2006/06/17
蜂の写真、再び写真を撮るということ
初夏になり蜂が忙しく花々の間を飛び回る。蜂を写真に収めるのはそれほど難しいことでもない。ただ彼等は花の蜜を収穫するので、花に留まっている姿は、常にお尻を撮影者に見せることになる。
僕は一度彼等の正面から写真を撮りたかった。 何度か試みたが予想以上に僕のカメラでは難しい。というのは連写機能がこのカメラは弱く、秒あたり1枚にも満たない速度なのである。 しかも連写枚数は3枚固定となっている。
そこで連写は諦め、焦点距離を固定し瞬間を感に任せることにした。これは結構うまくいったが、 今度はピントが合わない。それでも何枚か適当に撮した。それらの中で、比較的ましな写真はこの一枚だけであった。 構図的には至らなさが目に付くが、自然を相手に僕の都合に合わせてくれるとも思えない。これで良しとしよう。
写真を撮るということは、常に撮影者は「主客一致」の難問を抱えているようなものだと最近思う。ある対象をみて僕は美しいと思う。そしてその美しさを、僕が感じる美しさのまま写真に留め置きたいと思う。しかし後で見るその写真は「美しく」はない。
何が間違ったのだろうかと僕は思う。僕の見るという行為に、何らかの問題があったのだろうか。つまりその時の感情の流れから対象がより美化されたのであろうか、等と思うのである。でも確かにあの時は「美しい」 と思ったのも事実である。その時の感覚は今でも生々しく記憶している。その記憶が対象の姿をより美化しているとしても、較べる当てのない僕にはどうしようもない。
またはカメラの問題であろうか。 確かに僕の使うデジタルカメラは古い。フィルムでの撮影と違い、ハード・ソフト両面でデジタルカメラは技術面に大きく影響を受けるのも事実かもしれない。でもそれはあくまでもハード・ソフトの両面で限界まで駆使しての話でもある。自分なりには駆使している自負はあるが、それだって毎回の撮影というわけでもない。
さらに僕は現代人らしく、機械そのものよりは人間の方に誤りが多くあると、 心のどこかで信じている部分もある。
とどのつまり、おそらくカメラで撮影した姿は、ほんとうの姿とは思わぬが、人の思惑が入らぬより客観的な対象の姿だと思うのである。でもそうは思いながら僕の主観は納得することもない。 そしてそれはおそらく永久に解決されない。何故なら人はほんとうの対象の姿を撮りたいなどと思わないのである。カメラを構えるとき、願うのは主客一致ではなく主画一致なのだと思うのだ。
思うにカメラという不思議な物は、極めて近代思想が具現化した道具であるが、どこかでスコラ的な思考と繋がっている。画像処理ソフトが市場にこれほど出回っているのは、多くの人がカメラから素のまま出力された画像を信じていない証左かもしれない。自分の主観の命じるまま画像を編集加工する。それはフィルム現像時の調整と同様の姿でもある。
ただ撮影者の編集は最終的に色彩・色調が偏る傾向があるように思う。「美しい」と感じた何かを強調したいが故に、試行錯誤の後で撮影者(編集者)は何かを踏み越え、さらに自分の記憶を補強することで、結果的にまた新たな対象の姿となるのである。踏み越えた何かとは、僕の、撮影者の対象を見た主観にほかならない。だから最終的にできあがった写真を見ても、以前よりは「美しい」のではあるが、何か全体的に違和感を持つ、そんな奇妙な感覚に囚われるのである。
最近僕の写真はそういう物が多くなったと感じている。自分の主観と画が一致する(主客一致ではなくて)写真よりは、画の方により強度がある傾向。それは対象を自分の主観の世界に取り込むだけでは飽きたらずに、さらに対象を消費しようとする姿も垣間見て、時折嫌気が指すのである。まぁそういう感覚が残っている限り、僕の写真はまた変化していくことだろう。
この記事に掲載した蜂の写真は、適用に撮してたまたま写った画なので、そういう違和感から解放されている写真でもある。(笑
追記にもう一枚写真を掲載する。題は「かくれんぼ」。
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