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2009/12/08

ポパイ

Googleの検索サイトに行ってみたらロゴがポパイだった。
調べてみるとポパイの原作者であるエルジー・クライスラー・シーガーの誕生日なのだそうだ。ポパイにも原作者がいたんだ、という当たり前のことが最初の印象。そりゃぁいるだろうと即座にアホな疑問を打ち消したけど、それが率直な感覚だった。だからエルジー・クライスラー・シーガーも今回初めて知った。

でもこのGoogleのロゴはポパイの雰囲気を良く出している。網掛けの色使いからくるポップな感覚は今でも十分に通用しそうだ。

ポパイと言えばほうれん草、ほうれん草会社がこの漫画のスポンサーであると真しやかなうわさが流れたことがあった。しかし、ほうれん草会社のイメージが全く浮かばなかったし、ほうれん草の缶詰だって売っているものを見つけたこともなかった。

ポパイは今の漫画と較べれば品質面で劣るように思うが、それでも観てしまえば最後まで見てしまう面白さがあった。何よりも難しいことなどどこにもない大らかさ、オリーブとブルータスとの絡みの単純さ、結末がわかる安心感が、そこにはあったように思う。しかし戦前から日本に紹介されていたとは全く知らなかった。(それを考えれば十分に品質は高いとも思える)

しかもWikipediaによれば、ポパイは最初脇役だったのだそうだ。当初の主人公の名前はハム・グレイヴィ、ハムの恋人は勿論オリーブ。それが脇役であるポパイの人気が上がり、ついにはオリーブを奪い、ハムを主役から追い落とした。実はこのことに僕はとっても興味がわく。といって掘り下げるつもりもないが。

ポパイは雑誌の名前にも使われた。ご存知の通りのマガジンハウスの雑誌である。創刊が今から30年以上前だというから、すごい雑誌と言えるかもしれない。雑誌ポパイでは、そのターゲット層が10代後半から20代ということもあり、男性のことを「~少年」と呼んでいたように記憶している。今では少年はそれほど使われなくなり、変りに「女子」と対抗しての「男子」が使われるようになった。でも僕はこの「~少年」という言い方の方が好きだ。

「男子」が男性一般的な使われ方をするのに対し、「少年」には明らかな年齢の区分がそこにはある。だから使われ方としては、大人に対して少年とは言わずに、「少年のような」という言い方をする。どうも「男子」と繋がるのは「トイレ」とすぐに発想してしまう、この身の発想の貧弱さがそこにあるのも事実だが・・・

雑誌ポパイが世の中に受け入れられた理由として、よく言われるようにポップカルチャーの隆盛にある。そしてそれは深化を続け「かわいい」から派生した携帯文化で現在に至る。その経緯で外面もしくは年齢よりは、より内面の状態を前面に出した文化でもあるように僕には思える。その文化はIT技術を背景にしたヴァーチャルと自分の内面を重ねることで、自分を一種のアバター化してもいる。

ポップカルチャーの流行の一端を担った雑誌の名前がポパイであることは偶然ではないと僕は思う。ポパイの漫画の中に既にその芽が見出せるような、Googleのロゴを見てそんなことも思った。

ちなみに原作者のエルジー・クライスラー・シーガー(1894/12/8-1938/10/13)さんが誕生してから今日が115年目となる。

図補足:上が2009/12/8のGoogleロゴ、下がポパイの前の主人公で、オリーブの元彼。

2008/01/31

あらたにす

「日本経済新聞、朝日新聞、読売新聞のニュースや社説などを読み比べできる新しいウェブサイト「あらたにす」(http://allatanys.jp)が31日午前7時すぎ、オープンする」
(2008/1/30 朝日新聞)
日経・朝日・読売という新聞購読者数によるシェア3強による連合は、新聞社という企業による最終の目論見のように思える。朝日新聞社説「あらたにす発足―言論の戦いを見てほしい」では新聞と言うメディアを前面に出しているが、実態はそうではなく、あくまでもビジネスとしてのネットにおける企業連合であることは間違いない。

新聞社である限り自社サイトのアクセス数を気にしないわけにはいかない。グーグルニュースの登場、産経新聞のMSNへの統合、毎日がMSNから独立してもアクセスを維持している現状、それらのなかで新聞と言うメディアがネットでどの様に変化せざるを得ないのか。その回答が「あらにたす」であるとすれば、少しお粗末と僕には思える。

「グーグルニュース」は記事をそれ以上分解不可能な単位として分類している。「あらたにす」は分解不可能な単位を新聞社においている。別の言い方をすれば、「あらたにす」は新聞類-朝日新聞種という切り分けである。新聞社を統一された分解不能な主体として見せることは、「グーグルニュース」に対する反論でもあるかもしれない。しかしそれであれば、日経・朝日・読売という3社だけでなく毎日と産経も参加させるべきだろう。

MSN産経は実質紙媒体の新聞紙よりも情報量が多い。産経新聞を読めば、記事の末尾に「詳細はMSN産経」と書かれているくらいだ。特に裁判関係の実録記事は臨場感があり面白い。MSN産経は当初はMSNというポータルサイトにリンクされることでアクセス数を稼いだと思うが、現状もアクセス数を維持しているとすれば、それはその情報の種類と量の豊富さであろう。

さらにMSN産経では記事中のキーワードから簡単に検索も可能となっている。人は発生し流れる「出来事」を知りたいと思う。自分の生に与える影響度合いを計る気持ちもあるかもしれない。でも「出来事」は流れているので、知ることは殆ど不可能である。流れの切り取り方により「出来事」の姿は大きく変わる。その「出来事」を知らせるのが新聞の役目であるのなら、「出来事」を中心に纏めるほうが理にかなっている。

無論「出来事」を多く集めても流れを造り出す事は出来ない。一つに見える「出来事」には無数の「出来事」が重なり合い、それらは一つ一つ個別でまとまることも出来ず、ただ流れていくとするのであれば、それぞれの新聞に書かれた「出来事」と「出来事」の間を読み取ることしか出来ないかもしれない。

僕はこれらのことを考えると「あらたにす」は、とても興味ある試みだと思うが、先行きは難しいように思える。何を持って「成功」とするのかは僕にはわからないし、ニュースサイトの一つとしてみれば、これはこれで便利ではある。ただ朝日新聞社説の心意気とは程遠く、僕としては複数のなかの一つでしかない。

2007/12/15

Goldfish Picture after Jakuchu

今年の夏の話だから、いまさらと言う感じではあるが、僕は東京青山のスパイラルガーデンで開催していた京都造形芸術大学30周年記念の美術展に行った。「混沌から躍り出る星たち」とのタイトルが付いたその展覧会は、京都造形芸術大学の学生たち、そして大学に関係しているアーティストたちの作品が出品されていた。僕がその展覧会に興味を持ったのは、池田孔介氏の作品が、おそらく東京で初めて出展されていたからだった。
(本展覧会に出品した作品「Goldfish Picture after Jakuchu」は池田さんのサイト で見ることができる)

僕は、池田さんが米国に滞在研究しているときに、ネット上に公開していたエッセイ「文化的誤植を注視せよ 」の愛読者だった。「誤植」という概念を、未だそれは僕の中で掴みきれていないが、とても興味を持って読んだ。

池田さんの個人ブログ「Fairytale/Diary 童話日記」 にて、今回と同様のモチーフである作品「Goldfish Picture」の評として、彼は日本美術史を専攻する高松氏の言葉を引用している。
金魚という鑑賞されるためだけの存在をモチーフに選び、これが図と地の境界も曖昧に水面化にひしめく様を正面から捉えることで、池田は視覚表象根幹にあるマトリクスを現前させようとする。自らが魅せられている、視ること/視られること、可視/不可視の淡いにあるマトリクスを。 (イメージの 蠢く深層、マトリクス 高松麻里(日本美術史/ニューヨーク大学)
(「2006-11-03 Kosuke Ikeda Solo Exhibition ”Goldfish Picture” 」から引用)
正直に言えば僕には高松氏の語りは難しい。無論それは僕が絵画を「見る力」がないからに他ならない。絵画において鑑賞者の「見る力」は間違いなく必要だと思う。しかし、「見る力」を持っている鑑賞者のみを対象としているとするのであれば、青山スパイラルガーデンでの展示会は何を意味するのであろうか。アーティストの作品と対峙するとき、「見る」という欲望は知性と共にあり続けなければならない。そしてそのとき鑑賞者の中で欲望と知性が独立して並び立ち分裂することもありえない。それらは分かちがたく、見るという行為により、鑑賞者の世界を構造化することになる。しかし作品は鑑賞者の中に埋没することなく、前記に矛盾するようではあるが、独立したひとつの作品であり続けなければならない、と僕には思える。つまりそれは何も鑑賞者の「見る力」だけに寄るところではない。作品自体にも「見せる力」がなければならないのだ。

池田さんの作品は見せる力を強く持っている。僕はスパイラルガーデンで池田さんの作品「Goldfish Picture after Jakuchu」を時間を忘れ眺め続けた。展示会には他の多くの優れた作品があるにもかかわらず、僕は彼の作品に没頭した。おそらく、高松氏が評した作品と、スパイラルガーデンで展示した作品は違う。それは作品タイトルに付加した「after Jakuchu」に如実に現れている。池田さんは本作品製作前に若冲の作品を鑑賞し、そこで得た刺激を本作品に盛り込んでいるのだろう。そのことは、彼が米国中に連載し考察した「誤植」の概念と密接に関係するようにも僕には思えた。
未だ何の評価も得ていない、ともすれば忘れ去られてしまいかねない重要な作品たちの存在。これはいわば書物における誤植のようなものだ。すでに印刷されて取り消し不可能な点。それはひとたび発見されれば本の最初のページにその正誤表が差し挟まれ、言いようもない存在感を放つことになる。しかしだれにも気づかれないならば誤植はそれとしての存在意義を失ったままだ。 (「文化的誤植を注視せよ」「誤植とは」から引用)
池田さんの作品「Goldfish Picture after Jakuchu」について少し語りたいと思う。その後に「誤植」と本作品の関係について僕の思うところを語ろうと思う。

高松氏が「Goldfish Picture」について語ったように、「Goldfish Picture after Jakuchu」においても「金魚という鑑賞されるためだけの存在をモチーフに選び、これが図と地の境界も曖昧に水面化にひしめく様を正面から捉え」ている。ポリウレタン・透明シリコン・アクリルを素材として、1枚100×50×5(単位はcm)に描かれた金魚は2枚1組として3組並べられている。2枚1組と見えたのは、そこに金魚の色と動きの関連性がみられるからだ。透明シリコンによって造形された金魚は、数種類の姿に作られ、姿とは関連なく様々な配色をされている。金魚は本能のままに動き回る瞬間を切り取られたかのように、鏡面の板に貼り付いている。少し離れてこの作品を見れば、金魚は絵筆の軌跡のようにも見える。

鏡面は作品を飾る場所により金魚の背景を変え、結果的に作品の印象を変える。それ以上に鏡面は鑑賞者の姿を金魚の背後に映す。それゆえ、この作品は単に「水面化にひしめく様を正面から捉える」だけでないことがわかる。鑑賞者は、金魚の造形を使っているゆえに、当然に金魚が動き回る「場」を水中と思い込む。しかしそれであれば、鏡面に貼り付いた金後の映りこみにより、金魚は映す面(水面)に逆さまに泳いでいることになる。逆に金魚が正位置であれば、金魚と鑑賞者の位置関係は逆転していることになる。鑑賞者は水底に位置し、そこから本作品を鑑賞している鑑賞者本人を見つめるということになる。それも見方としては面白いと思うが、おそらくはこの金魚がいるのは水の中ではない。ただ100×50×5の閉じられた空間を動き回っているのだ。

作品はアクリルの板で仕切られている。無論板は透明で境界は曖昧である。ただしそこに境界があることを金魚は知っているかのように、作品の隅に群れをなして集まる。曖昧だが閉じられた空間、本能のまま動き回る金魚、それらは金魚の本能だけを抜き取りその瞬間を切り取ったかのようでもある。そしてその模様の背後に、鏡面に映り込まれる鑑賞者の姿。それはあたかも鑑賞者(この場合、僕のことである)の、空っぽの身体の中を出口を求め動きめく「欲望」のようでもある。

「after Jakuchu」の付加の意味を僕は知らない。今年開催した若冲展にも行かなかった僕は何も若冲について知らない。さらに本作品と「after Jakuchu」付加前の作品の差異も知らない。「after Jakuchu」が示す何かを表象しているであろうことはタイトルから想像できるのみである。それは作品の大きさ・物質的素材・配色等の構成を変えることなく、逆にそれだからこそ、現代芸術から若冲への応答のように響く。

池田さんが「文化的誤植を注視せよ」で使う「誤植」とは、見つけられて初めてその存在意義を持つ取り消し不可能な点を指し、それは1作品に対してのみ語られているわけではない。「誤植」とは誤って植字されたことを指すが、「誤り」とはその社会的文脈によって定まることも多い。つまり取り消し不可能な点には、あらかじめ埋め込まれ探し出されるのを待っている潜在的なものと、社会的文脈の違いにより新たに誤りとして見つけられるもの、の2通りあるように思える。あえて言葉を造るとすれば、「潜在性としての誤植」と「可能性としての誤植」とでも言おうか。その点で言えば、「可能性としての誤植」には評価が定まった作品たちにもあてはまる。「再発見」と称され紹介される作品群はそれにあたるかもしれない。

ここで僕が言いたいことは、「Goldfish Picture after Jakuchu」はある意味、池田さんにとっての若冲の「誤植」の発見ではないかということだ。作品の「誤植」とは、その作品の中に「誤り」もしくは「欠如」を示すものではなく、「誤植」に伴う「正誤表」を作品に挟み込むことが重要なのだと僕には思える。その「正誤表」としての作品。それが本作品の底にあるように思えるのである。

アーティストでもない僕が作品に口を挟むことではないのは理解している。でも池田さんの作品を見たときに感じたことを書き残したかった。万が一、池田さんが本記事を知り、その誤読のひどさに不快感をもたれないことを祈る。

2007/10/01

Twitterを無意味と語る無意味な記事を思う

ITproにおける二つのTwitterに関する記事(『「爆発的広がりを見せるソーシャル・
メディア:中身の無いコミュニケーションがなぜ若者に広がっているのか?」小林雅一
』、『最新IT動向を読む 第4回 Twitter、リアルタイム日記、プロフ爆発的に広がる“無意味メディア” 』)を読んで、思うことがある。

それはTwitterの利用者をひと括りに扱い、その傾向を分析するかのような手法である。Twitterとはどんなサービスなのかをこの場で問うことはしない。それをソーシャル・
メディアとすることもマイクロブログと扱うことも一向に構わない。ただ一ついえるのは、それらのサービスを利用する人は、学生でもあり社会人でもあり学者でもあり、もしくは主婦でもあるということだ。彼らは、日中会社で働くであろうし、学校で授業を受けているだろうし、日々の家事と育児に追われているかもしれない。また彼らはテレビを見て、小説とか漫画を読み、新聞も読んでいることだろう。 無論ネットで色々な情報を調べたり、時には買い物をしたり、また興味があることはブログなどを通じて発信するかもしれない。

当然のことだが、Twitterの利用者と利用していない人と見分けるのは不可能だろう。会社で高度なマーケティング計画を立案している人も、時折Twitterを利用しているかもしれない。もしくはアカデミックな場で、それこそ意味のある(と思える)コミュニケーションをしている方もTwitterを利用しているかもしれない。つまりは、そういう現実が今の時代にはある、と僕には思えるのである。

Twitterでの発言に「内容が無い」と語る人に聞きたい。そもそも人と人のコミュニケーションの場において「内容が有る」言葉がなされる比率はどのくらいであろうか?多くの場合、取り交わされる内容は客観的に見れば無意味と思われないだろうか。さらに言えば、Twitterなどの利用者は自分が発信するものに「内容が無い」のは言われなくてもわかっている。

またソーシャル・メディアの興隆により、従来型のメディア(新聞など)の衰退に危機感を持たれている方にも聞きたい。Twitterを利用している人は新聞を読んでいないと、もしくは信頼していないと、本当に信じているのだろうか?Twitterなどのソーシャル・メディアを使う人はそれらを使わない人となんら変わらない。興味のある事項について、もしくは特定事項の情報が他の人より多く知りえている人は、それらのことについてネットを通じて語るかもしれない。でもその事項以外は無視するというわけでもない。それらはおそらく新聞の記事を概ね信じるだろうし、食事を摂りながら見るテレビのニュース番組でキャスターの言葉に頷くかもしれない。

ネットの興隆による新聞などの衰退は確かに事実だろう。でもそれでも紙媒体のメディアが完全になくなるとも思えない。一言でいえば、状況が変わったのだ、とそれしか言いようがない。従来の価値観というか規範で説明が付かなくなった。たぶん、上記の記事の執筆者もその点は重々承知の上だろう。でもやはり物とかサービスを見るとき、それが特にビジネスの視点が必要なときは、何らかの規範となるような思考に頼ってしまうのだろう。そしてその視点でこれらのサービスをみると、「流行っている理由がわからない」となるのだと思う。

実際にサービス単位で見ると、Twitterは衰退方向だと僕には思える。 しかし似た様なサービスは雨後の筍のように登場し、なくなる方向には無い。その中で現在注目されているのは「Pownce」かもしれないが、サービスを受けるには招待状が必要なので、実態は僕にはわからない。ただ思うに、今後はこのようなサービスが、しばらくはという留保つきではあるが、多くの人に利用されるであろうということだ。まずは「理由がわからない」と思考停止になるのではなく、この状況を了解しその中から新たな視点を築きあげていくほかはあるまいと思うのである。

これらの状況は、おそらく東浩紀に言わせれば、「動物化するポストモダン」時代のサービスとして説明が付くかもしれない。北田暁大は「動物化」という言葉に多少の違和感を感じながらも大筋了解することだろう。 でもだからといって、それらの言説が、今後の展開を示唆するまでに至らないのも事実だと思う。さらに言えば、多くの人はこれらの新旧サービスを、限定されてはいるが、ある程度の情報リテラシーを持って使い分けていくだろうと思う。

ビジネス的に捉えれば、確かにTwitterの利用範囲は狭いとは思うが、窓口の一つであるのは変わりはない。さらにTwitterライクなサービスが、自分が属する業界のビジネスモデルに取り組むために何が必要かの視点で考えたとき、新たなサービスイメージが浮上するかもしれない。

冒頭に述べたように、ここでは「Twitterは何か」等の人文学的視点では語るつもりはまったくない。ましてや、Twitterなどのサービスが流行ることから、社会への不安感とか危機感を増幅する意見を提示するつもりもない。それはTwitter利用者にとっては無縁な話であり、ある意味、マスメディアもしくは一部のブログが語ればよいと思っている。逆に言えば、緊張感の無いコミュニケーション、そこからは争いもない代わりに何も産まれない、だからこそテロリズムとの相性が悪いTwitterライクなメディアがあってもよいのではないかと思っているのである。

2007/07/14

「Apple全製品の系統図」を外(PC利用者)からみて思うこと



WIREDVISIONの記事『「Apple全製品の系統図」からわかること』の中に今までの製品を時系列にまとめた図が掲載されていた。記事において「わかること」とは何か、引用すれば以下のようになる。
私はへとへとになってしまい、あまり頭が回っていない。ただ1つ気づいたことは、Apple社の製品ラインが完全に4つに集約されたのが2001年であり、Apple社はちょうどそのときに、満を持して『iPod』の発売を開始したということだ。
結局はあまり大したことはわからない。著者はこの図を作成するために「へとへと」になってしまったからとあるが、思うにそれだけでもあるまい。例えばある一家の家系図を見たとしよう。見せられた側の多くは「ふーん」で終わりだと思う。


でもそこに何か外部的な資料が添付されたとき、別の視点がそこに生まれるように思う。例えば明治維新の時に住居を移したりとか、もしくは家系図に絡む歴史上の人物が見る側の家系に近い存在だったりすれば、その一家の家系図を見る眼も自ずから変わってくることだろう。つまりは製品(プロダクトにしても)の系統図だけを見ても、そこから得るものは少ないと言うことだ。

故に何か別の資料との突き合わせが必要となってくる。この図の縦軸は不明としても、横軸は時間軸であるのは間違いない。それであれば、例えば、「PCの系統図」と対比してみたりとか、「PCとApple製品(特にMac)との販売台数の表」と付き合わせたり、社会的な主な事件でも良い、もしくはその時代の革新的製品も面白いかも知れない、少なくともAppleのCEOの縦点線は必要だと思うし、その時の主要なビジネス戦略も参考になるかも知れない。結局の所、Appleの新たな戦略と、そこから現れる製品は、Appleの外部の影響を受けていると言うことでもある。

ただ逆に「PCの系統図」を果たして造ることが出来るのか、という問題がある。OS系の系統図であれば出来ることだろう。でもその場合は、「Apple全製品の系統図」ではなくそれに対応する「Apple全製品のOS系統図」なるものとの参照になるのであって、今回のような場合には不適かも知れない。

PCの場合、メーカー毎の系統図の作成は可能だろう。例えばSONYの場合、「VAIOの全製品」と「WalkManの全製品」とか。でもAppleにとって「SONYのVAIO全製品の系統図」などどうでも良いはずだ。それはMacのTVコマーシャルを見てもわかる。Appleが相手にしているのはウィンドウズマシンとしてのパソコン全般なのだ。しかし、「PC全製品の系統図」を造ることは難しい。何故なら数は異様に多いはずだし、パソコンを構成するパーツ、マザーボードおよびグラフィックボードなど、の組み合わせは無限とも言えるから。

つまり、「Apple全製品の系統図」の参照となる製品の「系統図」は、Apple以外では作成すること自体が難しい。そしてそのこと自体がAppleの強みでもあり弱みでもあると僕には思えてくる。

提示された「系統図」は苦慮の後が見受けられる、例えば細かな話をすれば、実線矢印と点線矢印の規範の違いがわからない、ローカライズされたMac(DynaMac)及びMacOS互換機の位置づけが見えていない、何故Apple系のマシンから点線矢印とはいえMacPortableに繋がっているのかわからない(僕の感覚ではSE/30からの実線矢印ではないだろうか?)、等の疑問が残る。でも一応はMac同士の繋がりを図式化できるというのは、図を見るまでもなく可能だと思っていた。

Appleの強みはイノベーションにあるわけではない、というかイノベーションに関してはAppleは常に自らが創造するのではなく、それを製品として具象化するのが上手かったと言うことだ。製品毎に物を製作しているというイメージを購入者に抱かせる。「製作」とは、
まず何かの理念があり、それを具象化するためのデザインがあり、そしてそのデザインを現実化するための部材と手順とがある。これはおそらく人間の有史以降変わらぬ流れであったに違いない。理念を「必要」と置き換えても良い。そしてその製作過程が、物を売って儲けるという「金儲け術」から明確に切り分けられたブランドイメージが、確かにAppleにはあると感じることが出来る。

ということは、実線矢印によるマシンの結びつきは単に形(デザイン)が似ているからではないはずである。自ずからそこには実線で結ばれる製作過程における理念の結びつきがあると思う。それはおそらくこの系統図を作成した方の考えが反映しているのは間違いない。その説明が記事の中で現れなかったのが残念と言えば残念でもあった。

弱みというのは、逆にいってこの「系統図」が造ることが出来るということである。それが別面で言えば、ジョブズの手腕といえ、製品が市場に受け入れられている事実で隠されている面でもあるが、一種独善的とも言えるハード・ソフト面の各種デザインに現れている。

この系統図には、一種の、例えば歴史上の偉人達の系統図に繋がるような、選民思考が背後にあるように思えるのである。販売台数の規模から言えば圧倒的にウィンドウズマシンに軍配が上がる。それはひとえに利用者の多くは、コンピュータの理念など必要としていないことの表れなのではないだろうか。道具として、自分である程度の知識があれば拡張できるし、結局の所、ウィンドウズマシンに個性などは存在しないし必要ともされなていない。ただ自分が必要とするアプリが動けばそれで良いのである。

さらにネット上では、OSには関係なく起動するアプリも数多く存在している。
(この記事もいつものことながらGoogleのDocs&Spreaddheetsをつかって書いているくらいだ)
しかしこれらへの方向転換はAppleは間違いなくすすむことはない。(一度試みて失敗している)「系統図」を造るのは良い、でもできればそれがAppleを越えて、多角的に見ることができればもっと良かった。系統図のみでは自閉的で、次の何かが見えることは間違いなくあり得ない。

2006/10/08

moo mini cards

moo mini cards

Flickrには投稿したユーザの写真を楽しめる様々な外部印刷サービスがある。
その中の一つ「moo mini cards」が事業開始キャンペーンとして、FlickrのProユーザー向けに無料で10枚作成できるというので依頼していた。

実を言えば、依頼したのが一ヶ月近く前だったので完全に忘失していた。だから英国からのエアメールを見たときは、覚えがないので、何か新手のDMか何かだと思った。でも好奇心から開封し中を見たとき、依頼したことを含めてすっかりと思い出した。期待していなかった分、僕にとっては素敵なプレゼントだった。

「moo mini cards」については、上部の写真を見ればどの様なモノかがわかると思う。写真が印刷されているが、それらは総て僕がFlickrに投稿した写真となる。「moo mini cards」では、申し込みの際に、Flickrに投稿した写真を選択し、印刷範囲を決め、そして裏面に何を印字するかを決める。

「moo mini cards」の一枚はちょうど少し幅広のガムという感じの大きさ(28mm x 70mm)で、厚みがあり、裏面の印字欄を上手く使えば、ちょっとした名刺代わりになる。表面の写真と相まって、受け取る方も普通の名刺よりは、受ける印象もより強いかも知れない。

写真の印刷品質は、光沢なしの絹目調という雰囲気で、品質も高く(極めてというわけではない)、名刺代わりのカードの用途として使うのであれば十分だと思う。何よりも、カード一枚毎に自分が撮した写真が表面を飾るのであるから、愛着はひとしおで、それは名刺と較べようがない。

ただ「moo mini cards」にすべく写真を選択する際、写真はカードの大きさに縛られることになる。28mm x70mmの大きさは、通常であれば、撮した写真が総て印刷出来ない。つまり、選択した写真の何処を印刷するかを決めなければいけなくなる。そこで問題となるのが、写真全体を使って構成し撮した写真は、カード化したとき、思った以上に良い結果にならないと言うことだ。

結論から言えば、良く見える(美しい)カードを作るには、カードの大きさに則した構図の写真を選択した方がよい。まぁ、それほど悩む問題ではないが、多少の考慮が必要ということである。

それに「moo mini cards」の写真選択から発注までの流れが、しっかりと造り込まれていて操作がとても気持ちよかった。勿論途中で選択写真の変更なども直感的にできる。この操作感を興味が有れば実際に味わって欲しい。

すっかりと「moo mini cards」を気に入ってしまった僕は、こういう事だったら、裏面に印字する内容をもっときちんとすべきだったと後悔した。そこで再度発注(有料)することにした。100枚で19.99ドル、しばらく送料は無料とのこと、僕は満足感を考えれば決して高いとは思わない。

今度は忘れることはないだろう。発注したのは昨日だが、今から首を長くして待っている。

追記:無料10枚作成キャンペーンは既に終了していました。

2006/07/30

Flockを使ってみる



Flockを試しに集中的に使っている。
「Flockは、Firefoxのコードをベースにして開発された「ソーシャルブラウザ」であり、ブログ、FlickrやPhotobucketとの写真の共有、del.icio.usやShadowsを使った「お気に入り」などの連携機能が組み込まれている。
昨年11月にFlockのプレビュー版を試したときには、興味深くはあるが少し粗削りな印象を受けた。 Flock関係者の懸命な努力により、今回のFlockベータ版は、ブログ作成や写真の共有、またはdel.icio.usなどのサービスの利用に時間をかけるユーザには必携といえるほど、しっかりと作り込まれている。」
   (OTP  「快心のFlockベータ」から引用)
Flickrとdel.icio.usを使う(特にFlickr)僕にとっては最適なブラウザだと思う。
 FirefoxにExtensionを組み込めばFlockと似たような機能を持つことが出来るが、やはり一体型となっている分連携の良さはFlockの方が上を行く。Firefoxで人気が高いExtensionは概ねFlock用のExtensionとしてサイトに載っている。僕などはそれほど利用しない方だが(重たくなるので)、それでもFirefoxで組み込んでいるExtensionの総てはFlockにも組み込むことが出来た。

一部サイトの紹介では、「Google Note」の組み込みが出来なかったと書いてあったが、僕は問題なく組み込むことが出来た。それ以上にFlickrとの連携が素晴らしい。一部、例えば「Group」と「Explore」の一覧表示が出きない、などの不満もあるが、総じて言えば、よりFlickrを楽しむことが出来る。

Flickr利用者にとって、最適なブラウザだと僕は思う。ちなみに「PortableFirefox」と同様に外部メモリーに収納可能な「Flock」もある。(Pocket Flock)
以前、ネットと言えばブラウザによる「ネットサーフィン」と「メール」であった。メールと言えば「POP」を指す時代のことだ。その頃、Netscapeなどの「メール」一体型ブラウザが便利だと、僕のまわりで使っている人も多かった。「Flock」をしばらく使っていると、何故だかその頃のブラウザを思い出した。

勿論現在のブラウザが標準装備として一体化するのはメールではない。「ブログ作成」であり「RSSリーダー」であり、様々なネット上で展開するサービスとの連携強化となる。それがネットにおける時代の変化ということなのだろう。「Flock」で気に入った機能,について簡単に説明する。



画像表示ボタンによりFlickrに投稿した写真の一覧を上部に表示する。
設定により、コンタクトを取っている人達の新たな投稿写真を見ることが出来る。
一覧の写真にマウスを持って行けば、大小二つのボックスが現れる。これはブログに投稿する写真の大きさの選択となる。



Flickrのコンタクト画面で、気になる人の画像にマウスを移動すれば、「View Photostream」表示が現れ、その部分をクリックすれば、上部の写真一覧は、その人の投稿写真一覧に切り替わる。



同様に人の写真サイトでも即座に一覧を参照することが出来る。今まで以上に快適に、色々な人の様々な写真を参照することが出来る。



Flockの標準装備機能のブログ作成、ブラウザ上部の写真一覧からドラッグ&ドロップで、写真をブログ作成画面に持ってこれる。ただしパソコン上に保存してある画像を使う場合、一旦Flickrなどに投稿しなければ、ブログに掲載することが出来ない。
Flickrでのブログ投稿機能と較べてみたが、コード生成はFlockでの方が良いと思う。でもFlickrからのブログ投稿と同様に作成時の通知(Ping)機能は行わない。(僕個人としては、通知はどうでもよい機能ではある)



いわゆるRSSリーダーも標準機能としてついている。ネット上で気になる記事を選択し、右クリックで「Blog this」を選択すると、その箇所が引用されブログ作成画面が立ち上がる。しかし、それ以外で簡単に「引用」を設定する事は出来ないので、「引用」を行いたい場合、自分でコードを書き込む必要がある。

ブラウザの「お気に入り」は「del.icio.us」等の連携のためか、他のブラウザと較べ独特で慣れが必要となる。今まで試しに使ってみたが、「試し」ではなくなりつつある。現状においても、僕にとっては最上のブラウザであるのは間違いない。ただ、折角のブログ作成機能ではあるが、ネット上のテクスト再利用の視点だけでなく、もう少し融通性を持たせて欲しかったと思っている。

2006/04/25

Flickrにはまるということ


sakura,originally uploaded by Amehare.

いまさら言うまでもないが僕はFLickrにはまっている。

写真を撮ること、例えば町を歩いているときふとしたことで事で立ち止まりカメラ持参していないことを悔やむ時、僕は一体対象の何を見て、もしくは何を感じてそれを撮りたいと願ったのだろうか、その感情と写真を撮ることは僕の中で一直線につながっている。

写真は記憶と密接な関係にあるとは思う。以前は歴史性とつながっていると思っていた。写真は記録であり、僕の歴史を貫く確かな証拠として在ると思っていた。でも今では歴史よりは記憶により密接だと思うようになった。

写真は、うまくいえないが僕にとっては歴史と断定するには何かが違うように思える。 写真を撮る行為が、何を撮るかでなく何を切り落とすかということだと僕は思う。人は撮りたい対象への思いを意識することなくカメラを構えるが、ファインダー越しに構図を定める際に、彼は彼女は自問自答することになる。

対象の何を撮りたいのかが意識することなく構図を決めることは難しい。自問自答は対象の何を撮りたいのか、つまりは結果的に何を切り落とすのか、ということでもある。そして彼は彼女は知るのである、自分が撮りたかった対象の何かを。

写真は記憶と密接な繋がりがあると思うと先に述べた。つまりこれらの流れは僕にとって何を記憶したいのか、それはカメラを構えることとは関係なく、そのような意識の流れに近いと思うのである。

Flickrを語るとき、僕が知る上で一番近い存在は「はてな」かもしれない。「はてな」について語るさまざまな事柄はFlickrについても当てはまる。Flickrにはまることと、写真を撮るのが好きなこととは意味は全く違う。FlickrにはFlickrの場で共有する気分というのがある。
その気分はFlickr担当者が選択する登録会員の写真によって醸し出される。具体的に言えば「Explore]と「FLickr Blog」に掲載された写真のことであるが、それらがFlickrに写真を登録する人たちの模範となり、そして彼らは似たような写真を撮り、いつかは Flickr担当者に選択されるのを待ち続けるのである。

似たような写真といっても、その種類は膨大でもある。だから人は自分の写真がFLickrによって影響を受けているとの認識は薄い。でも確かに彼らの(僕の)写真の中心にはFlickr担当者が存在しているのは間違いないと思う。勿論、Flickrを単なる写真倉庫として使われている方も多いと思う。僕もはじめはそうだった。でも今はどっぷりと浸かっている。
そしてこれがFlickrにはまるということでもある。

勿論影響を受けることが悪いことだとも思わない。聞き飽きた言い分だが、人は他者との関係によってアイデンティティを造ると思うからだ。でもそうなると主体とは一体なんだろうという疑問が出てくる。その問題は自らに課した問題として後に残すが、ここで語りたいことは、写真が記憶と関係が深いとすれば、Flickrでの写真掲載はつまるところ記憶の共有化、そしてその後に続く記憶の均質化ということになるのかもしれない。

それは一種の記憶のグローバル化とでも言うような状態、言語・宗教・食料・衣料・遊び・性行動という文化の諸要素が違っていても、何を記憶するか、もしくは記憶した対象の意味の同質化が、写真というテクストで行われていく課程といってもよいような、そんな思いを持っている。 Flickrで行われていることは、つまりは写真に強度を求めることになっていく。

写真に強度は必要かと問われれば、個人的な記憶に委ねていけばそんなことはないと言えるだろう。でも意識の上では職業化しているFlickrの投稿者たちは、過剰なまでの強度を求める方向に流れていると僕には見える。

差異のない均質化した個性の発露から抜け出るのは、より強い構図と過剰なまでの露出とデジタル加工技術に頼った強度を求めるしかない。でもそれは個人に分化した結果、差異がなくなるというパラドックスに見舞われた現代人の通常の行動でもある。

しかし強度を求める人も結局は差異のない個性と同根でもあるのだと僕は思っている。なぜなら両者はお互いに補完関係にあるからだ。Flickrにはまっている僕はいずれはFlickrをやめるときがくることだろう。それは間違いない。
そして僕自身の記憶を歴史と他者との関係に埋没することなく、一個の自立した創造性を持って別の仕方で歩んでいきたいと密かに願っている。

2006/02/09

Flickr,Blogger,Picasa そして再びFlickr遊び

flickrlogo
以前の記事でFlickrに投稿した写真にコメントをつける事にしたと書いたが、どうもFlickrのコメント機能は僕にとっては少々物足りない。常時表示する字数が限られているし、時折HTMLがそのままコメントとして表示されてしまうこともある。そこで別途Flickrに投稿した写真専用のブログを立ち上げることにした。

ブログプロバイダはGoogleのBloggerを使う事にした。Bloggerを選択した理由は、以前からアカウント(Amehareの)を持っていたことと、Flickrからのブログ投稿が簡単にできるからである。ラブログでも勿論手間さえかければFlickrの写真を投稿できるが、Bloggerの連携と比べれば苦痛でしかない。ラブログのAPI連携がペット以外にも出来るようになることを願わずにはいられない。「Amehare's Photos」と名付けた写真ブログ、暇なときにでも覗きに来てくれると嬉しいです。(調子づいてバナーまで作成しました 笑)

家のPCでは写真管理をGoogleのPicasa2で行っている。Picasa2も無料であることを考えれば素晴らしいソフトだと思うが、Flickr連携を考えれば不足面が幾つかある。Picasa2からFlickrに投稿する場合、FLickrから投稿用メールアドレスを取得し、Piacasa2のメール送信機能(僕の場合Gmailを使っています)を使って当該メールアドレスに送信することになる。しかし、Picasa2のメール送信機能はあくまで簡易版なのでアドレス機能を持っていない(注を参照)。よって毎回打ち込むことになる。それが嫌なので通常はFlickrが提供しているUpload Toolを使う。

またPicasa2からBloggerにむけて写真投稿も可能である。しかしこれも今のところ投稿する写真の大きさが固定されているので一度も使ったことがない。帯に短きたすきに長しである。

注)GmailをPicasa2に利用メールとして利用する時、GmailにFlickrの投稿用アドレスを登録すれば最初の人文字を入力したとき自動的にメールアドレスが表示される。例えばGmailに名前として「Flickr」を登録すれば、「F」を入力すれば投稿用アドレスがアドレス候補として表示される。そのことに後になって気が付いた。よってPicasaからFlickrへの写真投稿は十分に使えそうである。誤った記事を載せて申し訳ありませんでした。
その場合Picasaのオプションにて出力サイズの確認はしておいた方が無難だと思う。(確かディフォルト設定は画像サイズが小さい)

最近知ったが、Flickrのテーマソングがあった。ハードロック系、その系の音楽が好きな人は気に入ると思う。

参考)Flickr遊び関連サイト(全てWindows中心で参照しています)
1)Flickr Logo Maker:Flickr風のロゴを造ってくれる。造ってみたが文字列をダウンロードしても1文字しか表示しない。コツがあるのかもしれない。
2)FlickrFling:CNN、WiredNews等のサイトの文字からイメージする写真をFlickrから持ってくる。
3)loopy:Flickrの写真を使ったスクリーンセイバー。同じ内容のソフトとして他には「Slickr」がある。
4)Flickeur:Flickrの写真を使ってビデオクリップをつくり表示するサイト。音楽はPhilipGlass風でモダンなビデオクリップを表示すると言えば持ち上げすぎかも。発想は面白いけど、僕は一度見れば十分(笑。
5)Findr :Flickr投稿写真ブラウザー。一度使ってみて欲しいがとても美しい。お奨めは「Enter initial Tag」に「Flower」。アイコン化した99枚の花の写真を色別に表示する。見ているだけでも楽しめる。
6)Clockr:Flickrの写真を使ったデジタル時計
7)Retrievr :これも面白い。自分が描いたイメージにあった写真を表示する。遊べます。
8)captions:写真にキャプションを挿入する。
9)Flickrmap:世界地図にFlickr投稿写真をあてはめている。地域別のブラウザー。
10)Flickr Graph:繋がり(コンタクト)を視覚的に表示する。
11)flickrfox:Firefoxの拡張機能、サイドバーにFlickrの写真を表示する。僕も組み込んでいる。
12)Flickr Toys:様々な遊び道具が満載のサイト
13)Flickr Related Tag Browser: Findrとはインターフェースが違うブラウザーだが、これも写真を探すのが面白くなるツールだと思う。
14)flickrlicio:よくわからないが、昔の女性ピンアップとそれに似ている女性の写真を表示するサイト。このサイトはFlickrの本質を露骨に表現していると僕は思う。
15)E-Mail Icon Generator:各種Webメールのアイコンを作成してくれる。Flickrとは関係ないけど面白いので載せます。(本家のサーバが閉じられている??様に見えたので、米国の「all about」から。

知っているサイトも多いと思う。出来ればFlickrを利用する人が多くなればと思っている。

追加参考
上記Flickr関連の情報は、「del.icio.us」から得ている。使われている方も多いと思うが、各種情報収集に最適だと思う。

2005/06/30

音楽のバトン

「図書館員の愛弟子」のroeさんからMusical Batonがまわってきた。とても光栄でうれしい。そう思いながら、6月22日に受けて、だいぶ日にちが経ってしまった・・・

1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

iPod用として6.42GB(1266曲)。PCでは全く音楽は聴かない。iPod用としてMP3ファイルに変換して保存しているのみ。

2.Song playing right now (今聞いている曲)

"Heroes"Symphony by Philip Glass
こうやって文章を考えているときはPhilip Glassを聞くことが多い。"HEROES"はGlassの第4交響楽で、彼の交響楽の中では気に入っている。Glassの曲は聴くと心中穏やかならざる気持ちになる。その不安定さが逆にいろいろな事柄について発想を僕に与える。

3.The last CD I bought (最後に買ったCD)

GLENN GOULD 「...And Serenity」
GOULDに凝って何枚か買った。その中の一枚。

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

1)「Bach The Goldberg Variations」 Glenn Gould
曲ではないのだが、1曲として扱っても許してくれると思う。本当によく聞く。Bachも大好きだし、Gouldも大好き。何かをしながらでも良いし、僕にとっては読書がすすむ、音量を低めにして静かにただ聞くだけでもとろけてしまいそうになる(笑)

2)「Forgetting」 Linda Ronstadt Philip Glass
「songs from liquid days」(Philip Glass)の一曲。Glassの曲は全般的に大好き。その中で一曲を選ぶこと自体難しいのだが、iPodの中で一番聴く回数多いこの曲を選んだ。Linda Ronstadtの歌声が素晴らしい。このアルバムは好みが分かれるところだと思うが、僕は面白いと思う。GlassのCDとして一番好きなのは、月並みだが「THE HOURS」。映画も好きだが、原作の邦訳「めぐりあう時間たち」を読み、映画は商業的に主題が少し偏り過ぎて造られたと思えた。そのほうがわかりやすいと言えばそれまでだが、やはり原作を読んでしまうとって感じがする。

3)「コーラルリーフ」Cocco
「サングローズ」の一曲。活動停止したときの最後のアルバム。Coccoの曲も全部好き。この曲を選んだのは、Coccoの曲の多くは沖縄への片方向の思いを語っているのだが、「コーラルリーフ」でなにか吹っ切れた感じを受けたから。彼女にとって沖縄は「沖縄」であり地理上の島の名称ではない。でもそれはあの沖縄だと感じる。勿論聴く側にとって、それは変わるのだろう。一時期夢中になって聴き続けた。僕にとって、Coccoが唄う「沖縄」は何に思えたのか、実は今ではよくわからない。

4)「Change Your Mind」 Neil Young
「Sleeps With Angels」の一曲。数多いNeil Youngのアルバムの中で一番好き。曲としてみれば、彼の曲で好きなのは多い。「Tonight's The Night 」、「Like A Hurricane」などなど。アルバムとしては「Mirrorball」とか、映画「デッドマン」のサントラも凄い。以前にNeil Youngの評伝ものを何冊か読んだ。その中で特に気に入った1冊があったが、最近無性に再読したくなり探したのだけど、どういうわけか見つからない。その代わりに、ロバートキャパの写真集なんかが出てきて、それをしばらく眺めていたら、もうどうでも良くなった。

5)「Estreila」Kitaro
5曲目が一番迷った。Mary Blackの「Wonderchild」もよく聴くし、Jackson Browneの「The late show」も名曲だと信じて疑わない・・・。J-POPではLOVE PSYCHEDELICOの「Last Smile」も好きだし。このジレンマを実は楽しんでいたりする。
でもiPodで聴いている回数からKitaroを選んだ。「Thinking of you」の一曲。このアルバムでKitaroは念願のグラミーをとるのだが、確かに良いアルバムだと思う。このアルバムか初期の「絲綢之道」か迷うところ。

5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

・「今日が楽しく明日が楽しみ」のすなハハさん
・「ココロのポスト」のジャスパーさん
・「水色の空」のgrey_wagtailさん
・「庭子の部屋」の庭子さん
・「ほえほえぷに」のぷにさん

事前のご連絡もなしに選んでおります・・・いかがでしょうか。
勿論、パスでもかまいません、その時は無視してください(笑)
といっても、上記の方々がここまで読んでくれている保障はまったくないのですが(笑)
それから、僕は止めませんでしたけど、別に自分のところで止めても構わないです。僕としては皆さんが聞く音楽の話を聞きたいなぁっと軽い気持ちからです。

2005/06/23

サイト「コネスール」でのシガー好きの方々の文章

コネスールというシガー専門店及びシガーバーのサイトにある、シガー好きの方々の文章が面白い。そのなかから幾つか引用して感想をメモしたい。
(以下の文章は全てここにあります)

『ところで、「ハバナシガー」とは言うけれど、なぜ「キューバシガー」とは言わないのだろう。それは、最高級シガーの原料となる葉たばこは、ハバナ市の西側にあるごく限られた地域でしか産しないため、あえて「ハバナシガー」と呼ぶのだ。
経済制裁によってキューバからシガーを輸入できなくなったアメリカ人は、プエルトリコやフロリダなどで、ハバナシガーと同じ葉たばこの種子や耕作方法を取り入れ、キューバ出身の職人にシガーを巻かせている。それでも、ハバナシガーの品質、特にシガーの根本といわれる「香り」には、いまだに到達できずにいる。理由は簡単で、葉たばこを育てる土壌が微妙に違うからだ。』(北方謙三氏)

北方謙三さんの文章で情けない事に初めてハバナ産とキューバ産の違いがわかった。
タバコは植物なので土壌の違いはその味に大きく影響するのは間違い無い。お茶などが好きな方は土壌の違いによる紅茶の違いを実感できると思う。それと同じ事がシガーにもいえる。パイプ・シガレットの場合、刻み方とか熟成の仕方とか、もしくは別のフレーバーを加えたり、ブレンドすることで、味を整える事ができる。整えるといっても、それはそれでとても難しい事ではあるが、ただシガーほどには、植物としてのタバコの葉のもつ個性を強く求めるというわけでもないと思う。でもハバナ産は高い。ハバナ産と銘打っているだけで価格は倍以上違ってくる。

『人間は火に対して、激しさ・静けさ・妖しさなどを感じてきました。少し大げさに言えば、火は、宇宙的な象徴として人々の心に深く入り込んでいるようです。喫煙という行為が今日まで続いてきた根源には、この火に対する信仰にも似た想いが深く横たわっているのかもしれません。「煙」「香り」「味」からなるたばこは、嗜好品として最高だと思います。この中のどの1つが欠けてもたばこは旨くありません。そして、これらは、人間の感覚、すなわち五感を楽しく刺激するところに妙味があります。』(藤本義一氏)

藤本さんのこの説に僕はかなり同意する。かつてインディアン達がタバコを儀式に使ったのは、「火」を受け渡すという意味、もしくは「火」そのものを体内に沁みこませる、という意味合いがあるように思う。逆にいえば、現在の自動販売機などで売られているタバコは、そういう儀式的なものを割愛し過ぎている様に思える。あれらのタバコは、産業革命以後の近代に合った規格化された工業製品だと思うし、タバコを吸うというよりも、もっと受動的なもののような感じをもつ。でも本来タバコというのは、自らその世界に入り、そこで遊ぶというような、能動的なものと思っている。タバコに遊びを求めるとしたら、多分シガーとかパイプとかにこだわらないと出来なくなっているが、それらを遊ぶには時間的な余裕とか空間がないのも事実かもしれない。

『シガーを吸いながら頭に浮かぶのは、昔の旅のことでもなければ、この先の旅のことでもありません。今の生活のことでもない。まったく関係のない“何か”が、ぼんやりと浮かんでは消える。それが優雅で心地いい。』(ロバート・ハリス)

ロバート・ハリスさんの言う事もよくわかる。その通りなのだ。頭に浮かぶ「何か」がとても心地良い。吐き出した紫煙の行方を目で追う。それは形を保ちながら暫く漂うが、そのうちに拡散して靄のようになる。頭に浮かぶ「何か」も同じようなものだ。

そういえば、今日渋谷のタバコ屋でオランダのシガーを買ってきた。「CAFE CREME」というミニシガーなのだが、ジョニーディップがミニシガー美味しそうに吸っていたので、一度短いのも吸ってみようと、彼と同じ銘柄ではないが安いので買ってきた。香りと味が少々淡白。それに短いので、煙が熱く、味わう感じになれない。この長さは、この長さなりの吸い方があるのかもしれない。そんな事を思った。でもパッケージデザインは現代的で好感を持った。

2005/06/03

北斎漫画制作キットで遊ぶ

皇子

北斎漫画制作キットで遊ぶ。なかなか難しい。実は3作作ったがどれもいまいち。今見ると、何がなんだかちっともわからん!大変失礼しました・・・
サイト:北斎漫画制作キット

2005/05/22

散歩ゲームをはじめて思ったこと

「散歩ゲーム」のルールは一つ、「100歩毎に写真を撮る」。勿論100歩に限定することはないけど、とりあえずそれでやってみた。単純なルールだが、最初はそれでも慣れなかった。でも中盤くらいから徐々にコツが掴めてきた。
やってみて、このゲームは想像以上に面白いと感じた。今後も続けていこうと思う。
それから、「散歩ゲーム」は何も歩数ばかりでもない、その都度ルールを決めればいいのだ。たとえば、seedsbookさんの場合、日溜まりルールとか、その都度色々と面白く決めていらしゃるようだ。

最初散歩をする場所を何処にするのか正直迷った。このゲームを僕に教えてくれたseedsbookさんの散歩道はライン川に近く、とても美しいところだ。それに見合う場所を考えてしまうのだ。
最初、二子玉川の川辺の散歩道であれば、見劣りしないだろうな、などと不埒にも考えていた。でも、はたとその選択は間違いであると気が付いた。

二子玉川の川辺には電車に乗れば7分くらいで着く。結構好きな場所ではあるが、頻繁に散歩する道でもないのは確かだ。最初の「散歩ゲーム」の場所は、やはりいつもの図書館への道が良いのだと思ったのだ。

都市郊外生活者なので、seedsbookさんの所のように自然は豊かではない、それは致し方がない。でもその中でも面白みを見つけることは出来る。そう思ったし、散歩は日常の生活の一環であるのだから、それこそふさわしいと思ったのだ。

seedsbookさんは記事「散歩ゲーム」の中でこう言っている。
『ヴィデオで散歩道を撮っても見えないものがこの写真と写真の間にある』
実際におこなうと、この意味がよく分かる。何回か、あそこの地点で100歩目になって欲しいと願った。その願いはだいたい叶えられない。
そのうちに、もしかすると、「散歩ゲーム」とは、この写真と写真の間にあるものを語るために、あるのでないかと思い始めた。

写真と写真の間にはブログ上では何もない。でもその間には、100歩という歩数と、それに見合った距離と時間が存在する。100歩目で止まり、そこで写真を写すと言うことは、偶然性の産物以外の何ものでもない。それはまさしくゲームだった。

時間と距離がパラメータとして起こるランダムな出来事。同じ散歩道でも、その結果、散歩ゲームで現れる写真は毎回別の顔を見せることになるのだろう。それを連続すれば、そこに一体何が見えてくるのであろうか。それは僕にもわからない。でも面白そうなことであるのは間違いなさそうだ。

2005/05/21

散歩ゲーム

散歩ゲームを始める。
ルールは100歩毎に写真を撮ること。
この散歩ゲームはブログ「散歩絵、記憶箱の中身」のseedsbookさんから教わりました。できれば、最初にseedsbookさんの「散歩ゲーム」をご覧になって頂けましたら幸いです。その記事がいわば出発点です。

ゲーム開始

1
こんにちはAmehareです。図書館まで散歩します。
2



マンションの何かのオブジェ。ニワトリに見える・・・
3



花壇の花々、色が鮮やかすぎる
4



まっすぐ進み、車道を横切ったところにあった竹藪。残念なことに中には入れず。
6



そのまま進むと公園が・・・中に入る。この公園は昔大地主だった人の屋敷がある。中は結構広い。
7



屋敷の倉。中を覗いたら、農耕具がおいてあった。倉の紋所はどういう意味だろう。

8



公園を抜け出る手前にあった、巨大なお釜。五右衛門風呂だったのだろうか。このお釜、底に穴が空いている。それが何故だかとても良い。
9



空を見上げる。天気が良い。電線で仕切られる空。この電線の直線模様で仕切られる空に、しばしば面白みを持ってしまう。
10



細い路地を見つける。初めての道だ。引き寄せられるように、この道を選ぶ僕。
11



路地の途中にあった溜め桶。草木に毎日水を与えているのだろう。ヒシャクに人の温もりを感じる。
12



庭の中の神社。神道をなさっているのだろうか、それとも昔からの土地の鎮守様なのだろうか。
13



目の前の巨大なマンション。マンションが出来る前は、長く空き地で野良猫たちの王国だった。かつて王国の前では、門番のように、常に数匹の猫がたむろしていたのを思い出す。
14



マンションの前に立つ松の木とからまるアイビー。マンションより歴史が古い。
15



車止めの回転灯。
16


マンション前から横道に入る。壁の落書き。「DISK」とは何を表現したかったのだろう。
17



鏡に映る風景が好きだ。
18



まっすぐ歩く。T字路にぶつかる。方向指示通りに左折する。
19



花壇の花。色味が良かった。花の知識がないことが残念だ。
20



街の掲示板。沢山貼ってある。
21



進行方向に向かって左側にあった明神様。小高い丘になっていて、頂上に小さなほこらがあった。
22



玄関前の植え込み。穴が気になる。ポストだった。
23



少し歩いて左折する。そこは上水道の道。日差しが強い。日差しが強いと影も濃くなる。
 24


上水道の道を少し歩き、右折。格子とアイビーとの色の組み合わせが綺麗だと思った。
 25


家の跡地。何故だか、無性に入りたくなる。跡地は人の思い出の傷跡が残っている。それに惹かれるのかも知れない。危険な感性だと思う、でも惹かれる。
 26


跡地から左折して少し歩くと、図書館に続く通りに出る。散歩はもう少し続く。

ゲーム終了

はじめてみると、seedsbookさんの言われる、「ヴィデオで散歩道を撮っても見えないものがこの写真と写真の間にある」の意味がよく分かる。面白かった。

2005/05/14

何故僕は吉野弘「夕焼け」にプロパガンダの技法を感じるに至ったかを逆に辿る

僕がブログを始めた当初、「ブログって何?」という素朴な疑問に答えてくれたブログがいくつかあります。その中に「図書館員の愛弟子」とそこから経由してしった「夏のひこうき雲」(左近さん)があります。左近さんからはいつも教えて貰うばかりで、ブックマーク「浮雲」はいつも参照させてもらっています。

今回「夏のひこうき雲」で拙文「吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する」の感想( [Web][レビュー] 「夕焼け」再読)をいただきました。それは、僕が左近さん記事に以下のコメントを書いたのがきっかけです。

『詩人が途中で下車するのは、詩作として意図的な技法だとは思うのですが、それらの一連的な作詩技法に、悪く言えばプロパガンダの技法を感じたのです』

詩の感想は共通事項が少なく個別事項の割合が高くなると思いますが、その上で、僕の上記のコメントに誠意を持って答えてくれた左近さんに感謝しています。そこで僕自身としては、自己の個別事項を正当化する方向で展開するのでなく、逆にきっかけとなったコメントから遡る事で、出来れば左近さん感想との共通事項に辿り着き、そこから個別事項になった理由を洗い出す仕方が、左近さんの誠意に答える事だと思い今回の記事となりました。

しかしこれはやってみると意外に難しいのです。プロパガンダと感じるまでの流れは、所々飛躍があるようにも思えますが、しかし実際それらは飛躍ではなく、その中にはそこに至る自分なりの根拠があるはずで、自分がそれを忘れているのか、もしくは流れる意識の中で動いてしまい、少しズレが発生しているようです。つまり、この手法を用いて考えると言うことは、一旦何処かで停止してから辿る必要があると言うことになります。こういう思考法でもそれなりに訓練が必要なんだと思った次第です。考えてみれば、僕は毎回流れに任せて進むだけで、振り返ることはやってこなかったなぁ、という反省をしました。

プロパガンダと感じたものは一体なんだったのか、そのときに浮かんだのは一枚の絵です。その絵には下方に文字が書かれています。「やさしい心に責められながら」とか「受難者」というような言葉です。

絵といっても具体的にどこかに存在する絵ではありません。僕がこの詩を読んで一枚の絵を自分の意識の中で造り上げた絵です。その絵が僕にとってこの詩をプロパガンダと思わせたのだと思います。絵だけではそうは考えなかったと思うのですが、絵に書かれた文字によってそのように感じたのです。つまり、絵だけでも十分に理解できるというのに、これでもかと繰り返す文字のせいで。

その文字のせいで、僕はその絵が「絵画」ではないと思いました。それは一種のキャンペーン用ポスターでした。

ここで、どんな絵だったのかを語るのは意味がないと思います。ただ少女の気持ちが抽象的な姿で迫る絵です。なぜ僕はその絵に文字を浮かび上がらせたのか。さらに文字を浮かび上がらせることにより、なぜ僕はその絵を「絵画」でなくキャンペーン用ポスターとみたのでしょうか。

ここで、「夏のひこうき雲」の中で、左近さんが提示されている良い例があるので、それを使って考えてみたいと思います。
それはアフリカの飢饉が危機的な状況を強く訴えた「すぐ近くの背後に止まっているハゲタカにじっと見つめられている、飢えて死にそうな黒人の少女」の写真です。僕もこの写真の印象は左近さんの考えに同感します。

この写真のように事実をありのまま写すフォトジャーナリズムの仕方を仮に(A)とします。(A)に描かれている世界はひとつの事実を切り取ったものです。写真の構図に写真家の意図はあるのかもしれませんが、ただ写真家が自ら創り上げた世界を切り取った風景でないと僕は思います。

次に、その写真家が少女を雇い、かつハゲタカの剥製を横に配置して撮ったとします。目的は(A)と同様にアフリカの飢饉を訴えることです。それを(B)とします。その世界は(A)と違い、写真家が自ら造り上げた世界となります。でも見え方は(A)と同じです。

今度は、さまざまな画像をコラージュし、写真のいろいろな技法を駆使し、アフリカの飢饉を訴える一枚の写真を造ったとします。それにより芸術的な品質まで高めた作品です。それを(C)とします。さらにその(C)の作品に文字を挿入したものを(C')とします。

僕にとって「夕焼け」という詩は、上記の例えでは(C')に位置します。たぶん左近さんは上記例では(A)に近いものと見られているように思えます。

僕が掲げた問題点、なぜ文字を浮かび上がらせたのか、文字を浮かび上がらせることによってなぜプロパガンダと思ったのかは未だ不明です。上記の例で言えば、なぜ僕はこの詩を(C)と見て、さらに(C')としたのかということです。何故(C')がプロパガンダかという話もありますが。

「夕焼け」を一枚の絵に見立て、そこに文字を浮かび上がらせたのは、勿論ぼくの個別事項です。左近さんはその様に「夕焼け」を読んではいません。
それに、写真および絵画に文字を挿入することは大いにあります。その文字は必然的に挿入されていれば、絵にとって必要不可欠な文字となるはずです。僕は「夕焼け」の絵に浮かんだ文字を必然性があるとは思わなかった。そう考えたようです。
僕にとって不必要な文字とはなんだったのか。それは語り部である「僕」が電車を降りた以降の言葉にあると思っているようです。

(C)の様に、造られた世界と思ったのは、満員電車のイメージが、通勤ラッシュ時の山手線にあったのは事実です。その中で、「僕」の立ち位置が実感できませんんでした。すぐ横にいるのでしょうが、「いつものとおり」ということを確認すること自体が不能な混み具合をイメージしたと思います。お互いに押され押し合い、触れ触れ合う電車の閉じられた空間。そこで少女の状態を確認することが僕のイメージの中では難しかったのです。しかも、そこは窓の外を眺めることさえ躊躇われる状況です。僕の中に浮かぶ経験上の満員電車とはそういうものでした。

「風景」という言葉を使ったのは誤りだったと思います。「風景」としたとき、左近さんの言われるとおりに少女の姿は日常に見られます。僕もそう思います。その点において僕と左近さんは同一線上にあります。

詩人が作詩する世界は、彼が思うように造ればよいと思っています。そこには何の制限もないのかもしれません。しかし、そこには何らかの一線があるように僕は考えているようです。この詩の場合、「僕は電車を」降りないでも成り立つことが出来ます。何故「僕は電車を降りた」のかが、僕にとってはとても気になった様です。

この詩はメッセージ性が強いと思います。それはまさしく左近さんが例に挙げた一枚の写真に通じます。だからこそ、左近さんの例は適切でした。しかも、僕はその一枚の写真には耐えられますが、この詩の少女には耐えられなかったようです。うまくいえませんが、それは一枚の写真が現実世界を切り取ったものであるし、この詩も現実世界を切り取ったものであるのですが、本拙文で言えば、(A)でなく(C)の様なものと受け取っている点が事が強いようです。(A)と(C)の違いは、一言で言えばその世界を意図的に造られたか否かだと思っています。

また作詩であれば、僕自身の考えとして、社会性を含むべきではないと考えている点が強いようです。僕はこの詩に社会的なメッセージを受けてしまいました。
本来であれば、日常的な出来事、普段であればそのことに対し疑問を持たずに過ごしてきていることに、振り返って考えてみよう、と言ったメッセージだったのかもしれません。実は左近さんの感想を読んでそう感じました。
それをそれ以上の社会的なメッセージを感じたのは、詩の中で「僕」が電車を降りる前までに十分に少女の気持ちが僕に伝わり、「もうそれ以上やめて」、といった気持ちになったからです。何故、その様な気持ちになったのか。それは、以前の僕の拙文と、それに対する左近さんの記事を見比べるとよくわかります。

僕は以前の記事でこう書いています。
『攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」』
それに対し左近さんの記事ではこう書いています。
『お年寄りのつらさがわかっているからこそ、少女は下唇を噛んで自分を責め続けるわけです』
つまり僕の場合、相手からの攻撃が主であり、左近さんの場合、やさしさゆえに自分で自分を傷つけているという構図です。僕がこの詩を読んで「もうそれ以上やめて」と思う背景には、自分がこの詩により攻撃を受けている気持ちがあるからではないかと思った次第です。

攻撃を受ける自分、誰からでしょうか、それはこの詩とそれを読む自分自身です。それを過剰に思えた自分がそこにはいる。それが一枚の「夕焼け」の絵を僕の内に描かせた。その詩が作者をして造られた世界と感じるのであればあるほど、僕はそう感じてしまう。そこが、僕のこの詩の出発点だったのかも知れません。

その点を考慮して、再度この詩を読み直しました。以前より少し薄まった気もしますが、それでもやはり似たような感想を持ってしまう僕がいます。それについては僕の課題として念頭に置くこととします。

左近さんの感想はとても自然に思えました。ですから逆に僕の感想との落差に、自分の世界観を振り返るきっかけになったと思います。それは、自分の世界観のどこまでが共通事項で、どこからが個別事項かの線引きをすることが、なんとなくですが、見えたようにも思えます。その線は極めて薄い破線ではあるのですが。

ここまで書いて、辿りなおすと言いながら少しも遡っていないことに気がつきます。なんか行ったり来たりの繰り返しですね。えらそうなことを言ってしまい、誠に赤面の至りです。
ただ、ここまで出来ないながらも考えてみて、現時点から振り返ると「プロパガンダ」という過去に書いた表現は過激すぎるかもしれないと思い始めています。

ランディさんの記事『「ほんとう」の呪い』

既に0時を過ぎているので、二日間ブログを書かなかったことになる。まぁこういう事もあるだろうし、それは別に良いのだが、ブログを始めてから多分初めてのことだと思う。
でも今週も終わり、やっと休みだ。明日は東京は曇りのち雨らしい。バイクが戻ってから休みが雨は困る。本当に困る。

久しぶりにランディさんのブログを読む。記事は、『「ほんとう」の呪い』。書く人だけあって言葉に敏感なようだ。記事にあったランディさんの彼の言葉が面白い。
『たとえば彼は「ほんとうにありがとうございました」という文章が嫌いだ、と言うのである。「ありがとうに、ほんとうをつける必要はない。ありがとうとはすでに偽りない言葉なのだから、ありがとうにほんとうをつけたらありがとうに失礼である」』
(田口ランディブログ 「ほんとう」の呪い から引用)
面白いこと考えるなぁ、と一人感心する。ありがとうの先に「ほんとうに」と付けるのは、言う側の気持ちが「ありがとう」だけでは気が済まないからだと単純に思っていた。その場合、素直にその言葉を受け取れば良いのではないかなと思う。僕の場合それで一向に問題ない。

それに、別に言葉で薄まるのではないと僕は思う。僕などは「ほんとう」のオンパレードである。ランディさんは言葉に「ほんとう」をつけると、付けられた言葉は薄まると言うが、薄まてしまうのは「ほんとう」という言葉でなく、既に薄まっているから、人は「ほんとう」を付けるのでないかなと思ったりもする。そして薄めているのは誰だろう。まぁ、感じ方は人それぞれだから別に構わないが。

でも確かに「ほんとうの仕事」などと考えたことは一度もない。いつも目の前の仕事が大事だと思うし、それと同時にその仕事によって繋がる先を見るのも大事だと思う。これが本当の仕事か、等と考えること自体意味がない。それに答えるとすれば、それが本当の仕事としか言いようがない。逆に言えば、そう言うことを意識して仕事をしているわけでもない。

でもランディさんのブログを読めば、色々なことを考えているんだなぁと感心する。それはそれでとても為になっている。

2005/05/09

LOVELOGトラブルの行方

企業で顧客重視と言うが、そこでいう顧客とは、言うなれば顧客イメージのことだと思う。
実体としての顧客と顧客イメージの関係は切断されている。顧客イメージは、問い合わせを受けたオペレータがカスタマ用DBに内容を入力した時点から始まる。それらは分類・集計し件数として費用対効果の資料となる。効果があれば対応するだろうし、効果がなければ勿論対応しない。対応しない結果、当該サービスをやめる人もいるだろうが、それも当然に企業としては見込んでいる。

顧客イメージは企業内であたかも顧客の実体として語られるが、実際は企業内政治の道具として使われる。要するに、企業内の各部署毎によって、一つのサービス利用顧客でもその姿は違う。それはイメージだから、各部署の社内政治に都合良く作られることになる。

LOVELOGのトラブルについて、最近まで知らなかった。アクセス解析もランキングの気にしたことがないのだから、止まっていることさえ知らなかった。LOVELOGはDION利用者のみに提供することから、上限は既に決まっている。それ故に油断が設備計画上においてあったのだと思う。

KDDIが直接LOVELOGを運営しているのかどうか不明だが(多分していない)、ブログに対してKDDIが消極的なことは良くわかる。仮にブログが新たなビジネスモデルの核となる場合(KDDIはそう考えていないようだ)、既に大きく出遅れてもいる。つまり、KDDIにとってのブログ提供は単なる顧客囲い込みでしかない。ブログ利用者はDIONから離れづらくなる、と言う目算だろう。

囲い込みとしても、マーケティングの立場からは非常に弱い位置づけであるのは間違いない。KDDIはauで利益を得ているから、投資はauに向けられることだろう。さらに、ネットでは光プラス、メタルプラスに向かっているので、ブログの存在はとてつもなく小さいのは誰でもわかる。

DION利用者でのLOVELOG利用率がどのくらいなのかは知らないが、今回のトラブルによるDIONからの離反率は盛り込み済みかも知れない。その上で解決までの期限を決めていることだろう。

恐らく今回のトラブルで、他のサービス案件を含めて様々な思惑による社内政治(KDDIという企業の中ではゴミのような規模だと思う)が動いていることだと思う。さて、トラブルの行方は何処で落ち着くのだろうか。今のところトラブル対応としては想定内ではある。
実は、ブログの可能性を捨てているプロバイダとしてのDIONの今後に少しだけ興味を持っているので、そう言う面で今回のトラブルを見ている。

そう思っていたら、KDDIは携帯電話(au)向けのブログサービスを開始するらしい。そのサービスは携帯電話とPCでの更新可能らしい。KDDIの中では、恐らくLOVELOGとauは事業部が違う(体制表から見て)。それ毎の顧客イメージの違いで複数のブログサービスを立ち上げることになる。無駄言えば無駄な話だが、KDDIというシステム上それはそれで立ち上がるべくして立ち上がったサービスのようにも思える。

2005/05/03

吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する

最近日記で楽しく読んでいるのが「Rest in Peace」
確か15才の高校一年生の日記だ。(もう16才になったのかな?)
少し前にバイク関連の検索でヒットしたブログで、伸び伸びと、かつ率直に、自分の意見を書いているのが楽しくてつい読んでしまう。

その日記で知ったのだが、最近ブログ記事で話題になっているのが「席を譲らなかった若者」(らくだのひとりごと)らしく、「Rest in Peace」のところでも、記事を読んでのコメントが書かれている。僕は本記事は読んではいないが、「Rest in Peace」のコメントは読んだ。
「なるほど、そうなんだ」と彼のメディア・リテラシーに感心するのみである。そして、それ以上のコメントは僕には持たない。

ただ、読んでいない本記事のタイトルで、吉野弘さんの詩「夕焼け」を思い出した。一部の中学教科書にも載っているので、知っている方も多いと思う。
本記事を読んでいないのだから、詩「夕焼け」を載せる理由において、上記2つのブログは一切関係がない。ただ思い出しただけなのだ。(だからTBはしない)

ネットで検索(吉野弘 夕焼け)すると、3,330件の結果となるので、多くの方がこの詩について感想を述べられているように思う。どんな感想を持たれているのだろうか、少し気になる、後で少し読んでみよう。

僕の場合、この詩は現実を写しているのだろうが、あくまで詩人による作詩だと思う。つまり、この詩で起きていることは、詩人が見た風景だとは思うが、体験もしくは経験を写実したのではないと思うのだ。あくまで詩人の心象であり、造られた世界だと思う。
(現実的には起こりえない風景だと思う)

僕の解釈だが、この詩において少女の姿に「やさしさ」とかを前面にだして、この詩を読むと誤読しそうな気がしている。この詩はそういう詩ではない、「やさしさ」を前面に出して読むと、「やさしくない」ものが出てくるし、そこから安直に偽善だとかに結びついてしまう。そういう対立構造の現出は簡単だと思うが、簡単にわかるものは正しくないのが多い様にも思える。

一体、「少女」とは誰だろう、「若者」とは、「としより」とは。席を立って譲らなければならない相手とは、一体誰のことだろうか。「少女」は何故唇を噛みしめるのだろう。何故「少女」は3度目で席を譲らなかったのだろうか。受難者とは一体なんだろう。
受難とは難を受けるものを言うのであれば、難を与えるものとは誰だろう。「としより」は、常に押し出され「少女」の前に立つ、「としより」は黙っている、そして少女は2回席を譲る。

無言の「としより」の姿に、「少女」は攻撃を受けていたと感じていたといえないだろうか。「としより」は席を譲って欲しくて「少女」の前に来たのではない。押し出されて来たのだ。つまり、「としより」は「少女」に対し、そのような攻撃を与えている意識は毛頭ない。

攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」。誰のせいでもないのに、日常の中で繰り返される残酷さ。勿論、いつも満員の電車とは日本の社会を現している。「少女」とは誰だろう、それは僕らだと思う。「としより」とは誰だろう、それも僕らだと思う。
哲学者の中島義道はこの詩の中に『他人の加害性に関しては恐ろしく敏感な人たち』と『他人を裁き他人に暴力を振るっているという加害者性には恐ろしく鈍感な人たち』が形成する日本の残酷さをみている。

さらに解釈してみたい。
押されて出てくるとは、そこに自分の意志を感じられない。この言い回しに、僕は2つの意味を感じてしまう。一つは、「としより」はマイノリティをイメージしていると思われること。もう一つは、人はいつも押し出されて目の前に現れると言うこと。そして「としより」と書かれていることから、前者の方を意味していると思うのだ。そして、押し出されて目の前に現れるのはいつも「としより」である。

この詩の設定は「いつも満員の電車の中」となっているが、具体的な登場人物は「若者」と「少女」と「としより」でしかない。
「いつものことだが」が2回繰り返される。それは時間の経過を現していると思う。
そして「いつものことだが」座っているのは「若者」と「少女」であり、「としより」は立っている。「としより」は若者に較べ行動が遅い、いわば身体的能力における弱者ともいえる。つまり、身体的強者だけが弱者に対し、席を譲るか否かの選択が可能だという構造が現れているのかもしれない。そして、強者は誰が弱者なのかわからない。でもそこまで読むのは誤読であるのは間違いない。

誤読ついでに別の解釈をしてみる。
電車とは閉じられた空間でもある。そして詩の中に登場する人たちは一つの共同体を持っている。共同体には共有する文化を持ち、同じ道徳を持っている。「少女」はその中で、「としより」に2回席を譲る。でも「少女」は個人として、その共同体に違和感を憶え始めている。それは、「としより」が前に立つことが攻撃として感じる。しかし「少女」は共同体の中で生きるしかない。だから、共同体からの攻撃を避ける意味で、「少女」は「としより」に席を譲る。でも3回目で抵抗を試みる。

「僕は電車を降りた」、なぜ詩人は途中で降りたのだろう。電車を降りるという事は、その共同体から抜けることを意味しているのでないだろうか。簡単に自分の意志で抜けられるが、それができない人もいる。例えば「少女」のように。
日本国民として同一化作用がそこにないだろうか。嫌でも同じ共同体として、時には席を譲り、同じ方向に向かって進む、というような感じ。それを「やさしさ」という情動的な言葉で覆い隠しているようにも思える。

上記の解釈は誤読を承知で書いている。ただ、そう解釈すると、中学の教科書に採択された理由が見えてくる。みんな「やさしく」なりましょう。「おとしより」は大事にしましょう。同じ日本人としてこの国に生きているのだから。国と文化的共同体を同じにして、この詩を教えているのかもしれない。
僕にとっては、子供もおとしよりも大事にしなくてはいけない。それは同じ電車に乗っているからではない。僕がこういう共同体論に組していないからだと思うが、こういう考え方は、得てして共同体から外れる人に対しては辛い仕打ちをする同義付けになるように思える。

実をいえば、僕は途中で詩人が電車を降りることで、この詩が好きではない。詩人はこの少女に対して有責だと思うのだ。だから途中で電車を降りるべきではない。これは僕の倫理観だが、そんな風に思っている。

さらに「席を譲る」ということに考える。
マナーとルールのせめぎ合いで、マナーがルールに変わることは、そこにルール化しないと共有できない状況があると思う。でもそれには限界があるとも思う。
自分より優先するものとは誰のことだろう。それは自分の愛する子供たちのことだろうし、年老いた両親かも知れない。有縁であれば、その線引きは可能かも知れない、では無縁の人たちに対してはどうだろう。そこに共有するものを僕らは持っているのであろうか。
例えて言えば、沈みかかっている船の中で救命ボートに乗せる順番を決めるのに繋がる。電車の中で席を譲る優先度の延長線上に救命ボートに乗る順番があると思うのだ。
さらに、現代では、若者、少女、おとしよりだけでなく、様々な人がそこに登場する。身障者、在日、アイヌ、ジェンダー、ホームレス、病気の人たち、エイズ患者、外国人労働者、難民、亡命者、移民者、等々と永遠に続く。そしてそれらの方々もひとくくりにくくれない。在日の方と言っても、在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人、在日外国人、がいるし、さらに一人ひとりに差異がある。状況も考慮しなくてはならないだろう。その中で自分より優先することの倫理を僕は持っているのだろうか。
そんなことも、この詩を読んで突きつけられる。勿論、それも誤読には違いない。

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「夕焼け」
いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッっと噛んで
身体をこわばらせてー。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

1959年刊詩集『幻・方法』所収
『現代詩文庫 12吉野弘』思潮社より
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2005/04/28

ウェブログの心理学

書籍「ウェブログの心理学」を読んで漠然と思ったことは、ここに書かれていない事でもあった。この書籍はあくまで一般向けに書かれている。でも残念なことに、恐らくブログを書き続けている多くの人は、この書籍の先を歩いているように思う。それは「ウェブログの心理学」の著者たちが時勢に疎いと言うことではなく、書籍にするさいのタイムラグに近いように思う。この書が無駄だと言いたいのではない。テーマとしては十分に存在価値があると思うし、ある時点で状況を整理することは必要だと思うからだ。つまり、ブログのことを書籍化するのは難しいということだろう。やはりブログのことはブログで書かなくてはならない。そんな気がしている。

では具体的に何処がと問われれば少し困る。読んで特に反論もないし、意見もない。逆にこの意見が出ないこと自体が、僕にとっては何処という証左とも言える。例えば、考えを提示するとき、様々な文体があり媒体があるが、それらを選ぶことも大事だと思うし、全体が一つになって、考えが説得力を持つのだと思う。書いてある内容は間違ってないと思うけど、全体から受ける印象が現在のブログに合っていないような印象を持ってしまった。少し無茶苦茶な意見かも知れないが、それが「ウェブログの心理学」を読んでの感想だった。

ウェブ日記とウェブログが認識として同じか違うかは僕にとってはどちらでも構わない。同じと言えば同じなのだと思うし、別に両者の違いにこだわるつもりもない。ウェブ日記もブログが広まる前には、利便性が高かったように思えるので、ブログがウェブ日記より、サーバ側のアプリとして広まったのは、単にサービスを提供する会社のコストの問題だけのようにも思えるのだ。何が言いたいかと言えば、アプリが使いやすくなったので広まったのでなく、逆に広まったからより便利なアプリに移行したように思うし、ブログ利用者が広まった必然性が、社会の中でのどう位置づけされているのかが大事なように思えるのだが、それが薄いような感じがした。でも心理学にそこまで求めること自体酷なのかも知れない。

なんか感想になっていない・・・

ついでに言えば、「ブログブーム終わり」がブログないで話題になっているようだが、個人的には全く興味がない。興味がないと、ここで書くこと自体、少し矛盾する話だが、もともとブログから新たなビジネスモデルが登場するとも思っていなかったので、そう言う面では、終わりもなければ始まりもない。

2005/04/20

ワシリー・グロスマンを探して 続き

帰りに図書館に寄った。目黒区の図書館は夜9時まで開館しているのでとても便利だ。
図書館に入りしばらくして女性の相談員の方に声をかけられた。

「すみません、ワシリー・グロスマンの事で調査を依頼された方ですよね」

僕が相談をしたのは男性だったので、見知らぬ女性の相談員の方より声をかけられるとは思っても見なかった。

「え、あ、はい。そうです。でもよく僕だとわかりましたね」

「あ、調査を依頼された方より話を聞いていたもので・・・」

答えになっていないと思ったけど、彼女が僕を見つけたのは事実だ。それに僕は人から言わせるとかなり目立つらしい。外見がそうさせるのか、挙動が不審なのか、どちらななのかは今もってわからない・・・

彼女の手には調査の内容と思われるファイリングケースと書籍を1冊持っていた。一瞬、「人生と運命」かと思ったが、背表紙に書かれていたのは「万物は流転する・・・」だった。

でもあれから、図書館員さんたちは調べてくれたらしい。その調査内容は、僕がネットで調べたのと同じであったが、その誠意に自然に頭が下がる。
一つの小論文が今のところ唯一の手がかりらしいが、その小論文を掲載している冊子は既に出版元では在庫切れで、ただ唯一国会図書館で資料閲覧が可能らしい。

後日に自分自身で行き、コピーをとることで話を終える。調査内容の深さでなく、その行為自体に感謝する。とてもありがたいと思う。
ところで、「万物は流転する・・・」の後書きに、ワシリー・グロスマンの事が少し載っていたが、モスクワで亡くなったらしい。でも死因についてはまったく記述がなかった。気になる。