2007/04/03

「道徳」の教科化の話で思うこと、もしくは「有徳の人」について

「道徳」の教科化の話が教育再生会議で論議されたらしい。
この国の歴史の中で有徳の時代があったのかは僕には分からない。ただ言えるとすれば、戦前の「修身」は、この国が戦争に突入することへの防波堤になり得なかったことだけは間違いない。戦争状態の中で「徳」は無効化する。上官の命令に服従し、嫌々ながらも敵と称する人々を殺す、そういう人たちも多かったに違いない。そして彼らは、戦争だから、上官の命令だったからと、自分自身を慰める。戦争に行かなかった人たちにも、同様の試練はあったことだろう。非国民と誹られるのを恐れ、行動を周囲にあわせる。そして自らがあわせたことを意識しない。

それらの「道徳」は敗戦と共に、一夜にして切り替わる。米国の占領政策を嘆く人たちがいるのは知っている。でも問題なのは、米国の占領政策で教育を受けた人たちのことではない。戦前・戦中、そして敗戦と、この国の「道徳」と言われるものが、明治以降3回突然に変貌し、その中でその変貌に気がつかずに日常を過ごすことが出来た多くの人たちのことである。彼らは当然に米国の占領政策の教育を受けてきた人たちではない。

僕のこの文は、彼らを批判するために書いているつもりは全くない。ただ「道徳」という難しい問題に、別面の視点を設けたいだけなのである。ところで、「有徳」の人物が、どのような人であるのか、僕は基準を一つ持っている。それはソクラテスの次なる言葉に集約している。

「悪しきことを為すよりは、悪しきことを為されるほうが望ましい」(プラトン「ゴルギアス」)、つまりは、「騙すよりも騙される方が良い」ということである。「道徳」の教科化の論議は、根本に現代の若者たちの行動を批判的に見て立ち上がっている。でも「道徳」の問題に必要なのは、まずは自己を見つめる眼だと、僕には思える。その行為の後に、その行為をした自分と仲違いせずに過ごすことが出来るのか、そういう眼差しが根本に必要なのであって、それは他者を批判的に見て立ち上がることではない。

想像してみよう。たとえば、僕が銃口を見知らぬ子供に向けている、僕の額には別人が銃を突きつけられている。彼は言う、「子供を殺せ、さもなくば俺がお前を殺すぞ」と。

僕が子供を殺したとしても、周囲(法律)は強要されたこととして赦してくれることだろう。でも僕自身は、子供を殺したことを、その指示に従ったことを、恐らくは生涯忘れることが出来まい。そして、自らへの言い訳として、強要されたこと、従わなければ自分の命が失う事を、心の中で言い続けるのだろう。

その中で、恐らく有徳の人だけは、子供に向けて銃を撃つことはしない。彼にとっては、子供を殺す自分と、それがいくら強要であったとしても、生涯仲違いせずに暮らすことが出来ない。故に有徳の人は、自分の死を選ぶ。僕が思う「道徳」とは、普段の生活ではなく、そういう状況で立ち上がる。だからこそ、冒頭で述べた、この国の3度に渡る「道徳」の変貌が、僕には気になるのである。

その問題を、教育再生会議で話し合われたのかは僕には分からない。教育再生会議での論議は公開されていないからだ。さらに話し合われたとしても、その事に結論が出るとも思えない。「道徳」の論議は難しい。僕はそう思う。さらに言えば、今回の「徳育の教科化」論議が立ち上がった理由とされる数々の問題、いじめ・自殺等などが、教科化によって改善されるとも思えない。
「何トカ還元水って、大臣は本当に正直なことを話しているんですか」。もし「道徳の時間」に子供にこう聞かれたら先生はどう答えるのだろう。道徳を「教科」にしようという政府の教育再生会議第1分科会案に、ふとこんな場面を思い浮かべてしまった。
   (2007年4月3日 毎日新聞社説より)
子供達の大人達への眼差しは虚偽を的確に捉える。逆に言えば、「徳育の教科化」により教育現場の問題がさらにます結果に繋がる可能性もある。無論、教科書を誰がどのように書くのかという実務的な問題も残るが。

且つ教科として評価を行うことで、「徳育」への関心を持たせたい気持ちも理解できる。しかしそれを望むのは無茶な話である。しかし、現状の「道徳の時間」も無意味であるのは確かだと思う。教師により恣意的に内容が決まるのも考え物だ。その狭間で、教育再生会議での論議は様々な意見が飛び交ったことだろう。
そして、やはり再生会議の論議は同時公開されなければならない。その詳細な過程抜きで「一致」といわれても国民は肩すかしをくわされたような気持ちだろう。論議の公開を強く求める。
   (2007年4月3日 毎日新聞社説より)
まず必要なのは、再生会議での論議の公開である。そして広く論議内容に対し、批判的な意見を求めることである。活発な意見の中で、自ずと現状における道が開かれることだろう。そして、この国が抱える問題も含めて、議論が進むことを、ぼくは切望する。

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