2006/06/30

従兄弟のこと

park bench

従兄弟が亡くなった。以前に記事で従兄弟が癌と宣告されたことを記事に書いた。それから約一ヶ月で彼は亡くなった。前日には、それまで寝たきりだったのが急に起きあがり、見舞いに訪れた人に元気な姿を見せていた。声も大きく、会話に参加する様は周囲に幾ばくかの期待を抱かせるに十分であった。

従兄弟は癌の末期症状から来る痛みにより、鎮痛剤を肉体に注入しているにも係わらず、眠れぬ夜が続いていたらしい。眠れぬといっても鎮痛剤により意識は朦朧としているのだが、それでも床ずれも含めて様々な痛みが襲う。そんな彼がひとしきり元気な姿を見せた後、急に深い眠りに陥ったらしい。眠りの初めは自然な姿であり、夜眠れぬ状態である事を知っている看護士からは、「久しぶりにぐっすり眠っているようで良かった」と言葉に出るほどであった。

それが眠りから昏睡状態にはいり、一度も目覚めぬまま息を引き取った。2006年6月29日午前11時7分の事であった。

僕が彼の死を聞いたのは、丁度亡くなって自宅の母に連絡が入り、その母を通じてだった。ふと身近な時計を見る。時計は11時半を過ぎようとしていた。これから遺体を自宅に運ぶとの事だった。

この記事は追悼文にするつもりはない。僕は間違いなく彼のことを忘れることはない。従兄弟にとって僕は弟のような存在だったかもしれない。でも父を幼い頃に亡くした僕にとっては、彼の姿に父親の姿を僅かながら見ていたのは事実である。身近な者の死は、追悼文などという姿にするまでもなく、僕が密かに誰に証すこともなく、自分の中の悼みとして一生持ち続けていく事になるのだと思うのである。人に対する悼みの気持ちとは本来そう言うものだと僕は思う。

ただあまりにも突然の死であった。「癌には語り合う時間がある」などという物言いが空虚に感じるほど、僕は彼と話をしていない。

奥さんの話を聞けば、従兄弟は前日眠る前にまで、自分が十分に治ると確信していたらしい。でも傍目から見る彼の病院での姿は、食事が出来ないために栄養剤の管が肉体に挿入され、その他に点滴と、腹水が溜まるのでそれを捨てる管、また痛みを抑える鎮痛剤の管、等が付けられていた。そして医者から家族にはもう長くないことを告げられていた。

腸閉塞の改善の手術は一応成功していた。でも僕から見ればその手術の後、従兄弟がベットから起きあがり元気に動き回る姿を見たことは一度もない。確かに手術は大きなリスクが伴うものだったとは思う。医者も最大限の努力をしてくれた。でも僕が誰にも告げずに思うことは、手術をしない方が良かった、強くそう思う。

勿論手術の是非については結果論の話なので、今更の話である。だからこそ僕は誰にも言える話でないこともわかっている。そしてその事は、いずれ僕自身が彼と同様の立場になったときに、自分がとるべき行動として深く記憶に刻むしかない。

遺体が自宅に戻ったことがわかり、僕は取り急ぎ従兄弟の自宅へと向かった。家では彼の姉妹達が全員来ていて、それぞれに目を赤く腫らし、彼女たちの悲しみの強さを表していた。特に彼が愛した娘達の姿は、涙が涸れることがないかのように、静かに涙が頬を伝わり続けていた。従兄弟の家は静かであった。限りなく深く静かであった。

従兄弟の母は別室で横になっていた。従兄弟の妹が老母に付き添っていた。「私が代わってあげれば」と何度も母はつぶやいていた。

彼の顔を覆っていた白いガーゼをめくると、そこには従兄弟が青ざめた表情で、眠っているかのように、静かに目を閉じていた。娘が従兄弟が横たわる布団の横で顔を埋めている。時折顔を上げて従兄弟の顔を静かに優しく触る。その仕草が痛々しい。僕は微動だにせず、 動くことも語ることも出来ず、じっと彼の顔を見続けている。信じられなかった彼の死が少しずつ、僕の中に受け入れられてくる。

正直に言えば、彼の死を受け入れる、という物言いは正確でもない。おそらく僕は彼の死を認めながらも、彼の存在を僕の周囲に求めることだろう。彼の顔は穏やかだ。ふと従兄弟を抱きしめたいという衝動に駆られる。抱きしめる変わりに僕は彼の顔に触れる。柔らかさと冷たさ、彼との思い出が触れることにより僕の中を混乱と共に駆けめぐる。
思わず嗚咽がでる。

一人の男が生き、そして死んだ。死にたいし、安らかに誰にもこれといった迷惑をかけることなく、最期に元気な姿を周囲に見せ、それこそあっけなく彼は逝ってしまった。彼の人生は、誰もがそうであるように、波瀾万丈であった。波瀾万丈との眼差しは、勿論他者からの眼差しであろうし、従兄弟自身はそう言うことは微塵も思っていなかっただろうと思う。それに波乱がない人生など何処にもないかもしれない。 しかしどういう形であろうとも、一人の男が僕と同時代に生きていたのは紛れもない事実なのである。

いずれ今回の様々な出来事が、個々の記憶の中で一つの符丁となって、新たに蘇ることだろう。例えば死の前日、あれほどものが食べれなかった従兄弟が、元気な姿に誘われて奥さんが出した好物のお稲荷さんを美味しそうに1個食べたこととか、それ以前に前日に元気な姿と明瞭な言葉での会話を交わしたこととか。喪失とは彼を取り巻く人々が抱く感情であり、従兄弟自身のことではない。そして喪失感から来る足りなさを、そうやって埋めていくのだろう。

でも間違いなく今の時点で僕が言えることは、彼は病気を治癒するつもりでいたと言うこと。そして、この言葉を吐けば悲しさが募るだけなのはわかるが、従兄弟は生きようと、生きたいと強く思っていたということ。そしてそれが叶わないまま、途中で彼は亡くなったと言うこと。そしてそれらのことは誰彼の区別なく、僕自身の死に対しても同様であろうと言うこと。まさしく美化することなく彼は僕にそれを最期にあらためて教えてくれたように思うのである。

いずれ僕は従兄弟の事を書きたいと思う。何も書き残さず、生来無口で多くを語ることの無かった従兄弟は、ただ同性として、僕とは少しばかりではあるが様々な事を語った。彼と接した人は、それぞれの眼差しの中で従兄弟の精神を思い描いていることだろう。どれもその方にとっては正しい。でもそれは従兄弟自身のことではない。少しであれば彼に歩み寄れるかもしれない。そんな思いを僕は持っている。

従兄弟が最期に奥さんと交わした会話は、他でもない僕のことだったという。つまり僕のオートバイの装備の事を気にしていて、病気が治ったらその装備を買ってやるんだと、言っていたそうだ。自分に対し一所懸命に過ごした彼は、人に対しても一所懸命な人間であった。

またいずれ逢いたい。逢うだろう。そう思う。

2006/06/29

夢の如く

wild flower

小学生の頃、眠る瞬間を知りたかった。でも気が付けばいつの間にか寝てしまい、 自分が明確にその瞬間だと意識できたのは一度もない。まどろみの中で周囲の物音が遠ざかり、 安心感と共に何か吸い込まれるような感じを持っても、僕はまだ起きていると感じていた。
でも次に気が付くのは決まって朝だった。そして僕はもう少し頑張れば眠りの瞬間を知ることが出来たのにと悔やんだ。

そういうことを何回か繰り返した後に、僕は眠りの境界線をまたぐ瞬間を知ることをあきらめた。そして漠然と起きている状態と寝ている状態の間に境界線はないか、あるとしてもそれは曖昧模糊とした、線ではなくてエリアのようなものではないかと子供ながらに思った。

今の僕は子供の頃とは違った見方をしている。両者の間に境界線もなく緩衝域というグレーゾーンもない。勿論それらは、各々の意識、もしくは何らかの数値 (例えば脳波など)によっての決め事なので、人によってはそれらは在るとするかもしれない、専門的なことはわからないが、 少なくとも僕にとっては両者への移行は緩慢な流れの中にあり、 分け隔てるものなどない。

「邯鄲の夢」を持ち出すまでもなく、人生を夢如くと捉える物言いは多い。それは単なる洒落た言い回しではなく実感を伴う言葉でもある。何故人生が夢であると人は実感できるのだろう。この問いは何を示すのであろうか。人は実社会の中で現実と夢の世界を明解に切り分けている。それは日常の会話の端々に現れる。「それは夢であって現実ではない」云々。
その物言いによれば人生は夢ではないはずである。しかし起きている状態(覚醒)と寝ている状態(睡眠)の違いが何処にあるのか僕には正直わからない。目を閉じ、僕自身を見つめていくと、僕は宙に浮いている感覚を持つ。

その感覚は子供の頃によく見た夢を思い出させる。僕の周囲に遮るもの無く、僕は宙に浮いているのか地に立っているのか全くわからない。周囲は手を伸ばせば届きそうだが、実際は全く届かない。足下も同じである。無数の帯状の光が僕の行く手に流れている。そんな夢だ。

時としてそのような夢を、人は覚醒時に見ることもある。また過去の思い出に浸るとき、それは夢を見ているかのような、そういう錯覚に捕らわれる。覚醒状態と睡眠状態の厳密な区別など出来ないのではないか、そんなことを考える。

例えば病気・怪我などで昏睡状態の人がいるとする。僕はその人を外部から見て覚醒している状態とは思わないだろう。でも昏睡している人自身は一体どうなのであろうか。想像でしかないが、その方はそういう状態の認識があろうがなかろうが、その方自身の現実を体験しているのではないかと僕は思う。だからこそ身近な方の、昏睡状態の人への語りかけが求められるのでないだろうか。

あくまで僕の勝手な想像だが、おそらく以前は、 現実と夢との区分けは今ほど明確ではなかったように思える。近代における産業構造の変化、社会の誕生により、人間の条件は覚醒時においてのみ考慮されるようになった印象を受ける。そしてそれに該当しないものは、病院もしくは刑務所などによって社会から隔離される。

僕は前に夢など見ない深い眠りの状態が「死」の状態に近いと誰からか聞いたことがある。でもそれは違うと僕は思う。根本的に眠りは深かろうが浅かろうが「死」ではない。確かに睡眠の瞬間がないように、「死」の瞬間もないとは思う。また両者は意識の中において似ている部分もあるかもしれない。でも睡眠時であろうとも彼の(彼女の)複合的な肉体では様々な気管が活動をしている。少なくともその活動がある限り、人間の条件の大きな一つは満足している。そういうふうに思う。

2006/06/23

花の写真、フクシマセツコ(seedsbook)個展の紹介

blossom buds

趣味として写真を撮ることが頻繁になり、以前より植物の名前を知るようになった。特に樹木の識別についての知識は、つい数年前と較べたら雲泥の差があるように思う。といっても以前の僕は全くと言って良いほど植物に対して無知であったのだから、知ったと言っても程度は推して知るべしである。

実はこの2枚の植物の名前も未だ知らない。初夏の緑が美しく、それを撮りたいと思った。二種類ともツボミの写真であるが、植物が花を咲かせる力を身に蓄え時期を待つ姿が、時として満開時の花より美しさを感じる。

pink point on green

実を言えば僕が植物に興味を持った原因は写真を撮るという行為だけではない。以前より読んでいるseedsbookさんのブログ 「散歩絵、記憶箱の中身」の影響も大きい。seedsbookさんはドイツ在住の方で美術を生業にしている。彼女のブログには頻繁に様々な植物が登場する。

勿論僕などは初めて識る物ばかりである。彼女からは植物と人間の関係について、他の書物では味わえない事項を色々と教わった。seedsbookさんから教わった物はもう一つある。それはレオ・レオーニの「平行植物」という本である。

現在ちくま文庫で出ているが、僕が欲しかったのは文庫版でなく単行本としての、しかも最初に出版された本であった。最初に出版した 「平行植物」の装丁デザインが優れていて、書物の内容ととても合っていた。そこでそれを求めるべく、ネットで中古本を購入したが、
届いたのは初回版ではなかった。それで少し読む気がそがれ、未だに読み終えていない・・・

実はseedsbookさんが久しぶりに日本に来ている。静岡で個展、東京で二人展を開催するのである。静岡での個展は既に始まっている。僕は東京の二人展を見学しようと思っている。

seedsbookさんの個展については追記に記しておきます。
(追記の個展内容の記事は全てブログ「散歩絵、記憶箱の中身」から引用しています。)

 フクシマセツコ(個展)
6月3日から6月25日まで
テーマ:『 発芽 』


”。。。。種子は静かに待っている

一見停止したかのように見える彼等は

あるものから、ある物へと

全速力で変化し続けている。。。。。。。”

開場:土曜、日曜 13時から17時まで。
他日希望の方、電話にてお申し出ください。

gallery sensenci
〒422-8021 静岡市小鹿765-2 柴田彰 柴田恵子
・054-264-8626 ・054-252ー4750 
e-mailsensenci@po2.across.or.jp

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プロジェクト・ユニット ”Fligsamen"(飛行種子)による2人展へのご招待。
・乾久子(日本)
・福島世津子(ドイツ)



風に乗って飛んでくる事が可能なほどに小柄で身軽な作品たち。

ここで、種を蒔き広げる事を期待して。。。


-写真

-オブジェ

-本のオブジェ

-ドローイング



6月26日 ~ 7月2日
●7月1日、17時から

コンサート (テルミン)
アーティストトーク

場所

トキ・アートスペース
A.M.11:30-P.M.7:00 (LAST DAY -P.M.5:00) 水曜休廊
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前3-42-5 サイオンビル1F
TEL/FAX 03-3479-0332
http://homepage2.nifty.com/tokiart/index.html

http://www.setsukofukushima.de/

seedsbookさんに敬意を表し、アメリカ鈴掛の種子(seed)の写真を載せます。

Platanus occidentalis

2006/06/17

蜂の写真、再び写真を撮るということ

takeoff


初夏になり蜂が忙しく花々の間を飛び回る。蜂を写真に収めるのはそれほど難しいことでもない。ただ彼等は花の蜜を収穫するので、花に留まっている姿は、常にお尻を撮影者に見せることになる。

僕は一度彼等の正面から写真を撮りたかった。 何度か試みたが予想以上に僕のカメラでは難しい。というのは連写機能がこのカメラは弱く、秒あたり1枚にも満たない速度なのである。 しかも連写枚数は3枚固定となっている。

そこで連写は諦め、焦点距離を固定し瞬間を感に任せることにした。これは結構うまくいったが、 今度はピントが合わない。それでも何枚か適当に撮した。それらの中で、比較的ましな写真はこの一枚だけであった。 構図的には至らなさが目に付くが、自然を相手に僕の都合に合わせてくれるとも思えない。これで良しとしよう。

写真を撮るということは、常に撮影者は「主客一致」の難問を抱えているようなものだと最近思う。ある対象をみて僕は美しいと思う。そしてその美しさを、僕が感じる美しさのまま写真に留め置きたいと思う。しかし後で見るその写真は「美しく」はない。

何が間違ったのだろうかと僕は思う。僕の見るという行為に、何らかの問題があったのだろうか。つまりその時の感情の流れから対象がより美化されたのであろうか、等と思うのである。でも確かにあの時は「美しい」 と思ったのも事実である。その時の感覚は今でも生々しく記憶している。その記憶が対象の姿をより美化しているとしても、較べる当てのない僕にはどうしようもない。

またはカメラの問題であろうか。 確かに僕の使うデジタルカメラは古い。フィルムでの撮影と違い、ハード・ソフト両面でデジタルカメラは技術面に大きく影響を受けるのも事実かもしれない。でもそれはあくまでもハード・ソフトの両面で限界まで駆使しての話でもある。自分なりには駆使している自負はあるが、それだって毎回の撮影というわけでもない。
さらに僕は現代人らしく、機械そのものよりは人間の方に誤りが多くあると、 心のどこかで信じている部分もある。

とどのつまり、おそらくカメラで撮影した姿は、ほんとうの姿とは思わぬが、人の思惑が入らぬより客観的な対象の姿だと思うのである。でもそうは思いながら僕の主観は納得することもない。 そしてそれはおそらく永久に解決されない。何故なら人はほんとうの対象の姿を撮りたいなどと思わないのである。カメラを構えるとき、願うのは主客一致ではなく主画一致なのだと思うのだ。

思うにカメラという不思議な物は、極めて近代思想が具現化した道具であるが、どこかでスコラ的な思考と繋がっている。画像処理ソフトが市場にこれほど出回っているのは、多くの人がカメラから素のまま出力された画像を信じていない証左かもしれない。自分の主観の命じるまま画像を編集加工する。それはフィルム現像時の調整と同様の姿でもある。

ただ撮影者の編集は最終的に色彩・色調が偏る傾向があるように思う。「美しい」と感じた何かを強調したいが故に、試行錯誤の後で撮影者(編集者)は何かを踏み越え、さらに自分の記憶を補強することで、結果的にまた新たな対象の姿となるのである。踏み越えた何かとは、僕の、撮影者の対象を見た主観にほかならない。だから最終的にできあがった写真を見ても、以前よりは「美しい」のではあるが、何か全体的に違和感を持つ、そんな奇妙な感覚に囚われるのである。

最近僕の写真はそういう物が多くなったと感じている。自分の主観と画が一致する(主客一致ではなくて)写真よりは、画の方により強度がある傾向。それは対象を自分の主観の世界に取り込むだけでは飽きたらずに、さらに対象を消費しようとする姿も垣間見て、時折嫌気が指すのである。まぁそういう感覚が残っている限り、僕の写真はまた変化していくことだろう。

この記事に掲載した蜂の写真は、適用に撮してたまたま写った画なので、そういう違和感から解放されている写真でもある。(笑


追記にもう一枚写真を掲載する。題は「かくれんぼ」。


hide-and-seek

笑い話のようだが

笑い話のようだが、僕は高校時代に一つの悟りを得た。それは下校時の夕方近く、学校から駅までの道程の間に天啓の如く不意に僕の意識に浮かんだのだった。悟りと言ってもたいした物でもなく、浮かんだのは一つの言葉だった。

「全ての人間の行為は人間的である」

当たり前と言えば当たり前すぎるほどの言葉だったが、その当時の僕はこの言葉を何度も心の中で言い続けた。それは社会に様々な事件があり、その都度新聞などで綴られている文言、「非人間的」という「物言い」に対する言いようもない違和感から出た言葉なのかもしれない。何故人はありのままの存在を受け入れることが出来ないのか、素朴な疑問と共に自分を反省する中で、確かに自分にもそう言う部分があることを意識し、自分に対して言い含める形で、この言葉を僕は反復し続けたのかもしれない。でも今の僕は、その当時のあの言葉に新たな意味を見つけた僕ではなく、過去と同じようにこの言葉を反復したとしても、帰ってくるのは懐古的な郷愁のみである。

最近では「非人間的」という「物言い」は裁判所での場でしかあまり使われなくなっているのかもしれない。でもその代わりによく耳にするのが「心の闇」という言葉である。「心の闇」というものがあるのかどうかは僕にはわからない。ただ一つ僕にも言えることは「心の闇」はあった方が何かと便利だと言うことだ。何かを突き詰めて考える際に、これ以上自分に分解不能な事項をおしなべて「心の闇」と称するのは確かに都合がよい。
でも正直言えば、僕は鈍いせいか「心の闇」をどのような場面で使ったらよいのか皆目見当が付かないのである。

ただ一つだけ使われ方として言えることは、概ね「心の闇」とは他者の行動の意味に「私」が理解できないとき、使われるばあいが多いように思える。
「私」の「心の闇」と言うとき、それらは大概は他者に対しての「妬み」・「嫉妬」・「裏切り」・ 「傷害」・「偽り」・「怒り」等々の感情を指している場合が多いが、それは「心の闇」というよりは普通の人間の感情だと僕は思う。
誰でも持っているだろうし、「心の闇」でもなんでもない。ただそれらの感情がどこから湧き出てくるのか、それを単に「心の闇」に取り纏めることで、「私」は安泰と言うことなのかも知れない。でも「私」とは、そのような感情も何もかもひっくるめて「私」だと僕は思う。

秋田県の小学一年生殺人事件について、ある新聞で容疑者である女性が自白を始めたことから、「心の闇が明らかになる」などと記事に書かれてあった。
もし仮に「心の闇」が実際にあったとすると、それは「明らかに」する事が出来るのだろうか、と素朴な疑問を持つ。なぜ膨大な費用をかけ自白を裏付ける捜査をするかと言えば、あくまで公正な裁判を行うためだと思う。又、容疑者の自白に何らかの公共の問題の有無を見いだす事でもあると思う。容疑者の行動の基が「心の闇」からだとした場合、その容疑者を誰が裁くことが出来るのだろう。
少なくともジャーナリストが語る言葉ではない、と僕は思うし、公共の場で「心の闇」などという言葉を使って欲しくもない。

以前にランディさんの小説で沖縄か何処かの霊媒師の話を読んだことがある。うら覚えなので粗筋などは違っているかも知れないが、確かその霊媒師が語るには、意識を探っていると意識の底に無意識と繋がる井戸があるそうだ。
その井戸を覗き込むと、果てしなく続く闇で底は無いかのようだという。そしてその井戸を覗き込むことが出来た人が霊媒師と成り得るのだそうだ。
ここまで書いてやはり小説の内容が違うような気がしてきた。ただ「意識の底の無意識に繋がる井戸を覗き込む」のイメージが「心の闇」と妙に感覚的に合っていそうな気がして、この話を持ち出したのである。勿論感覚的に合っていると言っても、あくまで文学的にはの話で、実感としてはどちらも僕にはわからない。

ネット上で「心の闇」がどのような使われ方をしているのかを少しだけ見てみた。曰く、「心の闇に立ち向かえ」、「心の闇を語る」、 「心の闇を明らかにする」、等々とどうも「心の闇」というものが各々の中でイメージ化されているかのようだ。僕は逆に「心の闇」という言葉を多く使われることに、現代が垣間見えるような気がしている。それは他者に恐怖を抱く心持ちのように思える。

他者は「私」にとって評価を下す者であるし、「私」のアイデンティティを構築する者でもある。それでも他者はどこか「私」に似ている。
そして「私」の中に他者を取り込むことにより、「私」は安心して世界を歩ける。しかし時として「私」の世界からはみ出す「他者」の行動が 「私」を怯えさせる。意味は言語の内にある。言語化されない意味は何処にもないと僕は思う。「私」は理解できない「他者」の行動の意味を言語化できない。「他者」についていくら語ろうとも、それは「他者」の外郭をむなしく辿るだけなのだ。
意味を言語化する為にはある程度の時間が必要となるが、その時間さえ「私」には与えられていない。そして「私」の世界は終に意味がない世界へと変質していく。その中で今まで安心した「私」の世界は、不安定な「他者」に常に脅威を感じる世界へと変わっていくのである。そして「私」は自分の世界と理解できない「他者」の行動を取り纏める一つの言葉を造り出す。「心の闇」、それはそう呼ばれる。

上記の事柄は僕自身が本気でそう考えているわけではない。でも「心の闇」という言葉には、
世界は在るのだがそれを認識するのは私の主観という超越論的な世界観が根底に横たわっている様に思える、そしてその見方は時代の思想そのものであるが、眼差しはどうしても「私」という高見から見下ろす視座になるように思えるのである。
高見から見下ろさなくて、どうして「私」の、もしくは「他者」の「心の闇」が見えるのであろうか。人の「心の闇」を超越的に見る眼差し、僕は時としてその眼差しに怖さを感じる。

ネットの検索の中で僕は気になる物言いを見つけた。「世の中はいたる所に心の闇が満ちている」、満ちているのは「心の闇」ではない、その眼差しだと僕には思える。「心の闇」という言葉について、語るのも使うのも今回のブログ記事が最初で最後にしようと僕は思う。

2006/06/16

隅田の花火


hydrangeaOriginally uploaded by Amehare.

駅までの道程に紫陽花が見事に咲いているお宅があった。その中で今まで僕が見たことがなかった紫陽花の品種が咲いているので、一度写真に撮りたいと思っていた。先日その機会を得た。還暦を迎えそうな年齢の男性が庭いじりをしていた。僕は彼の背中越しに声をかけた。

「すみません」

何事かと思ったのだろう。彼は訝しげに僕を眺める。

「お宅の紫陽花がとても綺麗なので写真を撮らせて欲しいのですが」

僕も少しだけ緊張して言葉を続ける。事が紫陽花のことだとわかったとき、彼は笑みと頷きで僕に答えた。それがこの写真となる。
「隅田の花火」という園芸品種なのだそうだ。最近特に人気が出て品薄状態だという。話を聞いていると、どうもこのご主人が紫陽花好きで手をかけて育てたらしい。


「額紫陽花の一種ですけど、上から見ると隅田川の花火のようでしょ」

なるほど、確かにそう見える。星形の白いガクが二重三重になっていてとても美しい。それでいてガクの白さが清々とした印象を与える。夏の花火の姿に似ているのであるが、それ以上に川辺で花火を見るような一種の清涼感がこの紫陽花にはあるように思えた。

写真を撮っていると別の男性が近寄ってきて、友人らしい語り口でご主人と話を始めた。

「見事に咲いているなぁ。家の紫陽花はどうも今年はダメみたいだ」

お互いに紫陽花好きらしく、専門的な単語も幾つか出る。ひときり紫陽花の話が終わったとき。主人がおもむろに自身の健康のことを語り始めた。

「俺、明日から入院するんだよ」

「えっ、どうして」

「心臓が悪くて、ペースメーカーを埋め込むんだ。今日もね調子悪くて、会社に行ったんだけど途中で戻ってきた」

「そんなに悪いのか」

「ああ、悪い」


僕は写真を撮りながら二人の会話を聞くともなしに聞いている。このお宅は溢れんばかりの植物が家の前で育っている。そして一つ一つの草花は初夏の陽光を浴びて、その命を謳歌している。きめ細かな気持ちがなければ、これほど美しく花を咲かすことはないだろう。ご主人の思いを僕は植物を通して感じている。

写真を撮り終え僕はご主人と友人にお礼を述べ、見知らぬ男が厚かましいかとも思ったが、「お大事にしてください」と言って頭を下げた。

それっきり振り返らずに僕は歩き去ったが、「隅田の花火」のイメージとご主人のイメージが重なり忘れ得ぬ紫陽花となったと思うのである。


hydrangea


「隅田の花火」を近寄って花部分を撮ってみた。星形のガクだけでなく、中央の花部も趣があるように思う。

2006/06/15

築地に行く

Tsukiji Uoichiba 8

東京で産まれ育ち、それでも築地魚市場に行くことは一度もなかった。別に行かなくてもどうと言うこともない。それでも一度行ってみようかと思い立ったのは、何日間かはっきりとしない空が束の間の晴れ間をのぞかせた火曜の朝だった。


とんでもない時間に目が覚めた僕は、明るくなり始めた空を窓から眺め、オートバイに少し乗ろうかと考えた。既に再度寝ようなどとは思いもしないほど、何故か気分は高揚していた。軽い躁病かもしれぬと、自分の姿に少しだけ苦笑する。


でも既にオートバイに跨り都会の喧噪が始まる前の、少し紫かかったビルの合間を走りゆく自分の姿を想像もしていた。都会の朝は想像以上に静寂さがそこかしこに漂う。それがまたとても良い気分にさせる。カメラを持って行こう。そして朝日に輝くビルの姿を写すのだ。それが最後の一押しだった。僕は急いで身支度を始める。オートバイのエンジンを始動させたのは、窓から空を眺め思案してから20分も経ってはいなかったと思う。

さぁ何処に行こうかと、具体的な目的、もしくは方向を考える。銀座などの中央に向かうのは端から決めていた。その時に何故だか築地も面白そうだと浮かんだのだった。築地であれば、早朝の静寂さなど微塵もないのだから、当初の目的とは全く違う。一度も行ったことが無くても、活気のあるセリの場を想像するだけで、そのくらいのことはわかる。それでも築地は面白そうだなと、まずはその方向を目指そうと家を後にした。


築地までの道程は迷うことはない。皇居の方面に向かい、そこから内堀通りから京浜一号線を通り銀座に向かえばよいのだ。思いの外、車が多い。それでも朝のひんやりとした風が心地よい。空を見上げる。大丈夫だ雨は降りそうもない。


Tsukiji Uoichiba 1

築地の入り口にオートバイを駐める。築地市場の外だというのに、そこから既に圧倒される勢いである。何台もの三輪車、恐らく電気自動車ではないかと思う、が目の前を通り過ぎる。もう人などはお構いなしである。といっても乗り手は三輪車の運転技術に熟練しているようで、こちらが通れそうもないと思っている所なども、想像以上の速度で走り抜ける。
それを目で追い、巧い物だなぁ、などと感心していると思わぬ方向からいきなり三輪車が目の前を横切るので、こちらも常に周囲に目を配りながら歩くしかない。


築地入り口付近は乾物物を商う店が軒を並べる。また多くの食事処も店を開き、場所によっては凄い行列が出来ているほどである。また築地というだけあって、寿司屋も多く、こんな朝から食べるのかと思うほど店内は賑わっている。でも築地で働く人達にとって、こんな朝ではなく、既に一働きをした朝であるから、ビールも飲むであろうし、お寿司もつまむのであろう。


もう一つ気が付いたのは、観光客がとても多いことだ。彼等は、おそらく僕も同様だと思うが、本当に目立つ。まず服装が違う、さらに雰囲気が違う。僕などのように三輪車にあたふたする様は築地の門外漢そのもので、事故などに遭えば、仕事の邪魔をしたと、当方が申し訳ない気持ちになる様にも思える。それに外国の方も多い。多分東京の名所として紹介でもされているのだろう。彼等も僕と同じで築地の雰囲気に飲まれ、多少なりともオドオドした気持ちで歩いているのかもしれない。


Tsukiji Uoichiba 7


倉庫のような場所を抜けるとすぐに魚市場(仲卸業者売場)になる。その手前に大八車が何台も置かれてあった。今でも使われているのだと思う、 荷台にそれぞれの魚河岸の名称が大きく書かれている。使われることで出てくる味が存在の重みを醸し出している。 今でも使われているといっても、それらが三輪車に取って代わられているのも間違いなく、 僕自身が実際に手で押している姿を見たのはそんなに多くはなかった。


Tsukiji Uoichiba 9


魚市場は所狭しと店がひしめいていた。店の間を通る道も二人がすれ違うのがやっとの広さである。竹細工の篭を持った男性が何人か店で交渉していた。割烹の料理人らしい風情である。店はそれぞれが得意分野があるようで、魚の種類毎に専門化しているようだ。ここで毎朝仕込みをする人は、何が何処で買えばよいのか熟知しているのだろう。迷うことなく彼等は歩いている。僕などは様々な魚を見るのが楽しく、あっちこっちフラフラと節操なく、店員に魚の種類を聞いたり、買うそぶりを見せたりで、一見客として迷惑千万な客であるのは間違いない。それでも僕としては、築地に来た以上は写真を撮るだけでなく、何か手頃なものを一品でも買う気持ちは十分にあるのである。


Tsukiji Uoichiba 4


築地魚市場だからといっても取り立てて魚が安いわけでもない。勿論店によっては安売りの店もある。でも市場内の店と行っても街中の魚屋と基本的に変わるところがない。ただ新鮮な多くの魚を求めることが出来る。しかしそれさえも一見客には難しいかもしれない。魚の目利きが出来るか出来ないかが物を言う世界でもある。

おそらくその点に無知な者に対して市場は容赦ないことだろう。つまりは家の近くの信頼の置ける魚屋で買うのが、一般客にとっては一番なのかもしれないと言うことだ。同じ種類の魚なのに値段はまちまちである。僕から見ると築地魚市場に行って、魚の価格が逆にわからなくなった。勿論競り落とした価格があるにせよ、魚の値段はあって無いものかもしれぬ。そんな気持ちにとらわれる。


マグロの尾ヒレはその質を見極めるために切り落とされる。切り落とした尾ヒレといえども、少しは身が付いている。それが一個200円で売られていた。高さ10cm未満の円錐状の形をしている。そのままコンロで焼くと美味しいかもしれない、などと想像し食指が動く。でも結局買うことはなかった。隣の店の海老に目がいってしまったのだ。一尾100円と150円の海老が皿に盛られて売っている。特に150円の方は残りが少なく後9尾しかない。気になる僕を見てか店員が勢いよく声をかける。全部買うなら一尾130円で良いよ。その声に載せられて、じゃ買おうと言ってしまう。

スーパなどで見かける冷凍海老と較べれば値段は高いが、それよりは形も良いし身も多そうだ。それに海老はいかように調理しても美味しい。マグロの切り身は次に来る時までとっておこう。


Tsukiji Uoichiba 6

総じて言えば築地魚市場はかなり楽しかった。旅行の度にその地方の市場に行ったことがあるが、築地は規模が全く違う。規模の違いとは、魚市場が占める面積の大きさだけでなく、それに伴い人と店の多さである。その違いが、市場と言うよりも何か僕の日常とは異次元の世界に迷い込んだかのような、そんな感覚に囚われる。

その感覚の面白さ楽しさがあったように思える。勿論市場で働く人々にとっては、そこが日常であるのは間違いない。僕などの観光客然とした者たちは、逆に彼等から見れば異次元の人のように見えるかもしれない。


築地市場は2012年に現在の場所から江東区豊洲への移転が決まっている。築地市場設備の老朽化、敷地に限りがあり拡張できない、等の問題から築地で再整備を実施しようとしたがコストが膨大に掛かり、その結果豊洲への移転の案が浮上したとのことだった。中央区が反対していることから今後どのように推移していくのかはわかならないが、築地が何らかの形で変わっていくことは間違いなさそうである。


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