2009/11/03

久々の小説、あるいは解釈と感想の違い

僕は映画観ると殆ど全部を面白く良い映画だと考える傾向にある。以前にそのことを自覚したとき、自嘲気味に映画評論家には間違いなくなれないと悟った。まぁなるつもりもなかったけど。あるとき友人のそのことを話したら、それはきっと観た映画がそれなりに素晴らしかったからだと言われた。つまり良い映画しか観ていないから評価も良かったというわけだ。

試しに誰もが観て後悔する映画を一度観ればよいとも言われた。例えば、「悪霊の盆踊り」とか「尻怪獣アスラ」とかそういった類の映画のことだと思う。幸いなことにまだ前記二つの映画を鑑賞してはいない。そんなことで自分の感性を試すつもりもないし、評価を下せないのなら、それはそれでそういう性格をしているのだろうと思うことにしたのだ。

だから映画を観たときは、僕は殆どが評論ではなく感想となる。評論と感想の違いは何かと考えたことがある。おそらく評論は解釈で感想は省察だと思う。例えば、解釈の場合、自分とは外部に基準を置き、それと較べて評価を下す。しかるに感想の場合は、面白かったとしたとき、何が自分にとってどう面白かったのかを書くことになる。僕としては後者の方が自分の性に合っている様に思う。

一時は評価を下せる人が羨ましいと思うこともあった。しかし今では感想が書ける自分で良かったと思う。解釈とは世界を自分に合わせることだと思うのだ。自分に合っていない世界は当然のことながら評価は低くなる。感想は受け入れることだと思う。受け入れ、それに対する自分の反応を見つめること。それにより内側から世界への眼差しを変えていくことのように思う。

実を言えば、昨日に久しぶりに小説を書店で買った。ちょこちょこと青空文庫で小説を読んでいたりはするのだが、書店で買って読むのは、もしかすれば3年ぶりくらいだと思う。村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」という小説。
村上春樹は「海辺のカフカ」より前の作品は全て読んでいると思っていた。村上春樹の全小説を集中的に読もうと考え実行したことがあったのだ。でもこの本は読んでいなかったので、どうやら抜けがあったようだ。

「回転木馬のデッド・ヒート」はまだ全てを読み終えていないが、冒頭の「はじめに」の部分ですっかりと参ってしまった。何故か作家の心情がとてもよく感じることが出来たのだ。それは僕の感性と言うよりも、村上春樹さんの巧みさだと思う。
『自己表現が精神の解放に寄与するという考え方は迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。』
(「回転木馬のデッド・ヒート」 村上春樹 はじめにから)
僕は村上春樹さんのこの言葉にとても強くリアリティを感じる。昔、書くことは人間に与えられた「業」のようなものだと思った時期があった。今でも多少そんな思いがある。無論、僕は小説家でもない。でも書くという行為は何も小説家に与えられた業というわけではなく、言葉を持ってしまった人間であれば誰でも同様なのだと思う。問題はそれを意識するかしないかだと思う。そして意識する必要もないことだと思うのだ。意識しなくても人は生きてゆける。逆に村上春樹さんのような考えは生きることを必要以上に重くすることだろう。

例えば歴史上の多くの革命家、発明家、思想家、哲学者などの人たち。彼らを凄いという人もいるが、僕にはそういう評価の根拠がわからない。歴史に名を残そうという発想は、よくわからないが、何か感覚的に言えば比較的新しいような気がする。多くのこれらの人たちは、おそらくそんなことを意識して行動していたわけではない。なんて言うのだろうか、僕は思うに、彼ら・彼女たちはやむにやまれぬ思いから、それしかできない、もしくはそれを解決しなければどうしようもないから、解決しなければ自分が生きることさえ危ぶまれるから、それぞれのことを行ったと思うのだ。そんなこと考えなくても、もしくは行動しなくてもすむのであればそれにこしたことはない。

僕は村上春樹さんの言葉からそんなことを考えた。考えたと言うよりも漠然と感じたといった方が正しいのかもしれない。

「回転木馬のデッド・ヒート」を買って読もうと思ったのは、その中の一編に「嘔吐1979」があるからだ。まず買ったときに一番にそれを読んだ。面白かった。小説には読んだときに驚きがあったほうが面白い。その意味で十分に驚きがあった。嘔吐とは何か、嘔吐をする男性にかかってきた電話の意味とは何か、そういうことを考えるとき、考える人はすっかりと村上春樹の手のひらで踊っているようなものだ。こういう小説はただ楽しめばよい。そういう風に思う。でも何かを考えて、書いてしまうかもしれない自分がいるのもわかる。

次に「はじめに」を読み、そして「レーダーホーゼン」を読んだ。「レーダーホーゼン」は少し怖い小説だった。決してホラー系というわけではなく、男性として怖いと言うこと。

ある時点での全小説を読み、もう二度と読むことはないと思っていた村上春樹の小説だったがまだまだ面白そうだ。

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