そもそも僕自身が今まで思い描いていた境界という状況事態が在るかとかいった疑問は持っている。境界を状況と僕は咄嗟に書いてしまった。
漠然とではあるが、ある種の実感が論理的ではないが、両者が関数的にイコールで結びつくような、例えば行動と状況がそうであるように、そう思えているのである。しかしまた僕はこうも考えている。境界と状況が関数で結びつくのであれば、その境界事態はエセでもあると。
今年の読書計画と言っても、それは昨年来からの興味の対象である「写真」について、もう少し集中的に考えてみようということを備忘的に記録するという事に過ぎない。出来れば写真についての多くの書籍を読もうと思うし、映画に関してもそれは同様である。しかしその中でも、特に月間で集中的に読む書籍を定めようと思っている。
その本は出来ればレジメまでも書こうと思っている。以下に現在考えている写真関係の書籍をリスト化する。
- 「写真論」 スーザン・ソンタグ
- 「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ
- 「図説 写真小史」 ヴァルター・ベンヤミン
- 「複製技術時代の芸術」 ヴァルター・ベンヤミン
- 「明るい部屋」 ロラン・バルト
- 「絵画、写真、映画」 ラースロー・モホイ=ナジ
- 「露出過多」 キャロル・スクワイアズ 他
- 「アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ」 アラン トラクテンバーグ
- 「写真の哲学のために」 ヴィレム・フルッサー
- 「視線の権利」 ジャック・デリダ
- 「写真論―その社会的効用」 ピエール ブルデュー
- 「写真と社会」 ジゼル・フロイント
丁度12冊になったが、おそらく1年間と考えたとき12冊は厳しいと思う。何冊か落とすことになりそうだし、全く別の書籍が入り込むかもしれない。しかし、前記の意味合いでの範囲なので、ソンタグ、ベンヤミンは欠かすことは出来ない。と言っても、それらは既に以前に読んではいるのではあるが。でも今回は再読書であろうと、新たに読むつもりだ、それも何回も。
それに、例えばフルッサーの書籍を読むとき、彼の重要なエッセイ「サブジェクトからプロジェクトへ」の再読も必要になると思うし、それはソンタグの「反解釈」も同様かもしれない。
ちなみに上記リストの順番は優先順位ではない。ソンタグは彼女の「写真論」の中で以下のように語っている。
「ひとつの事件がまさしく撮影に値するものを意味するようになったとしても、
その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである」
(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳)
その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである」
(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳)
写真を考えるとは、現世界と歴史を考える事なのである。一枚の写真が撮られた当時の意味はイデオロギーと共に変化する。それは現在に住む僕にとっては自明の事だとは思う。でも写真を通じてあらためて考えてみたい。
そのほか昨年から読み続けている書籍(ハンナ・アーレント「精神の生活」)がある、これは難物だ。アーレントが亡くなったとき、タイプライターに挟まった紙には「精神の生活」の第三章タイトルのみが書かれていたという。彼女の「思索日記」をパラパラとめくってみると、「思考」・「意志」・「判断」について、つまりは彼女にとっての「精神」について、「精神の生活」執筆以前から考えていたことがわかる。
「エルサレムのアイヒマン」で悪についての考察で彼女は自分の考えを纏める気にさせたらしい。アーレントは「エルサレムのアイヒマン」で「陳腐な悪」と語る。それに対し彼女の師でもあるヤスパースは次のように語る。「アイヒマンが陳腐なのであって、悪は陳腐ではない」と。
また別の人は次のように指摘する。仮に法廷で被告人となっているのがアイヒマンではなくゲッベルスの時、アーレントは「陳腐な悪」と言えたであろうか、と。
そのどちらの質問にアーレントは答えてはいない。しかしアーレントは次のように言う。「思考」が無いゆえにアイヒマンの行為があるのだと。
「精神の生活」は今年一年をかけて読もうと思う。その都度、このブログの中で何らかの姿で、僕が受けた影響が出るとは思う。
小説に関しては取り立てて読みたいと思うものは少ない。強いて言えば、「ジョイラッククラブ」(エミィ・タン)、「消去」(ベルンハルト)くらいか。ただし、写真の話題が登場する小説は積極的に読んでいこうと思ってはいる。
参考:Amazonウィッシュリスト 「写真に関する書籍」「写真論」
(決してアソシエイトではありません)
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