松本清張の「張込み」は次のような物語を持っている。 これらは1957年の映画であろうと、2002年のテレビドラマであろうと変わることがない。
(1)刑事が殺人犯を探索するため、 過去に容疑者と関係があった女の家を張り込む
(2)女は既に歳が離れた吝嗇な男の後妻となり、彼の継子を育てている
(3)女は生気が感じられず、判を押したような日常を送っている
(4)容疑者が女の元にやってくるが刑事はそれを最初見逃す
(5)容疑者と一緒にいる女は生気があふれ活き活きとしている
(6)刑事は男を捕まえ、女に家に戻るように言う
(7)女は家に戻り、以前と同じような生活を送る
「張込む」刑事は女の私生活の一部を覗き続ける、そして女は最後に「家に戻るよう」 に刑事から伝えられるまでそのことを気づかない。「張込み」とは一種の監視装置でもある。 監視される側は監視されていることに気がつかない、
それは事象発覚した後に別の姿で起動し、監視される側に突然に立ち現れる。「張込み」 の設定が、通常は複数人体制で行われることが、油木という男性刑事一人での「張込み」は必然と考えられる。それは一種の「私小説」 の姿を呈している。小説「張込み」の読者は、自らが油木という刑事と同一化し、女を監視するのである。
監視される側は監視を意識していない以上、その姿を露にする。この場合、 女は生気のない顔で日常を過ごし、容疑者の男が現れ精彩を放つ。その変貌の落差は刑事の目、つまりは読者の目からは、 女の謎の一部を垣間見たと感じられたことだろう。この落差を描くことが小説「張込み」の主眼でもあると思うのだ。
松本清張「張込み」の構造を支える柱として「欲望」 を挙げることができるのは間違いない。「欲望」はそれを限定する場である「家」を離れて立ち上がる。しかし社会構造は、その「家」 のネットワークで成り立ってもいる。つまり「欲望」を限定する「場」としての「家」があるから、 社会秩序が保たれているともいえるのかもしれない。その社会秩序は男性社会が構築してもいる、よって刑事は女が生気のない人生を生きることを承知で家に戻ることを勧めるのである。
「欲望」の追求は叶えられることはない。女の「欲望」は男の逮捕で幕が下りる。 それは一種の「欲望」への否定の姿でもある。そして「欲望」が暴走しないために監視装置が設けられる。
1957年製作の映画「張込み」 では、 タイトル画面の時、刑事が張込む「眼」を正面で捉えた画像が映し出される。それはあたかも観客を監視する「眼」でもあるかのようだ。 ゆえに映画では、女の欲望が結果的に成就されないことで、その行為が許されないことを観客に意識させる。
逆に2002年のテレビドラマは、たけしの存在自体が逆説的に「欲望」 の発露の存在として描かれる。彼は女の家に投函された封書を勝手に開封し中を確認する。また彼の家が崩壊寸前にもかかわらず、 省みることもなく仕事へと出かける。さらに彼の妻は不倫をしている可能性もある。そのたけしが演じる刑事が、監視する女に対し、 やはり最後は家に戻るように伝えるが、既に 「家」には「欲望」を限定する「場」にはなりえていない。それは彼の家庭の姿が証明している。 だからこそより大きな代償、たけし演じる刑事の死が必要となるのである。そしてその結果、やはり「欲望」は拒否される。それは女の「欲望」
と共に刑事の家庭に対しても同様となる。
人の「死」を持っても抑えるべき人の「欲望」の発露、果たして人の「欲望」 とはかようなものなのだろうか。逆に「欲望」の限定を求めることが、 現代における人の生のゆがみとなって現れるという可能性も否定できないのではないだろうか。
確かに消極的な自由が一般的な状況の中で、 無限定な「欲望」の存在は悪とされる。ただ瑣末な個人の「欲望」は、より大きな力を持つ「欲望」とその発露の際の暴力の前で利用され無化されている現実もあるように思えるのである。
松本清張原作の「張込み」は一言で言えば傑作に値する小説ではない。 でもこの小説が各種メディアの中で時折利用され、もしくは映像化される理由は、何かしら社会の意志を感じるのは僕だけではあるまい。
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