2009/08/25

感想 映画「剣岳 点の記」

久しぶりの映画館。この映画に出不精の僕が足を向けたのは、山を中心とした映画だからだ。しかも原作者が新田次郎であればなおさらだ。

観に行く映画の候補は幾つかあった。家人は、それであれば全部見に行けば良い、と言うが、不器用な僕としてはそうはいかない。一つの映画を観ると、良い映画であればあるほど、僕の中で消費する時間がかかるのだ。大抵は、見終わった後に混乱が生じ、頭の中で整理し、自分の思いをそこに付け加える、そして気持ちがあれば文章を書く。ここまでのサイクルは早くて1ヶ月はかかってしまう。映画とは僕にとって一つの問題でもあるのだ。

場合により、性急に解決しなければならない映画もあるのだが、映画「劔岳 点の記」は差し迫った問題ではなかった。
もちろん、良い映画であることに間違いはないのだが。

この映画の監督はカメラ出身とのことだ。だからか山々の描写がとても美しい。

四季の移り変わり、一日における変化、青空と樹木の緑、白い岩肌、そして紅葉。赤く染まる夕焼け、夕闇迫る灰色の彼方に黒く浮かび上がる山々。その壮大な山々の中を、連なる蟻のように列を成し登る人々。

後から映画のサイトを眺めるとCGは使ってないのだそうだ。だから良いとは、現在の技術力を持ってすれば一概には言えないが、この映画においては良い結果になったといえると思う。山の描写だけでもこの映画を観る価値はあるように僕には思える。

ところで、この映画のコピーとして幾つかの言葉が並べられている。
「誰かが行かねば、道はできない」、もしくは「人がどう評価しようとも、何かをしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事です。悔いなくやり遂げることが大切だと思います」などだ。

実は新田次郎の原作を僕は読んではいない。でも想像するに上記の言葉は小説の中の重要な一文なのだろう。

しかしだからといって映画のメッセージと小説で語りたいことが合致するとは限らない。小説と映画は違った表現方法なのだから、同じになるという方が難しいように僕には思える。

この映画のメッセージは、小説を読んでいない僕が言うのは不適なのはわかるが、小説のそれとは違うのではないだろうか。それは上記の映画のコピーが台詞として語られる場面の不自然さにある。不自然と僕が感じるのは、その言葉が大事であれば、発せられる必然性が丁寧に描かれるはずなのに、少しばかり唐突に語られていたからだ。

映画のメッセージは、カメラワーク、脚本、演出、演技、音楽、道具立て、そして編集などによって、映画全体から発せられるものだと思う。台詞は言葉として、そのメッセージを要約することもあるが、だからといってそれが生かされるかどうかは別問題なのだ。

この映画にとって要はやはりカメラワークにあると僕は思う。

例えば、カメラワークは山を舞台にするとき(山の内)と、山から離れて人の営み(山の外)を舞台にするときとでは違っている。

山の内では、山々の自然の壮大さと美しさ、そして対比しての人間の小ささが出ている。望遠を生かした撮影が所々に現れる。
山の外では、屋内を舞台にした撮影が多く、役者の近くに寄ったカメラワークが主体となっている。
山を舞台にした映画なのだから、それはそれで当然と言えばそうかもしれない。しかしその対比は顕著であった。

それにカメラ出身の監督もカメラが要であることを意識していたのではないだろうか。だからこそCGを使わず、俳優たちを実際に体験さえ、その映像を撮り続けたのではないかと思える。

またそのカメラワークと相まって、脚本・演出の面でも、山の内と山の外では違っていた。山の内では人間は謙虚であり、目的に対し献身的で、仲間として互いに敬愛の情で結ばれていた。対する山の外では、人の虚栄心、名誉欲、競争心、などが全面にでていた。

自然に「大」を付けるようになったのはいつ頃だろう。日本語の「自然」という言葉には様々な意味がある。どれも程度の違いがあるにせよ、人工ではないと言うことだ。

ただ、人工については、語る側の信念がそこに強く挿入されてもいる。例えば、人が人やものに対して「自然だ」とか「自然ではない」とかの物言いがそれにあたる。

その意味で、ある意味「自然」「人工」という言葉はイデオロギーの一種になっているかもしれない。自然の前に「大」を付けたのは、それらイデオロギー化された「自然」と、人間が踏み込むことが困難な環境としての自然とを分ける意図があるのだろう。無論、この映画での「自然」は「大自然」のことである。

その大自然に対峙する人間は謙虚になる、とは一つの文化コードでもある。人間は人工のなかでしか生きられない、とはアレントの言葉だった。だから大自然の中に入り込む場合、人工物である生活一式を全て携えなければならない。

この考え方はいかにも欧米的でもある。しかし、この映画の測量隊も日本山岳会の双方とも、近代登山の黎明期の中で、この思想に則った登山を行っているのだ。大自然への謙虚さとは、自然と人工、自然と人間との、距離感にある。そしてその距離感は、近代登山と共に始まったように思える。

この文化コードが映画の中でも現れていた。測量隊の中に、若く実力があるが横柄で自信家で、サポートする強力たちにぞんざいな口をきく男がいた。映画の観客たちは、謙虚さの中で一人だけ異質なその男性が、いずれ壮大な自然の中で変わってゆくのだろうと期待する。そして期待通りに彼は徐々に謙虚になっていく。

それに対応する人物が映画の中で「行者様」と呼ばれた修験者だと思う。修験者にとれば、自然との間に距離はない。彼にとってみると、初登頂という概念自体がないと僕は思う。

劔岳への初登頂を、測量隊と日本山岳会の両者が競い合っていた。測量隊は三角点を建て、測量することが目的で、初登頂が目的ではない。でも測量隊の軍本部では日本山岳会に負けるなと命令し、マスコミ、日本の人々は両者の競い合いに注目していた。
結果的に測量隊が日本山岳会よりも先に劔岳に登るのだが、実際は測量隊よりも先に山の修験者が登頂を果たしていた。

測量隊と日本山岳会以外の人たち、軍本部・マスコミ・人々にとって劔岳の初登頂の騒ぎは無意味だったと感じる。しかし測量隊と日本山岳会にとってはそうではなかった。

測量隊が地図を作成することに目的があるように、日本山岳会は山頂への道(ルート)を造ることが目的だったのではないだろうか。初登頂はその目的の副次的なものでしかない。お互いが切磋琢磨し、山という共通の環境の中で、それぞれの目的に献身的に動く。その姿勢は双方とも共有するところだ、その過程でお互いを認め合い、そこから尊敬と共に、ある種の絆が産まれる。

映画の終わりに、測量隊と山岳会の人たちは、劔岳と向かい合う山の頂に立ち、お互いに手旗信号でエールを交換する。そしてお互いに目的のために努力をした仲間であることを意識する。そして映画は終わる。

スタッフ紹介のテロップが流れるその先頭には「仲間たち」と書かれている。ただ当然のことながら「仲間」には、軍本部の上司たち、マスコミ、周囲の人たちは含まれていない。「仲間」に「みんな仲間」などという線引きはありはしない。

僕はこの映画のメッセージの要は「絆」だと思う。その理由は今まで書いてきたとおりだ。「仲間」とは「絆」を具現化したものだと僕は思う。そして、映画のメッセージは原作のそれとは違っているように僕は思う。

仮にその違いが著しいのであれば、僕の見方が誤っている可能性と共に、この映画の問題の可能性もあるだろう。僕はこの映画が原作に重きを置く結果、映画に詰め込みすぎた印象を持った。
もう少し的を絞れば、もう少し編集において場面を減らせば、より的確にメッセージが伝えられたのではないか、と思う。

ただ、映画というものは、仮に前記の通りに的を絞り場面の削除などを行えば、逆に映画として成立しない可能性もある。
この映画はこの映画で完成されている。そうも思う。

まだこの映画で書きたいことは色々とある。例えば、現在国土地理院所蔵の記録「点の記」から見た映画の印象、俳優の演技のこと、行者のこと、それぞれの役の位置づけで不明な点がいくつかあること、などだ。それらについては別途書くかもしれない。

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