今春公開した日本映画「ローレライ」をレンタルで見た。この映画に関して、時代背景が戦争末期であることから、様々な考えがあるのは想定できるが、僕はとても面白く観ることが出来た。僕にとって「ローレライ」は完全なファンタジー映画だった。だから役者がどんなに素晴らしい演技をしても僕にとっての現実感はなかった。ファンタジー映画としてみて、その世界観の中に没入し、そこからこの映画を眺めると、配役一人一人の動機は納得がいくものではあるが、それは例えばアニメを観て登場人物の行動に納得するのと似ている、そんな感じで僕はこの映画を面白く観たのだった。
僕はこの映画で大きく分けて二つの感想を持った。これからその話をしたいと思う。一つめは、この物語は何故うまれたのかと言うことだ。戦争時代の、特に対米戦を描くことには、ハリウッドに対する一つの挑戦への意味合いもあるのかもしれないが、日本が敗戦を経験していなければこの映画の誕生はあり得ないのは間違いない、と僕は思う。「ローレライ」において殆どの内容は登場人物それぞれの美学の主張であった。
敗者は美学にすり寄る、と僕は思う。それは過去の失敗における心理的な打ち消し作用があるのかもしれない。
さらに言えば、美学の主張は失敗を共有する者達から観れば、何か癒される印象を持つものだ、とも僕は思う。僕がこの映画を観て、面白いと思い、場面によって登場人物の行動に共感するのは、勿論僕が日本人として、映画の中で尊敬できる同国人の姿を見たのは間違いはない、でも別の側面から観た場合、僕の中に前記のような癒しの部分もあるのも事実だと思う。
逆に言えば、あの戦争を体験した者も、それをしらない世代においても、敗戦という出来事に対し、僕を含めいまだに何らかの決着がついていないと言うことが、「ローレライ」をして多くの人の共感を得られことの事由の様な気もするのである。
二つめは、メディアはメッセージだとすれば、「ローレライ」から僕が受け取ったメッセージについてである。それは、一つめで僕があげた美学の部分を出来るだけ排除し、その上で一番に印象に残ったことでもある。
それは役所広司扮する艦長が、若い男女の乗った特殊潜航艇を切り離し(生き残って欲しいという願いから)、二人に向かって言う言葉である。男が「大切なものとは一体・・・」という言葉に対し艦長は一言「考えろ」と言う。「お前なら考えればわかるはずだ」という言葉に、敗者の美学からのり越えの糸口があるように思えたのだった。考えると言うことは、美学の中に止まるということを許さない状況におくことのように、僕には思えたのだ。それは一つのファンタジーの終わりを告げる言葉でもあった。
上記のように考えていくと、物語の筋からみても「ローレライ」は商業的にみて日本市場に的を絞った商品であることがよくわかる。この映画はあくまでも、日本人が作った日本人のための娯楽作品なのだ、と僕は思う。それでもビジネスとして成功することをこの映画は証明している。
ついでにいえば、僕は美学そのものを否定する気持ちは毛頭無い。ただこの映画に僕は何故共感したのかを探ってみたいと思っただけである。
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