2008/11/01

JR渋谷ハチ公リーフレット前の露天商

最近の話だ

JR渋谷駅ハチ公口にあるハチ公のリーフレット。それに面して昔から新聞・雑誌を販売する露天商がある。ずいぶん昔から営業していると思う。僕が渋谷に行き始めた頃、つまり学生時代には既に営業していた。その頃はその店だけではなく他に2~3店は営業していた記憶もある。今から数十年も昔の話だ。

渋谷駅から降りる人、もしくは利用する人達でハチ公リーフレット前は本当に多くの人が通り過ぎる。その店は年月と共に周りの景色に溶け込み、新聞・雑誌を買う人以外は、つまりは殆どの人は、その店に見向きもしない。人々は、黙々と、談笑しながら、携帯電話で話ながら、時計を見ながら、待ち合わせのために、バック・買い物袋・手ぶら、そして思い思いの服装で、少しもその店に気づくそぶりも見せずに、実に多くの人がその店の前を同じ速度で一群となって過ぎてゆく。勿論、意識し合わないのは一群の一人一人もお互いに同様だろう。でもその店から見れば、それら多くの人達は一人一人というよりは大きな川の流れのように見える。

店には一人のお婆さんが黙って座りその流れを見ている。時折何か書き物をしている。彼女の後ろには、幾つもの布製の袋がぶら下がっている。その袋の中は、おそらく長年その場所で営んできた何かの集積なのだろう。袋はいつも同じ数が同じようにぶら下がっている。僕はと言えば、カメラを携えハチ公のリーフレットと人の流れを撮ろうとその露天商の横に立っている。僕にとっても露天商は川の岸辺にある小さな岩のような物だ。その小さな岩は流れに影響も景観の美しさも与えはしない。露天商の老婆は、その店と一体化し、隣で立っている僕でさえ意識することもない。

僕がこの露天商の女性を意識したのは、たわいのない彼女の一つの行動からだ。その行動を劇的に描写する力を僕は持たないし、そういう行動でもない。単に彼女は使い捨てカメラを構え目の前を通り過ぎる一群に向けてシャッターを押したということだけだ。でもその動作が速くとても自然だったので、偶然にその行動を見てしまった僕でさえ彼女の行動を把握するのに時間がかかった。カメラは露天商の外からは見えない机の上に常時置いてあるようなそんな印象をもった。それほど何気なく、仕入れ台帳に鉛筆で数字を書き込むような、ありふれた毎日の仕事の様に、するりとカメラを取り出しファインダーを少し覗きシャッターを押して、こちらからは見えない露天商の棚に置いたのだった。

無論、何故彼女が使い捨てカメラで目の前の人通りを写真におさめたのかは知らない。でも一連の慣れた動作から、その場で何らかのタイミングで何回も撮影している様に思えた。そこから幾つもの物語を造る誘惑にかられる。物語は彼女の撮影を行う理由への興味が発端となる。でも理由(意味)を考えることはそれこそ無意味だろう。実際に彼女から聞けばよいのだ。彼女の行動に興味を持った僕は直接に理由を聞きたいという衝動に駆られた。でも客観的に見れば、カメラを持った見も知らずの男性からいきなり「写真を撮っていたのを見かけました。何故写真を撮っているのですか?」などと聞かれれば誰だって警戒する。僕は彼女への聞き方についてあれこれと考えた。で、しばらく彼女の様子を見ることにした。彼女が再度カメラで写真を撮ったとき、僕が彼女の写真のファインダーの中に入り彼女に対し微笑む、もしくは僕も彼女に向けてカメラレンズを向ける。今から思えば途方もない愚策だが、その時は真面目にそれが一番良いと感じたのだった。

僕はハチ公リーフレットの前で、彼女の視界から少し外れた位置に陣取り露天商を注視した。幸い彼女は僕には気が付いていない様子だ。僕と彼女の間はとぎる事がない人の流れが続く。時折、ほんとうに稀に露天商に人が立ち寄り雑誌を求める。その都度彼女は客に会釈をするわけでもなく淡々と仕事をこなしていく。カメラで人を撮るとは想像さえ出来ない。
僕の隣で女性が歓声をあげる。待ち人が少し遅れてやってきたのだ。謝る男性に女性はわざと少しふくれてみせる。先ほどまでの表情とは全く違う。露天商の横では男性が四・五人固まって談笑している。誰かをからかっているらしい。その隣では女性の顔を覗き込むようにして男性が何かを語っている。また、急ぎ歩く女性に勧誘の男性が近づいては断られている。露天商の女性は何も変わらない。

30分くらいがそうやって過ぎた。僕は露天商を見ている。見ながら、何か彼女がカメラで写真を撮ったことは聞くべきでも意味を考えるべきでもないと思えてくる。勝手な物語を造ることさえはばかれる。僕がたった一回見た撮影の仕草で十分なのかも知れない。ただ一つだけ僕は思う。おそらく彼女の家には数千枚の露天商から撮った、いわば定点撮影の写真があることだろう。多くの写真は量では測れない一枚一枚のその写真の集積なのだろう。この一枚、あの一枚、年月日と時間が記録された、この場面、あの場面。写るハチ公リーフレットは同じでも、流れゆく人々は誰一人として同じではない。ただ彼女だけがそこにいて撮したという事実が大事なのだ。

しばらくして僕は首を振りその場を離れた。実はこっそり彼女の写真を撮った。でも掲載は何処にもするつもりはない。