2009/11/29

穏やかならざる心で「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン展」を見ての感想



金曜日までの仕事が残響として土曜日の僕の中に残り続けていた。それは僕の身体の中で別の何かと共振し、そして反響し合いながら、時として増幅され、時には穏やかな湖面のような波となりながらも、決して休まることがなかった。

それほど気分転換は下手なほうではない。少なくとも自分ではそう思っている。ただ時折こういう状態にもなる。こういう日はおとなしく家でアクション映画でも見ながら時間が過ぎるのを待つしかない。でもどういうわけか僕は恵比寿の東京写真美術館にやってきている。
「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」という写真展だ。

写真界における二人の巨人の写真展と言うこともあり、普段よりは鑑賞する人が多い。こうやって二人並べると、活動する地域的な場所の違いがあるにせよ、二人はとてもよく似ているのがわかる。それは二人とも同じカメラとレンズを使い街頭でのスナップ写真を主としていると言うだけでもない。

無論それは写真撮影のスタイルを定めるからとっても重要だ。ただそのスタイルは何をどう写したいので決まるのだ。似ていると言うのはカメラを向ける対象、つまり何を写すかの選択だと僕は思う。

ただ似ているからといって、二人の写真に対する考え方まで同じとは限らない。似ているからこそ、二人の微妙な違いも際立つこともあるのだ。いわば二人はお互いを補完しあわない。二人は競合しあう。

違いが際立つのは、彼らのカラー写真への考え方の違いに現れている。美術展ではその違いを次のように説明していたと思う。木村伊兵衛は写真的現実のなかで色が定まるとし、アンリ・カルティエ=ブレッソンはカラー写真は現実の色を表すのは不可能と考えていた。

写真的現実が一体何を指し示すのか、おそらくそれはリアリズムに近いように思う。写真を写真として際立たせるのであれば、極端な話、色などどうでも良い。突き詰めるとそういうことになるのかもしれない。現実の色がカラーフィルムでは実現出来ないとしたアンリ・カルティエ=ブレッソンにとって、現実の色とは彼の視覚経験での色のことだろう。私が見るこの色を出せるフィルムなどない。

ここで、僕は違いと称したカラー写真への考え方が、二人とも根底では合い通じることに気がつく。つまり色を正確に表すことは出来ない、と言うことだ。ここにきて「東洋と西洋のまなざし」と区分けされた違いが同じとなる。ただ一つ、二人の写真を眺めることで、僕の中に浮かんだ違いは、木村伊兵衛の写真は「静」であり、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は「動」と言うことだ。

こういうことを考えながらも幾つものうねりが僕の心を襲う。一度は美術館中央の長いすに座り落ち着くのを待った。それらは、誰それが会議で言ったこととか、期限のこととか、やり残した幾つかのこととかが、漠然としたイメージの波として僕の中に現れる。それらのイメージを拒否することは、更なる大きなうねりとなって再び現れることに繋がる。そして思考は入り乱れ収支がつかなくなる。

人が写真を語るとき、技術的側面か、もしくは写っている対象についてかのどちらかの話となる。それらの話はその一枚の写真がわかったような気にさせる。TV番組「美の巨人たち」を観て理解したような錯覚に陥るのと同じ話。絵画などの表現芸術は記号としての言語と同じかもしれない。写真も記号と言えば記号かもしれないが、それは言語とは少し違うように思う。写真を語ることの難しさは、写真の本質を垣間見せている。自分の見るままを言葉に出すのが苦手なように。

木村伊兵衛の写真のなかで特に気に入ったのは、永井荷風を写した写真だった。街中で撮られた写真は文学者永井荷風を写しながらも優れたスナップ写真でもあった。写真を9分割し構図を表せば、永井荷風は右の線上に二マスいかないくらいの大きさで正面を向いて立っている。街はどこかの商店街風で、最初僕は浅草寺の参道の風景を思い出した、遠近法で商店街の入口が見える。しかしその奥から手前への商店街を歩く人は少ない。逆に殆どの人たちは商店街を横切り歩いている。そして永井荷風は横切る人たちの少し前に立っている。彼は黒っぽい背広で帽子をかぶりステッキを握っている。横の流れの中で正面を向いている彼の姿は、時代の流れから離れ自分を貫く、もしくは結果として貫かざるを得ない一人の人間として、写真に表されている。この写真は永井荷風を写しながら、永井荷風を指し示してはいない。日本社会から少し離れざるを得ない一人の近代人の孤独と自尊が現れているように僕には思えた。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は既に何枚も見知っていた。写真史に登場する何枚もの写真は、有名だからこそ、ある固定観念が伴って僕の前に現れた。彼が唱えた「決定的瞬間」とは、写真とは何かについて、彼がどう考えていたのかを端的に表す言葉だろう。彼の多くの写真にはその「決定的瞬間」があった。彼のスナップ写真は現代でも構図として参考になるものばかりだった。しかし、写真を「決定的瞬間」と言い表すほど僕らは単純でもなくなってしまったようにも思う。

なんていうか、二人の巨人の写真に囲まれても僕の心は支離滅裂だった。50年ほど前の写真の多くは、50年前へと続く窓のようなものだったが、僕はそういう感想よりも、なにかこういやに生々しい現実を実感していた。二人の写真に写された人々の多くは、おそらくこの世には既にいない。それでいながら、写真には彼らの笑い声や話し声で満ちていたし、その声を僕は騒々しく感じていたのだった。写真を見ながらも、僕は自分のことで精一杯だったのだ。

かといって二人の写真展が面白くなかったのかと言えばそんなこともない。僕は行きつ戻りつする心のなかで、写真と自分の落ち着きどころを探し彷徨っていたし、その中で、逆にその中だからこそ写真を面白く感じていた様にも思うのだ。

2009/11/28

篠山紀信さんの公然わいせつ罪容疑について

篠山紀信さんの路上ヌード撮影が公然わいせつ罪容疑に問われた事件について、写真を愛好する者として意見を述べるべきとの感覚から日記に書こうと思ったが、既に僕が書こうと思っていたものと似たような内容が産経新聞で飯沢耕太郎氏が述べていた。

今回の篠山紀信さんの公然わいせつ罪の要は、作品のわいせつ性が問われたわけではなく、路上撮影の違法性が問われている。しかし篠山紀信さんにとっては20年近く前から路上撮影をしてきている訳なのだから、問題は何故今頃になって、という素朴な疑問に尽きる。

それについて、飯沢耕太郎氏は『時代背景を考えるべき』と語り、続けて次のように言う。

『日本の写真表現は、ずっと縮み傾向にあると思う。危ないもの、怖いものを覆い隠そうという意識が強い。クレーム社会になって、文句を言われそうなものはやめよう、出さないでおこう、と自己規制も強まっている。写真家も萎縮してしまって、悪循環が続いている』

公募展へはヌード写真が少なくなってきているのだそうだ、また街頭スナップでは人の顔が写った写真も減っているのだそうだ。

写真は、それを写す者が意識をするしないにかかわらず、結果的に日本の社会を写している、ということなのだろう。(ここでは写されないということで)

数年前から携帯電話で死に顔を写す若者が増えているといった新聞記事を読んだことがある。街では歩く人の写真を撮ることが心理的な圧迫を感じるようになってきている。この双方に何らかの繋がりがあるように思えるのは何故だろう。

ここで僕はかつて友人の女性が教えてくれた話を思い出す。

あるとき彼女が公園で花壇に咲く花を携帯で写真を撮っていた。その時何か自分が見られているような感じを受けた。少し首を動かし視界を変えてみると、そこに一眼レフのカメラを彼女に向けている男性の姿を見つけた。彼女はそのカメラを凝視する。するとその男性はカメラの先を少しずらし何食わぬ顔で周囲を撮っているようなそぶりを見せた。

彼女は彼に意識して、それでもなお花壇の花を撮り続けた。でもまたカメラが自分に向けられているような感じを受け、再度彼を見つめる。少しの間があり、そのうちにその男性が彼女の元に近づき、「写真を撮らせていただいても構いませんか」とたずねてきた。彼女は言下の元で拒絶する。

気分が悪かったと彼女は言う。私を写真を撮ったとして、それがネット時代の中でどのような使われ方をするのかわからない。そして彼女の友達にその事を話す。友人たちは口々に「私だったら撮してもらうわ、そのくらい良いじゃない」と言ったそうだ。「でも私は嫌だ」と彼女は断言する。

友人たちの言葉は、他人事でもある。ストーカ、もしくは犯罪に使われることもあり得る。おそらく自分が同じような眼にあったら、友達も嫌悪するだろう、彼女はそう思っている。

同じ彼女が今度は何かのイベントに参加した。そのイベントはテレビカメラが入り、放送は全国放映されるのだそうだ。「もしかして私が写るかも知れない」などと僕に告げた。少しだけテレビで彼女の姿を見る。後から聞くと、少し落ち込んだ様子でこう語る。「がっかりした。自分の年齢相応の姿がそこに映っていた。やはりそう若くはない」

写真で撮られることに嫌悪感を持つ彼女が、テレビカメラに勝手に写されることへの反応の違いが、彼女には意識することがない。僕は黙って頷き、「そんなことないよ。テレビの写りが悪かっただけだ」などと慰める。反応の違いを指摘することはない。なぜなら僕もその違いが、現代では、違いとして存在しないとわかっているからだ。

テレビだけではない。至る所に配置された監視カメラは治安強化の名目で、さらに増え続けている。無機質な監視カメラには責任を伴う撮影者はそこにはいない。

今を生きる僕としても、人の写真を撮る行為がどういうことなのか理解をしているつもりだ。肖像権があり、プライバシーの問題もあり、なにより人からカメラを向けられる事へのいらだちが以前より増している感覚とか。それらの感覚は、死に顔を携帯で取る行為が増えているということと、監視カメラに写されているという「安心感」と、テレビカメラに写りたいという気持ちと、そして今回の篠山紀信の路上撮影での公然わいせつ罪の適用とかに、今日の日本人社会の底で繋がっているように思える。

新聞記事の中で飯沢耕太郎氏は次のようにも語っている。

『若い人が、篠山さんでもダメなんだから、やめておこうと思うのがこわい。路上ヌードは撮れなくなるかもしれない。この傾向が強まれば、すべての路上写真がだめになる。ヌードに限らず、公共の場で一切の撮影ができなくなってしまう。そんな危機をはらんでいる』

そのような日が来て欲しいとは思わないが、確実に近づいていると僕は思う。現時点では、すくなくとも僕は篠山紀信さんを応援する他はない。

2009/11/25

2009年11月15日 晴れ時々散歩

半蔵門線の水天宮駅で降りたのはたんなる気まぐれだった。最近写真の趣味を兼ねた散歩は地元付近から少し離れつつある。といっても沿線上だからそれほどたいしたことでもないが。

半蔵門線水天宮駅は人形町の水天宮に近い。降りると七五三のお参りをする人たちが多かった。思い思いの着物を着た(殆どの子供は着物姿だった)子供たちが親に連れられてちょこちょこと歩く姿は見ているだけで楽しい。でも親は一所懸命だ。子供が走り出すのを追いかける和服姿のお母さん。デジタルカメラで写真を撮るお父さん。おじいちゃんおばあちゃんは皆良い表情をしている。

古い写真だが、僕にも七五三の写真がある。姉と一緒に千歳飴をもち多少緊張した面持ちで写っていた。姉が歯が痛く顔を多少歪めている。僕にとってその日の記憶は殆どない。ただ写真が残っていることで、それが契機になってほんの僅かな記憶の断片が蘇る。

今日の散歩では50mm(F1.4)を1本のみだった。デジタルカメラの場合、35mm換算では50mm焦点のレンズは約75mmのレンズとなる。それは僕が好んで撮る光景には合わなく、普段は殆ど使ってはいない。でもたまにはと練習を兼ねて持ち出したのだが、慣れるのに最後まで苦労した。ただ背景のボケは普段持ち歩いている30mm(F1.4)よりは美しいように感じられた。レンズが変ると写真の雰囲気ががらりと変り、そのレンズに慣れるのに時間がかかる。

僕はどちらかと言えば絞り優先での撮影が多い。ゆえにどうしても絞り値が変るようなズーム系レンズは苦手となる。かといって開放値が変らないズームは高い。さらに言えばズームは重たい。で、結局レンズはズーム系ではなく単焦点レンズとなる。近寄りたければ自分の足で、それも僕には合っている。

途中から50mmでの散歩は難しいなと思い始めていた。次からはやはり30mmにしよう。
こういうふうにカメラのハード面を考える時の写真は良くはない。少なくとも僕にとってはそうだ。カメラのことなんか気にしたくはない。そうじゃなく写真のことを気にしたい。それに自分のイメージが先行するような写真も撮りたくはない。ただ何となく撮った写真が何となく良い、そんな感じの写真が撮れたら最高なのだ。

水天宮を離れた僕は隅田川の方面へと向かった。人通りは少ない。平日であれば会社員達で埋まると思われる大通りは地元の人たちが自転車で行き来する。こういう雰囲気が好きだ。東京はどこに行っても人が多いといわれるが、実際は偏っているだけなのだと思う。人が集まる場所に行けば多いに決まっているが、その分殆ど人がいない場所もでてくる。平日のオフィス街。平日の官公庁街、問屋さん街などなど。それらの場所の平日にはない空気感が心地良い。

歩くと芭蕉記念館があるという。僕はとりあえずの目的地としてそこを選ぶ。芭蕉記念館はこじんまりとした記念館だ。僕は中には入らず、案内板で芭蕉庵の史跡庭園が近くにあると言うのでそちらの方に向かった。歩きながら、ここが深川なのだと意識する。
江戸と言えば日本橋だけではなく深川とも言える。深川は江戸の頃は殆ど海岸であったという。そういう思いを馳せながら、僕は隅田川沿いを歩く。

史跡庭園の隣に面白い店があった。「深川番所」というアートギャラリー、そしてその1階にある「そら庵」というブックカフェ。こういう店を見つけると思わず入りたくなる。僕は迷うことなく深川番所へと階段を登った。そこでは 「しゅんしゅん 点と線の間にあるもの スケッチ」展が開催されていた。気持ちの良い空間に配置した彼の素描が心地良い。とてもこの空間に合っている。そう思いながら観ていると、どこかで見かけたような女性と眼が合った。

偶然の出会いとはこういうことを言うのだろう。その方は写真サイトの繋がりで何回か会った事がある女性だった。一瞬戸惑うが、向こうは平然と挨拶をしてくる。その平然さにますます混乱する。
聞けば、この深川番所の番頭役のかたが同じ写真サイトの繋がりで来たのだと言う。僕を見かけたとき同じ流れで来たのだと、さして驚かなかったようなのだ。

でも僕のほうはそういうことは一切知らない。ただ、たまたま何気なく入ったギャラリーで、しかも芭蕉の史跡とはいえ、それほど人が多くない場所で、見知った人がいるとは想像だにできなかったのだから。この幸運な偶然の出会いによって僕はその「深川番所」の番頭さんと、ギャラリーでの展示者であるしゅんしゅんさんと知り合うことが出来た。
お二人とも若いがとてもクリエイティブな方たちだ。何かを造り出そうとする人たちは、若者たちに対し色々と言われているが、案外に多いような気もしている。そしてそれであれば、これも案外に、この国の将来はそんなに悪くはないかもしれない。

ギャラリーの下にあるブックカフェ「そら庵」はとても気持ちの良い空間だった。コーヒー・紅茶300円でいつまでもいて構わないのだそうだ。こういう店も増えてきている。
少しずつ今までの価値観が変りつつある、そんな気にさせる。

深川番所:http://gallery.kawaban.net/
そら庵:http://www.geocities.jp/sora_an_111/

それから僕は清澄白河まで行き、そこから電車に乗って帰った。
その間では芭蕉史跡の展望台へも行ったし、2~3の隅田川支流の橋も渡った。また清澄白河の商店街、のらくろという漫画の主人公がイメージキャラクターになっている、に行き閑散とした商店街の歩行者天国も歩いた。歩きながら隅田川の川沿いとか商店街などに懐かしさを覚えているのに気が付いた。昔、僕が子供だった頃、こういう風景に僕も囲まれていたような、そんな印象を持ったのだ。

それは夏が知らずに終わり、そしていつの間にか秋も過ぎようとする中で、僕に与えてくれた突然のささやかな贈り物のように思えた。また来週もここに来ようか、うん、その時のレンズは30mmを持ってこよう。それ以上にそら庵で読むべき本も忘れずに持ってこよう。そんなことを考えていた。

清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」を読んでの初めての感想

写真について書かれた書籍の中で、僕は清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」が最上だと考えている。この評論は写真を語る上で極めて重要な評論であるのは間違いないにもかかわらず、それほど多くの方が読んでいないことが残念でもある。無論、これは僕の考えでしかない。一歩身を引いて考えれば、写真一般について考えるのは、哲学について考えるのと同様に、人生においては意味は殆ど無い。故に、残念であるというのは僕の感傷に過ぎないとも思う。

「不可視性としての写真」は1995年にワコウ・ワークス・オブ・アートが数量限定で発行している。殆どが関係者に配布されたため、実売部数は殆どなかったのではないだろうか。僕は清水穣氏の写真評論の仕事に注目をしていたため、この本の名前だけは聞いていた。しかしどの図書館に行っても置いてなかった。国会図書館にはあると言うことだったが、国会図書館から借りた書籍は、家に持ち帰ることができず、かつコピー機での複写も許されてはいない。それを聞けば借りる気が失せた。

それでも2年ほど前、どうしても読みたくなり近くの図書館を通じ国会図書館から借りることにした。そして一読し是非とも手元に置いておきたくなった。そこで全文を手書きで複写することにした。手書きとはいえ、複写は著作権の関係上、約半分までしかできない。しかし本書が多くの人の眼に入らないのは文化的損失だと僕は思う気持ちもあった。

手書きの複写は会社帰りに2時間使い十日間ほどかかった。短い評論ではあるが、読んで不明点があれば繰り返し読んで、それから手書きでの複写なので、思った以上に時間がかかった。書いている間は夢中だったが、それでも時折思ったものだ、俺は一体何をやっているんだろうと。

どうやら僕は元来こういう無意味なことをしたり考えたりするのが好きらしい。
多くの人は「意味のないことはない」と語る。確かに社会においては「意味のないことはない」と語るべきなのだ。脆い社会を維持するためにはそのような神話は必要なことだと僕は思う。その意味で僕も「意味のないことはない」もしくは「努力は実を結ぶ」に同感する。社会を離れて人間を考えることは難しいが、それでも一歩離れて考えれば、逆に「意味があることが」珍しいことだと思えるし、「努力が実を結ばない」事例はいくらでもある。

「不可視性としての写真」の手書きでの複写は、「意味もなく」かつ「努力が実を結ばない」典型的な例だと思う。ただ僕はそれまでの写真論に飽き足らない気持ちが強かった。日本の写真論と言えば、ベンヤミン、バルト、そしてソンタグの三人を中心に回っていたし、おそらく今でもそうだろう。(僕は密かにこの三人を写真の御三家と呼んでいる)

この三人の思想を解釈し咀嚼しそれの解説書を書くのはそれはそれでよい。ただそれだけであれば日本の写真論の深みは全くと言って良いほど得ることは出来ない。もっと変わる何か、そしてそれは出来れば一般理論であればよい。僕はそう考えていたし、それを望んでいたのだった。そして「不可視性としての写真」はその僕の願いを叶えてくれた初めての、そして唯一の書籍だったのだ。

「不可視性としての写真」の要の一つに、まず写真に対する前提にあると思う。清水穣氏は写真についてまずは以下のように語る。

『写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。』

そして「写真性をもった写真」とは、表現形式で語るモノではないとしたうえで以下のように続く。

『写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、 ヒエログリフは既に写真であった。』

僕はこの言説に納得をし正しいとさえ考える。しかしこの写真性による写真の範囲を広げる理由は他にもある。それは写真がカメラという機材を使ってのみ得られるモノであれば、それは人間の手の内にあるモノでもあると言える。それば例えば椅子とかランプとか炊飯器とかベッドとか、そういった類のものと同等であると言うことだ。そしてもしそうであれば、写真について僕らが不思議だと感じることとか、難しいと感じることとか、衝撃を受けることとかは、解決可能であるし、その理由についてもお互いに合意が出来ることだろう。

しかし現実には写真には、「写真の問題」と言うべき問題が隠すまでもなく厳然と在ると思われるし、そしてその問題から醸し出される謎が写真の一つの魅力を造っているようにさえ僕には思えるのだ。

写真性があるものが全て写真とすることで、写真を人間の手の内から解き放し、そのことで一般論として語る意味を冒頭で清水穣氏は宣言しているのだと僕は思う。しかしこの点は極めて重要なことだと僕には思える。写真について語る意味、写真の問題が議論に値することとして提示するには、その問題を明らかにする必要があるからだ。

ただ、「不可視性としての写真」は哲学的な体裁を持ちながら、あくまで評論でもある。そこがこの書籍の全体を通しての問題でもあるのだが。僕がこう言うこと自体、優れた評論家である清水穣氏に対して不遜なことであるのは重々承知している。ただ哲学的な視点で見れば、この評論の言説は理由が明らかにされずに論理的飛躍が随所に見られるのだ。

『さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、あなたとはあなたが見ている世界である。』

まず「主客分離に先立つ」ことが「あなたとはあなたが見ている世界である」も繋がることが僕には不明である。なぜ清水穣氏は「あなたとはあなたが見ている世界である」と言い切れるのであろうか。それが言い切れること自体、主客分離されていることではないのだろうか。ここで清水穣氏はいとも容易く「他我問題」を乗り越えている。

「私とは私が見ている世界である」と何故言わないのだろう。ここでは「私」と「あなた」とはイコールで結びついているのではないだろうか。つまり一般的な「私」は「あなた」と同じなのである。しかし、「私とは私が見ている世界である」と私が叫んだとき、その私とは一般的な私ではなく、まさにこの私のことでしかない。

言うなればこの乗り越えが容易く行われたことが、この評論の根本的な問題を潜在させることになった。

まぁそれも無視しよう。でも残念なことに。重要な言説である「写真性」の説明が僕には伝わってこない。「写真性」の存在は、僕にとって、実感が伴い生々しく感じることが出来るというのに、逆にその説明および写真性がある場所を含めて疑問を呈する結果になっている。つまりは今のところ漠然とだが、「写真性」は清水穣氏が語るモノではないような気が徐々にしてきているのだ。

簡単に言えば、この評論の肝とも言える「写真性」の説明について、こういう反論はできないだろうか。
例えばある写真があるとする。その写真にある人は写真性があると公言し、別のある人はその写真に写真性はないと断言する場合、どちらが正しいのであろうか。というか、どちらが正しいと判断を示す根拠など原理的にないのでなかろうか。つまりここでも「他我問題」は執拗に絡んでくるのだ。

おそらく清水穣氏のその後の評論を読めば、写真評論する者の鑑識眼を鍛えると言うことになるのかも知れない。ただ写真性に関して言えば、それが心理面に左右する以上、その限りではない。写真の問題はこう展開すべきだったと僕には思える。「何故写真は写真として生成された瞬間から心理面のみとなるのであろうか」と。

具体的に僕の意見も書かずに批判的な事を述べているかもしれない。ただこの冒頭で言ったように、「不可視性としての写真」は優れた評論であるのは間違いないし、それはある意味ではバルトもしくはソンタグの写真論より優れているとも言える。僕はこの写真論を批判的に学習することで写真について勉強することが出来た。そしてそれはおそらく今後も続くことのように思える。まだまだこの書籍から離れることは出来ない。

2009/11/03

久々の小説、あるいは解釈と感想の違い

僕は映画観ると殆ど全部を面白く良い映画だと考える傾向にある。以前にそのことを自覚したとき、自嘲気味に映画評論家には間違いなくなれないと悟った。まぁなるつもりもなかったけど。あるとき友人のそのことを話したら、それはきっと観た映画がそれなりに素晴らしかったからだと言われた。つまり良い映画しか観ていないから評価も良かったというわけだ。

試しに誰もが観て後悔する映画を一度観ればよいとも言われた。例えば、「悪霊の盆踊り」とか「尻怪獣アスラ」とかそういった類の映画のことだと思う。幸いなことにまだ前記二つの映画を鑑賞してはいない。そんなことで自分の感性を試すつもりもないし、評価を下せないのなら、それはそれでそういう性格をしているのだろうと思うことにしたのだ。

だから映画を観たときは、僕は殆どが評論ではなく感想となる。評論と感想の違いは何かと考えたことがある。おそらく評論は解釈で感想は省察だと思う。例えば、解釈の場合、自分とは外部に基準を置き、それと較べて評価を下す。しかるに感想の場合は、面白かったとしたとき、何が自分にとってどう面白かったのかを書くことになる。僕としては後者の方が自分の性に合っている様に思う。

一時は評価を下せる人が羨ましいと思うこともあった。しかし今では感想が書ける自分で良かったと思う。解釈とは世界を自分に合わせることだと思うのだ。自分に合っていない世界は当然のことながら評価は低くなる。感想は受け入れることだと思う。受け入れ、それに対する自分の反応を見つめること。それにより内側から世界への眼差しを変えていくことのように思う。

実を言えば、昨日に久しぶりに小説を書店で買った。ちょこちょこと青空文庫で小説を読んでいたりはするのだが、書店で買って読むのは、もしかすれば3年ぶりくらいだと思う。村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」という小説。
村上春樹は「海辺のカフカ」より前の作品は全て読んでいると思っていた。村上春樹の全小説を集中的に読もうと考え実行したことがあったのだ。でもこの本は読んでいなかったので、どうやら抜けがあったようだ。

「回転木馬のデッド・ヒート」はまだ全てを読み終えていないが、冒頭の「はじめに」の部分ですっかりと参ってしまった。何故か作家の心情がとてもよく感じることが出来たのだ。それは僕の感性と言うよりも、村上春樹さんの巧みさだと思う。
『自己表現が精神の解放に寄与するという考え方は迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。』
(「回転木馬のデッド・ヒート」 村上春樹 はじめにから)
僕は村上春樹さんのこの言葉にとても強くリアリティを感じる。昔、書くことは人間に与えられた「業」のようなものだと思った時期があった。今でも多少そんな思いがある。無論、僕は小説家でもない。でも書くという行為は何も小説家に与えられた業というわけではなく、言葉を持ってしまった人間であれば誰でも同様なのだと思う。問題はそれを意識するかしないかだと思う。そして意識する必要もないことだと思うのだ。意識しなくても人は生きてゆける。逆に村上春樹さんのような考えは生きることを必要以上に重くすることだろう。

例えば歴史上の多くの革命家、発明家、思想家、哲学者などの人たち。彼らを凄いという人もいるが、僕にはそういう評価の根拠がわからない。歴史に名を残そうという発想は、よくわからないが、何か感覚的に言えば比較的新しいような気がする。多くのこれらの人たちは、おそらくそんなことを意識して行動していたわけではない。なんて言うのだろうか、僕は思うに、彼ら・彼女たちはやむにやまれぬ思いから、それしかできない、もしくはそれを解決しなければどうしようもないから、解決しなければ自分が生きることさえ危ぶまれるから、それぞれのことを行ったと思うのだ。そんなこと考えなくても、もしくは行動しなくてもすむのであればそれにこしたことはない。

僕は村上春樹さんの言葉からそんなことを考えた。考えたと言うよりも漠然と感じたといった方が正しいのかもしれない。

「回転木馬のデッド・ヒート」を買って読もうと思ったのは、その中の一編に「嘔吐1979」があるからだ。まず買ったときに一番にそれを読んだ。面白かった。小説には読んだときに驚きがあったほうが面白い。その意味で十分に驚きがあった。嘔吐とは何か、嘔吐をする男性にかかってきた電話の意味とは何か、そういうことを考えるとき、考える人はすっかりと村上春樹の手のひらで踊っているようなものだ。こういう小説はただ楽しめばよい。そういう風に思う。でも何かを考えて、書いてしまうかもしれない自分がいるのもわかる。

次に「はじめに」を読み、そして「レーダーホーゼン」を読んだ。「レーダーホーゼン」は少し怖い小説だった。決してホラー系というわけではなく、男性として怖いと言うこと。

ある時点での全小説を読み、もう二度と読むことはないと思っていた村上春樹の小説だったがまだまだ面白そうだ。

2009/11/02

弱い紐帯の強さ、もしくは新GREEに関する消極的捕捉

NTTドコモが主催している「iのあるメール大賞」の投稿作品を少し読んでみた。それぞれが素晴らしい。携帯でのメールという短い文章に、送る方の、大げさな表現を使えば、万感の思いが、ちゃんと受け取る方に伝わっている。
(iのあるメール大賞:http://i-arumail.jp/pc/PcIndex.html

例えばこんな携帯メールがあった。ご主人と結婚をされた25年前、散髪は奥さんが行っていた。
でも素人ゆえにご主人の頭は段違い平行棒のように段々がはっきりと見えてしまい、会社に行く手前、それ以降は近所の床屋に行くようになったそうだ。定年退職を迎える時、ご主人の髪の毛が少し伸びたと思った奥さんは、そろそろ床屋に行ったら、とメールをする。
ご主人からの返信は・・・「お母さんでいいよ」。
それを読まれた奥さんは涙があふれるのを止めることができなかったのだそうだ。このメールにはご主人の奥様への思いが言葉に語れぬほど詰まっている。

絆の強さとは文字数ではない。ただ絆を深めるためには、様々な積み重ねが必要なのだ。積み重ねの結果として、この短い返信メールがある。積み重ねもなく、短いメール文章の繰り返しだけで絆を強めることなど到底出来ない。

ただSNSに強い絆を求めることは何か違うようにも思う。SNSの場合、絆が弱いことに意味がある様に思えるからだ。

1973年に社会学者のマーク・S・グラノヴェターは一つの仮説を立てた。その論文はネットワーク理論の古典として今でも広く読まれている。「弱い紐帯の強さ」と題するこの論文は、強い紐帯(家族、親友、仕事仲間)だけの結びつきであれば、そのネットワークは同質性や類似性が強まり、ネットワークとして孤立する傾向にあると言う。そして弱い紐帯は強いネットワーク同士を結びつけるブリッジのようなものだと語る。

SNSのような結びつきは人間関係の絆としてはとても弱い。そしてその弱さがSNSでの醍醐味とも言える。逆に、だからこそ普段では知りえない人の考え方、様々な視点を得られるともいえる。
例えば、リアルであればこれほど多くの友人と均等に付き合えることは難しい。強い絆で造られたグループは、属する人にとっては極めて重要なのは間違いないが、硬直化しやすいし、そのグループの中では発言出来ないことも多い。

また論文「弱い紐帯の強さ」では、弱い紐帯によって伝達される情報や知識は、受け手にとって価値が高いことが多い、とも分析している。GREE・mixiなどのSNSの基本的な考え方は、この36年前のネットワーク理論を基礎にしているのは間違いない。ネットワーク的視点で俯瞰すれば、SNSに参加することはハブとしてのネットワークへの紐帯を作る事と言えるかもしれない。

弱い紐帯だからこそ、SNSでは出会いと別れが日常茶飯となる。そしてその繰り返しから全く新たな結びつきが生まれるのだと思う。この短い周期でのダイナミズムがSNSの醍醐味だとも思うのである。しかしネットワーク理論と言っても、そこにあるのは結びつきの紐の話でしかない。結びついたのは人間同士なのだから、そこにはきちんとした人間関係の構築と維持があるとは思う。

人間関係の深さは文字数では決まらない。仕事で多くの言葉を語り、そして受け止めたとしても、退職すればその繋がりは絶える。仕事関係などの強い結びつきでもそうなのだからSNSの場合はなおさらのことだろう。

僕の場合、何事も長文になる傾向がある。それは単に僕の趣味でしかない。長文で書くことが、SNSで弱い紐帯を少しは強めることが出来るのかと自問すれば、読み手の価値観がそこに係わるため、僕にはなんとも言いようがない。

今後のSNSの動向は、さらにTwitter化の加速が進むように思われる。それは弱い紐帯の広がりを示している。ただ弱い紐帯が人に占める割合が高くなればなるほど、強い紐帯が脅かされることにならないだろうか。そういう状態が続くとき、逆に反発として強い結びつきを求める方向に転化するこもありえるだろう、既にそうなっているのかもしれないが。
(例えば、家族・仲間の絆の強さを強調するTVドラマが多くなっているとか。ただこれらは寧ろマスコミが存続のためにそれらを指向せざるを得ない状況にあるともいえるので、例としては悪いかもしれない)

僕は前回の日記で、新GREEへの変化は遅すぎたとも見える、と書いた。それは早くリニューアルすべきだったという意味ではない。遅すぎたのだから、Webサービスの流行に乗るのではなく、さらにその先を行く内容でリニューアルすべきだ、を暗に含めたつもりだ。

そしてその先とは、弱い紐帯での関係を、少しでも強くすることへの指向ではないかと思う。SNSの歴史を考えると、リアルでの強い紐帯をそのままネット上にかぶせたことから始まり、紐帯は徐々に弱い方向に向かい、そして携帯からの多くの加入によりかなり弱まった、と言える。そのかなり弱い紐帯を多少なりとも強める方向に、新たな技術を使い指向することと僕には思える。

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CNETで本件に係わる記事があったので紹介します。そこでGREEのリニューアルで、旧GREEのPC版はなかったことになりました、と軽く答えている。利用者をここまで考えない企業が今の日本に存在するとは、少し信じられない気持ちだ。
『グリーの田中氏は今回のリニューアルについて、「ひとこと機能を中心にして、よりリアルタイムなSNSにするというのが趣旨です。Twitterのようなサービスが最近流行っていることを受けて、日記を書き合うという昔のスタイルから、もっとリアルタイムにいま何しているかを書き合うように全面的に変えました。過去のPC版は完全に一新され、なかったことになりました」と語る。』
(CNETより引用)