写真について書かれた書籍の中で、僕は清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」が最上だと考えている。この評論は写真を語る上で極めて重要な評論であるのは間違いないにもかかわらず、それほど多くの方が読んでいないことが残念でもある。無論、これは僕の考えでしかない。一歩身を引いて考えれば、写真一般について考えるのは、哲学について考えるのと同様に、人生においては意味は殆ど無い。故に、残念であるというのは僕の感傷に過ぎないとも思う。
「不可視性としての写真」は1995年にワコウ・ワークス・オブ・アートが数量限定で発行している。殆どが関係者に配布されたため、実売部数は殆どなかったのではないだろうか。僕は清水穣氏の写真評論の仕事に注目をしていたため、この本の名前だけは聞いていた。しかしどの図書館に行っても置いてなかった。国会図書館にはあると言うことだったが、国会図書館から借りた書籍は、家に持ち帰ることができず、かつコピー機での複写も許されてはいない。それを聞けば借りる気が失せた。
それでも2年ほど前、どうしても読みたくなり近くの図書館を通じ国会図書館から借りることにした。そして一読し是非とも手元に置いておきたくなった。そこで全文を手書きで複写することにした。手書きとはいえ、複写は著作権の関係上、約半分までしかできない。しかし本書が多くの人の眼に入らないのは文化的損失だと僕は思う気持ちもあった。
手書きの複写は会社帰りに2時間使い十日間ほどかかった。短い評論ではあるが、読んで不明点があれば繰り返し読んで、それから手書きでの複写なので、思った以上に時間がかかった。書いている間は夢中だったが、それでも時折思ったものだ、俺は一体何をやっているんだろうと。
どうやら僕は元来こういう無意味なことをしたり考えたりするのが好きらしい。
多くの人は「意味のないことはない」と語る。確かに社会においては「意味のないことはない」と語るべきなのだ。脆い社会を維持するためにはそのような神話は必要なことだと僕は思う。その意味で僕も「意味のないことはない」もしくは「努力は実を結ぶ」に同感する。社会を離れて人間を考えることは難しいが、それでも一歩離れて考えれば、逆に「意味があることが」珍しいことだと思えるし、「努力が実を結ばない」事例はいくらでもある。
「不可視性としての写真」の手書きでの複写は、「意味もなく」かつ「努力が実を結ばない」典型的な例だと思う。ただ僕はそれまでの写真論に飽き足らない気持ちが強かった。日本の写真論と言えば、ベンヤミン、バルト、そしてソンタグの三人を中心に回っていたし、おそらく今でもそうだろう。(僕は密かにこの三人を写真の御三家と呼んでいる)
この三人の思想を解釈し咀嚼しそれの解説書を書くのはそれはそれでよい。ただそれだけであれば日本の写真論の深みは全くと言って良いほど得ることは出来ない。もっと変わる何か、そしてそれは出来れば一般理論であればよい。僕はそう考えていたし、それを望んでいたのだった。そして「不可視性としての写真」はその僕の願いを叶えてくれた初めての、そして唯一の書籍だったのだ。
「不可視性としての写真」の要の一つに、まず写真に対する前提にあると思う。清水穣氏は写真についてまずは以下のように語る。
『写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。』
そして「写真性をもった写真」とは、表現形式で語るモノではないとしたうえで以下のように続く。
『写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、 ヒエログリフは既に写真であった。』
僕はこの言説に納得をし正しいとさえ考える。しかしこの写真性による写真の範囲を広げる理由は他にもある。それは写真がカメラという機材を使ってのみ得られるモノであれば、それは人間の手の内にあるモノでもあると言える。それば例えば椅子とかランプとか炊飯器とかベッドとか、そういった類のものと同等であると言うことだ。そしてもしそうであれば、写真について僕らが不思議だと感じることとか、難しいと感じることとか、衝撃を受けることとかは、解決可能であるし、その理由についてもお互いに合意が出来ることだろう。
しかし現実には写真には、「写真の問題」と言うべき問題が隠すまでもなく厳然と在ると思われるし、そしてその問題から醸し出される謎が写真の一つの魅力を造っているようにさえ僕には思えるのだ。
写真性があるものが全て写真とすることで、写真を人間の手の内から解き放し、そのことで一般論として語る意味を冒頭で清水穣氏は宣言しているのだと僕は思う。しかしこの点は極めて重要なことだと僕には思える。写真について語る意味、写真の問題が議論に値することとして提示するには、その問題を明らかにする必要があるからだ。
ただ、「不可視性としての写真」は哲学的な体裁を持ちながら、あくまで評論でもある。そこがこの書籍の全体を通しての問題でもあるのだが。僕がこう言うこと自体、優れた評論家である清水穣氏に対して不遜なことであるのは重々承知している。ただ哲学的な視点で見れば、この評論の言説は理由が明らかにされずに論理的飛躍が随所に見られるのだ。
『さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、あなたとはあなたが見ている世界である。』
まず「主客分離に先立つ」ことが「あなたとはあなたが見ている世界である」も繋がることが僕には不明である。なぜ清水穣氏は「あなたとはあなたが見ている世界である」と言い切れるのであろうか。それが言い切れること自体、主客分離されていることではないのだろうか。ここで清水穣氏はいとも容易く「他我問題」を乗り越えている。
「私とは私が見ている世界である」と何故言わないのだろう。ここでは「私」と「あなた」とはイコールで結びついているのではないだろうか。つまり一般的な「私」は「あなた」と同じなのである。しかし、「私とは私が見ている世界である」と私が叫んだとき、その私とは一般的な私ではなく、まさにこの私のことでしかない。
言うなればこの乗り越えが容易く行われたことが、この評論の根本的な問題を潜在させることになった。
まぁそれも無視しよう。でも残念なことに。重要な言説である「写真性」の説明が僕には伝わってこない。「写真性」の存在は、僕にとって、実感が伴い生々しく感じることが出来るというのに、逆にその説明および写真性がある場所を含めて疑問を呈する結果になっている。つまりは今のところ漠然とだが、「写真性」は清水穣氏が語るモノではないような気が徐々にしてきているのだ。
簡単に言えば、この評論の肝とも言える「写真性」の説明について、こういう反論はできないだろうか。
例えばある写真があるとする。その写真にある人は写真性があると公言し、別のある人はその写真に写真性はないと断言する場合、どちらが正しいのであろうか。というか、どちらが正しいと判断を示す根拠など原理的にないのでなかろうか。つまりここでも「他我問題」は執拗に絡んでくるのだ。
おそらく清水穣氏のその後の評論を読めば、写真評論する者の鑑識眼を鍛えると言うことになるのかも知れない。ただ写真性に関して言えば、それが心理面に左右する以上、その限りではない。写真の問題はこう展開すべきだったと僕には思える。「何故写真は写真として生成された瞬間から心理面のみとなるのであろうか」と。
具体的に僕の意見も書かずに批判的な事を述べているかもしれない。ただこの冒頭で言ったように、「不可視性としての写真」は優れた評論であるのは間違いないし、それはある意味ではバルトもしくはソンタグの写真論より優れているとも言える。僕はこの写真論を批判的に学習することで写真について勉強することが出来た。そしてそれはおそらく今後も続くことのように思える。まだまだこの書籍から離れることは出来ない。
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