2012/08/31

写真覚書1

西脇順三郎は彼の詩論「超現実主義詩論」の冒頭で以下のように語る。
「詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である」
何故危険なのかはともかくとして「詩」を「写真」と置き換えても支障はないように私には思える。
西脇はこの詩論で詩を論ずることの不可能性を示唆している。写真とは何かという問いも同様なのではなかろうか。何故写真へのそのような問いが不可能なのか。無論ここでいう問いの対象としての写真はあまねく全ての写真を指している。特定の誰それの写真とかドキュメンタリー写真等の特定のカテゴリ写真を言っているわけではない。

かつて清水譲は写真の本質について以下のように語ったことがある。
「写真は常に既に「何かの」写真である、ということにすぎない」
「写真」という言葉が二つ並んでいることに注意しよう。言わずもがな最初の「写真」と後者の「写真」とは意味が違う。
続けて彼は語る。「つまり、写真は、「撮るもの」からも「撮られるもの」からも独立しているということ」。
この文章にあえて「それを鑑賞するもの」 も付け加えても良いだろう。つまり写真自体は彼の言うとおりに「リアリズム」も「ドキュメント」も「心理」とも「記憶」とも関係がない。

「写真である」とは化学物理の作用により、そこに「何か」が写し込まれる現象でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそそれを論じること自体不毛な行為と見なされて然るべきかもしれない。
清水譲は写真が写真として成り立つために「写真性」という考えを導入した。これは不毛な行為に意味を持たせる一つの戦略とも受け取れる。ただそれは成功したとは私には思えない。ただ写真を論ずる出発点は「現象」から出発する他はないとは思う。

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