笑い話のようだが、僕は高校時代に一つの悟りを得た。それは下校時の夕方近く、学校から駅までの道程の間に天啓の如く不意に僕の意識に浮かんだのだった。悟りと言ってもたいした物でもなく、浮かんだのは一つの言葉だった。
「全ての人間の行為は人間的である」
当たり前と言えば当たり前すぎるほどの言葉だったが、その当時の僕はこの言葉を何度も心の中で言い続けた。それは社会に様々な事件があり、その都度新聞などで綴られている文言、「非人間的」という「物言い」に対する言いようもない違和感から出た言葉なのかもしれない。何故人はありのままの存在を受け入れることが出来ないのか、素朴な疑問と共に自分を反省する中で、確かに自分にもそう言う部分があることを意識し、自分に対して言い含める形で、この言葉を僕は反復し続けたのかもしれない。でも今の僕は、その当時のあの言葉に新たな意味を見つけた僕ではなく、過去と同じようにこの言葉を反復したとしても、帰ってくるのは懐古的な郷愁のみである。
最近では「非人間的」という「物言い」は裁判所での場でしかあまり使われなくなっているのかもしれない。でもその代わりによく耳にするのが「心の闇」という言葉である。「心の闇」というものがあるのかどうかは僕にはわからない。ただ一つ僕にも言えることは「心の闇」はあった方が何かと便利だと言うことだ。何かを突き詰めて考える際に、これ以上自分に分解不能な事項をおしなべて「心の闇」と称するのは確かに都合がよい。
でも正直言えば、僕は鈍いせいか「心の闇」をどのような場面で使ったらよいのか皆目見当が付かないのである。
ただ一つだけ使われ方として言えることは、概ね「心の闇」とは他者の行動の意味に「私」が理解できないとき、使われるばあいが多いように思える。
「私」の「心の闇」と言うとき、それらは大概は他者に対しての「妬み」・「嫉妬」・「裏切り」・ 「傷害」・「偽り」・「怒り」等々の感情を指している場合が多いが、それは「心の闇」というよりは普通の人間の感情だと僕は思う。
誰でも持っているだろうし、「心の闇」でもなんでもない。ただそれらの感情がどこから湧き出てくるのか、それを単に「心の闇」に取り纏めることで、「私」は安泰と言うことなのかも知れない。でも「私」とは、そのような感情も何もかもひっくるめて「私」だと僕は思う。
秋田県の小学一年生殺人事件について、ある新聞で容疑者である女性が自白を始めたことから、「心の闇が明らかになる」などと記事に書かれてあった。
もし仮に「心の闇」が実際にあったとすると、それは「明らかに」する事が出来るのだろうか、と素朴な疑問を持つ。なぜ膨大な費用をかけ自白を裏付ける捜査をするかと言えば、あくまで公正な裁判を行うためだと思う。又、容疑者の自白に何らかの公共の問題の有無を見いだす事でもあると思う。容疑者の行動の基が「心の闇」からだとした場合、その容疑者を誰が裁くことが出来るのだろう。
少なくともジャーナリストが語る言葉ではない、と僕は思うし、公共の場で「心の闇」などという言葉を使って欲しくもない。
以前にランディさんの小説で沖縄か何処かの霊媒師の話を読んだことがある。うら覚えなので粗筋などは違っているかも知れないが、確かその霊媒師が語るには、意識を探っていると意識の底に無意識と繋がる井戸があるそうだ。
その井戸を覗き込むと、果てしなく続く闇で底は無いかのようだという。そしてその井戸を覗き込むことが出来た人が霊媒師と成り得るのだそうだ。
ここまで書いてやはり小説の内容が違うような気がしてきた。ただ「意識の底の無意識に繋がる井戸を覗き込む」のイメージが「心の闇」と妙に感覚的に合っていそうな気がして、この話を持ち出したのである。勿論感覚的に合っていると言っても、あくまで文学的にはの話で、実感としてはどちらも僕にはわからない。
ネット上で「心の闇」がどのような使われ方をしているのかを少しだけ見てみた。曰く、「心の闇に立ち向かえ」、「心の闇を語る」、 「心の闇を明らかにする」、等々とどうも「心の闇」というものが各々の中でイメージ化されているかのようだ。僕は逆に「心の闇」という言葉を多く使われることに、現代が垣間見えるような気がしている。それは他者に恐怖を抱く心持ちのように思える。
他者は「私」にとって評価を下す者であるし、「私」のアイデンティティを構築する者でもある。それでも他者はどこか「私」に似ている。
そして「私」の中に他者を取り込むことにより、「私」は安心して世界を歩ける。しかし時として「私」の世界からはみ出す「他者」の行動が 「私」を怯えさせる。意味は言語の内にある。言語化されない意味は何処にもないと僕は思う。「私」は理解できない「他者」の行動の意味を言語化できない。「他者」についていくら語ろうとも、それは「他者」の外郭をむなしく辿るだけなのだ。
意味を言語化する為にはある程度の時間が必要となるが、その時間さえ「私」には与えられていない。そして「私」の世界は終に意味がない世界へと変質していく。その中で今まで安心した「私」の世界は、不安定な「他者」に常に脅威を感じる世界へと変わっていくのである。そして「私」は自分の世界と理解できない「他者」の行動を取り纏める一つの言葉を造り出す。「心の闇」、それはそう呼ばれる。
上記の事柄は僕自身が本気でそう考えているわけではない。でも「心の闇」という言葉には、
世界は在るのだがそれを認識するのは私の主観という超越論的な世界観が根底に横たわっている様に思える、そしてその見方は時代の思想そのものであるが、眼差しはどうしても「私」という高見から見下ろす視座になるように思えるのである。
高見から見下ろさなくて、どうして「私」の、もしくは「他者」の「心の闇」が見えるのであろうか。人の「心の闇」を超越的に見る眼差し、僕は時としてその眼差しに怖さを感じる。
ネットの検索の中で僕は気になる物言いを見つけた。「世の中はいたる所に心の闇が満ちている」、満ちているのは「心の闇」ではない、その眼差しだと僕には思える。「心の闇」という言葉について、語るのも使うのも今回のブログ記事が最初で最後にしようと僕は思う。
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