思える。だからこそ、ハンセン病患者達はゲバラを こころから受け入れたと思うのだ。

原作ではこの河を泳ぐシーンはない。これは映画のハイライトとして脚本家が創作した逸話である。でも後日「チェ」と親しみを込めて呼ばれるゲバラの事を知っている僕には、この逸話が不自然に思えない。

旅には必ず出発点があり終着点もある。仮に旅をし続ける人がいたとしても、僕には必ず旅の終わりは、その人にも訪れると思っている。 例えその終着点が次の旅の出発点になったとしても、やはり旅は「何処から何処へ」があるのだと思う。でもこれは旅だけではないのかもしれない、ゲバラに とってこの旅は、彼の人生においてチェ・ゲバラになる為の出発点だったのかもしれない。

同様に思う事は、現代の僕等は一体何処から何処に向かっていくのだろうかと言うことだ。できれば僕等の旅が次の世代の幸福に続く事が出来ればと願う。でもその為には、旅の途中でも立ち止まって考える必要があるのかもしれない。そんな気がする。

追記:
・歩くという事は色々なことを考える事が出来る様な気がする。モーターサイクルが壊れ、二人の旅が徒歩に変わってからの旅の内容は、モータサークルの時と較べ思索的になっていった感じを受ける。(2004/11/16)

・香田さんの事を考えた。彼も同様にイラクの探検旅行だった。そしてその旅は映画のゲバラのように自分探しの旅でもあった。彼が戻っていたら、お父 様が言われたように、人類の平和のために活躍した人になっていたかもしれない。僕は、映画で同感する事が、実社会では批判される事に不思議を覚えてしま う。(2004/11/16)

・旅に出ると、何でも見てみようやってみようと、好奇心が旺盛になる様な気がする。好奇心は悪いことではないけど、そればかりで終始すると「旅」の 深さを味わうことが出来ないように思える。「旅」の深さとは、自分を異なる環境に身を置いて振り返る事で得られる様な気がする。結局は自分を探すことが 「旅」の1つの姿かもしれない。映画のゲバラの場合、好奇心だけではなかった様に思える。彼はいつも旅の途中で「手紙を書く」ことで立ち止まり、振り返 り、そして考えていたと思う。 (2004/11/16)

2004/10/19

ハーレー窃盗の容疑で台湾出身の7人逮捕

外国製の大型オートバイ「ハーレーダビッドソン」を盗んだとして、警視庁捜査三課は19日までに、窃盗の疑いで埼玉県熊谷市の無職李志祥容疑者(28)ら台湾出身の7人を逮捕した。
(中略)
調べでは、李容疑者らは10月15日夕、東京都渋谷区神南の路上にあったハーレーダビッドソン1台を盗んだ疑い。このオートバイは熊谷市上中条の資材置き場で解体、輸出する準備がされていた。(NIKKEI-NETからの抜粋)


新聞記事にもなったようです。ちなみに熊谷市の解体場所では3台のハーレーが解体輸出する準備が整っていたそうです。勿論その内の1台が僕のバイクです。

記事の中にも書いてあったのですが、台湾は世界貿易機関(WTO)に2002年に加盟し、大型オートバイの輸入販売が解禁となったそうです。その為、中古車価格は日本の価格の倍近くまで値上がったそうで、これが窃盗団の日本で活躍の背景になったそうです。

バイクが見つかった!

16日の日に渋谷の東急ハンズの前で盗難にあったバイクが見つかりました。

18日の日中に警察から電話がありました。僕には盗難の件だなとすぐにわかりましたけど、内容は事情を聞くだけと勝手に思い話を聞き 始めました。警察の方は男性で、とても丁寧で親切な印象を受けました。そして16日に盗難届を提出していますねと確認した上で、窃盗団を一網打尽にした事 と、僕のバイクが見つかった事を教えてくれました。

窃盗団は外国のグループで、プロの集団とのことでした。僕のバイクは船積みの為に既に解体されてバラバラの状況だったそうです。その事に電話をかけてくれた方は何度も、もう一歩早ければといって謝りました。勿論彼のせいではありません。一番悪いのは窃盗団の人たちです。

今後捕まえた窃盗団の捜査を継続していくので、捜査に協力して欲しいお願いと、バイクが手元に戻るのはしばらく後になるとの事を言われました。

本当に嬉しいです。でも一抹の苦さは解体されたバイクの事です。機械で道具ですけど、愛着があるせいかとても可哀想に感じました。でも他の人に色々と聞いて みると、盗難に遭ったバイクが解体されているとはいえ、船に積まれる前に見つかったのは殆ど奇蹟に近いとの事でした。最近日本では外国の窃盗団が横行して いて、そういう人たちからは日本は結構やりやすい国らしいとのことです。まず窃盗団が横行している事実認識が薄いので危機管理の意識が外国の人から見れば 足りないとの事でした。

今回の事では色々と勉強になりました。僕の危機管理の甘さは多分無くならないとは思いますが(少なくとも日本で生活 している時はそうです。人を見たら泥棒に思えと、昔から言われますけどなかなか思える物ではありませんよね。)、今後はバイクの防犯装備は今まで以上に増 やすつもりではいます。

僕の以前の記事を読み、ご心配をして頂いた皆さんにお礼と共に報告致します。

今回の事で参考にさせて頂いたサイトです。

バイク盗難撲滅計画
盗難リスト
窃盗団から財産を守れ

2004/10/16

バイクが盗まれた

バイクが盗まれました。

バイク盗難は多いと聞いていたけど、自分が盗難に遭うとは思ってもいなかったのが正直な気持ちです。事件は本日(2004/10/16)18時から19時半頃の間で起きました。車種はハーレーダビットソン・ダイナ・ローライダー2001年型です。

僕は渋谷の東急ハンズに買い物に行き、バイクは人通りが多い東急ハンズ前に止めました。防犯は標準のハンドルロックだけでした。買い物が終わり止めてある場所に行くと、バイクは跡形もなく消えていました。その間およそ1時間30分間。

はじめ状況がつかめず夢の中にいるようでしたけど、とにかく周囲(東急ハンズ前は無数のバイクが駐車しています)を探し回りました。
邪魔なので移動されたかもと考えたからです。でも当然にバイクは見つかりませんでした。30分くらい探したと思います。ちょうど東急ハンズの目の前がハー レーダビッドソンのお店で、店の知っている方が僕を見かけ来てくれたので状況を説明しました。彼は、警察のレッカー車での撤去は今夜なかったと告げ、盗難 と考えた方が良いと言いました。
探した30分間で、漠然とした思いが確信に変わっていった事もあり、僕は彼の「盗難」という言葉を現実として呑む事が出来ました。そして近くの交番にいき盗難届を提出しました。

バイク店の彼は、ハーレーの盗難は、組織的なプロが行う事が多く、手際は早くて防犯装備に関係なく盗まれる事、盗難車は分解され海外に売られていくケースが多い事、盗まれたバイクが戻る事は経験上少ない事、等を僕の質問に答える形で教えてくれました。

盗 難に遭ったバイクは乗り始めて約5年です。走行距離はおよそ1万2千キロ。その1万2千キロ分の思い出が詰まっているバイクなのです。盗難に遭った事で、 その思い出も汚される様に感じました。思い出と一言で言っても、その時の気持ちにより楽しいだけではなく、休みなどで出かける時に、生活の一部としてそこ に在ったバイクなのです。少し感傷的になってこの文章を書いているとしてもご容赦いただきたくお願いします。何しろ本日盗まれたばかりの状況なのですか ら。

今現在僕のバイクは見知らぬ人がどこかの道を走っているかもしれません。それを考えるとたまらなくなります。出来れば見つかって欲しいと心から思っています。バイクに乗られている皆さんも本当に盗難には気をつけてください。それも心からのお願いです。