先だってNHK総合にてCoccoのライブを観た。2006年8月10日の武道館公演の様子を45分間のダイジェストで放映したものだ。「おかえりなさい」との観客からの呼びかけに少し涙ぐむCoccoを見て、再び彼女が音楽の世界に戻ってきたことを実感する。
突然の活動中止から5年。復活後の一連のツアーの成功は、いかにファンがCoccoを待ちわびていたかを現すかのようだ。
Coccoを語るとき、彼女の作詞に意味を見いだす場合が多い。沖縄を愛し、その気持ちが強いがゆえに、逆に沖縄から疎外されていると感じる。Coccoにとっての沖縄は、括弧付きの沖縄だったかもしれない、しかし愛する気持ちが強いが故の疎外感は、ある意味、自傷的とはいえ「愛する」ことの一面がそこにあったと、僕は思っている。
コンサートの中でCoccoは観客に語る。-5年前、歌うことが本当に好きだとわかった、そして自分が幸せであると感じた。幸せであると実感したとき、その幸せ感が失われていく事を恐れた。こんな幸せが長く続くわけないと思った。-のだという。
でも今は幸せであることに恐れを感じない、とCoccoは続ける。幸せを喜びに感じると語る彼女に、5年間という歳月の豊かさをそこに感じる。
沖縄は巫女が多いと聞いたことがある。女性が全員巫女の島もあるそうだ。神との繋がりは、琉球王国以降も致命的に損なわれる事はなく、代々受け継がれてきたきているとも聞く。僕は今回TVでのコンサートを観て、Coccoのスタイルに神との媒介役である巫女の姿を見た。前後に身体を大きく揺らす姿が、かつてドキュメント番組で見た沖縄の巫女の踊りの姿に重なったのだ。
人気アーティストを現代の教祖となぞらえることも多い。でもCoccoの場合、教祖的な、何かを変に悟った語りは殆ど無い。それよりも、彼女の歌声、リズム感、歌詞と曲、そして素朴な語り口に触れると、彼女を通じて何か大きな存在に触れることが出来るような、そんな気持ちに僕はなるのである。
ザンサイアンを含め、再び僕はiPodに格納しているCoccoの曲を聴き続けている。曲の雰囲気は確かに活動中止以前とは少し変わったと思う、しかし、Coccoのスタイルが変わったとは全く感じなかった。多分、違和感なく新曲が聴けたのは、彼女のスタイルに作詞の重みは少ない言うことなのかもしれない。
いましばらく僕は彼女の曲を聴き続ける。その中で何か思うところがあれば、また書いてみようと思う。
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