2005/09/19

出口調査

9月11日に僕は初めて出口調査に回答した。近くの小学校が投票場所だった、投票後に学校正門に黄色い腕章をつけた女性が立っているのがわかった。来たときには見かけなかったし、何かしら記入用紙を手に持っていたので、出口調査なのかもしれないなどとすぐに思った。一度出口調査なるものに遭遇したいと思っていた僕は、自分に声をかけてくれないかなと期待して女性の脇を通った。ほかに脇を通る人もいなかったのもあるのだろう、彼女は僕に声をかけ青い用紙を手渡した。朝日新聞出口調査と用紙冒頭に印刷しているアンケート用紙には、5?6問の質問がかかれており、質問は選択形式となっていた。一つ一つの質問は実態調査の範疇を超えてはいなかったので、僕は躊躇することなく質問に答えた。ただ一問だけ、「あなたはこの選挙で政治が変わると思いますか」という質問だけ、一瞬の戸惑いがあった。それは一瞬だったが僕の中で戸惑いを意識するには十分だった。そしてその質問には「変わらないと思う」の項目に丸をつけ女性に手渡したのだった。

家に戻る道すがら僕は戸惑いを感じた質問について考えていた。一瞬の戸惑いが起きたのは、その質問が常套であるにもかかわらず僕にとって不意打ちにも似た感触を持ったからだった。僕の中では「政治が変わる」という意味がよく掴めなかった。自民党が敗北し政権が民主党に移行するという意味だったのだろうか、でも質問全体からそれを受け取ることは出来なかったし、その問いは比例選挙でどこに投票したのかの質問に兼ねることが出来る。その質問は間違いなく「政治が変わるか」との問いであった。

一瞬の戸惑いにはもう一つの理由があった。それは選挙によって何かが変わる、という実感をいまだかつて感じたことがなかったのだ。それは一票が軽いとか、大勢の中の一つ、だとかのことではない。例えば学校で職場で数十名の中から代表者を決めるとしたとしても、僕が先ほどと同様の実感を持つかもしれない。数の問題ではなく、政治で何が変わるのかという否定的な問い方を僕自身が持っているということなのだ。それであればなぜ僕は投票をしに小学校まで来ているのかという、自己に向けての素朴な問いかけが、この質問と一緒に飛び込んできたのだった。

「政治が変わる」という質問の意味は何なのだろう。例えば各種法案が立案審議され可決される場合、その法案の目的もしくは中身いかんに関わらず、知っても知らずもその法案に僕が影響を受ける場合があるのは当然だろう。でもそれは政治が変わると言うことではない。山積みの各種問題がこの国にあるのは一国民として意識している、それらの問題の解決の仕方も、その先の展望も未知数のままだけど、それについて政治が変わらなくては届かない、そういう意味で使われているのかもしれない。ではどう変わればいいのだろう。

人は幸せに自由に生き、そして何かになりたいと願うと思う。でも現実にはその願いとうらはらに心中に不全感と常に未達の意識も持つのでないだろうか。この不全感もしくは生き難さの感覚の解消は、個人の気持ちとか能力によって切り開いて行くことが殆どなのかもしれない。何かが変わるという意識は、その個人の内からくるもののように思えるのである。だから、外部としての政治が具体的にどうなろうとも、僕にとって変わるとはならないような気がする。

選挙の結果は多くの人にとって、勿論僕も、当の自民党にとっても驚くような結果だった。自民公明両党による衆議員3分の2以上の議席は今後、様々な議案の提示と、それに基づく多くの議論が起こることが想定できる。今までにない巨大与党の政治の中で、それでもなお僕は政治が変わるとも思えないのである。それは前記のように、政治が変わらなくては先に辿り着けない、という中で、政治が政治を変えることが難しいと思うからなのだ。

変わるためには、この国の政治の根っこにある、人について、人が生きると言うことについて、他者と共生すると言うことについて、それらを考え蓄積し共有化するプロセスが必要と思う。主導する原理的な思想も必要かもしれない。僕はある意味、中島義道の言うところの、この国には哲学者が少ない、と同じ事を言っているのかもしれない。
その道のりは多分相当に長い時間が必要だろう。僕が「変わらない」という意識の中で、殆どの選挙権を行使している理由は、政治に参画していると言うより公共の場に参画しているという気持ちがあるからだと思う。

何か支離滅裂な記事になってきた。この記事を書きながら自分の事を反省すると、様々な思いが交差して、その根幹にあるものが未だに掴めないでいるのがよくわかる。引き続き考えていきたいと思う。

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