高倉健さんのエッセイCD「南極のペンギン」を図書館から借りてきて聞いた。朗読は高倉健さん、音楽は宇崎竜童さん。このCDは高倉健さんが制作し図書館に寄贈したと聞いた。だから非売品となる。何故高倉健さんはこのCDを制作し図書館に配布したのだろう。詳しい経緯は僕にはわからない、でもこのCDを聞けば、その理由が何となくわかる。
冒頭のエッセイ「アフリカの少年」で高倉健さんは砂嵐を身を屈めてやり過ごそうとしている少年を見て心の中で語りかける「夢を見ろよ」と。高倉健さんが乗る車を止めて少年を乗せるのは簡単だ、でもそれは少年の為にはならない。厳しい自然の中で砂嵐に耐えるすべを身をもって知らなければ、この地で生きるのは難しい、だから高倉健さんだけでなく現地の人も助けない。それで高倉健さんは心の中で語りかけるのだ。「夢を見ろよ」と。
正直言えば、僕はこのCDを聞いた当初、高倉健さんの声に張りが無いと感じ、これは途中で飽きてしまい、最後まで聞かないかもしれない、などと思った。でもそれは全く間違いであった。高倉健さんの表現力は素晴らしかった。どこか押さえた感がする高倉健さんの声は、この朗読でも感じることが出来る。押さえた感というのは、僕が発する言葉の裏に様々な思いを持っていることを感じたということでもある。
このエッセイ集を書くときに、高倉健さんは題材となったエッセイ一つ一つの記憶の中で、書き足りぬ思いと、書き過ぎることを抑える難しさ、を感じたと僕は思う。本では伝えられないことが沢山あり、それらは声であれば伝えることが出来る、高倉健さんはそう考えたのではないだろうか。CDにしたのは、流通の問題、コストの問題ではなく、おそらくそういった理由で、声でなくてはならなかったからど思うのだ。
人が話す言葉を聞くというのは、彼が書いた文章を読むこととは違う、と僕は思う。特に話す内容が自分の体験からくることであればなおさらであろう。語る言葉、トーン、強弱、間合い等から、語る人の意識を、読むときよりも強く感じ取ることが出来る、と僕は思う。そういう意味で、僕はCD「南極のペンギン」を通じて彼の意識を感じることができたようにも思う。
さらに高倉健さんの語りを遮ることなく、表現力をさらに伸ばしている宇崎竜童さんの音楽も素晴らしかった。
「夢をみろよ」と語りかけているのは「アフリカの少年」だけではない。この本を読み、もしくはこのCDを聞く人に語りかけているのである。さらにエッセイのなかで、「どんな土地にうまれるのか、どんな親に育てられるのか、誰にもわからない、子どもは何も選べず、ただうまれてくる。だが夢なら自由に見ることが出来る」と語っている。
高倉健さんが「アフリカの少年」に向かって言う「夢を見ろよ」は、厳しい自然の中で暮らしたとしても、その中で生きる術を取得するのは必要なことだが、ただそれだけでは人は生きていけない。そんなことを言っているのだと思うのだ。
少し前に子ども達の「夢」がより現実的になったとの、それが残念とも読み取れる記事が新聞に掲載されたのを思い出す。また「夢」は大きいほど良いとも聞くこともある。それらは僕が持っている考えとは少し違う。人はうまれた瞬間から自由に生き、自分がなりたいものになろうと努力する。その意識の具体的な姿が「夢」だと思う。だとすれば、「夢」は人が持っている本質的な欲望の一つであるのは間違いない。僕は多分死ぬその直前までそれを持ち続けることだろう。最後の願いは「もっと生きたい」ということで、元気な姿を夢見るのだろう。
「南極のペンギン」では多くの魅力的な人達(もしくはペンギン)が登場する。高倉健さんのまなざしは、「優しさ」という、見方によっては一段高い目線からではなく、共にこの地に生きる、一緒にがんばろう、といったそういう風に感じる。エッセイの中で、高倉健さんが涙を流す話がある。それはオーストラリアで撮影の合間に鞍をつけずに乗馬を試み、それによりホースメン達から認められた時である。その時彼はぼろぼろと涙をこぼす。お互いを認め合う心、それがお互いがなりたいものになる為の土俵とも言える、と僕は思う。高倉健さんのエッセイでは常にその姿勢を崩すことなく語られているように僕には思えた。だからこそ僕は「南極のペンギン」に共感したのかもしれない。
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