2007/01/26

スーザン・ソンタグ「写真論」読書以前に

飯沢耕太郎氏は彼の著書「デジグラフィ―デジタルは写真を殺すのか? 」(2004年)で、デジタル画像をフィルムによる写真と区別するため、「フォトグラフィ」ではなく「デジグラフィ」と呼ぼうと提唱している。幸いなことにその言葉が一般に流布することはなかった。

タイトルに惹かれ読もうと思ったが数ページ読み本を閉じた。「デジタルが写真を殺すのか?」という副題を付けるのであれば、著者にとって「写真」の定義を明確にする必要がある。そしてその定義がデジタル化により崩される状況を読み手に説得させなかければならない。それがなければ、その刺激的な副題は単に商業的な意味しかないと判断されても致し方あるまい。無論、最後まで読み切れなかった僕が言うことではないのではあるが。

フォトグラフ(photograph)のフォト(photo)はギリシャ語の「ひかり」を意味する「φωτοs」(フォートス)を語源に持つのは知られている。写真術が、光とそれに感応する物質との化学と物理作用がその技術の根本にあることを考えれば、「光の画」を意味する言葉「フォトグラフ(photograph)」の命名は適切なのかも知れない。でもその単語「フォトグラフ」の命名が技術的な理由でのみ語られるとすれば、これはあくまでも僕の想像の域を超えてはいないのだが、単純すぎるようにも思える。

「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。」

旧約聖書の創世記1章冒頭の一節である。

神の最初の言葉は「光(フォートス)あれ」であった。神と共に言葉 (「λογοs(ロゴス)」があり、その言葉から「光 φωτοs(フォートス)」が産まれる。ヨハネ福音書では神と共にあった言葉 (ロゴス)と光(フォートス)にはキリストが宿っていたと語られている。写真術が開発されたとき、そしてその術が「フォトグラフ」と名付けられたとき、キリスト教圏の人びとが旧約聖書の、もしくはヨハネ福音書の言葉を意識しなかったとは僕には思えない。そして幾ばくかの神に対抗する意識が「フォトグラフ」への命名に繋がった、そういうこともあったように思える。

神の真の光「フォートス」は、近代の技術により写真術となった。それでは「ロゴス」はいったい何になったのであろうか。写真術が開発された1839年から現在に至るまで写真が求めることは変わらない、と僕は思う。それは「ただそこに在る何か」を写し撮ることである。そしてそれにより人間が「世界」を収集しえた、現実を把握しえた、と感じ取れるまで、おそらく写真は撮り続けられるのであろう。そして写真を撮る眼差しの根本には神の眼差しが潜んでいるようにも思えるのである。

しかし日本において、写真の登場は西洋とは違っていた。江戸末期、写真術が日本に入ってきたとき、既に「写真師」と呼ばれる人たちが存在していた。明治の始まりと共に日本の近代は突然に始まったのではない。それは江戸末期から徐々に社会の変化はあったのである。

当時はちょっとした旅行ブームで、旅行代理店なども存在していたという。旅行者は、旅行する際に自分の似顔絵を細密画絵師に描いてもらった。そしてそれを「写真」と呼んだ。元々、「写生」と「写真」は中国の画論から派生した言葉であって、そこには明確な違いがあった。西洋からの「写真術」渡来により、「写真師」は徐々に絵筆からカメラに道具を変えていった。そして「写真」という言葉が残った。

「もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの 「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。」
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 ぺりかん社 編者:辻惟雄)


日本の「写真」黎明期に忘れてはならない人物がいる。下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一のことである。彼らが「写真術」に至る経緯はその後の日本の「写真」を考える際に極めて象徴的である。一人は化学者から、一人は写真師(絵師)からの転職なのである。

つまりは、日本において「写真」とは「科学的」な見方と「芸術的」な見方の双方が、時代と共にどちらかが重みを持ちながら歩んできているのだと思う。一方は、フィルム・レンズそして露出と絞りなどの化学・物理的要素に重みを置き、もう一方では構成と色と被写体深度に重きを持つ。両者とも重要ではあるが、西洋との決定的な違いは、 「フォートス」の意味に対する重みであろう。日本には幸か不幸かそういう呪縛はなかった。「写真師」の仕事に使う絵筆に変わる道具として登場し、それ故「フォトグラフ」は「写真」と訳され現在に至ることになる。

「フォートス」の意味に対する呪縛が無いことは、別の見方をすれば、日本の写真術発展史の中に、西洋における一つの革新的な意識の変化はなかったことも意味する。それが日本の今に通じる写真の状態が現れていると、僕には思うのである。つまりは、江戸後期に登場した「写真師」の延長線上に「写真家」は存在している。無論これは根拠無い僕の直観ではあるが。

飯沢氏が言うように、「デジタルは写真を殺す」ことはない、と僕は思う。もともと西洋が意識する「写真(フォートス)」はなかったのだから。世界にある数多いカメラメーカーの中で、日本のメーカーがデジタル化への移行が速やかに行われたのは、単に技術的もしくはビジネス面だけで捉えられるべきではないと思うのである。ただ、デジタル化への移行により、日本において殺されたものは確かにある、そしてその中に「写真家」が入るのは間違いないとも思っているが、大したことではあるまい。ただデジタル化により、数量面及び技術面から、写真の位置づけに大きな変化が行われ続けているのは事実だとは思う。

スーザン・ソンタグの「写真論」が捉えた射程の長さは、本評論が現在の日本における写真評論家達に与えている影響の強さを考えれば事足りる。2004年出版の書籍「写真との対話」 (近藤耕人編)の中で、「あらためてソンタグの「写真論」を読み返してみて、現代においても少しも古びていないことに驚いた」、みたいなことが書かれてあった。少なくとも誰彼の著作に関わらず写真に関する考察が日本に乏しいことは事実ではあるが、その理由として僕は前段で述べた、ソンタグの「写真論」に捕らわれ続けている日本の写真評論の現状が垣間見ることが出来る。

ただ僕が言うのは僭越ではあるが、仮にソンタグが現在に存命で活発な活動を続けていたとしたとすれば、おそらく「写真論」の内容は大きく変わったに違いない、と思うのである。それはソンタグが冒頭の語り、それがソンタグの出発点である限りに置いて、変わらずはおえない状況が現代にあるからだと僕には思える。

「この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、広げたりしている。写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。」
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 近藤耕人訳)

ネットおよびそこに展開するWEBの状況を鑑みたとき、現在において「写真」にそこまでの力があると実感は出来ない。問題なのは、その写真に辿り着くまでのアクセスなのである。アクセスへと及ぼす行為にこそ、そこにイデオロギーがあり、そして何を見たらよいのか、つまり何を知ったらよいのかを規定している。

現代においても「写真」は一つの文法であろう、でもそれはそれに付随するキャプションにより変化もする (これについてはソンタグも語っている)。でも如何に優れた写真とキャプションであっても、人に見られなければ何の意味もない。現在において文法となり、我々の倫理観を規定しているのは、日夜垂れ流されるネット上の情報であり、蓄積されネット上でいつでも参照可能な映像である、それへのキャプションとなるブログを含めた各種メディアの存在なのだと思う。

忘れていけないのは、グーグルなどのネットにおける検索システムが、展開する国家の要請によりフィルターをかけている事実である。そのフィルターは検索システムを提供する企業自体でもおこなう場合もある。例えば、二十世紀の代表的な写真の一枚である天安門事件の
「戦車を止める男」の写真は中国国内からアクセスは出来ない。無論、チベットなどへの侵攻における惨状も写真などが検索できるとは思えない。

またソンタグも言っているが、写真の意味は、常にその写真の後からついてくる。写真の意味を変えるのも国家を含めた権力であり、もしくはその時点で主流となるイデオロギーに他ならない。アクセスへの方向を左右する力とイデオロギーが意識的に結びついたとき、おそらく我々の進むべき道は、選択が与えられているかのようで実際は操作されている、そんな状況に陥るのだろう。

しかも写真自体、本来的にバイアスがかかっているものなのだと思う。しかもそのバイアスは無自覚なことが多い。写真を撮るとは、写真に撮られない現象があると言うことであり、その現象を撮さなかったということから写真家は逃れることが出来ないのだと思う。

「さらに、忘れてならないのは、「ナショナル・ジオグラフィック」誌が創刊から8年目の1896年に、果敢な決断を下している点だろう。この年、本誌は世界の人々をありのままの姿で伝え、写真に細工を加えるようなことをしないという方針を打ち出している」
     (「ナショナル・ジオグラフィック傑作写真ベスト100」 編集長 William L.Allen)

「写真に細工を加えない決断」がそこにあったとしても、数万の写真の内から編集者が選択しキャプションを付けた時点で、その写真はメディアが意図するイデオロギーを補強する部品となる。「世界の人々をありのままの姿」とは一体どういうことなのだろう、それが一つのオリエンタリズムに陥っている可能性を誰が否定できるのだろう。ナショナル・ジオグラフィック誌は確かに良質な写真を世界に送り続けている、でも僕にとってはそれはあくまでも写真の「リーダーズダイジェスト」なのである。そして、僕にとって最も恐ろしいのは無自覚な思考である。

だからといってソンタグの「写真論」が、もしくは写真について語ることに意味が無いとも思わない。逆に各先達者を踏まえて、現状における「写真の考察」を新たに行う必要があると思っている。そして、そこに考慮を加えるとすれば、ソンタグの活躍した時期には想像も出来ないほどのデジタルカメラの普及だと思う。デジタルカメラはあらゆる道具に装着可能であって、携帯電話に付いたデジタルカメラはネット上の一つのノードとなり空間を瞬時に無効化する。

ネットワーク的な視点での写真論の登場が必要なのだと、僕は思う。そして、前段の僕の意見に矛盾するかも知れないが、少なくともソンタグの「写真論」の解釈次第で、それらも射程に入るか糸口が存在する可能性があるように、僕は思っている。


冒頭に戻るが、「デジタルは写真を殺すのか?」という質問は適切ではない。そもそも現代の日本に置いて「写真」を語ることに意味があるのかという質問の方が、写真評論にとっては重要なのだと僕には思える。しかし現在でも写真評論家は、写真専門誌上で「写真」だけを語る。彼等の射程の短さは、単に「写真」が人間の趣味の一つとしてしか、その位置が許されていないかのようである。故に「写真論」は現在の日本では全く浸透していない結果となってしまったとも思えるのである。

「写真の考察」をなおざりにしてきた日本の現状が、諸外国の各著作者達の「写真論」の邦訳が滞っていることにも現れている。2004年出版の書籍「写真との対話」(近藤耕人編)で中心となるのは、ベンヤミン、バルト、ソンタグの写真論御三家でしかない。そしてその中での対談で、写真家畠山直哉氏は語る。写真家の存在自体が無くなっているのではないかと。求められているのは、現代に即した、新たな写真への考察であり、その理論に基づき撮された写真なのである。

それには写真のことばかり考えている状況から脱しなければならない。そしてそれが現代の「写真家」に求められていることなのではないかと、僕には思える。つまりは人間にとって重要なモノの一つである写真の状況を堕としているのは、写真の専門家達なのだ。

この拙い記事は、僕が写真のことを考える出発点にする思いで書いている。だから僕が「写真の考察」を行う際の問題とする面をあげ、僕なりの答は殆ど書いていない。「何故写真を語ることに意味があるのか」という問いに対してもなおざりにしたままだ。ただ「見る」と
「知る」はギリシャ語では語源を同じにすると言うことと、「知る」ことが人間の「活動」の元だと思うのである。それに写真とは、それを人に見せた段階で多かれ少なかれ政治的なものに変化するのだとも僕は思う。答えになっていないが、出発点としてはそれで十分だろう。

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