2005/08/02

中島敦「山月記」の感想文を夏期宿題として求められた人に

中島敦の「山月記」は中学高校の教科書に長く取り上げられてきている。恐らく夏期宿題で本作品の感想文を課題として与えられた学生も多いことだろう。このブログ記事はその方達を対象に書いている。

なぜ学校の宿題に感想文があるのだろう。例えて言えば、患者が医者の問診に対し、医者の望むような答え方をするよう努めるのと同じだと思う。感想文を書くとき、学生達は自然に先生達が喜ぶ様を求めるようになるのだ。そこで、少し視点を変えて「山月記」の感想を書くための材料を提示したいというのが本ブログ記事の内容となる。

中島敦は1941年6月にそれまで勤めていた横浜高等女子学校を退職しパラオ南洋庁の国語編修書記に転職している。中島敦はパラオで人として扱われない植民地の方々を見て急速に仕事への意欲を失うことになる。その時期、中島敦は植民地主義を批判と受け取れる文章を書いている。

その植民地主義批判の文脈から「山月記」を読み解くことは可能だし、実際にそのような解釈をしている方もいる。この場合、人から虎に変わり兎を食べるものは日本ということになるのであろうか。

確かに中島敦が植民地主義に対しある程度批判的な意見を持っていたのかもしれない。しかしその解釈であれば、中島敦が南方植民地に日本語化政策の片棒を担ぐために来た理由が不明となる。僕からしてみると、単に中島敦は目の前で見た差別に対し嫌悪感を持ったに過ぎないと思う。日本の植民地政策に対し中島敦は致し方なしとの考えが強かったのではないだろうか。それも「山月記」の解釈として成り立つ。

虎になった李徴は嘆き悲しむが、人に戻ろうとは考えない、ましてやその命を自ら絶つ状況に追い込むようなこともしない、別の見方をすれば李徴は虎として生きることを決めている。
『猿サンは感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、
作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か
(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。』
(中島敦「山月記」から引用)
しかし作者である中島敦は李徴に対し最も残酷な方法で対応している。
虎にその身を堕としても繋ぎ続けてきた一連の詩歌。でもその詩は何かが欠けていた。無論、李徴にはそれは理解できない。それは人としての身でなければ理解できないほどの微妙な点なのである。何が欠けていたのであろうか。僕はそれを人と人との間を繋ぐものと考える。

実は、僕は「山月記」の解釈として、そこに日本の植民地主義批判をみない。
それ以前に植民地政策を推し進める人の欺瞞の姿をそこに見る。つまりは中島敦は植民地政策がその国(例えばパラオ)の人々のためになると漠然と思い描いていて、ただその運用に対する批判があるだけというような気がするのだ。
『己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、
憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、
各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』
   (中島敦「山月記」から引用)
上記引用文は「山月記」の中で李徴が語る有名な箇所である。素直に解釈すれば、人の中には猛獣がいること、それは各人異なること、猛獣の力が強くなると逆に人は己の猛獣に支配されてしまうこととなるだろう。その上で李徴はその状態を受け入れて生きようと決意する。ただ、この独白には何故李徴だけが虎に変身したのかの視点に欠ける。

『人間は誰でも猛獣使い』と言うことで、己の境遇を相対化し、何故自分だけが虎になったのかの意味を軽くしている。まさにその点が李徴の問題であったと僕は思うのだ。

逆に言えば、この物語の背景にある、あまりにも独りよがりの姿、それこそがこの小説を通じてその当時の日本の姿そのものであったのでないだろうか。

中学高校の教科書に長くこの作品が載っている理由。格調高い漢文調の文体、教科書に載せるにはちょうど良い長さ、さらに戦中の作品でありながら戦争の影を見せず汚れていない小説。中島敦が仮に戦後まで生きたとき果たしてこの小説は教科書に載ったであろうか、などと思うのは不埒な想像なのかもしれない。ただ、それらは中島敦の「山月記」をイメージとして作り上げてきた結果に寄るところが大きいのでないかと僕は思う。

作家がその題材を選択するとき、単に格調高さを追い求めるだろうか、基となる物語に作家が生きた時代性をそこに見いだしたからこそ、その話を掘り下げ、その当時として現代性を持って発表したのではないだろうか。教科書に載っている「山月記」とその解説だけを読むのでは、それらの 「ほんとう」の部分は見えてこない、と僕は思う。

逆に言えば、教科書の「山月記」は何を隠したのかということだ。例えば、 「山月記」は「古譚」という4編の小説群の中の一編であること。中島敦は単独で「山月記」を発表してはいないことを教科書の解説では知ることが出来ない。

「古譚」に収められている他の3編は「狐憑」、「木乃伊」、「文字禍」という。それぞれが面白く、「山月記」と較べても遜色なく、逆に印象強さでは「山月記」を凌駕するかもしれない。
「古譚」の4編を通して、その中の一つの小説として捉えなければ、「山月記」の感想にはならないと僕は考える。なおかつ、それらの小説群は、勿論「山月記」を含め、旧仮名遣いで書かれている。教科書に掲載しているのは新仮名遣いに直され、「格調高い漢文調の文体」と解説で述べていても、いささか拍子抜けする感を持ってしまう。

次に「山月記」を発表した時代の雰囲気である。それも教科書では作家の生年と没年から想像するしかない。中島敦が青年期を過ごした大正昭和の戦前は国内では比較的自由な空気が流れていたと推測する。しかし、ひとたび国を出て植民地に行けば、そこには容赦ない現実の姿をさらけ出す。中島敦はパラオでそれを見たのではないだろうか。

中島敦の「山月記」を通じて僕は何を言いたいのだろう。始めは中学高校の夏期休暇課題としての感想文対応について述べると言ったが、本音の部分ではそれは難しいという気持ちが強かった。勿論、提出を指示する先生方に迎合する文章を書いてお茶を濁すという仕方もある。でもそれで満足できない人も中にはいることだろう。ただ、それらの人達はそれなりに自分で道を見つけていくことが出来るようにも思える。

僕が本記事で言いたいことは、国語教科書における各文章のテクスト論的配置にある。「山月記」に見られるように、教科書に掲載している姿は「山月記」だけである。
そしてそれだけで、与えられているテクストだけで、その感想を書けと言われるのである。でもそれは難しいと僕は思う。そこから出てくるのは平面的な感想だけでしかない様に僕には思えるのだ。
それは国語教育という難しさが根底にあるのかもしれない。そもそも国語とはいったい何なのかという問いから発しなくてはいけないかもしれない。ただ本記事では小説の解釈への選択の広さを限定する視点からのみで述べてみた。

メモ的な深みでしかないが掲載する。

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