2006/06/30

従兄弟のこと

park bench

従兄弟が亡くなった。以前に記事で従兄弟が癌と宣告されたことを記事に書いた。それから約一ヶ月で彼は亡くなった。前日には、それまで寝たきりだったのが急に起きあがり、見舞いに訪れた人に元気な姿を見せていた。声も大きく、会話に参加する様は周囲に幾ばくかの期待を抱かせるに十分であった。

従兄弟は癌の末期症状から来る痛みにより、鎮痛剤を肉体に注入しているにも係わらず、眠れぬ夜が続いていたらしい。眠れぬといっても鎮痛剤により意識は朦朧としているのだが、それでも床ずれも含めて様々な痛みが襲う。そんな彼がひとしきり元気な姿を見せた後、急に深い眠りに陥ったらしい。眠りの初めは自然な姿であり、夜眠れぬ状態である事を知っている看護士からは、「久しぶりにぐっすり眠っているようで良かった」と言葉に出るほどであった。

それが眠りから昏睡状態にはいり、一度も目覚めぬまま息を引き取った。2006年6月29日午前11時7分の事であった。

僕が彼の死を聞いたのは、丁度亡くなって自宅の母に連絡が入り、その母を通じてだった。ふと身近な時計を見る。時計は11時半を過ぎようとしていた。これから遺体を自宅に運ぶとの事だった。

この記事は追悼文にするつもりはない。僕は間違いなく彼のことを忘れることはない。従兄弟にとって僕は弟のような存在だったかもしれない。でも父を幼い頃に亡くした僕にとっては、彼の姿に父親の姿を僅かながら見ていたのは事実である。身近な者の死は、追悼文などという姿にするまでもなく、僕が密かに誰に証すこともなく、自分の中の悼みとして一生持ち続けていく事になるのだと思うのである。人に対する悼みの気持ちとは本来そう言うものだと僕は思う。

ただあまりにも突然の死であった。「癌には語り合う時間がある」などという物言いが空虚に感じるほど、僕は彼と話をしていない。

奥さんの話を聞けば、従兄弟は前日眠る前にまで、自分が十分に治ると確信していたらしい。でも傍目から見る彼の病院での姿は、食事が出来ないために栄養剤の管が肉体に挿入され、その他に点滴と、腹水が溜まるのでそれを捨てる管、また痛みを抑える鎮痛剤の管、等が付けられていた。そして医者から家族にはもう長くないことを告げられていた。

腸閉塞の改善の手術は一応成功していた。でも僕から見ればその手術の後、従兄弟がベットから起きあがり元気に動き回る姿を見たことは一度もない。確かに手術は大きなリスクが伴うものだったとは思う。医者も最大限の努力をしてくれた。でも僕が誰にも告げずに思うことは、手術をしない方が良かった、強くそう思う。

勿論手術の是非については結果論の話なので、今更の話である。だからこそ僕は誰にも言える話でないこともわかっている。そしてその事は、いずれ僕自身が彼と同様の立場になったときに、自分がとるべき行動として深く記憶に刻むしかない。

遺体が自宅に戻ったことがわかり、僕は取り急ぎ従兄弟の自宅へと向かった。家では彼の姉妹達が全員来ていて、それぞれに目を赤く腫らし、彼女たちの悲しみの強さを表していた。特に彼が愛した娘達の姿は、涙が涸れることがないかのように、静かに涙が頬を伝わり続けていた。従兄弟の家は静かであった。限りなく深く静かであった。

従兄弟の母は別室で横になっていた。従兄弟の妹が老母に付き添っていた。「私が代わってあげれば」と何度も母はつぶやいていた。

彼の顔を覆っていた白いガーゼをめくると、そこには従兄弟が青ざめた表情で、眠っているかのように、静かに目を閉じていた。娘が従兄弟が横たわる布団の横で顔を埋めている。時折顔を上げて従兄弟の顔を静かに優しく触る。その仕草が痛々しい。僕は微動だにせず、 動くことも語ることも出来ず、じっと彼の顔を見続けている。信じられなかった彼の死が少しずつ、僕の中に受け入れられてくる。

正直に言えば、彼の死を受け入れる、という物言いは正確でもない。おそらく僕は彼の死を認めながらも、彼の存在を僕の周囲に求めることだろう。彼の顔は穏やかだ。ふと従兄弟を抱きしめたいという衝動に駆られる。抱きしめる変わりに僕は彼の顔に触れる。柔らかさと冷たさ、彼との思い出が触れることにより僕の中を混乱と共に駆けめぐる。
思わず嗚咽がでる。

一人の男が生き、そして死んだ。死にたいし、安らかに誰にもこれといった迷惑をかけることなく、最期に元気な姿を周囲に見せ、それこそあっけなく彼は逝ってしまった。彼の人生は、誰もがそうであるように、波瀾万丈であった。波瀾万丈との眼差しは、勿論他者からの眼差しであろうし、従兄弟自身はそう言うことは微塵も思っていなかっただろうと思う。それに波乱がない人生など何処にもないかもしれない。 しかしどういう形であろうとも、一人の男が僕と同時代に生きていたのは紛れもない事実なのである。

いずれ今回の様々な出来事が、個々の記憶の中で一つの符丁となって、新たに蘇ることだろう。例えば死の前日、あれほどものが食べれなかった従兄弟が、元気な姿に誘われて奥さんが出した好物のお稲荷さんを美味しそうに1個食べたこととか、それ以前に前日に元気な姿と明瞭な言葉での会話を交わしたこととか。喪失とは彼を取り巻く人々が抱く感情であり、従兄弟自身のことではない。そして喪失感から来る足りなさを、そうやって埋めていくのだろう。

でも間違いなく今の時点で僕が言えることは、彼は病気を治癒するつもりでいたと言うこと。そして、この言葉を吐けば悲しさが募るだけなのはわかるが、従兄弟は生きようと、生きたいと強く思っていたということ。そしてそれが叶わないまま、途中で彼は亡くなったと言うこと。そしてそれらのことは誰彼の区別なく、僕自身の死に対しても同様であろうと言うこと。まさしく美化することなく彼は僕にそれを最期にあらためて教えてくれたように思うのである。

いずれ僕は従兄弟の事を書きたいと思う。何も書き残さず、生来無口で多くを語ることの無かった従兄弟は、ただ同性として、僕とは少しばかりではあるが様々な事を語った。彼と接した人は、それぞれの眼差しの中で従兄弟の精神を思い描いていることだろう。どれもその方にとっては正しい。でもそれは従兄弟自身のことではない。少しであれば彼に歩み寄れるかもしれない。そんな思いを僕は持っている。

従兄弟が最期に奥さんと交わした会話は、他でもない僕のことだったという。つまり僕のオートバイの装備の事を気にしていて、病気が治ったらその装備を買ってやるんだと、言っていたそうだ。自分に対し一所懸命に過ごした彼は、人に対しても一所懸命な人間であった。

またいずれ逢いたい。逢うだろう。そう思う。

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