2007/05/25

ROSE

rose

米国の写真家ダイアン・アーバスは生前こんなことを語っている。
「写真とは、秘密についての秘密である。写真が多くを語るほど、それによって知りうることは少なくなる」

「写真が多くを語る」その中に色が含まれているのであれば、モノクロ写真の良さはカラー写真と較べて秘密が少ないことがあげられるだろう。

僕が一番好きな写真、それはとても個人的な写真だ。そしてそれはモノクロ写真でもある。僕が赤ん坊の時、母方の一族が集まり母の実家で撮った家族写真。その中で僕は母の胸に抱かれ、隣には今は亡き父が姉が少しのあいだ動かぬよう彼女の肩を押さえ立っている。十数名の顔は、何人かの女の子を除いて誰も笑っていない。コントラストの強く明瞭な輪郭の中で、若い父と母は少し不機嫌な顔でカメラに目を向けている。

何故その写真に惹かれるのか、それは僕にとって謎の一つだ。その中に写っている者の半数は既に亡くなっている。当時大学生で利発な眼差しをカメラに向けていた従兄弟は昨年に大腸ガンで亡くなった。しかし、その写真の中で、彼らの殆どは生きている、この写真を見る度に、そういう不思議な雰囲気に僕は包まれる。

僕はここでロラン・バルトの物語を自分に合わせて語ろうとは少しも思わない。ただ、その写真には多くのことが表象されているが、確かに僕には彼らのことが少しもわからない、という思いを時折抱くのも事実なのである。そこに写っている赤ん坊の時の僕は、今の僕ではなく、赤ん坊のままそこに留まっている。そして各々に名前は知って、今でも実際に会えば語り合える彼等ではあるが、赤ん坊の時の僕も含めて、その写真の中の彼等は常に変わらず謎を秘め続けている。おそらくその「謎」が、僕から見て、その写真を他から際だたせているのだと思う。

仮にその写真がカラーであったとしたらどうだったのだろう。実は、それから数十年経った時、同じように撮ったカラー写真がある。較べてみれば瞭然なのだが、写真の持つ力強さは圧倒的にモノクロのほうが勝る。つまりは、写真の持つ「謎」の深さは、モノクロの写真の方が勝っている。そう考えていけば、カラーが否かはそれ程重要ではなく、色などは写真にとっては二義的な存在でしかないのかも知れない。

あくまで僕にとって良い写真とは、その「謎」の部分が多い写真である。その「謎」とは、厳密に言えば、おそらくダイアン・アーバスの言うところの「秘密」とは同義ではない。ダイアン・アーバスの言う「秘密」とは、何か可算名詞的な部分も含まれるように思われるからだ。無論、上手い下手で言えば、僕の写真などは話にもならないのはわかる。ただ良い写真か否かの僕の基準を言葉にすれば、その写真に顕れる「謎」と語るしかない。(ただアーバスの言わんとしていることは、僕にもとてもよく伝わるし重なる部分も多いと思う)

この記事に掲載した写真は元々カラーの情報を保持していたのをレタッチでモノクロにしたものである。僕の好きな写真があまりにも個人的な写真であったので、代わりにオマージュとしての「rose」の写真を載せた。謎が少ない写真ではあるがご容赦願いたい。

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