僕の中には一つの懐かしいと感じる風景がある。原風景と言えば聞こえはいいが、その風景がそれに該当するのかはわからない。それは荒涼たる白い原野だ。白い原野とは津軽の地吹雪が吹き荒れる雪に覆われた場所であり、その吹雪に耐えて家が静かに建っている光景となる。通常は地吹雪からの被害を防ぐために風に面して壁を造るのだが、僕のその光景に建つ家はその様なものが一切ない。ただただ冬の強風で舞い上がり叩きつける雪に耐えている。
無論、東京産まれの東京育ちの僕にその様な場所で生活をしたという経験はない。ただ3歳から5歳くらいまで家の都合で東北は青森に暮らしたことがあった。青森市内でも決まった午後のある時間になると地吹雪に近い状態にはなり、身をかがめて歩く街の人々の印象は強く残っているが、だからといって白い原野の光景と同じではない。
その光景に強く惹かれるのに気がついたのは学生の頃だった。その頃に読んだ東北詩人高木恭造の詩集「まるめろ」にその光景が写された写真が載っていたのである。初めてその写真を見たとき、それは書店だった、強い衝撃と言う程でもなかったが、ただその写真から目を離すことが出来なかった。詩集を購入し、詩を読みながらも、それ以上に僕はその写真を眺め続けた。
眺め続け、僕の中に浮かぶ何かを言葉に出すのは難しい。でも僕はその何かを知っていた。知らないわけがない、だからこそ僕はその光景に眼が奪われたのだ。知っている何かは、子供時代の記憶と結びつく。その情景を言葉に紡ぐことはできる。ただ、それらを紡いだところで、その何かが現れるわけではない。その頃からの僕の一つの願い。その写真と同じような光景を、実際にその場にいて撮影してみたい。写真から僕はその何かに気がついたのだから、きっと同じような写真が撮れる事だろう。
今思えば、写真から何かを感じ得ていたことって意外に多い。そのどれもが人が撮った写真からだ。自分が撮った写真から浮かぶことは少ない。自分が撮る写真は、ただそこにあるものを見るような、そんな感じに近い。
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