カメラとは何か、と問うつもりはない。ただ僕はカメラをブラックボックス化して見ている。ブラックボックスとしてのカメラには入力と出力がある。入力パラメータを与えれば、それなりの出力がなされるというわけだ。
入力パラメータは数多くある、例えばレンズ、露出値、絞り値、シャッター速度、等々である。それらは殆ど数値化が可能なパラメータとなる。最近のカメラの殆どは写真を撮る状況に合わせて、ボタン・スイッチなどで、入力パラメータを自動的に設定できるようになっている。「人物」、「風景」、「ペット」、「スポーツ」等々と、その呼び方はメーカそれぞれだが、概ね同じだと思う。そしてそれらとは別に、オールマイティなモードもあったりする。
これらの一連の入力パラメータ設定プログラムは考えると凄いことかも知れない。例えば「人物」を選んだとき、撮影者が誰でどのような行動と状況・環境の中で写すのかは全く知らない中で、プログラムは「人物」を写すのに適した情報をカメラに入力しているのである。逆に言えば、撮すという人間の行為は、フレームワークとしてプログラミング可能であるということだし、実際にそれは既にカメラに搭載されているのである。
カメラをブラックボックス化し、入力部分と出力部分に切り分けるとき、もう一つ僕にとっては重要なことがある。それはこのブラックボックスは入力パラメータが無くても撮すことが可能だと言うことだ。
そうしたとき、では写真を撮るという行為の主体は一体誰と言うことになってくる。つまりは撮影者はブラックボックスへの入力情報を与えるのみに過ぎなくなるし、それさえもカメラ自体が内包する各プログラムによって代行することが出来る。さらにいえば、今ではブラックボックス内にも様々なプログラムが稼働し、与えられたパラメーター値から、人が見て美しいと思われるように画像を変換している。
おそらく人間が造りだしたにも関わらず、理論も単純なこの道具は、ある意味人間を拒み続けている道具でもある。現行のカメラの流れは誰もが予測できる範囲にある。即ち、デジタル化の方向はさらに進むであろうし、携帯電話内蔵とコンパクト型カメラとデジタル一眼の方向性は違ってくるだろう。携帯電話のカメラは画像の品質は高まるとは思うが、使う側はあくまでも暫定もしくは緊急時の撮影用途になると思う。コンパクト型カメラは高品質化とコンパクト化、及び操作の簡略化は進むことだろう。デジタル一眼は、35mmフルサイズへと拍車がかかり、かつ安価になっていくことと思う。
でも上記の流れは、究極のカメラを考える際には無用の予測でもある。本質的に言えば、カメラのブラックボックス化と入出力のモデルは何ら変わりはないと思うからである。携帯電話搭載のカメラからデジタル一眼の一連の機種の違いは、入力パラメータの数と量の問題にしかならない。
藤子不二雄のマンガに様々な未来のカメラを描いた作品がある。それら荒唐無稽のカメラも、実現可能とは思えないが、前記のカメラのモデルの延長線上にあるので、結果から言えば、カメラと人間の関係は現行のカメラと同等でしか過ぎない。
究極のカメラとは、恐らくカメラのブラックボックスと人間の通信によって得られることになると僕は思う。カメラの話をする前に人間の身体の新たなデザインの話をすべきかもしれない。人間は様々な道具を造り、身体機能の拡張を行ってきた。でもそれらの道具とは、たとえて言えばマジンガーZのポッドもしくは、鉄人28号のリモコン装置のようなものでしかなかった。それらは入力に対する結果を行動もしくはメッセージで人間に通知するのみだった。
今回飲酒運転事故をメーカ側から防止する提案として、アルコール濃度を車のセンサーが感知して一定濃度であれば車が動かない機能を追加する旨の記事を読んだ。これはおそらく今までにない、新たな道具と人間の関係を構築するとっかかりになるように思う。今まで人間の健康状態を入力パラメータとして受け入れる道具は、一般市販には無かったように思えるのである。
カメラと人間との通信は、ブラックボックスへの入力パラメーターに、操作する人間の主観が新たに加わることになる。その結果、カメラは様々な入力パラメータを直に設定することなく、文字通りに撮影者が「見たまま」に出力される事になる。逆に言えば、ある人物を写真で撮ったとき、撮影者との人間関係も推察できるようになると言うことでもある。従来のプログラミングされたモードでは、人物を撮影する環境等をフレームワークとして提示するのみであり、撮影者との人間関係という内容は意味がなかった。しかしこのカメラではその内容も写し出されることになる。
その結果、このカメラの出力となる写真の権威性は著しく落ちることになるのであろうか。その可能性は否定できない。しかし、例えばジャーナリスティックな写真が我々に衝撃的な印象を与え、何らかな行動を我々に促すとき。その写真が撮影者の意図を反映した結果であることは、現在の我々は十分に知っている。さらに主観が入力パラメータとして設定されたとしても、画像が大幅に変わることでもない。リンゴを幾ら撮してもミカンに写ることはないと言うことだ。だから、写真の権威性はそれほど損なわれることもないだろう。
人間とカメラのブラックボックスとの通信はいかにして行われるのであろうか。それは全体の流れで言えば、前記に述べたように、道具と人間の関係が根本から変化する過程の中で行われる。人間は身体機能の拡張において止まることを知らない。具体的に言えば、身体にチップなどを埋め込むことから、外部に装着するまで、様々な仕方があることだろう。チップの埋め込みは既に流れとしてあるが、それらの考察は別途行いたい。
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