「大統領は受精卵を壊さずに万能細胞を取り出せる新たな研究を「過去の論争を乗り越える突破口」と高く評価し、受精卵を使う胚性幹細胞(ES細胞)の支援法案に拒否権を発動した姿勢を大きく転換した。議会に対し「倫理上問題が大きい」とみる細胞関連の実験や研究成果の取引、特許の流用などを禁じる法整備も求めた。(2008/1/30 日経新聞)」ES細胞の作製には受精卵を使う方法とクローン技術を応用する方法の二種類があるが、どちらの共通項は卵子を使うと言うことだろう。受精卵を使う方法のみが大きく取り上げられ、そこに「倫理上の問題」を組み込むことで「万能細胞」の研究に一定の歯止めをかけていたとも言える。皮膚から「万能細胞」が作製可能とする研究は、始まったばかりで多くのハードルがあるが、「倫理上の問題」という歯止めを取り外すことで、将来における新たな国力の礎となりえる可能性を持つことに誰も疑いを持たない。
ブッシュ大統領の演説でわかることは、「倫理上の問題」を「受精卵を壊さない」こと、さらには「人間の生殖系」に適用しないことに取り纏めたことだろう。倫理上の問題とすれば、その他にも様々な問題があるのは事実だと思う。それらを、ES細胞作製の方法としてのクローン技術の応用を無視したように、除外して「倫理上の問題」を一つにまとめた発言ともとれる。逆に言えば、ブッシュ大統領にとっても、支持基盤である保守層の意向を無視することは出来ず、しかしそれらが将来の米国における国益に対してボトルネックになりつつあると感じていたように思う。その中で新たな研究成果(iPS細胞)が発表されたので彼は飛びついたのではないだろうか。
共有する倫理問題であれば、ES細胞の研究当初より生殖系の「細胞関連の実験や研究成果の取引、特許の流用などを禁じる法整備」が行われてしかるべきだ。iPS細胞の登場によって法整備を行うとするのはどう考えても順番は逆であろう。つまりは「倫理上の問題」といっても「将来の国益」の視点からみればその程度の問題なのだ。
日本でも1月28日に万能細胞(iPS細胞、ES細胞)における生殖系研究は「当面」禁止とする方向で動いているので米国と同様である。
「iPS細胞や胚性幹細胞(ES細胞)から展開が考えられる生殖系の研究には(1)精子や卵子を作る(2)作った精子や卵子を受精させる(3)受精させた胚を子宮などに戻す、などの段階がある。研究が先行していたES細胞では、現在(1)からすべて禁止している。 文科省は、iPS細胞はES細胞のように受精卵を壊すことはないが、当面はES細胞と対応をそろえるのが妥当と判断した。(2008/1/28 朝日新聞から)」映画「アイランド」(2005年米国)では、顧客の細胞から移植用の各臓器を作製しようと試みるがことごとく失敗する。臓器が臓器として作製されるためには器としての人間が必要だったのである。そこで科学者は顧客のクローン人間を造り一カ所に集めて管理し育てる。そこではクローン人間は人間ではなく、人間の言語を使う心臓だったり、肝臓だったり、子宮だったりとなるわけであるが、クローン人間達は自分が何者かは知らない。クローン人間達は自分たちが最終戦争の生き残りであり、最後の楽園「アイランド」に行くための準備をしているのだと洗脳されている。「アイランド」に行くことは実際は彼らの心臓・肝臓・子宮などを摘出することであり、器としての役目を終える時でもある。
iPS細胞から臓器だけの製作は将来において可能と科学者たちは語る。リセットされた細胞は特定コードの挿入により、コードに見合った姿に製作される。おそらく語るほど単純なことではなく、様々な関係要素により実際は何ができるかわからないのが本当のところだろう。もしかすればネズミの姿をした心臓、ウサギの耳を持つ肝臓、人間の内臓を持つ猿がそれらを代行することになるかもしれない。人間のために製作されたモンスター。現代のフランケンシュタインは継ぎ接ぎだらけではないはずだ。仮にそうなった時、倫理上の問題はどの様な姿で浮上するのだろう。
宮沢賢治の童話「フランドン農学校の豚」では、人間の言語を覚えた豚がなまじ人間とコミュニケートできてしまうことで、食肉になる契約をするように仕向けられる。童話の中では、動物は食用と言えども権利が認められ、食用のため屠殺される場合、動物の任意同意書が必要なのである。契約はあくまでも自発であり、人間たちは動物たちが自らの犠牲的精神で持って、その身を供することを疑わない。
作中のヨークシャイヤは「私儀永々御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡仕るべく候」なる奇怪な文章に前肢の爪印を捺すように求められ、どうにもブタらしからぬやり方で最後には屠られるのです。なまじニンゲンの言語を理解し、文字能力を身につけたばかりに、ヨークシャイヤは擬人化されないままのブタには要求されるはずもない武士道的従順さを強いられ、かといって擬人化の恩恵にたいして浴するわけもなく、ただ無残に、ニンゲンを肥やすための食材とされるわけです。(『擬人化の未来』西成彦)宮沢賢治の童話における擬人化はあくまでも状況の比喩である。しかし僕らは比喩ではなく、動物が人間の言語を操る、内臓が走り回る、オリジナルと複写の区別がない生命が在る時代を迎えようとしているのである。米国と日本が生殖系の研究を「倫理上の問題」として禁止したとしても、誰かはその一線を踏み越える。そして米国と日本の研究者たちも彼らに追従して研究可能な場へと流れてゆくことだろう。だから日本でも生殖系の研究を解禁すべきと言っているのではない。止めることは難しいと言っているのだ。僕らは「禁止」だと叫ぶだけでなく、それに対応した考えを構築する必要もあると思うのである。
iPS細胞やES細胞を「万能細胞」と誰が名付けたのであろう。「万能」であると言うことは無限定であると言うことだ。つまりは無限と言うことだろう。万能で無限である存在、僕はその存在を「神」しか思い描けない。「万能」は限定で有限な僕の中に存在している。無限を有限が包括できるのかと一瞬とまどうが、それは「限定で有限な僕」という例えが誤りなのだろう。おそらく「万能細胞」は無限ではなく、僕は有限でもないのだ。人間の生を物質レベルで考えれば、誕生から死までの線分で捉える必要もない。僕を構成する物質は死んでもなお残り続ける。
おそらく万能細胞は言葉通りに「万能」ではない、と思う。しかし先々は整形医術・サイボーグ技術と一体もしくは棲み分けて、人間の欠損を補い、機能を拡張し、さらには新たな生命を創ることだろう。「万能」細胞に対する期待は、現在語られているような内容だけに収まりきれないのも事実だと思う。それが人間の精神にどのような影響を与えるのか、このことについて僕は間違いなく内部にいる。
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