2008/02/13

相撲の様式、朝青龍、そして時津風部屋の悲劇

「相撲」の様式を考えるとき、そこには歴然とした幾つもの表象が離れがたく結びつき構成されているのを意識する。髷を結う髪の毛、「まわし」以外は何も身に付けないほぼ裸体の姿、そして勝負までの一挙一足に至るまで、何から何までもが相撲の様式として成り立っているかのようだ。力士たちはそれらを無視することも外れることも出来ない。

2008年1月場所千秋楽の横綱同士による優勝決勝戦は見事だった。僕は夜中のダイジェストで試合を見たが実におもしろかった。二人の異国の青年力士による闘いは大相撲の醍醐味を直接に伝えていた。あの試合に解説は全く無用だった。

サッカー問題により二場所出場停止を受けた朝青龍は1月場所の序盤で土が付いていた。取り戻せない勝負勘、そしてモンゴルで傷ついた足、さらには風邪による発熱。しかし朝青龍に休む選択肢は全くなく、その結果二日目に稀勢の里に土俵下に送り倒された。このまま白鵬の全勝で有利のまま千秋楽を迎えると思われた。しかし十日目で白鵬は苦手の関脇安馬の上手投げで初黒星を喫した。そして両者一敗のまま千秋楽を迎えたのであった。

2008年1月場所千秋楽の横綱決戦時の瞬間視聴率が34%を超えていたと後日発表されたが、相撲人気が再燃するかどうかは別にして、1月場所の人気が朝青龍による所が大きいと少なからずの人が思うことだろう。
「1月27日の初場所千秋楽。13勝1敗同士の横綱相星対決に48本の懸賞がかけられた。横綱同士の相星決戦は約5年半ぶりだった。47秒間の大相撲で白鵬が左から上手投げをきめて、朝青龍を1回転させた。国技館に飛び交ったざぶとんは、ベビーフェースがヒールに勝利したことを祝福するものだった。「休んでいた横綱に負けられない。それだけでした」。白鵬は繰り返した。(2008年02月08日 朝日新聞)」
朝日新聞では善玉と悪役との闘い、千秋楽決戦での勧善懲悪、これらが衆目を集めた要因の一つとする。その一方で朝日新聞では以下の意見も載せている。
「日本相撲協会の再発防止検討委員会委員で漫画家のやくみつるさんは「朝青龍は土俵外の態度など何も変わっていない。みそぎは終わっていない。これで土俵の第一人者の座を白鵬に奪われた」と手厳しい。大相撲にヒールの存在など必要ない、という立場だ。(2008年02月08日 朝日新聞)」
朝青龍に付きまとう横綱としての「品位・品格」問題。漫画家のやくみつるさんの意見は一つの朝青龍の好転を見ることが出来る。それは彼の行動を問題視する範囲から「土俵内」が消えたことだ。再起後の一月場所であれほどの相撲を見せられれば「土俵内」での行動に異を唱える者は少ないことだろう。

朝青龍の横綱としての「品位・品格」を問題とする人たちに、特に相撲関係者に聞きたいことがある。それでは横綱審議会は何故彼を横綱にしたのか、ということだ。彼の「ヒール」振りが横綱になることで緩和されるかもしれないという思い込みがそこにあったのだろうか。いや違う、と僕は思う。サッカー問題は別にして、朝青龍の態度に、周囲が求める横綱としての「品位・品格」が身につくことなど誰も考えていなかったのではないだろうか。

そもそも「相撲」の様式の中に既に「品位・品格」は内包されているのではないだろうか。「相撲」は様式の世界であり、逆に言えば「様式」しかない。そこに主観的な「品位・品格」を求めること自体に無理がある、なぜなら、繰り返すようだが、既に様式に内包されているのだから。

様式は「表象」される。そして「表象」を規定するのは、この場合一連のルールでしかない。「品位・品格」に問題があるとすれば、具体的にどうすべきかをルール付ければ良く、抽象的である限り現実的には議論のしようがない。
「協会最高責任者の目が土俵の上だけに向けられていると、「強ければ何をしても構わない」と、師匠の言いつけに耳を貸さないモンスター横綱が出てこないだろうか。また「強い力士を育てさえすれば」という風潮は、常軌を逸した過酷なけいこを弟子に課す親方が出てくる危険性もある。(2008年2月9日 毎日新聞)」
上記の毎日新聞社説の意見は誤っていると思う。相撲は「相撲の様式」の中で、つまり定められたルールの中で行動する限りにおいて、強ければ何をしてもよい。朝青龍が横綱に昇格したのは彼の強さからではなかったのだろうか。また、「「強い力士を育てさえすれば」という風潮は、常軌を逸した過酷なけいこを弟子に課す親方が出てくる危険性もある。」とあるが、過酷な稽古により強い力士が育つと考えているのだろうか。そうではない、と僕は思う。「相撲」の稽古は「強さ」を追い求めるのが主たる目的ではない、それはいわば「相撲」の「様式」を力士たちに身をもって伝えることにある。

いわば、「過酷な稽古」は相撲の様式、つまりは「相撲」の伝統継承にこだわる姿勢によって発生する。強い力士を育てるためには、力士が必要とする筋肉を鍛えるための効率的なトレーニングと、適度な休息により達成可能なのは、ほかのスポーツと同等のはずであろう。「相撲の様式」を守るため、部屋の独立性維持と、親方主導による稽古が存在するのだと思う。毎日新聞の社説は、「品位・品格」という抽象的な、あたかも日本社会で共有されていると誤解している道徳性が根本に横たわっているかのようである。
「大相撲の時津風部屋の序ノ口力士だった斉藤俊(たかし)さん(当時17歳)=しこ名・時太山(ときたいざん)=が急死した事件で、愛知県警捜査1課と犬山署は7日、制裁目的で2日間にわたって暴行を繰り返して斉藤さんを死亡させたとして、元時津風親方の山本順一容疑者(57)(元小結双津竜)と兄弟子3人を傷害致死容疑で逮捕した。また、県警は同署に特別捜査本部を設置した。大相撲にかかわる事件で当時の親方が逮捕されたのは初めて。」(2008年2月7日 読売新聞)
あえて2008年時点における相撲を「近代相撲」と呼べば、その起源は明治四十三年の国技館の開館時期付近となることだろう。維新直後の相撲存続の危機を脱し、政府・軍部中央にいる好角家たちの力により人気と勢力を持ち直した。その過程において、浮かび上がった課題は屋根付きの常設館設立のほか力士たちの行状改善(相撲道改革)であった。
明治四十三年の相撲道改革は多義に渡っている。「相撲、国技となる」(大修館書店 風見明著)によれば、改革の内容は以下の範囲となる。
「土俵のルール、力士が取組みを行う際のルール、行司と勝負検査役が判定を下すルール、団体戦のルール、報酬のルールなどプロスポーツとしての相撲に当然に要求される諸ルールのほかに、行司や力士の服装や番付け方法、相撲関係者や観客のマナーに関するルールなどから成るものとしてよい」 (『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明著)
その後幾度と変わったルールも多いが、目的としては力士としての品格を規定づけることを主としている。相撲節絵の宮中行事が途絶えてから約千年、それから明治に至るまで相撲は武道だけではなく、余興であり芸能であり続けた。逆に言えば芸能であればこそ途絶えることなく歴史に存在し続けたともいえる。ある意味「相撲」の神話への回帰は、芸能からの脱却であり、まずは力士の意識を変えることでもあった。そしてそれらはルールと、時には警察の介入により行われていったのである。

相撲部屋の名門時津風部屋の事件は、伝統・文化を守る意識から、残念なことだが起こるべくして起こった。「相撲」の歴史を紐解けば、「相撲」の改革は外部からの圧力によって、協会は致し方なく行動をとっているのがほとんどである。明治時代の危機脱却と、国技としての認知までのあいだ、協会は力士の行動をルールとして規範を設け改革してきた。今回どのような改革を行うのか僕にはわからない。

でも朝青龍の登場が、それがヒールとしての対抗軸としてでも、変革の兆しとして在るように思える。朝青龍と今回の事件との関連性は全くない。ただ、朝青龍は「相撲」が単なる「様式」であることに直感的に気がついていた。それは彼の育ってきた文化的背景の違いによるのかもしれない。そして「様式」は時として外すことも可能な「仮面」として彼に写ったとしても不思議ではない。 しかし「仮面」を「仮面」であることを認識できない人が多いように思える。

「仮面」が引き離せないほど密着し、それが主体としての自己を確定する時、名門時津風部屋の悲劇が起こるのである。事件の発覚はたまたま行われた司法解剖による所が大きい。故に過去において、それが実証困難であったにせよ多くの斉藤俊さんが存在したことは想像に難くない。

今回の事件への相撲協会の対応は様々な意見を呼んでいる。多くは協会対応の遅さであり、非難となって現れている。協会がどのような動きを見せるのか僕にはわからない。でも協会の動きは、我々が「相撲は国技」という認識を持ち、「相撲」から日本の「伝統」と「文化」を抽出し、さらにそれらの再生産を要請する姿勢にこそ、根本的な問題が隠されているように思えてくる。

何故「相撲」は日本の国技といえるのか、さらに「相撲」を日本の国技として在り続けてよいのだろうか、という素朴な問いかけこそが、「相撲」の改革を促し、しいては今回の事件を繰り返さない「考え」になると僕には思える。そしてその「問いかけ」への鍵を朝青龍と白鵬の異国の青年が握っているようにも思えるのである。

補足:「相撲、国技となる」(大修館書店 風見明著)によれば、相撲が国技となった理由は、明治四十三年の国技館開館による所が大きいとのことだった。
「国技なる言葉が初めて使用されたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁に対して使用された時であったという。明治時代に入ってからの使用は、「国技館」が初めてだった。「国技館」は響きのよい名称と受けとめられ、各地に国技館が開館するに及び、「相撲は国技」の認識が出始め、これを一歩進めた「相撲が唯一の国技」の認識も出てきた。」(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明著)

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