2007/09/26

ル・コルビジェ展の短い感想

Tower

先々週だったか日にちは忘れてしまったが、僕は六本木ヒルズの「ル・コルビジェ展」 に行ってきた。

もとより建築関係に造詣が深いわけでも関連業界にいるわけでもない。でもフランスがユネスコ文化遺産にコルビジェの作品群の一括登録に動いている、という話題が出るほど、彼は普通に知られている歴史上の人でもある。その彼の単独展を開催しているというので興味があった。僕の感覚では、ル・コルビジェは確かに偉大な建築家だが、日本で単独展が出来るほど知られているとも思えなかったから、どのような展覧会を企画者は見せてくれるのだろうか、という点が特に興味があったのである。

友人の設計者と少し前に色々な話をした。 その中で建築関連の話でもないのに普通にコルビジェの話が出てきた。彼は設計技師なので当然にコルビジェのことを知っていて不思議はない。 でも、その時多少の違和感を感じたのは、コルビジェという名前が建築関係者ではない人でも知っているのが当然という「自然さ」だった。

僕の場合、学生時代からデザイナーとか建築関係とかを志す人が回りにいたので、その影響もありコルビジェの著書を何冊か読んだことがある。だからこそ知っていると自分では思っていた。だから、彼が「近代建築の始祖」と呼ばれている理由とかはまったく知らないし、そのような目で見たこともない。一つ言えばテクノロジーとして人間を見つめ建物を設計した、その事がおそらく発端ではないかと思うくらいだ。

でも、例えばジョサイア・コンドルとか辰野金吾、曽禰達蔵、 片山東熊などの日本近代建築の始祖と呼ばれる人たち、もしくは堀江佐吉などの大工棟梁たちと、 コルビジェが何が具体的に違うのかは正直に言ってよくわからないのは事実だ。彼らもコルビジェと同様に、 建築する際に必要な基礎データ値は経験則として持っていたはずである。

さらにフランスが世界遺産登録申請したというのもフランスというお国柄があるからだと思っていた。つまり、あくまで一般的には知られていない人であり、展覧会の来場者は少ないと思っていた。人が少なく静かな美術館での鑑賞を僕は当然の事として期待していたというわけである。

でもその期待は六本木ヒルズで入場券購入の待ち行列を見てあっという間に吹き飛んでしまった。そこには老若男女が、乳母車に乗っている赤ん坊から杖を突いているお年寄りまでの方々が、長い行列を作りながらじっと鑑賞券購入の順番を待ち続けていた。その状況は僕にとっては想定外だった。後からわかったことだが、展覧会の入場券は六本木ヒルズの展望台への入場券と兼ねていた。だから多くの方の目的は展望台だったに違いない。ただ兼ねているのだから、展望台のついでに展覧会を観て行きましょう的なノリの方も多かったと思える。

だから、展覧会の総括をすれば、「騒々しかった」がまず浮かぶ。子供は走り回り、赤ん坊は泣く、それらは致し方ないことだ。それはわかる、でも静かな鑑賞を期待していた僕にとってその光景の落差は大きすぎた。では展覧会の内容はどうだったのかと聞かれたら、意外に面白かったのも間違いない。 意外とは、コルビジェの様々な側面を観る事が出来たことから、展覧会の内容が近代史を振り返る機会になったということで、それはコルビジェの建築面だけではおそらく知る事が出来なかったと思うからだ。また「面白かった」の根底には僕のコルビジェへの固定観念が偏っていたことの表れでもあるかもしれない。展覧会での表現が企画者の意図を的確に伝えていたし、それに対しては違和感はおきなかった。確かにコルビジェは「近代建築の始祖」と言えるのかも知れない、順路を辿りながら僕はそういうことを考えていた。

まさしく当該展覧会ではコルビジェと近代が離れがたく密着していた状況を的確に現していた。でも逆に言えば、彼の活動が近代という枠組みに組み込まれているのを理解すること自体が、近代そのものが現代とは違った時代であったことの証左になりえたようにも思えるのである。彼の作品には、根に僕らが失ってしまった 「大きな物語」が確かに横たわっていた。だから僕はコルビジェの作品群を近代史を見るように順路を辿ったのだった。

子供たちと赤ん坊の喧騒が、近代という時代の音色にも聞こえ、そこに一つの不思議な空間を作っていたように思えた。その中で僕は、展示物を、何故かしら懐かしさが伴った感覚の中で眺め続けたのである。

特にコルビジェの都市計画はそのことを如実に表しているように僕には思えた。 コルビジェの都市計画には、人間工学というテクノロジーに含める要素ひとつひとつの選択が「大きな物語」 を背景にして行われているように思えたのだ。だからコルビジェの計画した都市は、現代におけるそれと著しく景観が異なる。

例えば現代では要素としてバリアフリーとセキュリティが加わるだろう。でもそれ以前に「大きな物語」が喪失している以上、それは単にテクノロジーに必要な要素の1つにしか過ぎない。その結果、日本のどこに行っても同じ都市景観になるというわけである。だからといってコルビジェの都市計画を称賛するつもりもない。彼の都市計画には逆にそれだからこそ排除された人たちも多いはずである。

コルビジェ展が今年開催された理由は何だろう。 それは1つには回顧できる時代になったということがあるように思える。僕らはコルビジェを外部から眺め批評出来る立場にいるのである。 そしてその立場からコルビジェから受け取れるものはなんだろう。それは僕らが無くしてしまったものへの郷愁だけではないはずである。でも、この展覧会はコルビジェと近代との結びつきの強さを表現することは成功したとしても、それ以上の射程は持ち得なかったように思える。

現代におけるコルビジェの意味とは何なのか。おそらく今回の展覧会にあわせ多くの美術誌もしくは建築雑誌がそのことを特集に組んでいることだろう。僕はそれらを全く知らない。
ただ1つ言えることは、既に時代はコルビジェの時代に戻ることはない。コルビジェが実践した建築設計の各要素を、背景無くしてバラバラに取捨して利用するしか僕らには出来ないのである。

補足1:一般的に知られていない、 といっても当然に多くの方が知っているとは思っている。ここでの比較は、たとえばレオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」と較べての話。 無論混雑具合はモナリザ程ではないにせよ、僕的にはそのくらいの落差があったということである。

補足2:写真は六本木ヒルズの展望台から眺めた東京タワーと街並み

2007/09/22

エイトに

エイトが亡くなってから3ヶ月が過ぎた。僕はエイトに会ったことはない。ネットの中だけの付き合いだった。付き合いと言っても、頻繁なメールのやりとりをしたというわけでもない。エイトが撮った写真を眺めたり、ブログを読んだり、そしてそれらにコメントを寄せたり、もしくは逆にもらったりした、いわばネットではどこにでもあるような間柄だった。

エイトは頻繁に自分のブログを更新していて、僕はほぼ毎日エイトの記事を読んでいた。率直に日常を語るエイトの文章は魅力的であり、エイト自身の強さと弱さを自然と顕わにしていた。僕はそれらを通じて次第にエイトのことを知るようになっていった。

エイトを初めて知ったのは写真からだった。あるバラの一品種の姿を知りたくて写真サイトであるFlickrを検索したのだ。バラの名前は忘れてしまった。でもエイトの写真は1つの印象として記憶に残っている。それはよくあるような、写真好きが撮ったような写真ではなかった。そこには撮した者の心情は微塵も入っていない様に僕には見受けられたのだ。一歩身を引いたような写真、いわば百科事典に載っているような写真。エイトの写真はそんな印象を僕に与えた。

実を言えばそのことをコメントに書いたことがある。よくよく考えれば失礼とも受け取られるコメントだが、エイトは僕のコメントに喜んでくれた。そしてこの写真サイトを使って植物の百科事典みたいなものを造ることが出来ればと考えている、と返信コメントで語っていた。

別の話だが、僕は約一ヶ月前に会社の後輩の死を知った。彼が入社時に僕と同じ部署に配属され数年間一緒に仕事をした。純朴で義理堅く、気持ちが真っ直ぐな好青年だった。一緒に仕事をした期間は5年くらいかもしれない。それから彼は異動になり、僕自身も異動したりして滅多にはあわなくなった。それでも社内で偶然にすれ違うとお互いに近況などを報告しあった。後輩の死は昨年のことだったらしい。帰宅途中に下車駅で倒れたのだそうだ。その話を聞いた際、無論僕は愕然としたし、彼の笑顔を思い出した。そしてラガーでもあった彼のスポーツマンらしい頑丈そうな体躯を思い出した。でも、悲しみの深さは比べることはできないが、正直に話せばエイトの死を知った時ほどの痛みは感じなかった。

もしかすれば相次いで知人(エイトが知人と言えるのであればだが)の死を聞いた僕は、そういうことに関する感覚が麻痺していたのかも知れない。後輩の死を聞いたときに、その出来事の大きさと、自分自身の薄情とも言える気持ちとの落差に驚き、僕は自分を納得させるために一瞬そう考えたのも事実だ。でも時間が過ぎるごとに、僕の中に占める両者の死の重みはエイトの方がより大きくなっていったのだった。

僕にとって後輩とエイトは全く対照的だと思う。例えば、僕は後輩の顔を知っている、仕事に関して様々なことを話し合った、その意味では僕は彼のことを知っている。彼の結婚式に招待された。子供が生まれたと言うことも知っていた。少し調べれば生年月日や生まれ育った場所も知ることは可能だと思う。


逆にエイトは一度も会ったことがないので、外見的なことは何も知らない。何の仕事をしていたのか、その仕事でどんな活躍をしていたのかなども全く知らない。当然に生年月日とか、どこで生まれ育ったのか、そしてどこに住んでいたのかさえ知らない。それなのにエイトの死に強い痛みを感じたのは何故だろう。1つ言えるのは、現在において、僕からの距離感が両者は違うことはあるかもしれない。僕は後輩は実際に見知っていたが、ネットの友人であるエイトよりも距離が離れていた。エイトとの距離感は僕が造り出した幻想なのかも知れない。

しかしそれを言えば実際に見知っていた後輩も同様だろう。ただ、エイトと後輩の違いは「顔」に還元されるのも間違いない。人は「顔」を知れば全てを知ったような気になるが、実際は「顔」によって何もかもを知ることが出来ない。エイトの場合、「顔」を知ることがなかったことが、より身体的にエイトの文章において実感できる結果となった、と言えないこともない。

つまり僕にとってはヴァーチャルなエイトの存在の方にリアリティを感じていたのである。
エイトのブログ記事は誰宛に書いたかという疑問を抱かせない。エイトは間違いなく誰に宛てても書いてはいない。強いて誰かと言えばそれは自分自身かもしれない。だからエイトのブログ記事は一見すると安定せず自律した個人がそこにいないかのような印象も受ける。でも多くの者たちにとって、ネット上で文章を書くということは、自らを自分の造り出したイメージで縛ることにも繋がっている。

だからエイト自身はその呪縛から逃れていたとも言えないこともない。だからといって、エイトが撮った写真とブログ記事の総和にエイトの全貌が立ち現れるわけでもない。それらは表層に現れるほんの一部だろう。でもそれを言えば、実際にエイトの知人であったとしても同様のことだろう。いくら自分が知りえるエイトの情報を集めてもエイトには近づけない。

それであればエイトとは僕が造りだした幻想でしかないのだろうか。おそらく半分半分だろう。僕はエイトを知っていた。しかし僕はエイトを知らない。そしてその状況にネットとかリアルとかは関係はない。

ある時エイトは僕が撮したベンチの写真にコメントをしてくれた。ベンチは近くのマンション前に設置していたもので、木製の長椅子ではあるが、一人分の席を表すかのように手すりが付いていた。エイトはそのベンチを見て、最近そこで寝ることを防止するのを目的と思える手すり付きのベンチが多いですね、と書いてあった。その視点は紛れもなく僕の視点でもあった。ブログでは、人と接することが苦手でいつも一人でいること、一人でいることが好きでいながらも多くの人と接していたいという気持ちも持っていること、なども書かれていたように思う。そしてそれも僕と同じであった。

エイトは限りなく優しく、強く逞しく、弱く儚く、そして誰もがそうであるように生きる難しさを感じていた。一人でいることを愛しながらも孤独感を怖れた。単独と孤絶は違うとわかっていながらも、単独と孤絶の境界は微妙であることも知っていた。カメラで多くのものを撮った。短いながらもその時々の心情を適切にブログに書いていた。旅行が好きで、運転が好きだった。生活は金銭的に豊かではなかったが、その辛さも逆に些細なことで大きな喜びと感じる繊細さを持って生活していた。繊細さは時としてエイトを苦しめたかも知れない。でもそれも今では知るよしもない。エイトの新たな文章を読みたい。エイトの新たな写真を見たい。でもそれは叶わぬ夢である。