2007/01/26

スーザン・ソンタグ「写真論」読書以前に

飯沢耕太郎氏は彼の著書「デジグラフィ―デジタルは写真を殺すのか? 」(2004年)で、デジタル画像をフィルムによる写真と区別するため、「フォトグラフィ」ではなく「デジグラフィ」と呼ぼうと提唱している。幸いなことにその言葉が一般に流布することはなかった。

タイトルに惹かれ読もうと思ったが数ページ読み本を閉じた。「デジタルが写真を殺すのか?」という副題を付けるのであれば、著者にとって「写真」の定義を明確にする必要がある。そしてその定義がデジタル化により崩される状況を読み手に説得させなかければならない。それがなければ、その刺激的な副題は単に商業的な意味しかないと判断されても致し方あるまい。無論、最後まで読み切れなかった僕が言うことではないのではあるが。

フォトグラフ(photograph)のフォト(photo)はギリシャ語の「ひかり」を意味する「φωτοs」(フォートス)を語源に持つのは知られている。写真術が、光とそれに感応する物質との化学と物理作用がその技術の根本にあることを考えれば、「光の画」を意味する言葉「フォトグラフ(photograph)」の命名は適切なのかも知れない。でもその単語「フォトグラフ」の命名が技術的な理由でのみ語られるとすれば、これはあくまでも僕の想像の域を超えてはいないのだが、単純すぎるようにも思える。

「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。」

旧約聖書の創世記1章冒頭の一節である。

神の最初の言葉は「光(フォートス)あれ」であった。神と共に言葉 (「λογοs(ロゴス)」があり、その言葉から「光 φωτοs(フォートス)」が産まれる。ヨハネ福音書では神と共にあった言葉 (ロゴス)と光(フォートス)にはキリストが宿っていたと語られている。写真術が開発されたとき、そしてその術が「フォトグラフ」と名付けられたとき、キリスト教圏の人びとが旧約聖書の、もしくはヨハネ福音書の言葉を意識しなかったとは僕には思えない。そして幾ばくかの神に対抗する意識が「フォトグラフ」への命名に繋がった、そういうこともあったように思える。

神の真の光「フォートス」は、近代の技術により写真術となった。それでは「ロゴス」はいったい何になったのであろうか。写真術が開発された1839年から現在に至るまで写真が求めることは変わらない、と僕は思う。それは「ただそこに在る何か」を写し撮ることである。そしてそれにより人間が「世界」を収集しえた、現実を把握しえた、と感じ取れるまで、おそらく写真は撮り続けられるのであろう。そして写真を撮る眼差しの根本には神の眼差しが潜んでいるようにも思えるのである。

しかし日本において、写真の登場は西洋とは違っていた。江戸末期、写真術が日本に入ってきたとき、既に「写真師」と呼ばれる人たちが存在していた。明治の始まりと共に日本の近代は突然に始まったのではない。それは江戸末期から徐々に社会の変化はあったのである。

当時はちょっとした旅行ブームで、旅行代理店なども存在していたという。旅行者は、旅行する際に自分の似顔絵を細密画絵師に描いてもらった。そしてそれを「写真」と呼んだ。元々、「写生」と「写真」は中国の画論から派生した言葉であって、そこには明確な違いがあった。西洋からの「写真術」渡来により、「写真師」は徐々に絵筆からカメラに道具を変えていった。そして「写真」という言葉が残った。

「もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの 「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。」
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 ぺりかん社 編者:辻惟雄)


日本の「写真」黎明期に忘れてはならない人物がいる。下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一のことである。彼らが「写真術」に至る経緯はその後の日本の「写真」を考える際に極めて象徴的である。一人は化学者から、一人は写真師(絵師)からの転職なのである。

つまりは、日本において「写真」とは「科学的」な見方と「芸術的」な見方の双方が、時代と共にどちらかが重みを持ちながら歩んできているのだと思う。一方は、フィルム・レンズそして露出と絞りなどの化学・物理的要素に重みを置き、もう一方では構成と色と被写体深度に重きを持つ。両者とも重要ではあるが、西洋との決定的な違いは、 「フォートス」の意味に対する重みであろう。日本には幸か不幸かそういう呪縛はなかった。「写真師」の仕事に使う絵筆に変わる道具として登場し、それ故「フォトグラフ」は「写真」と訳され現在に至ることになる。

「フォートス」の意味に対する呪縛が無いことは、別の見方をすれば、日本の写真術発展史の中に、西洋における一つの革新的な意識の変化はなかったことも意味する。それが日本の今に通じる写真の状態が現れていると、僕には思うのである。つまりは、江戸後期に登場した「写真師」の延長線上に「写真家」は存在している。無論これは根拠無い僕の直観ではあるが。

飯沢氏が言うように、「デジタルは写真を殺す」ことはない、と僕は思う。もともと西洋が意識する「写真(フォートス)」はなかったのだから。世界にある数多いカメラメーカーの中で、日本のメーカーがデジタル化への移行が速やかに行われたのは、単に技術的もしくはビジネス面だけで捉えられるべきではないと思うのである。ただ、デジタル化への移行により、日本において殺されたものは確かにある、そしてその中に「写真家」が入るのは間違いないとも思っているが、大したことではあるまい。ただデジタル化により、数量面及び技術面から、写真の位置づけに大きな変化が行われ続けているのは事実だとは思う。

スーザン・ソンタグの「写真論」が捉えた射程の長さは、本評論が現在の日本における写真評論家達に与えている影響の強さを考えれば事足りる。2004年出版の書籍「写真との対話」 (近藤耕人編)の中で、「あらためてソンタグの「写真論」を読み返してみて、現代においても少しも古びていないことに驚いた」、みたいなことが書かれてあった。少なくとも誰彼の著作に関わらず写真に関する考察が日本に乏しいことは事実ではあるが、その理由として僕は前段で述べた、ソンタグの「写真論」に捕らわれ続けている日本の写真評論の現状が垣間見ることが出来る。

ただ僕が言うのは僭越ではあるが、仮にソンタグが現在に存命で活発な活動を続けていたとしたとすれば、おそらく「写真論」の内容は大きく変わったに違いない、と思うのである。それはソンタグが冒頭の語り、それがソンタグの出発点である限りに置いて、変わらずはおえない状況が現代にあるからだと僕には思える。

「この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、広げたりしている。写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。」
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 近藤耕人訳)

ネットおよびそこに展開するWEBの状況を鑑みたとき、現在において「写真」にそこまでの力があると実感は出来ない。問題なのは、その写真に辿り着くまでのアクセスなのである。アクセスへと及ぼす行為にこそ、そこにイデオロギーがあり、そして何を見たらよいのか、つまり何を知ったらよいのかを規定している。

現代においても「写真」は一つの文法であろう、でもそれはそれに付随するキャプションにより変化もする (これについてはソンタグも語っている)。でも如何に優れた写真とキャプションであっても、人に見られなければ何の意味もない。現在において文法となり、我々の倫理観を規定しているのは、日夜垂れ流されるネット上の情報であり、蓄積されネット上でいつでも参照可能な映像である、それへのキャプションとなるブログを含めた各種メディアの存在なのだと思う。

忘れていけないのは、グーグルなどのネットにおける検索システムが、展開する国家の要請によりフィルターをかけている事実である。そのフィルターは検索システムを提供する企業自体でもおこなう場合もある。例えば、二十世紀の代表的な写真の一枚である天安門事件の
「戦車を止める男」の写真は中国国内からアクセスは出来ない。無論、チベットなどへの侵攻における惨状も写真などが検索できるとは思えない。

またソンタグも言っているが、写真の意味は、常にその写真の後からついてくる。写真の意味を変えるのも国家を含めた権力であり、もしくはその時点で主流となるイデオロギーに他ならない。アクセスへの方向を左右する力とイデオロギーが意識的に結びついたとき、おそらく我々の進むべき道は、選択が与えられているかのようで実際は操作されている、そんな状況に陥るのだろう。

しかも写真自体、本来的にバイアスがかかっているものなのだと思う。しかもそのバイアスは無自覚なことが多い。写真を撮るとは、写真に撮られない現象があると言うことであり、その現象を撮さなかったということから写真家は逃れることが出来ないのだと思う。

「さらに、忘れてならないのは、「ナショナル・ジオグラフィック」誌が創刊から8年目の1896年に、果敢な決断を下している点だろう。この年、本誌は世界の人々をありのままの姿で伝え、写真に細工を加えるようなことをしないという方針を打ち出している」
     (「ナショナル・ジオグラフィック傑作写真ベスト100」 編集長 William L.Allen)

「写真に細工を加えない決断」がそこにあったとしても、数万の写真の内から編集者が選択しキャプションを付けた時点で、その写真はメディアが意図するイデオロギーを補強する部品となる。「世界の人々をありのままの姿」とは一体どういうことなのだろう、それが一つのオリエンタリズムに陥っている可能性を誰が否定できるのだろう。ナショナル・ジオグラフィック誌は確かに良質な写真を世界に送り続けている、でも僕にとってはそれはあくまでも写真の「リーダーズダイジェスト」なのである。そして、僕にとって最も恐ろしいのは無自覚な思考である。

だからといってソンタグの「写真論」が、もしくは写真について語ることに意味が無いとも思わない。逆に各先達者を踏まえて、現状における「写真の考察」を新たに行う必要があると思っている。そして、そこに考慮を加えるとすれば、ソンタグの活躍した時期には想像も出来ないほどのデジタルカメラの普及だと思う。デジタルカメラはあらゆる道具に装着可能であって、携帯電話に付いたデジタルカメラはネット上の一つのノードとなり空間を瞬時に無効化する。

ネットワーク的な視点での写真論の登場が必要なのだと、僕は思う。そして、前段の僕の意見に矛盾するかも知れないが、少なくともソンタグの「写真論」の解釈次第で、それらも射程に入るか糸口が存在する可能性があるように、僕は思っている。


冒頭に戻るが、「デジタルは写真を殺すのか?」という質問は適切ではない。そもそも現代の日本に置いて「写真」を語ることに意味があるのかという質問の方が、写真評論にとっては重要なのだと僕には思える。しかし現在でも写真評論家は、写真専門誌上で「写真」だけを語る。彼等の射程の短さは、単に「写真」が人間の趣味の一つとしてしか、その位置が許されていないかのようである。故に「写真論」は現在の日本では全く浸透していない結果となってしまったとも思えるのである。

「写真の考察」をなおざりにしてきた日本の現状が、諸外国の各著作者達の「写真論」の邦訳が滞っていることにも現れている。2004年出版の書籍「写真との対話」(近藤耕人編)で中心となるのは、ベンヤミン、バルト、ソンタグの写真論御三家でしかない。そしてその中での対談で、写真家畠山直哉氏は語る。写真家の存在自体が無くなっているのではないかと。求められているのは、現代に即した、新たな写真への考察であり、その理論に基づき撮された写真なのである。

それには写真のことばかり考えている状況から脱しなければならない。そしてそれが現代の「写真家」に求められていることなのではないかと、僕には思える。つまりは人間にとって重要なモノの一つである写真の状況を堕としているのは、写真の専門家達なのだ。

この拙い記事は、僕が写真のことを考える出発点にする思いで書いている。だから僕が「写真の考察」を行う際の問題とする面をあげ、僕なりの答は殆ど書いていない。「何故写真を語ることに意味があるのか」という問いに対してもなおざりにしたままだ。ただ「見る」と
「知る」はギリシャ語では語源を同じにすると言うことと、「知る」ことが人間の「活動」の元だと思うのである。それに写真とは、それを人に見せた段階で多かれ少なかれ政治的なものに変化するのだとも僕は思う。答えになっていないが、出発点としてはそれで十分だろう。

2007/01/20

捨てられるから良いんです

reach out

近くの公園には梅林があり、ちらほらと花が咲き始めた。その中でも桃色の梅は花が早い。殆ど満開状態となっている。小正月が終わったばかりだというのに、梅花は春の到来が確実にくることを僕に教えてくれる。

見ると年の頃60代と思える婦人が、両手でデジカメを持ち、背伸びをし少しでも梅花に近づこうとして写真を撮っていた。僕はその姿を写真に撮る。するとそれに気が付いたのか、婦人が僕の方に振り向く。少し目線が合う。そして僕の方に近づき話しかけてきた。

「梅はどうやって撮れば良いんでしょうか?」

質問の意味がわかるのに数秒かかった。どうやら梅花を撮っても画面全体が暗くなり、自分が思ったイメージにならないようだった。

「日を背にして、日が当たる梅の花を撮られると良いと思いますよ」、と答える。彼女はふむふむと聞いている。

きっとデジタルカメラを購入したばかりなのだ、そんなことを僕は推察する。続けて彼女は僕のカメラを見て、 「私も以前はフィルムのカメラを使っていたんです。でも今はこれ。写ったものが捨てられるから良いんです」と話してきた。

「あ、これもデジタルカメラなんですよ」、と僕は答える。その答えに彼女は驚き、そして「ああ、今はこういうデジタルカメラもあるんですねぇ」と感心する。

それからはお互いのカメラ談義となった。婦人のデジタルカメラは、今使っているので2代目なのだそうだ。その前はコンパクトのフィルムカメラを使っていたとのことだった。

「デジタルカメラは便利ですよね、捨てることが出来るから」、そう彼女は話す。気が付けば、彼女のカメラ談義の中で何回も 「捨てられる」という言葉が出ていた。どうやら婦人にとって、デジタルカメラの最大の利点は「画像が捨てられる」ことにあるらしい。

その意見が面白いなと思う。
話を聞いていると、どうもフィルムカメラを使っているときは、自分が気に入った写真もそうでない写真も両方とも焼き付けるので、写真だけ溜まってしまいその処置に困っていたらしい。それがデジタル化することにより、気に入らぬ写真はその場で消去できる、そのことが彼女にはとても良いことと思えるのである。

「パソコンはやられるのですか?」、と僕は聞いてみた。残念そうに彼女は首を横に振る。「もうこの歳では無理です」

「そんなことはないですよ」、と僕は言いながら、確かに今のパソコンのマンマシンインターフェースは、ある意味、老齢を迎えられている方々には優しくないだろうなとは思う。
 (マンマシンインターフェースには色々と思うことがあるが、それはまた別の話)

では彼女はデジタルカメラをどのように使っているのかと言えば、デジタルカメラに差しているメモリカード(256MB)は1枚だけで、写真をある程度撮り画像が溜まれば、それを持って写真屋に行き、気に入った写真のみプリントアウトするのだそうだ。そしてその後、メモリカードの画像は全て消去する。

フィルムカメラはフィルム代・現像費・プリント料などお金がかかる。でも気に入った写真は何枚も複製が出来るという利点があった。デジタルカメラは、お金はかからないけど気に入った写真の複製が出来ない。そう彼女は語る。僕は面白いなぁと思う。

複製のしやすさ、画像の保存のしやすさ、画像管理のしやすさ、それらは一長一短はあるもののデジタル化の方に軍配が上がると僕は思っていた。それが彼女にとってはどうやら逆らしい。

どうやら彼女にとって「写真」とは、紙に焼き付けられた(もしくはプリントアウトされた)状態を言うらしい。その前の状態は「写真」とは言わない。それらは写真以前のもの、つまりはフィルムで言えばネガのような、そういう状態のようだ。そう考えれば、婦人の写真への対応の仕方には一本の筋が通っているし、パソコンを利用しないデジタルカメラの楽しみ方としては、ある意味合理的かもしれない。

婦人にとっては、フィルムもデジタルも関係ない。できあがる写真が気に入るか否かである。実を言えばその点で、僕は彼女に賛同する。さらに「写真」とは紙に焼き付けられた状態のもの、との意見にも別に異論をはさむつもりもない。

「捨てられるんです」の背景に、「捨てられなかった(プリントアウトした)」貴重な一枚の写真が見えるからである。個人が撮す「写真」とは「捨てられなかった」貴重な一枚の積み重ねにあるのかもしれない。そんなことを思う。

そのほかにも彼女から様々なことを聞いた。60代と思っていたけど、実際は70代だそうだ。夫が数年前に亡くなったこと。自宅は四国の高松であること。娘夫婦が東京に住んでいて、年の三分の二はこちらで暮らしていること。高松への往復時には必ず京都に途中下車し写真を撮りまくること。写真旅行で色々な場所に行ったこと。写真仲間の最年長で80代の方がいて、その方の写真がプロに褒められ、とても嬉しいと言っていたこと。四国に行くときは、瀬戸内海の小豆島がお奨めであること。カメラの他は手芸の趣味もあること。公園の近くに長渕 剛の邸宅が建築中であること、等々・・・。

だいたい一時間近くは話を聞いたかも知れない。でも話は面白かったし、第一僕は人の話を聞くのが大好きなのだ。

それに同じく写真が好きな僕にとって、年齢とは関係なく、彼女の話が自分に思い当たることも多かった。自分が気に入った写真を、自分の友達に見せ、同好同士が見せ合い、色々なコメントとか評価をもらう。褒められれば嬉しいに違いない。そしてそれら全てが楽しくてしょうがない。それは僕が頻繁にネットを通じてしていることと同じことでもある。

色々な人の意見を実際に試すことで、他人が喜ぶ写真が見えてくる、あとはそれと自分の感性との折り合いであろう。さらに彼女はデジタルカメラの操作を覚えたことから、携帯電話の操作、特にメールについて、違和感なく習得出来たそうである。

人生を楽しんでいるなぁ、僕は彼女の話を聞きそう思った。そしてその中心にカメラがあることが何故か嬉しかった。

2007/01/16

タマもどきの最期

駒沢公園にはかつて「タマもどき」という名前の猫がいた。

彼は駒沢公園の西側を支配していた大ボスで、とにかくケンカが強かった。彼にかなう猫は駒沢周辺には存在しなかった。それでも、タマもどきに対抗する勇敢な猫がたまには現れる事もあった。なにしろ大ボスであれば、一つのハーレムを造ることが出来る。それも半端なハーレムではない。雄猫であれば誰でもボスになろうとするだろう。自分の子孫を残したいという本能があるから。

でもタマもどきは強かった。相手の猫は顔を大きく腫らすくらい怪我をするか、その前に彼の迫力に負けて逃げ出すかのどちらかであったという。

タマもどきの名前は、昔駒沢公園に美人で賢いタマという白黒の猫がいて(これも伝説となった程の猫)、その猫に似ていたのが理由らしい。でも似ていたのは姿だけで性格は似ていなかった。

そのタマもどきが昨年2006年12月24日に亡くなった。歳にして15歳くらいというから、まぁ大往生なのかも知れない。聞けば死ぬ一週間くらい前まで、雌猫と見れば追いかけ回していたという。英雄色を好むと言うが、これは猫の世界でも当てはまるのかも知れない(笑

僕はこの話を駒沢公園に住んでいる方から聞いた。その方が住んでいるところ(駒沢公園のとある場所)には猫が20匹以上集まっている。僕はその猫を時々撮りに行っている。その縁で言葉を交わすようになった。その方はとにかく猫が大好きで、猫の話をしたらとまらない。そして僕は彼からタマもどきのことを教えられたというわけである。

その話を聞いた時、一つの考えが頭をよぎった。家で一緒に暮らす猫(ジュニア)を駒沢公園で拾ったのは、今から10年くらい前になる。ジュニアは雑種で、毛の色は白が多い。想像では三毛と白黒の血が混ざっているのではないかと思っている。そして拾ったのは駒沢公園の西側である。産まれてすぐに紙袋の中に入れられ捨てられていた。誰が捨てたのかはどうでもいい。今ではジュニアと一緒にいられることが僕には嬉しいのだから。

頭をよぎったのは、もしかすればジュニアの父親はタマもどきかも知れない、ということだ。10年前と言えば、タマもどきは5歳、絶頂期である。タマもどきが家で飼われていた三毛猫を襲い、望まぬ子としてジュニアが産まれた、そして捨てられた・・・・(なんかどこかの昼メロの様な話になってきた 笑)
その可能性は否定できない。なにしろタマもどきの子孫は駒沢公園には多い。白と黒の猫は殆どが彼の子孫なのだ。

話を聞き、家に帰ってジュニアの顔を眺める。彼は餌をくれるのかと思い、にゃんと鳴く。親がいなくても子は育つと言うが、ある意味猫は人間より逞しい。そんな気がしてきた。

2007/01/14

読書計画というか、もう少し弱い意志を持っての目標

年頭において僕は今年を如何に過ごすかを大雑把にイメージした。無論、今年は僕の人生にとっては去年の延長線上にあり、年末年始の間に明確な境界線があるわけではない。

そもそも僕自身が今まで思い描いていた境界という状況事態が在るかとかいった疑問は持っている。境界を状況と僕は咄嗟に書いてしまった。

漠然とではあるが、ある種の実感が論理的ではないが、両者が関数的にイコールで結びつくような、例えば行動と状況がそうであるように、そう思えているのである。しかしまた僕はこうも考えている。境界と状況が関数で結びつくのであれば、その境界事態はエセでもあると。

今年の読書計画と言っても、それは昨年来からの興味の対象である「写真」について、もう少し集中的に考えてみようということを備忘的に記録するという事に過ぎない。出来れば写真についての多くの書籍を読もうと思うし、映画に関してもそれは同様である。しかしその中でも、特に月間で集中的に読む書籍を定めようと思っている。

その本は出来ればレジメまでも書こうと思っている。以下に現在考えている写真関係の書籍をリスト化する。

  1. 「写真論」 スーザン・ソンタグ
  2. 「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ
  3. 「図説 写真小史」 ヴァルター・ベンヤミン
  4. 「複製技術時代の芸術」 ヴァルター・ベンヤミン
  5. 「明るい部屋」 ロラン・バルト
  6. 「絵画、写真、映画」 ラースロー・モホイ=ナジ
  7. 「露出過多」 キャロル・スクワイアズ 他
  8. 「アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ」 アラン トラクテンバーグ
  9. 「写真の哲学のために」 ヴィレム・フルッサー
  10. 「視線の権利」 ジャック・デリダ
  11. 「写真論―その社会的効用」 ピエール ブルデュー
  12. 「写真と社会」 ジゼル・フロイント
写真について考えるとき、僕は芸術としての写真、もしくは写真を撮る技術に興味が全くないのに気がつく。そういうことよりも、例えば写真と社会、もしくはもっと個人的な次元での写真について考える事に興味がある。

丁度12冊になったが、おそらく1年間と考えたとき12冊は厳しいと思う。何冊か落とすことになりそうだし、全く別の書籍が入り込むかもしれない。しかし、前記の意味合いでの範囲なので、ソンタグ、ベンヤミンは欠かすことは出来ない。と言っても、それらは既に以前に読んではいるのではあるが。でも今回は再読書であろうと、新たに読むつもりだ、それも何回も。

それに、例えばフルッサーの書籍を読むとき、彼の重要なエッセイ「サブジェクトからプロジェクトへ」の再読も必要になると思うし、それはソンタグの「反解釈」も同様かもしれない。

ちなみに上記リストの順番は優先順位ではない。ソンタグは彼女の「写真論」の中で以下のように語っている。

「ひとつの事件がまさしく撮影に値するものを意味するようになったとしても、
その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである」
 (「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳)

写真を考えるとは、現世界と歴史を考える事なのである。一枚の写真が撮られた当時の意味はイデオロギーと共に変化する。それは現在に住む僕にとっては自明の事だとは思う。でも写真を通じてあらためて考えてみたい。

そのほか昨年から読み続けている書籍(ハンナ・アーレント「精神の生活」)がある、これは難物だ。アーレントが亡くなったとき、タイプライターに挟まった紙には「精神の生活」の第三章タイトルのみが書かれていたという。彼女の「思索日記」をパラパラとめくってみると、「思考」・「意志」・「判断」について、つまりは彼女にとっての「精神」について、「精神の生活」執筆以前から考えていたことがわかる。

「エルサレムのアイヒマン」で悪についての考察で彼女は自分の考えを纏める気にさせたらしい。アーレントは「エルサレムのアイヒマン」で「陳腐な悪」と語る。それに対し彼女の師でもあるヤスパースは次のように語る。「アイヒマンが陳腐なのであって、悪は陳腐ではない」と。

また別の人は次のように指摘する。仮に法廷で被告人となっているのがアイヒマンではなくゲッベルスの時、アーレントは「陳腐な悪」と言えたであろうか、と。

そのどちらの質問にアーレントは答えてはいない。しかしアーレントは次のように言う。「思考」が無いゆえにアイヒマンの行為があるのだと。

「精神の生活」は今年一年をかけて読もうと思う。その都度、このブログの中で何らかの姿で、僕が受けた影響が出るとは思う。

小説に関しては取り立てて読みたいと思うものは少ない。強いて言えば、「ジョイラッククラブ」(エミィ・タン)、「消去」(ベルンハルト)くらいか。ただし、写真の話題が登場する小説は積極的に読んでいこうと思ってはいる。

参考:Amazonウィッシュリスト 「写真に関する書籍」「写真論

(決してアソシエイトではありません)

2007/01/12

JoyLuckClub

母は僕が3つの頃に夫と死別をした。彼女の生きるための厳しい戦いはそれから始まったと言っても過言ではないと思う。でもそういう母にも幼い頃、そして学生時代とそれに続く時代があったのは紛れもない事実だ。でも僕はそれらを殆ど知ることはない。

幼い頃の母、そして学生時代の母、夫である僕の父との結婚生活、その時々に彼女がなにを見て、なにを聞き、そして肌でなにを感じたのだろう。

時折、年が離れた母の姉、僕にとっての叔母から、学生時代の母のことを聞くときもある。学生時代はお転婆で勉強よりはスポーツに熱中していたそうだ。彼女は卓球の選手だった、そしてクラシック音楽が好きだった、その中でも特に「アルルの女」が好きだった。そういうことを断片的に僕は叔母から教えられた。

父は、その叔母が学校教師だった頃に初めて受け持ったクラスの生徒だったという。父は叔母の教えに感銘を受け、たった一年の担任期間にもかかわらず、毎年の賀状は欠かさなかったそうだ、そしてそれが縁で父と母は結婚をした。

父は土木技師だったので現場が決まると半年間は家に戻らなかったそうである。そして父は33歳の若さでガンを患いこの世を去る。それからの母は今までの生活とはうってかわってて苦難の連続だったらしい、父の退職金と保険、そして幾ばくかの借金で、現在すんでいる場所で下宿屋を営む。下宿屋を撰んだ理由は幾つかあるだろう、でも最優先だったのは幼かった僕と姉のそばにいて生計を得れるということ。 それから今に続く母の事は僕も知っている。しかし母の気持ちまで知っているとは言い難い。

映画「JoyLuckClub」は4組の母と娘の物語である。この映画には8人の女性の、彼女たちの母への記憶が現在に結びつき語られる。映画のあらすじは調べればすぐにわかる。僕にとってはあらすじは問題ではない。映画を見て、まず思うことは、原作者エィミ・タンがこの小説を書かなければならなかった気持ちの強さだった。映画の脚本にもエィミ・タンは加わっている。

それほどこの作品は彼女にとって重要な作品なのだと思う。そしてそのメッセージは男性である僕にでさえ十分に伝わる。8人の女性、母の母も加われば計12名の女性の生き方は勿論一様ではない。僕の母の生き方がそうであるように、人と較べることができる人生などどこにもありはしない。そしておそらくこの国には、数千万の母親がいて、その一人一人に「JoyLuckClub」が存在している、と僕は思う。そしてその数千万の母親たちは、それぞれに愛する者たちが存在する。愛の連環の中で、互いに幸福を味わい、時として誤解を招き、場合により憎しみに変わることもあるかもしれない。

それは途方もない思いなので、目眩すら感じる。いまのところ僕にできることは、人を、人との関係の中で認めようと努めること、そして自分を生かすこと、そのくらいしか思い浮かばない。

小説「JoyLuckClub」の方は十年位前から読もうと思い続けていて、それでいて、読書の待ち行列では優先順位が後回しになりつづけていた。実は映画で公開(1993)していることさえ知らなかった。今回レンタルで映画を見て、やはり小説も読もうと思い至り、図書館に予約を入れた。

映画の監督はウェイン・ワン、僕の好きな映画「スモーク」(1995)の監督でもある。「スモーク」の方は、これまた好きな作家ポール・オースターの原作だったので、確か恵比寿ガーデンまで公開時に見に行った記憶がある。とても丁寧に映画を造る監督だと思う。僕にとって、「JoyLuckClub」は今後も何回も見る映画のひとつになるのは間違いない。

2007/01/03

お雑煮の話

お雑煮

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

お雑煮は毎年食べる。大好きだ。と、言ってもこれは自宅での話ではない。毎年行く親戚宅でのお雑煮がすこぶる美味しい。親戚の奥さんが造る雑煮は、彼女が東北の青森出身であることから、その土地の味であると思っている。

実を言えば僕の母も青森出身。家は昔下宿屋を営んでいて、母は毎日学生のために夕食を造っていた、だから言わばセミプロである。それでもお雑煮だけは造ってくれた事がなかった。

一度だけ、何かテレビの影響だと思うが、子供の時にお雑煮を食べたいと母にせがんだことがある。その時に初めてお雑煮を食べた。でもそんなに美味しくはなかった。初めて食べたと言うのもあり、お雑煮とはこういう食べ物なのか、という落胆と共に自分を納得させたのは、お雑煮とは一種の儀式に近い食べ物である、という無理矢理の発見でもあった。

無論、日頃学生のために食事を造り続けている母への遠慮も、子供ながらあったのも事実だった。だからか、それ以降一度もお雑煮を造ってくれとせがんだことはない。

親戚のお雑煮を初めて食べたのは10年ほど前のことだ。初めて食べた時、今までのお雑煮に対するイメージがことごとく誤っていたのを知った。母が料理が得意であるのは間違いないが、お雑煮は苦手だったようだ。母が実はお雑煮が好きでなかった、ということを知ったのもその頃だった。

お雑煮はお国毎の味がある。お雑煮に決定版などはないと思う。単一などではなく複数の日本の正月の象徴のようにも思えてくる。この国は思った以上に懐が深く、各人のイメージの日本を常に超えている、と僕は思う。勿論、それは日本だけの話ではない。ただ自分が住む国の複数性を知ることが他国の複数性を理解できる要だと思えるのである。

PS:食べ物を写真に撮るのは慣れていない。少しも美味しく写っていない。でも僕にとっては最高のお雑煮である。