2005/08/08

2005年8月7日、脈絡なく考えたことをメモとして残す

広島における原爆のテレビ特番が今年は多い。被爆から60年という節目ということでもあるのかもしれない。広島・長崎を考えるとき節目という言葉自体にも多少の抵抗感があるのも事実なのだが、正直言えばこれらのテレビ報道を見る際に、僕は自分の到着点を掴めずにいるのも事実なのである。

原爆の被害に遭われた方の体験を聞くたびに、僕はメディアを通じて体験者に同調し何ともやるせない気持ちになる。やるせないという言葉も違うかもしれない。身が内側から何かを吹き出し崩れていく感じ、何が崩れていくのか、それはある意味現在の僕が暮らし生活することとか、新聞などで論評される政治的なこととか、あるいは事件とか、僕を取り巻く多くの社会的状況が、体験者の一言で無意味に感じられるのである。そうそれは現在の日本の国という単位での共同体が、体験者の一言で戦前と対峙され瞬間的に崩れ去る、大袈裟に言えばそんな一瞬の感覚に襲われるに近い。

多分、戦前の日本と戦後の日本では全く別の共同体と言って良いほど何もかも違うことだろう。僕にとって見ると今の暮らしの中で、戦前の日本という国とその共同体を意識することは殆ど無い。それは歴史的な一項目であり、書籍の中で、もしくは博物館的な諸物の中で、テレビなどのメディアの中で、現時点で結果を知る者として総括され時折提示されるだけなのだ。それが広島・長崎の体験者の話を聞くとき、さらに被爆された多くの方が今でも苦しんでいる姿を見ると、僕は繋がっていない断絶され溝があると認識している戦前から、がっしと鷲掴みにされ、「どうなんだ、どうするのだ」、と問いを投げかけられる様に感じてしまうのである。つまりは、僕自身が思い描いている戦後の日本が新たな国として立ち上がり、戦前の日本とは違うと思うことが妄想なのだと、思えてくるのである。

今では僕も多くのことを知っている。広島・長崎では日本人以外にも少なからず在日の方々も被爆しているという事実。捕虜となった人達の被爆、そして住んでいた外国籍の方々の被爆。メディアは時として、それらの方々を無視し、今回の特番においても登場するのは日本人だけである事実。さらに、核と人間との問題という文脈でなく、第二次世界大戦の文脈の中で見ようとする事の問題。戦争の文脈の中で広島・長崎をみると、人は人の上に原爆を落とせるという事実の認識、他の戦闘を列挙されることにより相対化され、被害者と加害者の双方の言い分の中に埋没されていくだけだろう。広島・長崎の問題は、そこから始まりチェルノブイリと東海臨界事故の一連の核と人との関わり方の中で見ていく必要がある、と僕は思う。そうは思いながらも、体験者の話を聞いてしまえば僕の心は前述の様な思いへと辿ってしまうのである。それは自分にとってのナショナリズムの部分もあるのかもしれない。もしくは自分の捉え方に誤りがあるのかもしれない。

先日のテレビ朝日の特番「ヒロシマ」の後半で、名前を忘れたがエノラゲイに搭乗した科学者と被爆者の対談が流れた。メディアが何をねらったのか不明な企画であり、僕自身途中で聞くに堪えない状況になった。今となってはそれぞれの方々が語る内容を正確には覚えていないが、被爆者の方が語った言葉の中の「申し訳ない」という一言が、相手の科学者に謝罪を要請する事に繋がっていったのだ。被爆者の思いは間違いなく正確に相手に伝わっていなかった。その原因の一つに、些細なことだが通訳者のスキルの問題もあったと思う。「申し訳ない」という一言は、被爆者が突然に訳のわからない悲惨な状況に陥り、その結果身近な人の死に立ち会うことで自分自身を責める気持ちから、自分自身に向けられた言葉でもあったことだろう。彼等被爆者の時間は、被爆した身体と共に、原爆が炸裂したあの時間と場所から一歩も動いてはいない。被爆者達が被爆体験を語る動機は、それを後世に残すこと以上に、間近の多くの死者達に対し語ることではないだろうか。常に死者達と共にいる者達の言葉を、前向きに「生きる」事を良しとした人達に伝える事は難しい、と僕は思う。それに、それらの事柄を知識人然とした、第三者的な論評でまとめた筑紫哲也氏の言動に底の浅さを感じてしまったのもある。

多分、広島・長崎の死者達は、「戦争は悲惨だ」とか「繰り返してはいけない」等の言葉に、自分たちが死んだ理由を見つけ納得することはないだろう。それは空爆で逃げまどい焼かれていった多くの人達に対しても同様だと思う。同様に日本が侵略し傷つけ殺した多くの人達に対しても、「日本は平和な国になりました」と宣言しても納得しないと、僕は思う。それらの死者達を考えるとき、僕は言葉を失う。どこから誤りが始まり、それは一体どこまで続いているのか見当がつかないからだ。そこから僕は抜け出すことが出来ないし、抜けだし論評することで何かがわかるとも思えない。そしてそれでも僕は生きていくしかない。

2005/08/04

8月の暑い空の下で

8月は不思議な月だと、僕は思う。祖先の御霊が戻り、甲子園球児達が白球を追う、広島・長崎の平和祈念の日も忘れてはならないし、玉音放送が流れた時も蝉の声だけが聞こえるうだるような暑さの日だったと聞く。先だって読んだ「八月十五日の神話」(佐藤卓己)では、夏の話題に事欠く新聞社が記事作りのために始めた夏の甲子園について、「高校野球の社会学」(作田啓一)を引用し国民的宗教儀礼としていた。だから極度に「不浄」が忌まれるということになる。そういえば高知県の明徳義塾が喫煙と暴力で大会を辞退したとのニュースが流れた。たかが喫煙ではすまされないものが高校球児には今でも強く残っているのかもしれないが、このニュースに少し違和感を感じてしまった。喫煙の背後に重大な事件が隠されているのではと勘ぐってしまうのである。でもそういう事はなく、やはり高校球児に求められる姿が依然として変わっていない証左なのだろう。

昔から思っていたことだが、僕は人が多く亡くなる月は2月と8月だと思っている。2月は寒すぎ、8月は暑すぎ体力を消耗する。統計的なことは見たことがないので正直不明ではあるが、特に8月は死者の近くまで生者との境界線が動いている感を持つ。これもお盆などで培われた感性と言えばそれまでの話ではあるが。

会社から予定通りにしばらくの休暇を得た。それで今日は久しぶりに図書館に行ってきた。実は昨夜トーマス・ベルンハルトの事を知りたいと色々とネットで検索をしたが、思うように資料を得ることがでいなかったのだ。出来ればドイツ文学者のベルンハルトに関する論文を多く読みたいと思ったのだが、アカデミックの世界は僕のような一般人には門戸を開いていないようで、得られるものといえば目次案とかそういったもので、少しも面白いものはなかった。彼等学者達がドイツ文学を広めようとする気持ちはあるのかもしれないが、それであれば彼等の研究成果の多くを公開してほしいと僕は思う。

8月という時期によるものだと思うが、僕にはトーマス・ベルンハルトに関して一つの直感を持っている。それは今のところ仮説にもならない話なので、それを少しでも確証の種でも得ようと図書館に行ってきたのだ。成果は殆ど無かった。でもその時間、僕はあれやこれやと様々な空想の中で楽しい時間を過ごすことが出来た。

直感とはベルンハルト文学の解釈はオーストリアの歴史の中に鍵を持つと言うことだ。それを言ってしまえば当たり前のことかもしれない。でも僕の言いたいことはこういうことだ。オーストリアは1938年にナチスドイツに併合される。その後第二次大戦ではドイツ兵として徴兵され各地で連合国と戦うことになる。終戦後オーストリアは連合国側にナチス最初の犠牲者として承認され、ドイツ兵として戦ったことについては不問にされる。ただ、ナチスがウィーン入城の際はオーストリア人に熱狂的に受け入れられ、ナチス党幹部にもオーストリア人が多くいたことは事実なのである。だから、戦後オーストリアではナチス大物が長く政界に生き残ることになる。なおかつ東西冷戦状態が中立国としてのオーストリアを有利に導いたのも事実だと僕は思う。

いうなればオーストリアでは戦後の総括がなされないまま過ごしてきたと言うことになる。悪いのはナチスドイツで、自分たちは被害者である。殆どのオーストリア人達はそう思っていることだろう。その中でワルトハイム事件とハイダー現象が起きる。ワルトハイム事件とは、元国連事務総長のワルトハイムがナチスに関わり合ったという過去事実の暴露の中で、1986年にオーストリア大統領になったことからくる世界のオーストリア批判のことである。あり得ざる事が起きた事により、オーストリアの過去の克服は不十分ではないかという批判が世界各国からわき上がる。ハイダー現象とは、オーストリア政治家ハイダーがナチス賛美を演説の中で行った事からくる一連の騒動を言う。

ベルンハルトは1989年に亡くなっている。つまり彼は、ナチスドイツの併合時代、戦後の連合国占領時代、中立国時代、の流れの中でオーストリアが曖昧としてきた、敗戦か開放かの問題、そしてそれらの問題を克服することなく安易に犠牲者であり解放された事で過ごしてきた欺瞞を本質的に彼の文学の中に現しているのでないか、という事なのだ。
彼の文学に現れる、「愚痴」「悪口」「皮肉」とも言える文体、「死」「狂気」「病気」を中心とした展開は、それらの内容をこの方向で子細に読み解くことが可能だと僕は思うのだ。

そしてこの構図、ドイツ人は悪く自分たちは被害者である、は僕たち日本の姿をそのまま投影しているかのように思えてくるのである。この場合、ドイツ人は日本軍閥と政府ということになるのだろう。つまり僕にとってはベルンハルトを研究することは、そのまま日本に跳ね返ってくる事になる。それであれば、日本にベルンハルトのような小説家がいるかと言えば、僕の乏しい知識では思い浮かばない。要するに、僕等に足りない何かがそこにはあるのかもしれない。そんな予感さえしている。

上記のような僕の直感というか空想の線で、既にドイツ文学者の誰かが研究をしているのであれば、僕は是非とも読みたいと思う。
こんな事を考えるのは、やはり8月のなせる技かもしれない。高気圧に覆われた日本で、暑くうだるような図書館の前で、僕は半分目眩を感じながら青い空を見上げる。

2005/08/02

中島敦「山月記」の感想文を夏期宿題として求められた人に

中島敦の「山月記」は中学高校の教科書に長く取り上げられてきている。恐らく夏期宿題で本作品の感想文を課題として与えられた学生も多いことだろう。このブログ記事はその方達を対象に書いている。

なぜ学校の宿題に感想文があるのだろう。例えて言えば、患者が医者の問診に対し、医者の望むような答え方をするよう努めるのと同じだと思う。感想文を書くとき、学生達は自然に先生達が喜ぶ様を求めるようになるのだ。そこで、少し視点を変えて「山月記」の感想を書くための材料を提示したいというのが本ブログ記事の内容となる。

中島敦は1941年6月にそれまで勤めていた横浜高等女子学校を退職しパラオ南洋庁の国語編修書記に転職している。中島敦はパラオで人として扱われない植民地の方々を見て急速に仕事への意欲を失うことになる。その時期、中島敦は植民地主義を批判と受け取れる文章を書いている。

その植民地主義批判の文脈から「山月記」を読み解くことは可能だし、実際にそのような解釈をしている方もいる。この場合、人から虎に変わり兎を食べるものは日本ということになるのであろうか。

確かに中島敦が植民地主義に対しある程度批判的な意見を持っていたのかもしれない。しかしその解釈であれば、中島敦が南方植民地に日本語化政策の片棒を担ぐために来た理由が不明となる。僕からしてみると、単に中島敦は目の前で見た差別に対し嫌悪感を持ったに過ぎないと思う。日本の植民地政策に対し中島敦は致し方なしとの考えが強かったのではないだろうか。それも「山月記」の解釈として成り立つ。

虎になった李徴は嘆き悲しむが、人に戻ろうとは考えない、ましてやその命を自ら絶つ状況に追い込むようなこともしない、別の見方をすれば李徴は虎として生きることを決めている。
『猿サンは感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、
作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か
(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。』
(中島敦「山月記」から引用)
しかし作者である中島敦は李徴に対し最も残酷な方法で対応している。
虎にその身を堕としても繋ぎ続けてきた一連の詩歌。でもその詩は何かが欠けていた。無論、李徴にはそれは理解できない。それは人としての身でなければ理解できないほどの微妙な点なのである。何が欠けていたのであろうか。僕はそれを人と人との間を繋ぐものと考える。

実は、僕は「山月記」の解釈として、そこに日本の植民地主義批判をみない。
それ以前に植民地政策を推し進める人の欺瞞の姿をそこに見る。つまりは中島敦は植民地政策がその国(例えばパラオ)の人々のためになると漠然と思い描いていて、ただその運用に対する批判があるだけというような気がするのだ。
『己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、
憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、
各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』
   (中島敦「山月記」から引用)
上記引用文は「山月記」の中で李徴が語る有名な箇所である。素直に解釈すれば、人の中には猛獣がいること、それは各人異なること、猛獣の力が強くなると逆に人は己の猛獣に支配されてしまうこととなるだろう。その上で李徴はその状態を受け入れて生きようと決意する。ただ、この独白には何故李徴だけが虎に変身したのかの視点に欠ける。

『人間は誰でも猛獣使い』と言うことで、己の境遇を相対化し、何故自分だけが虎になったのかの意味を軽くしている。まさにその点が李徴の問題であったと僕は思うのだ。

逆に言えば、この物語の背景にある、あまりにも独りよがりの姿、それこそがこの小説を通じてその当時の日本の姿そのものであったのでないだろうか。

中学高校の教科書に長くこの作品が載っている理由。格調高い漢文調の文体、教科書に載せるにはちょうど良い長さ、さらに戦中の作品でありながら戦争の影を見せず汚れていない小説。中島敦が仮に戦後まで生きたとき果たしてこの小説は教科書に載ったであろうか、などと思うのは不埒な想像なのかもしれない。ただ、それらは中島敦の「山月記」をイメージとして作り上げてきた結果に寄るところが大きいのでないかと僕は思う。

作家がその題材を選択するとき、単に格調高さを追い求めるだろうか、基となる物語に作家が生きた時代性をそこに見いだしたからこそ、その話を掘り下げ、その当時として現代性を持って発表したのではないだろうか。教科書に載っている「山月記」とその解説だけを読むのでは、それらの 「ほんとう」の部分は見えてこない、と僕は思う。

逆に言えば、教科書の「山月記」は何を隠したのかということだ。例えば、 「山月記」は「古譚」という4編の小説群の中の一編であること。中島敦は単独で「山月記」を発表してはいないことを教科書の解説では知ることが出来ない。

「古譚」に収められている他の3編は「狐憑」、「木乃伊」、「文字禍」という。それぞれが面白く、「山月記」と較べても遜色なく、逆に印象強さでは「山月記」を凌駕するかもしれない。
「古譚」の4編を通して、その中の一つの小説として捉えなければ、「山月記」の感想にはならないと僕は考える。なおかつ、それらの小説群は、勿論「山月記」を含め、旧仮名遣いで書かれている。教科書に掲載しているのは新仮名遣いに直され、「格調高い漢文調の文体」と解説で述べていても、いささか拍子抜けする感を持ってしまう。

次に「山月記」を発表した時代の雰囲気である。それも教科書では作家の生年と没年から想像するしかない。中島敦が青年期を過ごした大正昭和の戦前は国内では比較的自由な空気が流れていたと推測する。しかし、ひとたび国を出て植民地に行けば、そこには容赦ない現実の姿をさらけ出す。中島敦はパラオでそれを見たのではないだろうか。

中島敦の「山月記」を通じて僕は何を言いたいのだろう。始めは中学高校の夏期休暇課題としての感想文対応について述べると言ったが、本音の部分ではそれは難しいという気持ちが強かった。勿論、提出を指示する先生方に迎合する文章を書いてお茶を濁すという仕方もある。でもそれで満足できない人も中にはいることだろう。ただ、それらの人達はそれなりに自分で道を見つけていくことが出来るようにも思える。

僕が本記事で言いたいことは、国語教科書における各文章のテクスト論的配置にある。「山月記」に見られるように、教科書に掲載している姿は「山月記」だけである。
そしてそれだけで、与えられているテクストだけで、その感想を書けと言われるのである。でもそれは難しいと僕は思う。そこから出てくるのは平面的な感想だけでしかない様に僕には思えるのだ。
それは国語教育という難しさが根底にあるのかもしれない。そもそも国語とはいったい何なのかという問いから発しなくてはいけないかもしれない。ただ本記事では小説の解釈への選択の広さを限定する視点からのみで述べてみた。

メモ的な深みでしかないが掲載する。

2005/08/01

随分と長い間

こんばんは、久しぶりの更新です。

実を言えば暮らしの忙しさの中でブログ更新が滞っていました。一時はこのささやかなブログをしばらく閉めようかなとも思いました。
でも未更新にもかかわらず、何人もの方々から普段通りの何気ないコメントをいただき、少しはこのブログを楽しんでくれる人もいるのではないかという気持ちになりました。逆にそれらのコメントがブログだけでなく、自分の暮らしに対して、日々行動する勇気を与えてもらいました。
皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

今後も以前のように連日の掲載は難しいかもしれませんが、それなりに(笑)続けていくつもりです。至らぬ点もただあるとは思いますが、その際はご教授いただけましたらありがたいと存じます。 では