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2008/01/04

翻訳について、リセット

僕は「翻訳について」以下の五つの条件をあげようと思う。「条件」を示す場合、「何の」という目的が必要と思われるが、必ずしも同一目的下でまとめられてはいない。「翻訳について」という命題に思いつくまま羅列したに過ぎないと思う。でも強いて言えば、「翻訳とは一つの形式」というベンヤミンの言葉、そして翻訳の政治的側面からの視点が羅列の背景にあると意識はしている。
  1. 翻訳の原本(翻訳される側)は文書であること。つまり書かれている言葉である。そして、翻訳本は原本の前に現れることは決してない。
  2. 原本は現時点における共時性をもった書かれた言葉ではなく、かつその書かれた言葉の意味が判読難しい状況にある。
  3. 原本は翻訳本となるラングとは別のラングで書かれている。さらに原本の文体は翻訳の文体を保証するものではない。
  4. 翻訳する理由、もしくは市場性がある。また市場の大小および対象は翻訳の技術面に影響を与える。
  5. 翻訳とは受容ではなく変容である。すなわち翻訳とは一つの解釈の形式であり、それは語と1文の構成の選択に現れる。
日本では、例えば琉球語の様に話し言葉としては、行政範囲内である場合、標準語と対比する方言としてその位置づけが定められているが、僕の視点からは日本は多言語国家としてある。ただ、「書き言葉」としての日本語は、先住民族・移民・外国人労働者・難民・旅行者および在日という日本人社会と対比により成立した各社会を除き、といっても多くの前記の人々も共に地域という意味で「日本」に長期間暮らすなかで「書き言葉」としての日本語を習得している割合は高いと思われるが、「話し言葉」と較べれば「単一言語」となっているように思える。それは中央集権国家として成り立った頃より培われたかもしれない。

でも僕がここで語りたいことはそのようなことではない。翻訳とは産業翻訳を実質中心に行われながら、イメージとしては文芸翻訳が中心であった。でも本来翻訳はまずは人間の生命・生活に重点をおいて行われるべきと僕は思う。

渋谷などの駅名表示そして街路地表示、トイレなどの生理面に関する案内表示などは既に概ね翻訳されている様に思うが、例えば行政サービスに関しての翻訳はどの程度進められているのであろうか。また言語間の翻訳は在住する別ラングの人々の割合に応じて為されるべきであるにも関わらず、英語中心に行われている傾向にないだろうか。

統計的な数値を知らないので無責任な言動になってしまいかねなないが、仮に僕の想像通りである時、もしくはその翻訳行為を各自治体の予算に任されている実態にある時、そこに政治的な意図はないのだろうか。

全く別の視点で見て、例えばフランス語から日本語にある文書を翻訳する時、そのフランス語とか日本語は一つの統一され固定した静的な言語であることを前提にしている様な印象を受ける。

でも常に言語は流動的で止まることはないし、一国家・一民族・一言語が等号で結ばれることもない。その中で翻訳文は書かれた瞬間から陳腐になる傾向となるが、それでも「日本語」として完成された単一言語として取り扱う傾向にある。それは翻訳の実務面としては致し方ないことではあるが、その結果、ある面では日本の政治システムを維持強化することにつながる様にも思える。

文藝翻訳に関する一つの例としてミラン・クンデラ(1929年4月1日-)をあげたい。ミラン・クンデラはチェコからフランスに亡命した。フランスに亡命した時点で既にクンデラは著名な作家であったが、それはチェコ時代に書いたクンデラの作品のフランス語訳の小説が高い評価を得ていたことによる。しかし、その翻訳はクンデラ自身から見た時、書き直されていたと思わせるほどの誤訳であった。誤訳はその文体にあった。逆に言えば、クンデラにとって文体は対応する語の適切さと同等に翻訳において重要な位置を示していた。それによりクンデラのフランス亡命生活の初め約10年は、精緻なフランス語を鍛えることと彼自身の小説の再翻訳に追われることになる。

クンデラの作品がフランス語に翻訳された時、東西冷戦の終結間際と言いながら、そこに依然として冷戦構造の枠組みの中でフランス側がチェコを捉えていた視線があるのは事実であろう。クンデラが 「チェコのソルジェニーツィン」と評されていたことが、ある意味、それを端的に示している。つまりクンデラの作品は、その当時フランス側が望む様に彼の作品を訳していたことになる。そしてそのことは、政治的に東西冷戦構造の中で西側体制強化につながると見てもあながち不自然ではないように思える。

ここで一つの疑問が浮かぶ。クンデラがチェコ時代にチェコ語で書かれた小説と、フランス亡命後に彼自身がフランス語に再翻訳した小説、その両者を並べたとき、両翻訳の内容は全く同じであろうか、またどちらが原本なのであろうか。僕の答えは簡単だ。あくまでクンデラ自身が翻訳を行おうが、チェコ語版が原本であり、両者は同じではない。ただ、両者を並べ考える意味はないとは思う。それは両作品が原作者を担保とするからではなく、原本と翻訳本を並べ較べることに意味が無いことを示していると、僕は思う。

さらに重訳についても考えてみる。村上春樹と柴田元幸の対談『翻訳夜話』(文春新書)で、村上氏はテキストが重要と語ったうえで重訳について以下のように語る。
僕の小説がそういうふうに重訳されているということから、書いた本人として思うのは、べつにいいんじゃない、 とまでは言わないけど、もっと大事なものはありますよね。僕は細かい表現レベルのことよりは、もっと大きな物語レベルのものさえ伝わってくれればそれでいいやっていう部分はあります。
(『翻訳夜話』 文春新書)
重訳における原本との誤差が直接翻訳と較べ多いとする根拠は僕にはない。『翻訳夜話』のなかで柴田氏は重訳について、コピーのコピーだからノイズが増える、と言っているが翻訳はコピーではないと思うので、その例えは僕には成り立たない。また言語構造(文法)が全く違う言語間の翻訳が間に入る場合、ノイズが大きくなる様に思えるとも言われていたが、例えば漢文と日本語文の言語構造は全く違うが、ノイズは少ないように思える。日本は漢字文化圏に属しているが故にノイズが少ないとすれば、翻訳時のノイズ混入の多少は言語構造に拠らず、言語間の歴史的関係にあることを示す結果になりはしないか。

翻訳文化でもある日本は、明治以前、翻訳は中国からの様々な文書に訓点を付けることと同義だったと思う。諸外国の文書は中国に渡り漢文に翻訳される、日本はそれを輸入し訓読した。ある面、日本は漢文経由の重訳文化だったのかもしれない。例えば、Wikipedia「仏典 」によれば、古代マガダ語、バリー語、サンスクリット語で書かれ、文字は「悉曇」(しったん)が多く使われたとある。つまり仏典は日本語に翻訳される以前からして重訳を重ねていることになる。

しかし日本において仏典の重訳の問題はなかったように思える。たとえば解釈の違いから、もしくは仏典の選択から日本では諍いがあったが、重訳からの疑義による信仰心の揺らぎは起っていない。

重訳の問題は、畢竟直接翻訳の問題以上とはなりえない、と僕は思う。僕は本記事において、逐語訳、意訳などについて語るつもりはない。それらは原本の意味と内容(書かれた言葉)のどちらを重視するかの重みにより変わり、その判断は原本が何のために書かれているかに拠ると思われるからだ。ただ原則的には原本の 「書き言葉」に現時点での言語をもって、出来うる限り正確に合わせるべきとは思っている。

追記:世界で最も他言語への翻訳が多いのはキリスト教の聖書だと思う。翻訳の歴史を考えるとき聖書抜きでは考えることはできないだろうし、翻訳の問題も聖書から派生したとも言える。でもここではそこまで踏み込むつもりはない。(Wikipedia 「聖書翻訳 」参照)

2007/12/30

Amazonのカスタマーレビュー、ベルンハルト、そして翻訳について

Amazonのカスタマーレビューを時折読むと、それが翻訳本のとき和訳の善し悪しが記述されているときがある。善し悪しだけではなく、誤訳もしくは不適訳及び訳抜けなどに発言が及ぶときも書籍によってはある。実際問題としてそれらの発言が僕の購入是非に関わることは少ないが、それでもその書籍への評価に一定の影響を受けるのも事実である。

でもそれ以上に僕は前述の発言を何故出来るのか不思議に思うのだ。少なくとも日本語化の善し悪しを評価するにあたり、Amazonでの発言者は原書もしくは別の翻訳本を読んでいなければならない。原書が新刊書であれば別の翻訳本がない可能性は高く、誤訳・不適訳の評価もあることから、当然に原書を読んでいるということになる。そこが不思議なところである。

つまり原書を日本語訳と同様に読めるのであれば、翻訳本を読む必要性は始めからない。でもAmazonのカスタマーレビューに記載していることは、とりもなおさず発言者は、まず翻訳本を読み、翻訳の拙さを実感し、かつ翻訳の内容も疑い、それでも尚、当該著書の内容を知りたく原書を読み、その上で翻訳本の評価をAmazonに発言した、ということになる。ネットであれば、以前とは違い原書を手に入れるのは簡単なはずであるから、随分と回り道をするものだと僕は思うのである。

実を言えば僕は今まで翻訳本の善し悪しを実感したことは少ない。特に翻訳がきちんとした日本語になっているか等とは考えたこともない。それはお前の感受性の鈍さだと言われてしまえばそれまでだが、実際にそうなのだから致し方ない。Amazonでの発言者がまず「翻訳の拙さ」を実感できることが、嫌味でもなんでもなく、僕には実感できないのである。

それでも良い翻訳だったと、後から振り返ればだが、思った本も何冊かはある。その中の一冊がトーマス・ベルンハルトの小説『破滅者』(岩下眞好・訳、音楽之友社)である。書籍の末尾に翻訳者の後書きがあり、そこには原書は一文が非常に長く、そのまま訳した時、文章として判別不能になりかねないので、ある程度の長さで区切ったと書いてあった。それでも日本の小説と較べても十分に長い。

またそれ以上に僕が意識したのは翻訳文の文体であった。文の末尾に「と僕は思った」が非常に多いのである。文の全てに「と僕は思った」とあるように感じられたほどだ。おそらく、これはあくまでも僕の推測だが、『破滅者』の翻訳文は日本語としては悪文であろう。それでも僕にとっては、この悪文こそがトーマス・ベルンハルトの文章のように思えたのだ。

僕はベルンハルトの原書を読んだこともない。しかし彼の言動は伝え聞いていたので、僕なりに彼のイメージが造られていた。そしてそのイメージと『破滅者』の翻訳文は一つの調和を以て重なったのである。この翻訳文でしか『破滅者』の文体はないとさえ思った。「と僕は思った」の反復は僕にとっては苦痛ではなく、『破滅者』という小説が持っているリズムのように思えたし、反復することで小さな波が相乗し、終には津波となって小説の世界に引きずり込まれた様にも思えたのである。「ああ、こういう日本語での表現の仕方もあるのか、出来るのか」、それは新鮮な感覚だった。その「新鮮な感覚」を得られたから、逆に僕はベルンハルトだけでなく、翻訳者である岩下眞好さんのことも意識することになった。僕にとって、ベルンハルトと岩下さんは「破滅者」を通じて一つだった。そしてベルンハルトの『破滅者』は忘れ得ぬ小説のひとつになった。
(その時の簡単な感想は、『Amehare's MEMO トーマス・ベルンハルト「破滅者」』 に書いています。)

僕にとって岩下眞好訳ベルンハルト『破滅者』との出会いは幸運だった。今から思えば、欧米の小説は「彼が言った」「彼女が言った」「私は言った」と文において主客を明確にするから、「と私は思った」の多さは原書の直訳に近いのかも知れない。でもだからといって本書の評価がいささかも変わるこはない。翻訳について回る多くの言葉、意訳・誤訳・直訳・妙訳・外国語化・翻訳文臭さ等々・・・、それらの言葉は読者が翻訳書に対する評価だが、多くは主観的である。翻訳は原書のジャンルによって、技術書・ビジネス文書などのいわゆる産業翻訳、医学書・学術系論文・法律系の文書の翻訳、そして文芸書翻訳と大雑把ながら分けられ、それ毎に求められている事が違う。そして今も昔も日本語化する分野で最も多いのは産業翻訳であると思える。産業翻訳は、例えば武器製造のしかたからその使い方、ビジネスにおけるリサーチ資料等々多岐にわたるが、それらの翻訳は伝える物が明確で、しかも正確さが求められる。明治維新以降、西洋のあらゆる技術資料が翻訳されたことだろう、つまり日本における翻訳理由の歴史は、中国・朝鮮から技術を仕入れた大和朝廷以降変わらないと言うことだ。

様々な翻訳一般に対する読者の評価を表す言葉の背景にはそういう産業翻訳の歴史が内包されている様に僕には思える。しかし文芸翻訳の場合、産業翻訳とは伝える物は違ってくる。僕が様々な翻訳に対する評価を表す言葉が概ね主観であると思うのは文芸翻訳のことである。ヴァルター・ベンヤミンは著書『翻訳者の課題』で文芸翻訳について以下のように語る。
翻訳は、原作を理解しない読者たちに向けられているのだろうか?そう考えるのなら、芸術の領域における翻訳と原作との地位の差は、一目瞭然に見えるだろう。加えて、「同じもの」を反復して語る理由も、ほかにあるとは思いにくい。しかし、文学作品はいったい何を<語る>のか?何を伝達するのか?それはそれを理解するひとには、きわめて僅かなことしか語らない。それの本質的なものは、伝達でもなく、発言でもない。にもかかわらず媒介者たろうとするような翻訳は、伝達をしか-つまり非本質的なものをしか-媒介できはしない。
(『翻訳者の課題』 ヴァルター・ベンヤミン 岩波文庫 野村修編訳)
ベンヤミンが『翻訳者の課題』において念頭にあったのは文芸翻訳のなかでも特に「詩」の翻訳であった。故にその語りには一種の偏りがあるように僕には思える。しかし日本語の語によって区切られた世界(日本というシステム)に生きる僕にとって、別の言語で創作された書籍は同様に別のシステムが潜在しているのは容易に想像できるし、その両システムの関係を考えた時、ある文芸書を日本語に訳することは、原理的に伝達さえ難しいこともあり得るかもしれないとも思う。

別に他言語間の翻訳不可能性を言っているわけではない。そもそも僕にとっては「翻訳不可能性」という言葉自体不可思議な言葉なのである。何をもって完全な「翻訳」と言えるのであろう。もしくは何をもって翻訳可能性の是非を定めるのであろう。一つの逆説的なことを言えば、完全な翻訳書とは「翻訳」されていない書物のことだろう。翻訳することとは、ベンヤミンの言うとおりに「形式」なのかもしれないが、新たな問題を、翻訳する側のシステム(ラング)に持ちこむことに近いと僕には思える。どの様な問題か、それは持ちこまれた側(例えば日本というシステム)の再構築を迫ることだと思う。再構築と言ってもそれほど大袈裟なことではない。それは例えばブログの記事の修正・追加の毎に行われる再構築、もしくはデータベースに新たな項目を付け加えることによる関係づけのための構築に近い。それでも語により区切られた世界は変わる。

ここで翻訳者ではない読み手である僕にとって幾つかの疑問点が浮上する。例えば僕はベルンハルト『破滅者』を読んだのだろうか、という疑問。その疑問は、日本におけるドイツ語理解者の数と、出版市場により担保され、購入時に何ら疑問を持たなかったのも事実である。僕はドイツ語圏のオーストリア作家であるベルンハルトの小説として「破壊者」を図書館で借り受けた。そして僕はベルンハルトの『破滅者』を日本語で書かれた小説として読んだ。日本語として個性的な文体は、ベルンハルトの文体だと僕は思った。読み終えるまで、
僕とベルンハルトの間に翻訳者である岩下眞好さんが存在していることは全く意識しなかった。それを意識したのは、小説の面白さと文体の新鮮さを感じながら訳者の後書きを読んだからだ。

読み手の立場から一つ言えば、確かに『破滅者』はベルンハルトの作品だからこそ読んだのだが、それはきっかけに過ぎない。作品はどの国の誰が書こうとそれほど重要なことではない。ただ日本語を母国語とする人の多くの作品は、日本語に囚われている。それは致し方ないことだと思うが、それらの作品はそれ故に新鮮な驚きが得られにくい。さらに気になるのは日本語の可能性を広げることなく固定化しようとする動きである。

そのことが政治的にどういう動きをもたらせるのかという問いへの悲観的な回答を打開するために、ますます諸外国の現代小説などの翻訳を、日本語として善し悪しを気にすることなく、行うべきだと思っているし、それらの作品を読みたいと願っている。