2006/08/18

イヌイヒサコ氏の「線」から思うアートのこと

二人のアーティストによるユニット「flugsamen/飛行種子」の初回展に行き、イヌイヒサコ氏の作品に出会った。この展覧会では、僕を捕らえた色々な作品がある。フクシマセツコ氏の作品はブログと彼女の公式サイトにより少しは見知っていて、そのスタイルに興味を持っていた。そして実際に見たいという欲求は常にあったし、展覧会はそれに応えてくれた。

無論、今回の展覧会に提示した作品がフクシマセツコ氏の総てではないが、「flugsamen/飛行種子」の範囲の中で、ある意味自己紹介的な要素で提示してくれたという思いは持っている。そしてその展示会の中にイヌイヒサコ氏の作品も当然にあったわけで、初めて鑑賞する彼女の作品に、僕はフクシマセツコ氏の作品と同様に捕らえられた。それは嬉しい出会いであったが、同時に一つの戸惑いでもあった。

イヌイヒサコ氏の作品で印象的なのは、展覧会の部屋の角に展示していた一連の「線」の作品である。無造作にスケッチブックから引きはがされた複数枚の白い用紙に描かれた「線」の前で暫し僕は佇んだ。そしてその「線」の意味を捉えようとする自分の意識を感じたのであった。それはイヌイヒサコ氏の「線」が何かであることを、自分の中で立証しようとする心持ちではあるが、それは逆に僕自身がイヌイヒサコ氏の「線」に戸惑いを感じたのが根底にあるのだと思う。僕の戸惑いは一体何だったのだろう。正直に言えば、それは今でもわからない。

意味を掴もうとする僕の意識は一瞬であり、そして作品を見つめ続ける中で、戸惑いも自分の中で折り合いを付けて収まっていく、そんな過程を短い時間の中で感じていたのである。 僕自身のアートに対するスタンスを言えば、作品を解釈しようなどとは少しも思わないし、イヌイヒサコ氏の「線」の意味を考えることは無意味なことだとも思う。解釈とは、自分の中の「戸惑い」を巧妙に論理で隠す作業に他ならないかもしれない。しかし浮かび上がるのは、解釈を行った者の世界でしかない。

僕が「線」と感じるのは、イヌイヒサコ氏のスタイルに他ならない。そしてそのスタイルは、 彼女が意識して辿り着いたのではなく、アーティストとしての感受性が、彼女を取り巻く世界の中で、自然に成り立ったのだとも想像する。イヌイヒサコ氏のスタイルの意味を論理的に展開することは意味がない。感受性には感受性を持って語るしかないのだと僕は思うのだ。

おそらく僕の感受性は、イヌイヒサコ氏の「線」の前で多少なりとも混乱したのだろう。それが一瞬たりとはいえ、彼女の作品の前で、自分が構築する意味にすがろうとした心情なのだと、今の僕はそう思う。

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問いは常に自分に対して向けられる。 それはある意味僕の癖なのかもしれない。

「何故僕はこの作品に捕らえられているのか」

僕は少し前まで、特に文学に対してなのだが、こう思っていた。即ち「作者は自分が造った物を時として全く理解していない」。今でもこの考えは自分の中に残留している。そして今僕はこの考えを躍起になって消去しようと試みている。お前は作品を理解したのか、さらに「理解する」とはどのような状態を言うのか、矢継ぎ早に続けて繰り出される自問に、僕は言葉が少なくなる。そしてこれらの自問が、僕自身の中に残留している一つの考えを、少しずつではあるが、打ち砕いていくのである。

「理解する」とは、認めると言うことだと僕は思う。そしてその「認める」とは、自分の世界に取り込むことではなく、自分の外部の存在として認めるということだと思うのだ。自分の世界に取り込むこと、それは従前の解釈と同根となる。そしてそれは容易いことなのだと僕は思う。誰でも自分の世界を語るときは雄弁になるし、それを否定されれば、躍起になり否定した相手を倒そうとする。

無論、議論を必要とする場はある。しかしそれはアートの世界では、全くないとは言わないが、それでも少ないのではないかと僕は思う。外部の存在として認めることは、少なくとも僕自身の感性の枠を広げてくれる。そしてそれこそが、様々なアートが担っている力だと僕は思う。

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イヌイヒサコ氏の「線」には「熱」というものがない。ここでいう「熱」とは、人間の強い情動を伴う感情の発露のことを言う。間違っているかも知れないが、彼女は「線」の中に何も含ませてはいない、そんなふうに僕には思える。一歩下がった中で描かれている「線」、だからこそ僕はイヌイヒサコ氏の描く「線」に好悪の感情もなく、しかしだからといって、
何も感じないかと言えばそんなことはない。

イヌイヒサコ氏のサイト「線-集積するものへ」のトップページに描かれている「線」が好きだ。どのようにすればあの様な「線」が描けるのか不思議に思う。

そしてサイトの「線」は、僕が「飛行種子」の展覧会で見たあの「線」とも違っている。

展覧会の「線」は好きとも嫌いとも、そういう一切の感情を持つことはなかった。しかし、サイトに紹介している「線」は、一目見たときから好印象を僕にもたらせた。サイトの「線」、それは渦を描く「線」、飛び交い、分散し、そして一つになる。あたかも遺伝子情報だけが与えられた、素朴な、だからこそ行動に迷いもない、一個の生物のように見えてくる。

しかし展覧会の「線」は、もっと無機質である。遺伝子情報よりも物理的法則の方が前面に出ている。サイトの「線」を動物とすれば、展覧会の「線」は植物に近い、そんなふうに感じる。おそらく、サイトの「線」を展覧会に出していれば、僕は戸惑いを持つことはなかったように思えてくる。

表層を物理的な法則に従って滑るだけの線。そこには僅かな意志が存在するが、しかし内部深くに染みこむことも、外部に突き出ることも、僕には想像することが出来ない「線」。しかしそれでいて、展覧会の「線」は確かに白壁に存在していた。

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「飛行種子」の展覧会に出品したイヌイヒサコ氏の「本」。市販している書籍の単語に印を付けることで、別の意味をその本に与える。美術と言うよりは、パフォーマンスアートに近い作品を見たときに、彼女のメッセージ性の強さを感じた。しかし展覧会の「線」にはメッセージ性は少しも感じない。ただそこにあるのはスタイルとしてのアートだったと僕は思う。

2006/08/16

MEMO 朝顔三十六花選、服部雪斎、朝顔のことなど

朝顔には大別すると大輪と変化の二つに分けられるが、現在では朝顔と言えば殆ど大輪系となる。変化種は絶滅しそうなほど少なく、一部の植物園で保存されるのみとなっている。ただ時代と共に朝顔の流行も、大輪中心と変化中心を繰り返していて、いずれは変化が流行る可能性もあるかもしれない。最近花屋で花部が桔梗型の朝顔が売られているのを見かけ、新鮮な印象を持った。

朝顔は熱帯・亜熱帯地域に原生する植物なので、それらの地域には様々な朝顔の仲間達がいるのも知っている。しかし、黄色い朝顔というのは未だ見かけたことがない。何故黄色い朝顔の話をするかと言えば、江戸時代後期に変化朝顔が流行ったときに、黄色の朝顔が図鑑に載っているのを見かけたからだ。その図鑑とは「朝顔三十六花選」である。

国会図書館のサイトに様々な図版が掲載されている(ギャラリー)のをご存じの方も多いと思う。その中の一つに「江戸時代の博物誌」というコーナーがあり、そこの「第二章 独自の園芸の展開」に載っていた。
「アサガオは文化末年から文政初年と弘化末年から文久初年の2回のブームを呼びました。この資料は弘化末年にはじまる第二次ブームの頃のもので、当時主役だった奇妙な形態の花や葉をもつ「変化朝顔」の数々が描かれています。なかにはアサガオとは思えない姿をした花もあります。当時は黄色い花をつけるアサガオもありましたが、現在では失われてしまっています。著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号で、図は服部雪斎によるものです。もっとも優れた朝顔図譜といわれ、書名のとおり、36品を所収しています。」
(国立国会図書館 「朝顔三十六花選」の説明文を引用)

 その黄色い朝顔の図版はおそらくこれだと思う。
確かに朝顔らしからぬ姿をしている。しかし考えようによっては、現在の朝顔も、突然変異(例えば色など、原生は青一色)と品種改良 (花部の直径、原生は小振り)により今の姿になったわけで、おそらく原生種の姿とはかなり異なると思う。

さらに、「朝顔の姿とは何か」の問いに、原生種の姿を求めるのは、何かしら純血主義的な感を持ち、個人的には好まないのもある。生物は、勿論人間も含めて、持続する為に変化していくものだと思うのだ。

この黄色い朝顔を読み解いてみる。黄色い朝顔の画のページ左上に朝顔の名称が書かれている。「変化渦南天葉極黄菊○○切牡丹度サキ」とある。朝顔の名称は、見方としては、交配した遺伝子の組み合わせの名称でもある。

「渦」とは葉の文様の事で、後の「南天葉」にかかる。「南天葉」とは1枚の葉が3つに大きく切り分けられた葉を言う。「極黄」とはおそらく色を示すのではないかと思う。「切」とは花が切れて別れているものをいう。そして「牡丹」とは、まさしく牡丹のような花の形であること、「度サキ」とは二重に咲いている花であることを示す。

朝顔の専門家に言わせると、「朝顔三十六花選」の中で一番の変わりものは、最後のページにある花だそうだ。名称は、「孔雀変化林風極紅車狂追泡花真曼葉数○生」と書いてある。ここまで来れば僕などが読み解くのは難しい。

朝顔、特に変化朝顔については次のサイトにで画像として参照することが出来る。
「朝顔三十六花選」の図は服部雪斎(はっとりせっさい)によっている。服部雪斎は江戸後期から明治の半ばまで活躍した画家で、殆どの画業は図譜(博物誌)の画を描くことだった。江戸後期は極限まで木版技術が進化した時代でもある。その中で雪斎はマニアックなまでに精密に対象を写生していく。 彼が担当した図譜(博物誌)は、国会図書館公式サイトで紹介する図譜の中でも比較的多い。
  • 貝の図譜 「目八譜
    (目と八を組み合わせる貝になる事と、人が傍らから見る事を「八目」と言うことから)
  • 食用となる鳥の図譜 「華鳥譜
    (華の字を分解すると、六つの十と一つの一からなる、61種類の鳥の図譜)
  • 虫の図譜 「千蟲譜

  • フクロウの図譜 「錦○禽譜
    (○はあなかんむりの「くぼみ」、音読みは「カ」)
  • 「写生帖」
  • 「写生物類品図」
  • 「本草図譜」
  • 雪斎写生草木鳥獣図
勿論上記以外でも雪斎は様々な図譜の写生を担当している。 彼のことは「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)に詳しく載っている。

その本によると、維新後、幕府体制下での庇護を離れ、市井の絵師として市ヶ谷に住んだ雪斎は、自らの職業を「写真画」と称したらしい。「写真」という言葉について、本では次のように語る。
もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
 (「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)
違う単語同士で同じ意味を持つ言葉はあるが、それぞれの言葉は生活の中で、微妙なニュアンスの違いにより使い分けられているように思う。「写真」と「写生」の違いは、後に「写真」がフォトグラフィーの訳語にのみ使われる経緯により、その両者の違いをうかがい知ることが出来る。
幕末から明治初期にかけては、下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一といった職業的な「写真師」がすでに活動していた。雲停や雪斎らが博物図譜のために動植物の「写真」をしていた頃には、すでに「写真」は別の意味をもち始めていたのである。
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)

 雲停とは雪斎と並び称される博物誌画家 関根雲停(せきねうんてい)である。特に本領は動物画で、その絵は動きに溢れ、「静」の雪斎、「動」の雲停と言われた。

雪斎の写真画は、現在で言うところのアートではない、と僕は思う。ここで言うアートとは、詩人リルケが語る 「個人の感覚の領域を拡げるため」の機能としての道具、それはまさしくスーザン・ソンタグが60年代後半にアートに対し述べたもの、とした意味と捉えての話である。

無論、現代の尺度で雪斎の画を計るのはフェアではない。しかし同様の評価は、明治になり、彼の博物誌画以外の作品に対し与えられているのである。維新以前は絵に対し、そのような見方をする者はいなかった。

江戸と明治の両時代をまたがって雪斎は活躍した。おそらく彼も、画に対する人々の眼差しの変化を、双方の時代の違いとして、感じ取ったことだろう。雪斎がフォトグラフィーとしての写真の存在を知っていた可能性は高い。もしかすれば直に写真を見たこともあるかもしれない。そして、当時の写真技術レベルであれば、自分が描く画と較べ精度の面で、自分の技能の方が優れていると思ったことだろう。しかし、その写真機械の可能性は感じ取ったはずだと僕は思う。

誰が撮影したにせよ、フォトグラフィーとしての写真には権威が既にある。図譜が明治の体制の中で博物誌と呼ばれ、知識の中央集権化が進む中で、当然に権威が求められる博物誌が、画からフォトグラフィーとしての写真へと移行するのは当然とも言える。

江戸後期は「見たまま」を忠実に写生する要請が強くなっていった時代でもある。そしてその要請に応えたのが、高度に発達した木版技術であり、雪斎らのような写真画達であった。しかし、彼等の時代は化学反応による写真の登場と、その急激な発達により、日本の美術史の中から早々に消えてゆくことになる。

僕は、何故だか理由はわからないが、国立国会図書館のギャラリーの多くの博物誌の中で、雪斎の作品が特に印象に残った。彼の画は、自己主張が殆ど無い。描く対象を、誰が見てもそれとわかるように、構図及び彩色に気を配っている。そして、だからこそ博物誌画家としての自尊心の高さが、逆に僕には見えるのである。

服部雪斎は明治21年 (1888) 以降の消息はつかめていない。忽然とではなく、近代以前から近代への歩みの中で、徐々にスライドが新たな画面へと切り替わるように、彼もまた徐々に消えていった。そんな風に思える。

2006/08/08

メタセコイアにまつわる雑感 「戦後におけるメタセコイアの意味」

metasequoia

駒沢公園にはメタセコイアが4本植えられている。いつに植えられたのかは定かではないが、多分公園が出来たときに一緒に植えられたのではないだろうか。そうすると約40年以上は経っていることになる。

少し前まで僕は第一競技場(陸上競技)脇に植えられている樹木は落松だと思っていた。明らかに針葉樹で、秋に紅葉し冬には落葉する樹木と言えば落松しか思い浮かばなかったのである。メタセコイヤ、和名「あけぼの杉」などは名前さえ知らなかった。勿論今となってはメタセコイヤが広く知られわたっている樹木であることは知っている。それでも以前、 例えば戦後間もない時期と今を較べれば、知名度は雲泥の差があるかもしれない。

80万年前に日本列島を最後に絶滅したと思われてきたメタセコイアが、中国に現存しているのがわかったのは、太平洋戦争直後のことだった。それまで多くの化石遺体として発見されてきた木は、米国などで現存しているセコイア属の一種だと思われていた。それを日本植物学者三木茂は別の属であることを化石から証明し、1941年の論文の中で「メタセコイア」と命名した。

そのメタセコイアが1946年に中国で見つかり、中国植物学者から米国植物学者へと標本が送られる。そして1948年に中国現地に米国植物学者が訪ね多くの標本・種子を採取する。その中の一部が1949年に日本(小石川植物園、昭和天皇)に届くのである。

齋藤清明著「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中央公論社)によれば、日本にメタセコイアの苗木及び種子が届いた時の状況を 「戦後復興のシンボル」と題して次のように語る。
「ところで、「生きた化石 米から苗木 日本で栽培へ」の記事が載った『毎日新聞』大阪本社版1949年(昭和24年)
11月11日付の同じページに、「ノーベル賞受賞 その日の湯川博士」も載っている。(中略)ちょうど1週間前の11月3日、ストックホルム特電で送られてきた「湯川博士にノーベル賞」は、日本中を沸かせたビッグ・ニュースだったが、その続編がまだ紙面を飾っていた。」
「またメタセコイアが載った同じページの下のほうに、
「古橋らの南米行きは見合わせ」というベタ記事もみえる。

(中略) 「フジヤマの飛び魚」とはやされた古橋たちも、当時の日本の誇りだった。 (中略) 夏の「水泳ニッポン」に続いて、秋の
「文化の日」に飛び込んだ湯川博士ノーベル賞受賞、そしてメタセコイアだった。」
「日本人科学者が戦中に命名した化石植物が、
中国で戦後すぐに生きた大木で見つかり、アメリカ人科学者が日本に苗木を届けてくれる。まず天皇に。そして日本各地に植えられる。
メタセコイアもまた、日本の誇りのように思えた。戦後の明るいニュースだった。」
   (上記総て 齋藤清明著 「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中公新書) から引用)
敗戦直後の状況で、水泳における古橋たちの活躍と湯川博士のノーベル賞受賞が、当時の人達にとって誇りに思えるのは僕にも理解できる。でも何故メタセコイアの苗木が日本に届くことが誇りに思えるのか、この本を読んでも、正直言えばよくわからなかった。
確かに明るいニュースであることは間違いない。でも誇りに思えるという、強い情動を持ち得る程とも思えなかったのだ。

昭和天皇に届けられた事だろうか。確かにそれもあるだろう。日本人がメタセコイアを命名したと言うことだろうか。確かにそれは強い動機となるだろう。

でもそれだけではないように僕には思えた。こう捉える事は出来ないだろうか。古橋らの活躍は「肉体」における自信回復、湯川博士のノーベル賞受賞は「頭脳」における自信回復、そしてメタセコイアのニュースは「日本」そのものの「再生」への希望を。

メタセコイアの記事により、多くの人は、列島で100万年~80万年前まで繁殖していたのを知っていたことだろう。そして、中国を除いて、メタセコイアにとって日本が最後の繁殖地だったことも。おそらく「メタセコイアが日本に届く」ということは、メタセコイアが故郷に戻るような、そんな感覚を持ったのではないだろうか。

そしてその事は、荒廃した日本の復興へ向かう時期に合わさることで、一度絶滅したと思われていた木が現存していた、と言う事実と共に、そこに「日本」もしくは自分たちの将来を重ねたいという願いもあったかもしれない。勿論、メタセコイアが繁殖していた時、「日本」などは存在しない。人も住んでもいない。でも例えば「富士山」に日本のイメージを重ねるように、メタセコイアに日本のイメージを重ねたとしても不思議でもない。

メタセコイアは、まず小石川植物園、次に皇居に植えられた。昭和天皇はこの木を愛されたらしい。メタセコイアの和名は「あけぼの杉」と言う。古くからあるという意味で「あけぼの」を付けたらしいが、僕にとっては「あけぼの」とは 「始まり」の意味もあるように思う。

昭和天皇は、メタセコイアではなく、和名の「あけぼの杉」での呼称を重んじられた。勿論、昭和天皇の御心を知ることは出来ないが、日本の復興と「あけぼの杉」の成長を重ねた御心は察することが出来る。このとき、日本の歴史の中でも希なほど、天皇と人々の気持ちが近かった。僕にはそう思える。

昭和天皇の巡幸と時期をほぼ同じにして、メタセコイアの栽培ブームが始まる。桜で言えば「ソメイヨシノ」が戦後に多く植えられたように、メタセコイアも各地に植えられていく。

天皇の巡幸と「ソメイヨシノ」及び「メタセコイア」の栽培。それを繋げてみることは考えすぎだろうか。「ソメイヨシノ」が日本の風土を一つのイメージにする為の栽培と較べると、メタセコイアの栽培は一過性のブームでしかなかったかもしれない。

ただ、当時の人達にとっては、人間の手により汚されていない時代の彼方から、突然に現れたメタセコイアを植えることにより、そこに現れる姿は、維新後・戦前の姿でなく、もっと遙か昔の「日本」誕生以前の姿であること、そしてそこから「始める」のだという思いも、
そこにはあったように僕には思えるのだ。それは戦争で荒廃した場所に「ソメイヨシノ」を植えることにより、イメージとしての「日本」を再生する行為とは異質の物だと思う。

しかし結局メタセコイアの栽培ブームは、ほぼ東京オリンピックの少し前あたりから冷めていくことになる。そうそれは「白書」で 「既に戦後は終わった」と宣言がされたのとほぼ同時期でもある。僕が駒沢公園で見たメタセコイアの木は、ブームの終わりに植えられたのである。僕も含めて、人々の記憶から「メタセコイア」は、「戦後の復興の象徴」としてでなく、単に「生きた化石」として残るようになっていく。

多分、戦後間もない時期に人々が思い描く「メタセコイア」のイメージと、現代人が「メタセコイア」に向ける眼差しは、全くと言っていいほど違うものだろう。しかし昭和天皇は違っていた。昭和天皇がご健康な時に出られた最後の歌会始 (昭和62年)で、お題「木」の御製は「あけぼの杉」を歌われている。
「わが国の たちなほし来し 年々に あけぼのすぎの木は のびにけり」
また昭和天皇は吐血後の小康状態の時、侍従に「あけぼの杉」の事を訪ねられたとも書いてあった。一人昭和天皇だけは、メタセコイアへの眼差しは戦後から変わることがなかった。
僕は、昭和天皇の日本の復興への思いの深さを知ると共に、それ以上に感じることは、日本は昭和天皇を置いて別の道を歩き始め、昭和の終わりにおける、その両者の距離の遠さである。

昭和天皇が踏みとどまったのではない、置き去りにされたのだ。そして最期の時は、装置として、メンテナンス報告を受けるかのように、毎日体温などの数値データを人々に提示し続ける存在として。メタセコイアは、天皇と人々の気持ちが近づいた戦後の物語に登場する。

そしてそれは語り続けられることのない物語かもしれない。僕は公園に植えられているメタセコイアの木が好きだ。真っ直ぐに、上に行くほど細く、遠望し見れば綺麗な円錐の姿、幹は無骨で木肌はささくれ立ってはいるが、堂々とした姿をしている。

四季折々に姿を変えるのも楽しい。しかしやはり緑が美しい初夏がよい。樹木の話をすることは人間の話をすることでもある、と僕は思う。メタセコイアの新たな繁殖も、人間の力を借りなければ成り立たなかった。それでも人間の思惑を越えたところに、樹木は存在している。メタセコイアを眺めるたびにそう思う。