2008/10/07

眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った

右目に眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った。出血は右目の視界の半分を曇らせ、かつ見る物を歪ませた。眼科医で診察を受け、出血の原因は眼からのものではないと言われた。眼の曇りから網膜剥離を想定していたので、医者のその言葉は意外だった。多くは高血圧もしくは糖尿病が原因なのだそうだ。そういえば昨年の定期健診で血圧が高いと言われたことを思い出す。実は最近まで血圧が低い方だと思い込んでいた。かつて血圧が低く保険に入るのに苦労した。血が薄いと言われ赤十字の採血を拒まれたこともある。だから、血圧が高いと言われたとき、自分への思いと医者からの言葉とが一致せず多少混乱したのも事実だ。糖尿病を現す数値は今まで出たことがない、そうであればこの眼底出血は高血圧が原因の一つであるのは間違いない。昨年の定期健診で血圧が高いと言われてから、それまでに時折訪れる身体の不調が高血圧の症状と繋がり、多少ながら自覚していたせいか眼科医が言う原因の幾つかの中で、僕は漠然とそう信じた。

眼からの情報量は約80%だと聞く。右目の下半分の視界が損なわれている僕は、つまりは約20%の情報量が失われていることになる。でも実感としてはそういうものではない。私の見える世界は以前とほぼ変わらぬ世界である。ただ全く同じというわけではないし、右目だけで見れば、曇りと歪みとで近くの人の顔さえ判別不能な状態である。左目からの映像と合わせることで、脳内で補正をかけて以前と変わらぬ像を描いているのだろう。しかし静止視力は以前と比べ著しく落ちた。強いてカメラレンズに例えれば、僕が見る世界は絞りを開放した世界に近い。大げさに言えば、焦点が定まったものは確かに見えるか、その他はぼけて見える、そういう感じである。だからか、この眼で見る世界は以前と比べとても美しい。

僕の眼が眼底出血という「病気」に罹ったと言えるのは、眼底出血前の状態、つまりは欠損前の状況を把握・記憶しているからだ。さらに眼科医から見せられた激しい出血の跡を示す眼底写真。だから僕は医者から処方された薬を毎日飲み、してはいけないと注意されたことを守る。しかし僕はこの眼の状態をどこかで「病気」であるとは考えてはいない。確かに眼底出血の為に、バイクに乗るのは控えているし、仕事でのPC作業は疲れる、次第に読書時間は減っていったし、なによりもカメラのファインダを左目で見ざるを得ず慣れるのに苦労している。でも僕は現在のこの眼で世界を見、そして感じている、そしてそのこと自体に欠損は少しもない、世界に欠損がないように。性能低下はあるが見えるという機能的な事を言っているわけではない。逆に言おう、今回のことで僕は「見ると言うこと」に以前と比べ少し意識するようになった。

カメラでピントが激しくずれた写真を眺めたとき、僕は人間の眼では捉えられない世界が確かにあると思ったことがある。ピントが合っていない写真、ぶれて対象が何重にもながれている写真、歪んで写っているものが判別不能な写真、それらは僕らの世界に確かに存在する「もの」の姿を現していた。その時、僕にとってカメラは人間の眼では見ることができない「もの」の姿を写す道具だった。人間が見える世界は、人間にとっていわば都合のよい世界なのだ。カメラで捉える失敗とされた無数の写真のように、光を捉える時間と静止しない視点、さらに光の波長を読み取る幅により、そこに在る「もの」の姿は人間の現実を簡単に超えてしまう。

左目による脳内の補正は、僕の過去の経験を根拠にしているのだろう。こうあるべきだ、という世界。それとも僕の脳は人間にとって在るべき世界を知っているのだろうか。そしてその世界を僕の右目は拒否しようとしている。時折感じる右目の違和感は、まるで失敗とされた写真と同様に、右目からの世界も受け入れるべきだと僕に訴えているかのようだ。

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