2009/08/23

「地球」という言葉

映画「地球が静止する日」を観て面白い場面があった。
宇宙人の男(キアヌ・リーブス)は地球外生物学者ヘレンに「地球を救いに来た」と告げる。それをヘレンは「人類を救いに来た」と誤解する場面だ。

ヘレンにとっては、そのように誤解するのは致し方ない。宇宙人に地球の言葉を解することの方が難しいと思うのだ

学術もしくは特殊な専門用語などを除き、殆どの言葉には人間が内包されている、と僕は思う。もちろんそれは「地球」も例外ではないと思う。
さらに「地球」という言葉には、人間以外の地球上のあらゆる生命とか環境も含まれていると考えて間違いないように思う。
だから、「地球のため」もしくは「地球を救う」とは、「人間のため」「人間を救う」も内包されていると僕は思う。

ヘレンが誤解したのもやむを得ない話なのだ。

漫画「寄生獣」のミギーは次のように語る。
「わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」という人間がきらいだ・・・・なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな」

人間以外の生物に語らせることで、「地球」という言葉から人間を除外するすることが出来た。それは「地球が静止する日」の宇宙人と同じだ。
ミギーには人間の言葉の意味を技術的にしか知ることが出来ない。つまりは一般的言語としての記号でしかない。

ミギーが「りんご」と言った際、「リンゴ」が指し示す、あの熟すと主に赤い実となる果物のことしかない、と僕は思う。

でも「リンゴ」と日本語で語る場合、僕らに受ける「リンゴ」が指し示すものは、「あの熟すと主に赤い実となる果物」だけではないはずだ。もしかすると果物屋での値段を気にするかもしれない。作っている方のことや、産地のことを気にする人もいるだろう。なによりもまず、好きとか嫌いとか、美味しいとか不味いとか、酸っぱいとか甘いとか、そういうことを思い浮かべるだろう。でも根底にあるのは、「リンゴ」は人間が造り人間が食べるものであるということだ。ミギーが解する言語とは、そこが根本的に違う、と僕は思う。

でも実際に、何故かミギーのように「地球」を語る人は多いのも事実だ。
しかしそれはその語り自体に矛盾があるように思う。人間の言葉から人間を排除すること自体、それは不可能だと思うのだ

追記:「地球が静止する日」(2008年)は1951年のリメイクであることは知られている。1951年の日本語タイトルは、「地球の静止する日」で一字だけ違う。

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