2007/03/31
サクラよ
今年もサクラの季節が訪れた。昨年はあれほど熱中したにも関わらず、今年はサクラに対し一歩引いて冷めた眼差しで見つめている僕がいる。逆に言えば、昨年のサクラへの熱中が特別だったのかもしれない。
近所のサクラの名所を歩く。昨年と変わらず素晴らしい景観だ。でも昨年のような、心のそこから湧き上がるような郷愁感は訪れることがなかった。写真をとっても、換わり映えのしない姿に、おそらくこの場所で撮っても、日本でも名高いサクラの名所で撮ったとしても、同じ姿を僕に見せてくれる、そんなことしか感じられない。どこで撮っても同じ景観、一種の驚きではあるが、それが逆に今の僕にはとても痛い。
ここでいうサクラとはソメイヨシノのことである。無論、日本の銘木といわれるサクラは、殆どがソメイヨシノではないことは知っている。ソメイヨシノは銘木といわれる様になるほどの長い期間を生きることはできない。弘前城にあるソメイヨシノが記録上においては一番の高齢らしいが、それでも100年くらいではないだろうか。つまりはソメイヨシノの寿命は、人間の寿命とたいしてかわらない。仮に僕が死んだとしても、世界は変わらずに残り続ける、それでも今を盛りに花を咲かせているソメイヨシノはおそらく残らない。故に、それらが造りだしてきた景色も短期間で変わっていく。別面で見れば、ソメイヨシノが作り出す景観は、変化を繰り返してきた日本の姿を現している。
だからなんだ、と言われるようなことを僕は語っている。おそらく僕は今年のソメイヨシノを眺めながら、昨年のソメイヨシノを考えているのだ。写真を何枚か撮る。でもそれらの写真は少しも気に入ることはない。妙に感傷的なサクラの写真は、今年の僕には馴染めない。でも今の僕にはその嫌いな感傷的な写真しか撮れない。そしてそのギャップの大きさに我ながら驚きながらも、昨年の気持ちを取り戻そうと、僕はあがいているのだ。
公園を歩く、サクラの木の下では大勢の人たちが集まり、楽しそうに酒を酌み交わし語り合っている。それらを見て僕は不思議な気持ちになる。思い起こしてみれば、僕は桜の木の下で酒を酌み交わしたことが少ないのに気がつく。最後に友と桜の木の下で酒を酌み交わしたのは何年前のことだったんだろう。語り、笑い、そしてまた語る。たわいのない語りの中に、その人が本当に言いたいことが隠されている。きっと「桜の木の下で」とは「神の下で」の暗喩に違いない。酒を酌み交わし談笑する人たちを見て、僕はそんなことを思う。
夜の公園に再び出向いた。既に人影は殆ど無く、風は強い。枝ごと風で揺れる。揺れるごとに、街灯に反射し、闇夜にも係わらず何か大きな一つの生き物のように感じさせる。湿気の多い風だ、今夜は雨になるかも知れない。ベンチに座りその様を見ていると、昼間の不思議な感覚がよみがえる。この国に住む多くの人にとってサクラは特別な存在であり、それは僕にとっても変わりはない。でもサクラの一生は短い。だからこの特別な気持ちが、明日には一変することもあり得る。昨年、僕はサクラに熱中しながらも、サクラを擬人化すまいと心に決めた。その気持ちが少しだけ揺らぐ。明日、日曜日が穏やかな日であることを、僕は願う。
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