2012/08/16

映画「麒麟の翼」

この映画が持つ閉塞感はどこから来るのだろう。映画とはつい先日レンタルで鑑賞した「麒麟の翼」のことだ。東野圭吾原作の加賀恭一郎もの作品で人気ドラマを別ストーリー版だから見られた方も多いことだろう。「東野圭吾史上最も泣ける感動作」とネット上では宣伝されていた。でもこの作品をどんな方々が見るのだろう。東野圭吾作品愛好者?TVドラマ「新参者」視聴者?それとも邦画ミステリーファン?いずれにせよそれなりの年配者が多いように思える、一言で言えば映画の中で被害者となった中井貴一さんと同世代とか、もしくはそれに近い世代の方々、つまりは家庭を持ち父親もしくは母親の立場を担っている方々が多いのではないだろうか。

この映画を単純化すれば大人と若者の対立構造の視点での感想もありえる。つまりはどこまでも正しい大人(親)と子供との対立構造。親の子供への愛情の深さを現実の世界で表現できない人はこの映画を見て自らを慰めることが出来るだろう。

さらに若者に対応する大人は父親の他に教師もいる。劇団ひとりさんが演じる教師は丁度中井貴一さん演じる父親の対角線上にいる。若者に迎合する大人と対峙する大人。無論映画での教師の存在は父親の毅然とした態度を美しさとして強調する為だけにある。いずれにせよ映画の中で間違いを犯すのは若者なのだ。

丁度この記事を書いている日に大津市の教育委員会教育長が19歳の自称大学生にハンマーで襲われたとのニュースを聞いた。義憤に駆られた若者は生きる目的を暴力へと向かわせた。さて映画の中で息子達は一体何をしたいと願って生活していただろうか。無論映画の若者達は何もしていない。彼らが自らの歩みを止めたのは彼ら自身に起因する過去の過ちからでしかない。でもハンマーの大学生と映画の大学生とどちらが現実なのかと問えば、自ずから答えが出てくる。

ハンマーの大学生の罪を一般化するつもりなど毛頭無い。罰は個人に向かっていく。ただハンマー事件の背景を僕らは知っている。そしてその複雑さの中で解決への目処を持たずにいる。単にいじめと学校の隠蔽体質だけでこの問題解決が出来ると思えるほど単純でもないのだ。

さらに経済不振と年金問題そして政治不信。大人達が享受してきた利益をこれからの若者は同じように享受できることはない。若者の大人への不信感は、自らが大人になる毎に経済的な負担と共に増していくことだろう。誰が一体間違っていたのだろう。

「あなたは人の死をみていない。あなたが見ているのは死体だけだ」
加賀とその父親との関係をもう少し深めることが出来れば事件を横糸にした縦糸となり一枚の人間模様が描き出されることができただろうに、いかんせん横糸だけでは深みがでない。それでもなんとか物語として成り立っているのはこの映画の世界観が映画の世界から一歩も出ることなく完全であるからだ。そして完全であるが故に何と現実から乖離した物語になっていることだろう。

主人公の加賀は看護師が彼に語った言葉だけではない。使い古された言葉を使えば、彼は、もしくは東野作品は、木をみて森を見ていない、さらに森からの視点で一本の木を見てもいない。

唯一この映画で胸に迫る点があるとすれば、中井貴一演じる父親の言葉だろう。
「私はどうしようもない父親です」そして彼は命を賭して息子にメッセージを伝えた。僕ら大人が今の若者に送ることが出来るメッセージもおそらく同様の覚悟が必要なのだろう。そしてそれは少なくとも僕自身はまだ果たしてもいない。 

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