2006/10/25

Cocco


先だってNHK総合にてCoccoのライブを観た。2006年8月10日の武道館公演の様子を45分間のダイジェストで放映したものだ。「おかえりなさい」との観客からの呼びかけに少し涙ぐむCoccoを見て、再び彼女が音楽の世界に戻ってきたことを実感する。

突然の活動中止から5年。復活後の一連のツアーの成功は、いかにファンがCoccoを待ちわびていたかを現すかのようだ。

Coccoを語るとき、彼女の作詞に意味を見いだす場合が多い。沖縄を愛し、その気持ちが強いがゆえに、逆に沖縄から疎外されていると感じる。Coccoにとっての沖縄は、括弧付きの沖縄だったかもしれない、しかし愛する気持ちが強いが故の疎外感は、ある意味、自傷的とはいえ「愛する」ことの一面がそこにあったと、僕は思っている。

コンサートの中でCoccoは観客に語る。-5年前、歌うことが本当に好きだとわかった、そして自分が幸せであると感じた。幸せであると実感したとき、その幸せ感が失われていく事を恐れた。こんな幸せが長く続くわけないと思った。-のだという。

でも今は幸せであることに恐れを感じない、とCoccoは続ける。幸せを喜びに感じると語る彼女に、5年間という歳月の豊かさをそこに感じる。

沖縄は巫女が多いと聞いたことがある。女性が全員巫女の島もあるそうだ。神との繋がりは、琉球王国以降も致命的に損なわれる事はなく、代々受け継がれてきたきているとも聞く。僕は今回TVでのコンサートを観て、Coccoのスタイルに神との媒介役である巫女の姿を見た。前後に身体を大きく揺らす姿が、かつてドキュメント番組で見た沖縄の巫女の踊りの姿に重なったのだ。

人気アーティストを現代の教祖となぞらえることも多い。でもCoccoの場合、教祖的な、何かを変に悟った語りは殆ど無い。それよりも、彼女の歌声、リズム感、歌詞と曲、そして素朴な語り口に触れると、彼女を通じて何か大きな存在に触れることが出来るような、そんな気持ちに僕はなるのである。

ザンサイアンを含め、再び僕はiPodに格納しているCoccoの曲を聴き続けている。曲の雰囲気は確かに活動中止以前とは少し変わったと思う、しかし、Coccoのスタイルが変わったとは全く感じなかった。多分、違和感なく新曲が聴けたのは、彼女のスタイルに作詞の重みは少ない言うことなのかもしれない。

いましばらく僕は彼女の曲を聴き続ける。その中で何か思うところがあれば、また書いてみようと思う。

2006/10/19

究極のカメラとは

カメラとは何か、と問うつもりはない。ただ僕はカメラをブラックボックス化して見ている。ブラックボックスとしてのカメラには入力と出力がある。入力パラメータを与えれば、それなりの出力がなされるというわけだ。

入力パラメータは数多くある、例えばレンズ、露出値、絞り値、シャッター速度、等々である。それらは殆ど数値化が可能なパラメータとなる。最近のカメラの殆どは写真を撮る状況に合わせて、ボタン・スイッチなどで、入力パラメータを自動的に設定できるようになっている。「人物」、「風景」、「ペット」、「スポーツ」等々と、その呼び方はメーカそれぞれだが、概ね同じだと思う。そしてそれらとは別に、オールマイティなモードもあったりする。

これらの一連の入力パラメータ設定プログラムは考えると凄いことかも知れない。例えば「人物」を選んだとき、撮影者が誰でどのような行動と状況・環境の中で写すのかは全く知らない中で、プログラムは「人物」を写すのに適した情報をカメラに入力しているのである。逆に言えば、撮すという人間の行為は、フレームワークとしてプログラミング可能であるということだし、実際にそれは既にカメラに搭載されているのである。

カメラをブラックボックス化し、入力部分と出力部分に切り分けるとき、もう一つ僕にとっては重要なことがある。それはこのブラックボックスは入力パラメータが無くても撮すことが可能だと言うことだ。

そうしたとき、では写真を撮るという行為の主体は一体誰と言うことになってくる。つまりは撮影者はブラックボックスへの入力情報を与えるのみに過ぎなくなるし、それさえもカメラ自体が内包する各プログラムによって代行することが出来る。さらにいえば、今ではブラックボックス内にも様々なプログラムが稼働し、与えられたパラメーター値から、人が見て美しいと思われるように画像を変換している。

おそらく人間が造りだしたにも関わらず、理論も単純なこの道具は、ある意味人間を拒み続けている道具でもある。現行のカメラの流れは誰もが予測できる範囲にある。即ち、デジタル化の方向はさらに進むであろうし、携帯電話内蔵とコンパクト型カメラとデジタル一眼の方向性は違ってくるだろう。携帯電話のカメラは画像の品質は高まるとは思うが、使う側はあくまでも暫定もしくは緊急時の撮影用途になると思う。コンパクト型カメラは高品質化とコンパクト化、及び操作の簡略化は進むことだろう。デジタル一眼は、35mmフルサイズへと拍車がかかり、かつ安価になっていくことと思う。

でも上記の流れは、究極のカメラを考える際には無用の予測でもある。本質的に言えば、カメラのブラックボックス化と入出力のモデルは何ら変わりはないと思うからである。携帯電話搭載のカメラからデジタル一眼の一連の機種の違いは、入力パラメータの数と量の問題にしかならない。

藤子不二雄のマンガに様々な未来のカメラを描いた作品がある。それら荒唐無稽のカメラも、実現可能とは思えないが、前記のカメラのモデルの延長線上にあるので、結果から言えば、カメラと人間の関係は現行のカメラと同等でしか過ぎない。

究極のカメラとは、恐らくカメラのブラックボックスと人間の通信によって得られることになると僕は思う。カメラの話をする前に人間の身体の新たなデザインの話をすべきかもしれない。人間は様々な道具を造り、身体機能の拡張を行ってきた。でもそれらの道具とは、たとえて言えばマジンガーZのポッドもしくは、鉄人28号のリモコン装置のようなものでしかなかった。それらは入力に対する結果を行動もしくはメッセージで人間に通知するのみだった。

今回飲酒運転事故をメーカ側から防止する提案として、アルコール濃度を車のセンサーが感知して一定濃度であれば車が動かない機能を追加する旨の記事を読んだ。これはおそらく今までにない、新たな道具と人間の関係を構築するとっかかりになるように思う。今まで人間の健康状態を入力パラメータとして受け入れる道具は、一般市販には無かったように思えるのである。

カメラと人間との通信は、ブラックボックスへの入力パラメーターに、操作する人間の主観が新たに加わることになる。その結果、カメラは様々な入力パラメータを直に設定することなく、文字通りに撮影者が「見たまま」に出力される事になる。逆に言えば、ある人物を写真で撮ったとき、撮影者との人間関係も推察できるようになると言うことでもある。従来のプログラミングされたモードでは、人物を撮影する環境等をフレームワークとして提示するのみであり、撮影者との人間関係という内容は意味がなかった。しかしこのカメラではその内容も写し出されることになる。

その結果、このカメラの出力となる写真の権威性は著しく落ちることになるのであろうか。その可能性は否定できない。しかし、例えばジャーナリスティックな写真が我々に衝撃的な印象を与え、何らかな行動を我々に促すとき。その写真が撮影者の意図を反映した結果であることは、現在の我々は十分に知っている。さらに主観が入力パラメータとして設定されたとしても、画像が大幅に変わることでもない。リンゴを幾ら撮してもミカンに写ることはないと言うことだ。だから、写真の権威性はそれほど損なわれることもないだろう。

人間とカメラのブラックボックスとの通信はいかにして行われるのであろうか。それは全体の流れで言えば、前記に述べたように、道具と人間の関係が根本から変化する過程の中で行われる。人間は身体機能の拡張において止まることを知らない。具体的に言えば、身体にチップなどを埋め込むことから、外部に装着するまで、様々な仕方があることだろう。チップの埋め込みは既に流れとしてあるが、それらの考察は別途行いたい。

2006/10/10

小学校英語の必修化について、日本語を少しだけ考える

正直言えばこの話題には強い関心は持っていない。ただ伊吹文明文部科学相の発言から、自分の中で渦巻いている靄のようなものがあって、それがある程度晴れた時に、浮かび上がってきたものは少しだがある。今回、それを纏めるつもりでブログに書こうと思った。

「美しい日本語」と誰かが言えば、それに対して何かを言う事はないが、気持ちの中で苦笑を禁じ得ないのも事実である。「美しい日本語」と語る人達は、おそらく僕などよりも強く「日本語」という言語を知っているのだろう。「美しい日本語」は「美しい」基準がなければ語ることは出来ないし、なおかつ、「日本語」の定義も意識していなければならない。

僕はその両者について全くと言っていいほど不明である。さらに「日本語」を語る際に、それが声に出して発する言語に重きをおいているのか、文章としての言語に重きをおいているのかについても、語って欲しいと思うが、様々な新聞記事を読んでも、それらが明確になったためしもない。

一般論で言えば、「日本語」が日本語と命名されたのは、明治維新後であると思うが、それは間違いなのだろうか。そう言う疑問を持ったのは2006年10月9日の産経新聞社説に以下の一文があったからである。

指針案が指摘するように、敬語は古代から現代に至る日本語の歴史の中で一貫して重要な役割を担ってきた。

指針案とは文化審議会の分科会である敬語小委員会が公開した「敬語に関する具体的な指針」のことである。僕の拙い日本語の歴史では、維新後に東京の中流階級の言葉を標準語を定め、その標準語から文法を確定したと思っている。そしてそれらは言文一致と同時になされたとも思っている。

維新以前は、例えば徳川幕府の体制では国毎に話し言葉は違い、敬語についてもその国毎によって違いはあったと思っている。まさしく維新後における言語の統一があり、統一言語を「日本語」と定めたのは、「古代から現代に続く日本語」の幻想を広める為だと思うのである。

そしてその上に「美しい」という形容詞が繋がれば、一体何を言わんかや、である。言語とは、近代においてどうしようもなく政治をその中に内包している。

だからこそ、僕は日本語についての話題に関心が持てないのである。しかし言葉の意味とは、過去の文章にはなく、また連綿と繋がっているという幻想の中にあるのでもない。
今現在僕等がここで生きてコミュニケートしているという、現在性の中にこそあると思うのである。前置きが長くなってしまった。
中央教育審議会が検討している小学校英語の必修化について伊吹文明文部科学相は27日、産経新聞など報道各社のインタビューで 「必修化する必要はまったくない。美しい日本語が話せず書けないのに、外国語をやっても駄目だ。子供のころからやりたい人は個人的にやる。小学校は外国語に興味を持つ程度にとどめるべきだ」と話し、必修化の必要性を否定する見解を示した。
(産経新聞 9月28日より引用)

僕自身は小学校の英語必修化は賛成である。しかも語学学習を始めるのは早ければ早いほど良い。賛成の理由は色々とある。しかしその前に伊吹文明文部科学相のこの答弁には生活感というものが伝わってこない。でも僕はこの言い分に聞き覚えがある。

それは企業内でのスキル育成の為の教育を行う際に、必ず出る否定者の答弁にちかい。「子供のころからやりたい人は個人的にやる」というが、小学低学年の頃から「やりたい」意識をもつ子供は少ないのではないだろうか。親たちが子供のために、なんとか英語を好きになって欲しいという願いから、様々な学習塾に通わせることで、子供達は英語を学習しているが現状なのではないだろうか。

何故親たちが子供に英語を学ばせるのか?それは現在の状況を、おそらく伊吹文明文部科学相よりも的確に押さえているからに他ならない。英語の必要性をあえてここで語ることが野暮に見えるほど、それは明らかだと思う。問題なのは、子供達に英語を私費で学ばせる事が出来る親たちではない。格差社会で、それをやりたくても出来ない親たちの事である。

今後ますます英語の必要性は当然視されていくことだろう。その中で出遅れる子供達が、さらに広まる英語での情報拡大の流れに、結果的に取り残され、格差社会の中で、その中から抜け出せない人達が多く出るようにも思えるのである。

無論、一人一人の子供達を見れば、教育に関して、通り一遍に言えないのは承知している。しかし僕自身が誤っているせいかもしれないが、この視点での賛成論が少なかったので語ってみた。維新後、日本の公用語を英語にすべきとか、第二公用語としてエスペラント語を使うべきとか、表音に近いローマ字表記に統一すべきとか、様々な意見が出された。その際に、英語ではなく日本語が、そのまま使われるようになった大きな理由は、英語を学ぶことが出来る時間を有する知識人が情報を所有することで権力を得ることになり、そこに差別が発生するという恐れからだった。

しかし、現在では逆に英語を知らない事による情報格差はあると思うし、維新時の恐れは、
英語と日本語が逆になり存在していると思うのである。そして、それらを今後どうしていくのかを考える視点が、小学校英語必修化論議に必要だと僕には思っている。

「美しい日本語が話せず書けない」という、また別の意見では、小中学校で覚える漢字数が少ないともある。維新以後の言文一致の言語世界では、話し言葉に引きずられる形で文章も合わさる。それは致し方ない事だと思う。さらに、この国において、明治維新後から現在に続く日本語政策の流れは、漢字廃止と語彙の簡略化にあったと思う。その流れで現在に至ったとすれば、現在の政治家の語りは、その流れの反省の中から産まれるべきだと僕には思えるが、彼等の語りに理念などはなく、ただこの国に住む人々に要求するのみである。

漢字廃止論は、漢字という中国の文字を使っている事も理由の一つにあげられる。逆に言えば、日本語は思想・技術などを受け入れる国の言葉を使うのであって、現在で言われる「カタカナ言葉」もその類だと思う。抽象的な言葉は殆どが漢字と言うが、それは中国からの思想を受け入れた結果であり、「カタカナ言葉」を使う事と本質的には何ら変わらないと僕には思える。その上で漢字廃止論は、言語に内包する政治性による振り子の関係でもある。今まで大きく漢字側に振られていたのが、維新後に中国から西洋に目を向ける事で、逆に西洋に大きく振られる。

今度は西洋に大きく振られたのが、また中国というか東洋に振り戻されるのだろうか。そう言った意味で、現在の様々な「日本語」に関する話題は、右傾化の眼差しで見るべきではなく、大雑把に言えば、西洋というか米国との関係性の中で見るべきだと僕には思える。また日本語の簡略化も維新後に議論されてきているが、最初に実施したのは日本帝国陸軍であった。陸軍は武器の使用方法を難しい漢字でなく、ひらがなで簡単に記述することで、スキルの統一を図った。話を元に戻す。

ところで、小学校英語の必修化の問題点として、大きく二つのことがあげられている。

一つめは、「週1回の授業でどの程度の英語力が身に付くのか」ということ。しかも必修となるのは小学高学年からだという。
二つめは、「公務員の総人件費が厳しく抑制される中で必要な教員の確保など条件整備は可能なのか」ということ。

正直に言えば、いくら英語必修化賛成と言っても、現実としてはこの程度であるから、問題化する意味もない。これでは他言語の学習にはほど遠い。いみじくも伊吹文明文部科学相が語る「小学校は外国語に興味を持つ程度にとどめるべきだ」のレベルに近い様にも思える。それであれば、何故彼は反対しているのだろうか。もう少し徹底して実施して欲しいと願わずにはいられない。

ところで、蛇足だが、いままで僕が人から教わった文章の書き方として、1)簡潔に、2)読んで欲しい方にわかる言葉(単語とか言い回し)で、3)起承転結は大事、4)一つの文章に多くの内容を載せない、5)結論(言いたいこと)は明確に、6)文にはリズム感が必要、7)文章の中では「です」「ます」などの統一、等があったと思う。

「美しい日本語」の書き方として、上記と何か変わる点があるのだろうか。所謂名文と呼ばれる文章は、書き方として変則的なものも多い。しかも現代的な視点では面白味にも欠ける。「美しい日本語」の例として、何を掲げるのか楽しみでもある。皮肉でも何でもなく、
好奇心からそう思っている。

2006/10/08

moo mini cards

moo mini cards

Flickrには投稿したユーザの写真を楽しめる様々な外部印刷サービスがある。
その中の一つ「moo mini cards」が事業開始キャンペーンとして、FlickrのProユーザー向けに無料で10枚作成できるというので依頼していた。

実を言えば、依頼したのが一ヶ月近く前だったので完全に忘失していた。だから英国からのエアメールを見たときは、覚えがないので、何か新手のDMか何かだと思った。でも好奇心から開封し中を見たとき、依頼したことを含めてすっかりと思い出した。期待していなかった分、僕にとっては素敵なプレゼントだった。

「moo mini cards」については、上部の写真を見ればどの様なモノかがわかると思う。写真が印刷されているが、それらは総て僕がFlickrに投稿した写真となる。「moo mini cards」では、申し込みの際に、Flickrに投稿した写真を選択し、印刷範囲を決め、そして裏面に何を印字するかを決める。

「moo mini cards」の一枚はちょうど少し幅広のガムという感じの大きさ(28mm x 70mm)で、厚みがあり、裏面の印字欄を上手く使えば、ちょっとした名刺代わりになる。表面の写真と相まって、受け取る方も普通の名刺よりは、受ける印象もより強いかも知れない。

写真の印刷品質は、光沢なしの絹目調という雰囲気で、品質も高く(極めてというわけではない)、名刺代わりのカードの用途として使うのであれば十分だと思う。何よりも、カード一枚毎に自分が撮した写真が表面を飾るのであるから、愛着はひとしおで、それは名刺と較べようがない。

ただ「moo mini cards」にすべく写真を選択する際、写真はカードの大きさに縛られることになる。28mm x70mmの大きさは、通常であれば、撮した写真が総て印刷出来ない。つまり、選択した写真の何処を印刷するかを決めなければいけなくなる。そこで問題となるのが、写真全体を使って構成し撮した写真は、カード化したとき、思った以上に良い結果にならないと言うことだ。

結論から言えば、良く見える(美しい)カードを作るには、カードの大きさに則した構図の写真を選択した方がよい。まぁ、それほど悩む問題ではないが、多少の考慮が必要ということである。

それに「moo mini cards」の写真選択から発注までの流れが、しっかりと造り込まれていて操作がとても気持ちよかった。勿論途中で選択写真の変更なども直感的にできる。この操作感を興味が有れば実際に味わって欲しい。

すっかりと「moo mini cards」を気に入ってしまった僕は、こういう事だったら、裏面に印字する内容をもっときちんとすべきだったと後悔した。そこで再度発注(有料)することにした。100枚で19.99ドル、しばらく送料は無料とのこと、僕は満足感を考えれば決して高いとは思わない。

今度は忘れることはないだろう。発注したのは昨日だが、今から首を長くして待っている。

追記:無料10枚作成キャンペーンは既に終了していました。

2006/10/04

映画「8月のクリスマス」 日韓作品の違い

たまたま映画「8月のクリスマス」について日韓双方の作品を続けてみた。元の映画は勿論韓国であり、日本作品がリメイクとなる。総じて言えば、日本のリメイク版は韓国の元映画を忠実にトレースしていて、結果的に両方とも良い映画だとは思う。

ハリウッドによるリメイクがいわばWASP好みに設定及びストーリーが変更される事が多いのと違い、この忠実なトレースは見事としか言いようがない。

逆に言えば、韓国元映画が醸し出す空気が、そのまま日本においても受け入れられると、少なくとも監督はそう考えたと思わずにはいられないし、確かにそれは僕にとっては事実であったのも間違いない。

ただ双方を続けてみて、僕の目からは、それでもやはり元映画の韓国作品の方が上であると思った。上下の問題ではないかも知れない。さらにリメイクは所詮元映画を指向するわけだから、元映画を忠実にトレースすればするほど、元映画の方が面白く感じられる、という世界に自分が入っているのかもしれない。

「8月のクリスマス」において、ポイントは5つあると僕は思う。
一つめは、雨の中、一つのカサで主人公とヒロインが共に帰り、ヒロインが主人公を男性として意識する場面。
二つめは、ヒロインは転勤で主人公の住んでいる町から離れなくてはならず、しかも主人公には逢えない状況の中で、失恋を感じ泣く場面。
三つめは、ヒロインが主人公の店に、感情が高まり、石を投げ店のガラスを割る場面。
四つめは、主人公が小康を得て、しかし確実に死を悟るが、それでもヒロインに逢いたくて、彼女が転勤した先を訪れる場面。
五つめは、ヒロインが主人公の写真屋に飾られている自分の写真を見て微笑む場面。

大ざっぱに言えば、上記一つめと二つめは日韓両作品に違いは少ない。場面によっては日本版の方が丁寧に描かれ、納得する事も多い。しかし、それ以降は韓国作品の方がより僕の情感に訴えるものがあった。

三つめの石を投げる場面では、韓国作品の絶妙な間の取り方に脱帽をする。そしてその間でのヒロインの心の動きが見る者に伝わってくるようにも思える。(日本作品は石を投げる迄の間はほとんどない)

四つめの場面はこの映画でもよく知られている。主人公が喫茶店の窓越しにヒロインを眺める場面で、主人公は彼女を思う気持ちから、窓に見える彼女を指で愛おしそうにたどる。日本作品の場合は、ヒロインの設定上の理由からか、そういう主人公の気持ちを反映する仕草は殆どない。

五つめは、この映画の中で最も重要な場面とも言える。この彼女の微笑みは、韓国作品のそれと日本作品のそれとは意味合いが違う。これについて言えば、その前段にある、主人公が書く彼女宛の手紙の内容と行方が問題となってくる。

はたして主人公が書いた手紙はヒロインに届いたのであろうか。手紙の内容は、その前にヒロインが主人公宛に書いた手紙に呼応することになる。両映画ともヒロインの手紙の内容は一切明らかにされることがない。推し量るのは主人公が書いた手紙で、つまりは、この二通の手紙はコインの表と裏とも言える。

韓国作品の場合、主人公が書いた手紙はヒロインに届けられる事がないかのように僕には思えた。理由は、手紙を住所が書かれている封書に入れてはいない。つまりは後から遺族が見ても誰宛か特定できない。ヒロインの写真は、小箱の中に収めた主人公の形見の中で、横にして入れられているので、写真の重みが遺族に伝えきれず、封書の宛名がヒロインと結びつける事が困難、と思うからである。

日本作品の場合、手紙は宛名が書かれている封書に入れられる。しかも小箱は形見が平積みされていて、その一番上に彼女の写真が置かれているので、遺族から見ると写真の重みが伝わる。よって、主人公の妹は兄の意志として手紙を彼女に送るのである。手紙に書かれていることは、韓国作品のそれと違い、率直に愛を語る内容になっている。しかも自分の死が近いことも十分にヒロインに伝えている。

5つめの場面を結論から言えば、韓国作品の場合、ヒロインは主人公の死を知らない。そして彼女は失恋を乗り越え、しかも写真店に自分の写真が飾られているのを発見し、二人の恋が実らなかったとはいえ、お互いに良い記憶として残っている事がわかり、写真を見て微笑む。その笑顔には屈託がない、しかも以前の少女の様な幼さもなく成人した一人の女性としての微笑みである。

日本作品の場合、ヒロインは主人公の死を知っている(と思われる)。自分が失恋したと思っていたのは、主人公の病気が理由で、実際は主人公は自分のことを愛していたと気が付いている。ゆえに、彼女は一つの愛を得ると同時に、一つの愛を喪失している。しかしそれらを乗り越えた彼女は、写真館に飾られた自分の写真を見て、一つの思い出として微笑む。

しかし、上記の日本作品の設定は、僕にとっては無理がある。病気を知らずとはいえ、彼女は石を店に投げるほど感情が高ぶっていた。その気持ちは主人公の病死と共に昇華することはなく、逆に強い自分へのわだかまりとなって残るのではないだろうか。勿論人それぞれなのだが、日本作品の場合、僕にとってはヒロインの心の動きが都合良すぎると感じるのである。

さらに言えば、日本作品の中で、主人公がヒロイン宛に書いた手紙の内容が濃いのは、四つめの場面が描かれなかったゆえに、手紙で主人公の気持ちを伝える必要があったからと推測する。もし日本作品でも四つ目の場面が描かれていたらと、つい考えてしまう。

僕にとって日本作品の中で、元映画の韓国作品より確実に勝っていたと言えるのは音楽である。最終に流れる山崎まさよしの主題歌は素晴らしかった。

今回はあえて俳優の演技力には言及しなかった。

しかもこのブログの話題、時流にもなにも乗っていないし、マニアックかも知れない(誰が読むのだろう 笑)が、メモとして残した。