高倉健さんのエッセイCD「南極のペンギン」を図書館から借りてきて聞いた。朗読は高倉健さん、音楽は宇崎竜童さん。このCDは高倉健さんが制作し図書館に寄贈したと聞いた。だから非売品となる。何故高倉健さんはこのCDを制作し図書館に配布したのだろう。詳しい経緯は僕にはわからない、でもこのCDを聞けば、その理由が何となくわかる。
冒頭のエッセイ「アフリカの少年」で高倉健さんは砂嵐を身を屈めてやり過ごそうとしている少年を見て心の中で語りかける「夢を見ろよ」と。高倉健さんが乗る車を止めて少年を乗せるのは簡単だ、でもそれは少年の為にはならない。厳しい自然の中で砂嵐に耐えるすべを身をもって知らなければ、この地で生きるのは難しい、だから高倉健さんだけでなく現地の人も助けない。それで高倉健さんは心の中で語りかけるのだ。「夢を見ろよ」と。
正直言えば、僕はこのCDを聞いた当初、高倉健さんの声に張りが無いと感じ、これは途中で飽きてしまい、最後まで聞かないかもしれない、などと思った。でもそれは全く間違いであった。高倉健さんの表現力は素晴らしかった。どこか押さえた感がする高倉健さんの声は、この朗読でも感じることが出来る。押さえた感というのは、僕が発する言葉の裏に様々な思いを持っていることを感じたということでもある。
このエッセイ集を書くときに、高倉健さんは題材となったエッセイ一つ一つの記憶の中で、書き足りぬ思いと、書き過ぎることを抑える難しさ、を感じたと僕は思う。本では伝えられないことが沢山あり、それらは声であれば伝えることが出来る、高倉健さんはそう考えたのではないだろうか。CDにしたのは、流通の問題、コストの問題ではなく、おそらくそういった理由で、声でなくてはならなかったからど思うのだ。
人が話す言葉を聞くというのは、彼が書いた文章を読むこととは違う、と僕は思う。特に話す内容が自分の体験からくることであればなおさらであろう。語る言葉、トーン、強弱、間合い等から、語る人の意識を、読むときよりも強く感じ取ることが出来る、と僕は思う。そういう意味で、僕はCD「南極のペンギン」を通じて彼の意識を感じることができたようにも思う。
さらに高倉健さんの語りを遮ることなく、表現力をさらに伸ばしている宇崎竜童さんの音楽も素晴らしかった。
「夢をみろよ」と語りかけているのは「アフリカの少年」だけではない。この本を読み、もしくはこのCDを聞く人に語りかけているのである。さらにエッセイのなかで、「どんな土地にうまれるのか、どんな親に育てられるのか、誰にもわからない、子どもは何も選べず、ただうまれてくる。だが夢なら自由に見ることが出来る」と語っている。
高倉健さんが「アフリカの少年」に向かって言う「夢を見ろよ」は、厳しい自然の中で暮らしたとしても、その中で生きる術を取得するのは必要なことだが、ただそれだけでは人は生きていけない。そんなことを言っているのだと思うのだ。
少し前に子ども達の「夢」がより現実的になったとの、それが残念とも読み取れる記事が新聞に掲載されたのを思い出す。また「夢」は大きいほど良いとも聞くこともある。それらは僕が持っている考えとは少し違う。人はうまれた瞬間から自由に生き、自分がなりたいものになろうと努力する。その意識の具体的な姿が「夢」だと思う。だとすれば、「夢」は人が持っている本質的な欲望の一つであるのは間違いない。僕は多分死ぬその直前までそれを持ち続けることだろう。最後の願いは「もっと生きたい」ということで、元気な姿を夢見るのだろう。
「南極のペンギン」では多くの魅力的な人達(もしくはペンギン)が登場する。高倉健さんのまなざしは、「優しさ」という、見方によっては一段高い目線からではなく、共にこの地に生きる、一緒にがんばろう、といったそういう風に感じる。エッセイの中で、高倉健さんが涙を流す話がある。それはオーストラリアで撮影の合間に鞍をつけずに乗馬を試み、それによりホースメン達から認められた時である。その時彼はぼろぼろと涙をこぼす。お互いを認め合う心、それがお互いがなりたいものになる為の土俵とも言える、と僕は思う。高倉健さんのエッセイでは常にその姿勢を崩すことなく語られているように僕には思えた。だからこそ僕は「南極のペンギン」に共感したのかもしれない。
2005/09/22
8月11日のツーリング記録、オートバイで「走る」ということ
2005年8月11日早朝、僕は夏休みの一日を使ってオートバイでのツーリングに出かけた。日帰りツーリング、それは日常から数センチほど飛び出した程度のたわいのない話だと思う。それでも人は数センチの違いでも、様々なことを考えるものだ、と僕は思う。1ヶ月も経ち、忘れることは忘れてしまった、今残っているのはそのツーリングの肝みたいなものである。出来るだけ簡潔に記述したいと思う。
東北道を下るつもりで家を出た。ところが思わぬ環八の渋滞に嫌気がさし中央道に切り替えた。その時点で、目的地は未定。気ままな、いつも通りの無計画の旅となった。
途中のサービスエリアで地図を広げる。このまま諏訪湖にあたりに行くのも良い。しかし、地図で中央道を辿ると大月JCから富士吉田市にのびる支線がある。この道は以前に友人と富士急ハイランドにスケートに行くために使ったことがあるが、その時はバスであった。オートバイにとっては初めての道である。今回のツーリングの起点はこうして決まったのである。
富士吉田から青木ヶ原を通る。雲が多いというのに日差しが強い。そういえば富士山方面に向かっているというのに、富士山を意識して探すこともなかった。富士山方向に雲が多く隠れ、その雲の白さが風景にとけ込み、ないことが自然だった。ないことが自然とは僕の感覚が少しズレ始めているのかもしれない。
本栖湖に立ち寄る。湖岸で水遊びをしている子ども達、それを見守る夫婦。手を繋いでボートを物色するカップル。夏の日をそれぞれに楽しんでいる。人がそれなりにいるのに、不思議と喧噪を感じない。そして日差しが強く暑いのだが、心地よい風が吹き、空の白さと相まって、全体が幻想的な雰囲気と感じ始めている。その感覚に少し気まずさを覚え僕はその場を立ち去る。
このルートを選んだとき、僕には走るべき道があった。国道300号線、本栖湖から山を越え身延町へと続く道だ。地図上で見ると気持ちの良さそうな曲線が続いていたのだ。山道に入るまで本栖湖の湖岸沿いに道は走っている。途中でオートバイを止め本栖湖を眺める。先ほどの姿とは違う姿を見せる。富士山は相変わらず見えない。そしていよいよ日差しは強くなっていった。
村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」の後半に登場する「嫌なカーブ」は実在すると僕は思う。小説上でそれは「あちら側」へと繋がる道であった。オートバイに乗ると、カーブには「嫌なカーブ」と「心地よいカーブ」の二種類があることを実感する。国道300号線の多くのカーブは僕にとって「嫌なカーブ」の連続だった。左手に美しい本栖湖岸、右手に山が迫る。緩やかなカーブだと思い、本栖湖の風景に眼を曲がると、途中からカーブがきつくなった、所謂複合カーブ、曲がりきれなく、下り坂でスピードが出ていた。後輪が滑りながらぎりぎりで曲がりきる。手足の筋肉が固まる。実を言えば一瞬ぶつかるとあきらめかけた、気を緩めるなと自分に言い聞かす。本栖湖で感じた白昼夢的な感覚に囚われ続けていたのかもしれない。
山間の道を抜けると、そこは山村の風景が点在する。途中で道の駅で休む。本栖湖からここまで、殆ど対向車も人も出会うことがなかった。道の駅にいたのは、地元の女性一人と家族連れの4人だけだった。
身延町につく。身延は久遠寺となるが、南アルプスへの一つの玄関口でもあると思う。着いたのが午後の2時頃だと思う。ある程度知られた町なので、それなりの人混みを予想していたが見事にはずれた。この町でも人に出会うことが滅多になかった。駅前で売っていた「身延まんじゅう」を食べる。空は全体が雲で白く、身延の町並みの不自然なほど白く綺麗な町並みに相乗し、本栖湖での感覚が少し蘇る。富士川がきらきらと日差しを反射して流れる。
富士川沿いに52号線を使い東海道まで上る。52号線は好きな道だ。ここでも対向車線を含め車と出会うことが少ない。適度なアールのカーブを、心地よくリーンウィズで曲がる。適度な筋肉の緊張が気持ちよい。
国道52号線は東海道の興津港に繋がっている。しばらく国道一号線を走るが、大型トラックを含め相当なスピードの流れに乗り走ることに嫌気がさし、旧道へと入っていく。由井、蒲原と通り過ぎる。ここら辺は桜エビ漁で知られている。知人からここでしか食べることが出来ないという桜エビ丼が旨いぞと聞いていたので、食指が少し動いたが、道沿いにはそれを告げる看板を見ることがなかった。ここから富士市近くまで渋滞となる。今まで感じることが少なかった暑さを感じる。暑い、そして日差しが強い。
蒲原といえば、小学の時に叔父から貰った切手を思い出す。持っていた中で一番好きな切手だった。安藤広重の図版では確か雪が降っていた。今では想像も出来ない。途中で給油をする。ガソリンスタンドのおばさんと少し話す。旧道沿いの商店が日中だというのに閉まっているのが気になって聞く。おばさんは僕の質問を聞くことなく、ここら辺はいつも渋滞しているのですよ、と答える。僕は、そうですかと言って、店内から外を眺める。
富士市は東海地方の有数の工業地帯として知られている。特に富士川の水を利用した印刷工場が建ち並ぶ。海岸沿いに立ち並ぶ工場の姿は化学工場も多い。いずれにせよ工場関係の人が多いのでないだろうか。富士市のJR駅前までいき、すこし町を歩く。人が少ない。閉まっている店も多い。そして外国人が多い。この町で生活することを想像する。それは普段と変わらぬ日常を想像することでもある。つまりは今とそれほど変わらぬ生活なのだろう。
東海道を上り沼津市に至る。大きな都市だ。以前来たときはこれほど大きな町と意識することもなかった。富士市の風景と沼津市の風景、恐らく数十年前は両者の見た目の違いは少なかったのではないだろうか。発展することの善し悪しは問えない。ただこの違いに少し驚くだけである。
沼津市から国道246号線を使い帰宅することにした。沼津からは山間を抜けるカーブの多い道となる。しかもそれほどの込むことは少なく、通る車はそれなりに速度を出している。急激に気圧が下がるのを感じる。薄暗かった夕暮れが、上空の黒い雲でいきなり暗く、そして突然に大粒の雨が降り出した。土砂降りの雨には幾度となく遭っているが、闇夜の状態となっての雨は初めてだった。視界が極端に悪くなる。数メートル先が定かでない。それでいて、車は平気で速度を落とすことが無く走っている。流れに乗ることが出来ずに、僕は途中の山際に停車し、雨に濡れるまま、安全になるまでたたずむ。日中に感じた幻惑感は既に無かった。雨は1時間ほどで治まった。濡れた身体は寒かったが、走っているうちに乾き、家に着いたときは何事もなかったかのようであった。
僕にとってオートバイに乗るとは「走る」ということと同意語である。しかもそのオートバイは「走り続け」なくてはならない。走って走って走り疲れて家に戻り泥のように眠るのだ。「走る」ということは、その状態において、眼前の出来事に対処する事が何事においても優先すると言うことだ。ほんの一瞬の気の緩みから事故を起こすこともある。周囲に気を配り、動き去る景色に目を奪われることなく、僕は肢体を常に緊張させ続ける。また、対面で受ける風の感触、気温・湿度の状態、各々が直接乗り手である僕に影響を与え、風景の中に身も心も一体化する感覚を持つ。
「余計なことは考えるな、目の前に集中しろ、感覚を研ぎ澄ませろ、危険を体で予知するのだ」内なる声が僕にささやく。僕はその声に従う。機械を自らの意志で操り、拡張した身体機能で得られる体験は、勿論通常のそれとは違う。それは愉悦を僕にもたらせるが、同時に身近の「死」を意識することでもある。でも人はその状態にも慣れるものだ。いつしかオートバイで感じた愉悦は日常にとってかわる。
走って走って走り疲れて泥のように眠る、それは見方を変えれば、僕の父母もしくは祖父母たちの日常でもあったかもしれない。今でもそのような日常をおくる人々は世界には多いことだろう。それを時として求める気持ち、それは僕の中で些末なことで悩む自分を別の状態におくことでもある。逆に言えば、そういう日常をオートバイという非日常に転換しなければ、僕自身「走る」という意味の「生きる」と言うことを実感できなくなってきているのかもしれない。
東北道を下るつもりで家を出た。ところが思わぬ環八の渋滞に嫌気がさし中央道に切り替えた。その時点で、目的地は未定。気ままな、いつも通りの無計画の旅となった。
途中のサービスエリアで地図を広げる。このまま諏訪湖にあたりに行くのも良い。しかし、地図で中央道を辿ると大月JCから富士吉田市にのびる支線がある。この道は以前に友人と富士急ハイランドにスケートに行くために使ったことがあるが、その時はバスであった。オートバイにとっては初めての道である。今回のツーリングの起点はこうして決まったのである。
富士吉田から青木ヶ原を通る。雲が多いというのに日差しが強い。そういえば富士山方面に向かっているというのに、富士山を意識して探すこともなかった。富士山方向に雲が多く隠れ、その雲の白さが風景にとけ込み、ないことが自然だった。ないことが自然とは僕の感覚が少しズレ始めているのかもしれない。
本栖湖に立ち寄る。湖岸で水遊びをしている子ども達、それを見守る夫婦。手を繋いでボートを物色するカップル。夏の日をそれぞれに楽しんでいる。人がそれなりにいるのに、不思議と喧噪を感じない。そして日差しが強く暑いのだが、心地よい風が吹き、空の白さと相まって、全体が幻想的な雰囲気と感じ始めている。その感覚に少し気まずさを覚え僕はその場を立ち去る。
このルートを選んだとき、僕には走るべき道があった。国道300号線、本栖湖から山を越え身延町へと続く道だ。地図上で見ると気持ちの良さそうな曲線が続いていたのだ。山道に入るまで本栖湖の湖岸沿いに道は走っている。途中でオートバイを止め本栖湖を眺める。先ほどの姿とは違う姿を見せる。富士山は相変わらず見えない。そしていよいよ日差しは強くなっていった。
村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」の後半に登場する「嫌なカーブ」は実在すると僕は思う。小説上でそれは「あちら側」へと繋がる道であった。オートバイに乗ると、カーブには「嫌なカーブ」と「心地よいカーブ」の二種類があることを実感する。国道300号線の多くのカーブは僕にとって「嫌なカーブ」の連続だった。左手に美しい本栖湖岸、右手に山が迫る。緩やかなカーブだと思い、本栖湖の風景に眼を曲がると、途中からカーブがきつくなった、所謂複合カーブ、曲がりきれなく、下り坂でスピードが出ていた。後輪が滑りながらぎりぎりで曲がりきる。手足の筋肉が固まる。実を言えば一瞬ぶつかるとあきらめかけた、気を緩めるなと自分に言い聞かす。本栖湖で感じた白昼夢的な感覚に囚われ続けていたのかもしれない。
山間の道を抜けると、そこは山村の風景が点在する。途中で道の駅で休む。本栖湖からここまで、殆ど対向車も人も出会うことがなかった。道の駅にいたのは、地元の女性一人と家族連れの4人だけだった。
身延町につく。身延は久遠寺となるが、南アルプスへの一つの玄関口でもあると思う。着いたのが午後の2時頃だと思う。ある程度知られた町なので、それなりの人混みを予想していたが見事にはずれた。この町でも人に出会うことが滅多になかった。駅前で売っていた「身延まんじゅう」を食べる。空は全体が雲で白く、身延の町並みの不自然なほど白く綺麗な町並みに相乗し、本栖湖での感覚が少し蘇る。富士川がきらきらと日差しを反射して流れる。
富士川沿いに52号線を使い東海道まで上る。52号線は好きな道だ。ここでも対向車線を含め車と出会うことが少ない。適度なアールのカーブを、心地よくリーンウィズで曲がる。適度な筋肉の緊張が気持ちよい。
国道52号線は東海道の興津港に繋がっている。しばらく国道一号線を走るが、大型トラックを含め相当なスピードの流れに乗り走ることに嫌気がさし、旧道へと入っていく。由井、蒲原と通り過ぎる。ここら辺は桜エビ漁で知られている。知人からここでしか食べることが出来ないという桜エビ丼が旨いぞと聞いていたので、食指が少し動いたが、道沿いにはそれを告げる看板を見ることがなかった。ここから富士市近くまで渋滞となる。今まで感じることが少なかった暑さを感じる。暑い、そして日差しが強い。
蒲原といえば、小学の時に叔父から貰った切手を思い出す。持っていた中で一番好きな切手だった。安藤広重の図版では確か雪が降っていた。今では想像も出来ない。途中で給油をする。ガソリンスタンドのおばさんと少し話す。旧道沿いの商店が日中だというのに閉まっているのが気になって聞く。おばさんは僕の質問を聞くことなく、ここら辺はいつも渋滞しているのですよ、と答える。僕は、そうですかと言って、店内から外を眺める。
富士市は東海地方の有数の工業地帯として知られている。特に富士川の水を利用した印刷工場が建ち並ぶ。海岸沿いに立ち並ぶ工場の姿は化学工場も多い。いずれにせよ工場関係の人が多いのでないだろうか。富士市のJR駅前までいき、すこし町を歩く。人が少ない。閉まっている店も多い。そして外国人が多い。この町で生活することを想像する。それは普段と変わらぬ日常を想像することでもある。つまりは今とそれほど変わらぬ生活なのだろう。
東海道を上り沼津市に至る。大きな都市だ。以前来たときはこれほど大きな町と意識することもなかった。富士市の風景と沼津市の風景、恐らく数十年前は両者の見た目の違いは少なかったのではないだろうか。発展することの善し悪しは問えない。ただこの違いに少し驚くだけである。
沼津市から国道246号線を使い帰宅することにした。沼津からは山間を抜けるカーブの多い道となる。しかもそれほどの込むことは少なく、通る車はそれなりに速度を出している。急激に気圧が下がるのを感じる。薄暗かった夕暮れが、上空の黒い雲でいきなり暗く、そして突然に大粒の雨が降り出した。土砂降りの雨には幾度となく遭っているが、闇夜の状態となっての雨は初めてだった。視界が極端に悪くなる。数メートル先が定かでない。それでいて、車は平気で速度を落とすことが無く走っている。流れに乗ることが出来ずに、僕は途中の山際に停車し、雨に濡れるまま、安全になるまでたたずむ。日中に感じた幻惑感は既に無かった。雨は1時間ほどで治まった。濡れた身体は寒かったが、走っているうちに乾き、家に着いたときは何事もなかったかのようであった。
僕にとってオートバイに乗るとは「走る」ということと同意語である。しかもそのオートバイは「走り続け」なくてはならない。走って走って走り疲れて家に戻り泥のように眠るのだ。「走る」ということは、その状態において、眼前の出来事に対処する事が何事においても優先すると言うことだ。ほんの一瞬の気の緩みから事故を起こすこともある。周囲に気を配り、動き去る景色に目を奪われることなく、僕は肢体を常に緊張させ続ける。また、対面で受ける風の感触、気温・湿度の状態、各々が直接乗り手である僕に影響を与え、風景の中に身も心も一体化する感覚を持つ。
「余計なことは考えるな、目の前に集中しろ、感覚を研ぎ澄ませろ、危険を体で予知するのだ」内なる声が僕にささやく。僕はその声に従う。機械を自らの意志で操り、拡張した身体機能で得られる体験は、勿論通常のそれとは違う。それは愉悦を僕にもたらせるが、同時に身近の「死」を意識することでもある。でも人はその状態にも慣れるものだ。いつしかオートバイで感じた愉悦は日常にとってかわる。
走って走って走り疲れて泥のように眠る、それは見方を変えれば、僕の父母もしくは祖父母たちの日常でもあったかもしれない。今でもそのような日常をおくる人々は世界には多いことだろう。それを時として求める気持ち、それは僕の中で些末なことで悩む自分を別の状態におくことでもある。逆に言えば、そういう日常をオートバイという非日常に転換しなければ、僕自身「走る」という意味の「生きる」と言うことを実感できなくなってきているのかもしれない。
2005/09/19
出口調査
9月11日に僕は初めて出口調査に回答した。近くの小学校が投票場所だった、投票後に学校正門に黄色い腕章をつけた女性が立っているのがわかった。来たときには見かけなかったし、何かしら記入用紙を手に持っていたので、出口調査なのかもしれないなどとすぐに思った。一度出口調査なるものに遭遇したいと思っていた僕は、自分に声をかけてくれないかなと期待して女性の脇を通った。ほかに脇を通る人もいなかったのもあるのだろう、彼女は僕に声をかけ青い用紙を手渡した。朝日新聞出口調査と用紙冒頭に印刷しているアンケート用紙には、5?6問の質問がかかれており、質問は選択形式となっていた。一つ一つの質問は実態調査の範疇を超えてはいなかったので、僕は躊躇することなく質問に答えた。ただ一問だけ、「あなたはこの選挙で政治が変わると思いますか」という質問だけ、一瞬の戸惑いがあった。それは一瞬だったが僕の中で戸惑いを意識するには十分だった。そしてその質問には「変わらないと思う」の項目に丸をつけ女性に手渡したのだった。
家に戻る道すがら僕は戸惑いを感じた質問について考えていた。一瞬の戸惑いが起きたのは、その質問が常套であるにもかかわらず僕にとって不意打ちにも似た感触を持ったからだった。僕の中では「政治が変わる」という意味がよく掴めなかった。自民党が敗北し政権が民主党に移行するという意味だったのだろうか、でも質問全体からそれを受け取ることは出来なかったし、その問いは比例選挙でどこに投票したのかの質問に兼ねることが出来る。その質問は間違いなく「政治が変わるか」との問いであった。
一瞬の戸惑いにはもう一つの理由があった。それは選挙によって何かが変わる、という実感をいまだかつて感じたことがなかったのだ。それは一票が軽いとか、大勢の中の一つ、だとかのことではない。例えば学校で職場で数十名の中から代表者を決めるとしたとしても、僕が先ほどと同様の実感を持つかもしれない。数の問題ではなく、政治で何が変わるのかという否定的な問い方を僕自身が持っているということなのだ。それであればなぜ僕は投票をしに小学校まで来ているのかという、自己に向けての素朴な問いかけが、この質問と一緒に飛び込んできたのだった。
「政治が変わる」という質問の意味は何なのだろう。例えば各種法案が立案審議され可決される場合、その法案の目的もしくは中身いかんに関わらず、知っても知らずもその法案に僕が影響を受ける場合があるのは当然だろう。でもそれは政治が変わると言うことではない。山積みの各種問題がこの国にあるのは一国民として意識している、それらの問題の解決の仕方も、その先の展望も未知数のままだけど、それについて政治が変わらなくては届かない、そういう意味で使われているのかもしれない。ではどう変わればいいのだろう。
人は幸せに自由に生き、そして何かになりたいと願うと思う。でも現実にはその願いとうらはらに心中に不全感と常に未達の意識も持つのでないだろうか。この不全感もしくは生き難さの感覚の解消は、個人の気持ちとか能力によって切り開いて行くことが殆どなのかもしれない。何かが変わるという意識は、その個人の内からくるもののように思えるのである。だから、外部としての政治が具体的にどうなろうとも、僕にとって変わるとはならないような気がする。
選挙の結果は多くの人にとって、勿論僕も、当の自民党にとっても驚くような結果だった。自民公明両党による衆議員3分の2以上の議席は今後、様々な議案の提示と、それに基づく多くの議論が起こることが想定できる。今までにない巨大与党の政治の中で、それでもなお僕は政治が変わるとも思えないのである。それは前記のように、政治が変わらなくては先に辿り着けない、という中で、政治が政治を変えることが難しいと思うからなのだ。
変わるためには、この国の政治の根っこにある、人について、人が生きると言うことについて、他者と共生すると言うことについて、それらを考え蓄積し共有化するプロセスが必要と思う。主導する原理的な思想も必要かもしれない。僕はある意味、中島義道の言うところの、この国には哲学者が少ない、と同じ事を言っているのかもしれない。
その道のりは多分相当に長い時間が必要だろう。僕が「変わらない」という意識の中で、殆どの選挙権を行使している理由は、政治に参画していると言うより公共の場に参画しているという気持ちがあるからだと思う。
何か支離滅裂な記事になってきた。この記事を書きながら自分の事を反省すると、様々な思いが交差して、その根幹にあるものが未だに掴めないでいるのがよくわかる。引き続き考えていきたいと思う。
家に戻る道すがら僕は戸惑いを感じた質問について考えていた。一瞬の戸惑いが起きたのは、その質問が常套であるにもかかわらず僕にとって不意打ちにも似た感触を持ったからだった。僕の中では「政治が変わる」という意味がよく掴めなかった。自民党が敗北し政権が民主党に移行するという意味だったのだろうか、でも質問全体からそれを受け取ることは出来なかったし、その問いは比例選挙でどこに投票したのかの質問に兼ねることが出来る。その質問は間違いなく「政治が変わるか」との問いであった。
一瞬の戸惑いにはもう一つの理由があった。それは選挙によって何かが変わる、という実感をいまだかつて感じたことがなかったのだ。それは一票が軽いとか、大勢の中の一つ、だとかのことではない。例えば学校で職場で数十名の中から代表者を決めるとしたとしても、僕が先ほどと同様の実感を持つかもしれない。数の問題ではなく、政治で何が変わるのかという否定的な問い方を僕自身が持っているということなのだ。それであればなぜ僕は投票をしに小学校まで来ているのかという、自己に向けての素朴な問いかけが、この質問と一緒に飛び込んできたのだった。
「政治が変わる」という質問の意味は何なのだろう。例えば各種法案が立案審議され可決される場合、その法案の目的もしくは中身いかんに関わらず、知っても知らずもその法案に僕が影響を受ける場合があるのは当然だろう。でもそれは政治が変わると言うことではない。山積みの各種問題がこの国にあるのは一国民として意識している、それらの問題の解決の仕方も、その先の展望も未知数のままだけど、それについて政治が変わらなくては届かない、そういう意味で使われているのかもしれない。ではどう変わればいいのだろう。
人は幸せに自由に生き、そして何かになりたいと願うと思う。でも現実にはその願いとうらはらに心中に不全感と常に未達の意識も持つのでないだろうか。この不全感もしくは生き難さの感覚の解消は、個人の気持ちとか能力によって切り開いて行くことが殆どなのかもしれない。何かが変わるという意識は、その個人の内からくるもののように思えるのである。だから、外部としての政治が具体的にどうなろうとも、僕にとって変わるとはならないような気がする。
選挙の結果は多くの人にとって、勿論僕も、当の自民党にとっても驚くような結果だった。自民公明両党による衆議員3分の2以上の議席は今後、様々な議案の提示と、それに基づく多くの議論が起こることが想定できる。今までにない巨大与党の政治の中で、それでもなお僕は政治が変わるとも思えないのである。それは前記のように、政治が変わらなくては先に辿り着けない、という中で、政治が政治を変えることが難しいと思うからなのだ。
変わるためには、この国の政治の根っこにある、人について、人が生きると言うことについて、他者と共生すると言うことについて、それらを考え蓄積し共有化するプロセスが必要と思う。主導する原理的な思想も必要かもしれない。僕はある意味、中島義道の言うところの、この国には哲学者が少ない、と同じ事を言っているのかもしれない。
その道のりは多分相当に長い時間が必要だろう。僕が「変わらない」という意識の中で、殆どの選挙権を行使している理由は、政治に参画していると言うより公共の場に参画しているという気持ちがあるからだと思う。
何か支離滅裂な記事になってきた。この記事を書きながら自分の事を反省すると、様々な思いが交差して、その根幹にあるものが未だに掴めないでいるのがよくわかる。引き続き考えていきたいと思う。
2005/09/16
一年近く前に渋谷で
一年近く前のことの話だ。休みに渋谷を歩いていた。確か公園通り近くにあるバイク屋に行く途中だったと思う。僕は少し大きめの手提げ鞄を持って歩いていた。人は多く、互いに接触しないで歩くのが難しいほどだった。ここで書こうと思っている話は、僕がセンター街から公園通りに向かうためスペイン坂の方へと曲がった時に起こった。背後に視線を感じたのだった。頭だけ振り返ると、そこにはアフリカ系と思われる褐色肌の男性が強い目線で僕のことを睨んでいた。目線が合ったとき、僕は彼が自分の事を睨んでいるとは全く思えなかった。でも彼の視線は僕を捕らえて離さなかった。勿論僕にとっては未知の人である。それに見知った顔かと伺い観る目線ではなかった。それは僕にとっては、理由はわからないが、強い非難を込めているかのように感じられたのだった。
身に覚えのない僕は即座に人違いだろう、彼は何か勘違いをしているのだろうと受け取り、関わらずに先を急ごうと再び前方へと顔を戻した。でもどうあっても、彼の目線の強さが脳裏に浮かんだのだった。数十メートル歩いてから、再び後ろを振り返った。彼はその場に止まり、僕を睨み続けていた。紛れもなくそれは僕に対してであることは間違いなかった。
歩きながら僕は一つの筋書きを想像した。道を曲がったとき、僕が左手に持っていた鞄が彼に当たったのではないだろうか、ということだった。でも当たったのなら僕にもその感触が伝わるはずである。それは全く感じなかった。でも例えば、鞄を前後に振ったとき、人混みの中でそういう風に鞄を持つことはないが、かすかにかすったとすれば僕は気づかなかった可能性はある。さらに彼自身も道を渡ろうとし、僕と一瞬の交差の中で接触が起きたとき、彼にとっては渡るのを阻害されたことと、鞄をぶつけられたことの、二重の意味で僕の行為を不快に感じたのかもしれない。ただそういうことは渋谷の街路では頻繁にあることだろう。彼から受ける目線の強さはそれ以上のものを感じられたのも事実だった、それはたまたま偶然の出来事と解釈することで、己の不快を解消する事さえ出来ない、という目線だった。
仮に鞄が彼に当たったとして、それを彼が僕が故意にしたと考えたとすればどうだろう。その想像だと彼の目線の強さは僕にも理解できる。しかしそれであれば彼は僕のことを人種差別加害者として観ていたことになる。つまり僕は知らないうちに言葉でなく行為によって差別していたことになる。この想像は彼の状況を僕なりに理解する事が出来たが、少しも僕の気持ちを晴らすことはなかった。
以前僕自身は差別に対し、差別と感じたらそれが差別だ、みたいなことを考えていた。でもそれであれば、差別と感じた者が「これは差別だ」というだけで差別が成立することになる。それはそれで無茶な話だと今の僕は思う。そこには差別を受けた者と与えたと思う者とのコミットが存在しないし、「差別」を共有化するプロセスを行うことも出来なってしまう。
「天皇の責任問題」(加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣 径書房)の中で、竹田氏は差別について以下のことを話している。
「近代的な法やルールの根本は、それが何故悪いのか、何故罰せられるべきものなのかを、社会の成員がよく理解でき納得出来るものである、ということです。被差別者とされる人々がこれは「差別」だと異議申し立て、一般の人が市民的原則から見て、なるほどそれはひどい、とかそれはたしかに傷つく、という理解と納得が生じる、そういうものが「差別」と呼べるものです。」
(「天皇の責任問題」から竹田氏発言を引用)
さらに、その行為・言葉が「差別」かどうかを確認するプロセスが大事で、そのプロセスの中ではじめて市民的合意が成立するとも言っている。差別される人が「差別」を決定する場合、普通の人が自分の生活の中につねに生きて少しずつ考えるべき課題であることを、完全に覆い隠してしまい、昔のお上の「お触れ書き」の様になってしまうとも言っている。僕は全面的に竹田氏の発言に同意する。
渋谷での出来事が僕の想像通りだったとして、僕の行為は差別的行為だったのかと自問すれば、その答えは「否」となる。でも彼が差別的行為と感じたのだとすれば、僕と彼とのズレはどう解消すればよいのであろうか。一つ間違いないのは鞄を当てたとき、もしくは後で気がついたとき、一言謝れば済む話なのだと思うが、その筋書きに気がついたときは既に彼はいなかった。
この話は差別が生まれた瞬間なのだろうか。少なくとも僕と彼とでは、その点についても(おそらく)認識は違う。僕にとっては不慮の出来事に対し謝意を伝え、行為に意図は全くないことを語ればそれですむ話である(そうもいかない場合もあるが、それは良心の問題もしくは相手との関係性によって説得も変わるかもしれない)。その認識を埋める事は今では出来ないが、少なくとも僕にとってはズレが生じる瞬間だったとは思うが、差別というところまで思い浮かばない。僕の想像通りだとして、鞄の接触に気がつかない自分の鈍感さに呆れるばかりだ。
僕自身は差別に対し鈍感にも敏感にもなりたいとも思わない。そうではなくて、できれば両者の意識のズレを解消するために、お互いの話を聞きあい了解する、そういうプロセスを持続する力を得たいと思うのである。
一年近く前の話だが、最近思うことがありこの事件を思い出した。多少の自戒を込めて僕はこの記事を書いている。
身に覚えのない僕は即座に人違いだろう、彼は何か勘違いをしているのだろうと受け取り、関わらずに先を急ごうと再び前方へと顔を戻した。でもどうあっても、彼の目線の強さが脳裏に浮かんだのだった。数十メートル歩いてから、再び後ろを振り返った。彼はその場に止まり、僕を睨み続けていた。紛れもなくそれは僕に対してであることは間違いなかった。
歩きながら僕は一つの筋書きを想像した。道を曲がったとき、僕が左手に持っていた鞄が彼に当たったのではないだろうか、ということだった。でも当たったのなら僕にもその感触が伝わるはずである。それは全く感じなかった。でも例えば、鞄を前後に振ったとき、人混みの中でそういう風に鞄を持つことはないが、かすかにかすったとすれば僕は気づかなかった可能性はある。さらに彼自身も道を渡ろうとし、僕と一瞬の交差の中で接触が起きたとき、彼にとっては渡るのを阻害されたことと、鞄をぶつけられたことの、二重の意味で僕の行為を不快に感じたのかもしれない。ただそういうことは渋谷の街路では頻繁にあることだろう。彼から受ける目線の強さはそれ以上のものを感じられたのも事実だった、それはたまたま偶然の出来事と解釈することで、己の不快を解消する事さえ出来ない、という目線だった。
仮に鞄が彼に当たったとして、それを彼が僕が故意にしたと考えたとすればどうだろう。その想像だと彼の目線の強さは僕にも理解できる。しかしそれであれば彼は僕のことを人種差別加害者として観ていたことになる。つまり僕は知らないうちに言葉でなく行為によって差別していたことになる。この想像は彼の状況を僕なりに理解する事が出来たが、少しも僕の気持ちを晴らすことはなかった。
以前僕自身は差別に対し、差別と感じたらそれが差別だ、みたいなことを考えていた。でもそれであれば、差別と感じた者が「これは差別だ」というだけで差別が成立することになる。それはそれで無茶な話だと今の僕は思う。そこには差別を受けた者と与えたと思う者とのコミットが存在しないし、「差別」を共有化するプロセスを行うことも出来なってしまう。
「天皇の責任問題」(加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣 径書房)の中で、竹田氏は差別について以下のことを話している。
「近代的な法やルールの根本は、それが何故悪いのか、何故罰せられるべきものなのかを、社会の成員がよく理解でき納得出来るものである、ということです。被差別者とされる人々がこれは「差別」だと異議申し立て、一般の人が市民的原則から見て、なるほどそれはひどい、とかそれはたしかに傷つく、という理解と納得が生じる、そういうものが「差別」と呼べるものです。」
(「天皇の責任問題」から竹田氏発言を引用)
さらに、その行為・言葉が「差別」かどうかを確認するプロセスが大事で、そのプロセスの中ではじめて市民的合意が成立するとも言っている。差別される人が「差別」を決定する場合、普通の人が自分の生活の中につねに生きて少しずつ考えるべき課題であることを、完全に覆い隠してしまい、昔のお上の「お触れ書き」の様になってしまうとも言っている。僕は全面的に竹田氏の発言に同意する。
渋谷での出来事が僕の想像通りだったとして、僕の行為は差別的行為だったのかと自問すれば、その答えは「否」となる。でも彼が差別的行為と感じたのだとすれば、僕と彼とのズレはどう解消すればよいのであろうか。一つ間違いないのは鞄を当てたとき、もしくは後で気がついたとき、一言謝れば済む話なのだと思うが、その筋書きに気がついたときは既に彼はいなかった。
この話は差別が生まれた瞬間なのだろうか。少なくとも僕と彼とでは、その点についても(おそらく)認識は違う。僕にとっては不慮の出来事に対し謝意を伝え、行為に意図は全くないことを語ればそれですむ話である(そうもいかない場合もあるが、それは良心の問題もしくは相手との関係性によって説得も変わるかもしれない)。その認識を埋める事は今では出来ないが、少なくとも僕にとってはズレが生じる瞬間だったとは思うが、差別というところまで思い浮かばない。僕の想像通りだとして、鞄の接触に気がつかない自分の鈍感さに呆れるばかりだ。
僕自身は差別に対し鈍感にも敏感にもなりたいとも思わない。そうではなくて、できれば両者の意識のズレを解消するために、お互いの話を聞きあい了解する、そういうプロセスを持続する力を得たいと思うのである。
一年近く前の話だが、最近思うことがありこの事件を思い出した。多少の自戒を込めて僕はこの記事を書いている。
2005/09/15
Lexmark Z816購入
プリンターを購入した。レックスマーク社のLexmark Z816、渋谷ビックカメラで9980円だった。それまではプリンターなしのPC利用で、それでも全く不便を感じていなかったのでプリンターはいらないと思っていた。今までに数台プリンターを使ってきたが、結局の所ホコリをかぶり、利用することなく腐っていった。今回購入したのは個人的に印字しなくてはならない文書が幾つか出てきたのが発端だった。で、プリンターを検討したときに、まず頭に浮かんだのが、所謂複合機というもので、スキャナーとプリンターが合わさったモノだった。でも少し悩んだけど、このプリンターを購入することにした。
Lexmark Z816は複合機ではない。安い複合機であればエプソンもしくはHPで1万3千円くらい出せば購入できるが、それだとなにかしら中途半端な気になってしまったのだ。それに今のプリンターはデジタル写真を印刷する用途に機能面が尖っているように思えた。僕の用途で言えば、写真印刷はあれば嬉しいが、結局の所、面倒で殆ど使わないと思ったし、それよりもテキスト文書を高速にしっかりと印字してくれる方が嬉しい、そう思った。印字に重きを置いたプリンターとしてこの製品を選んだのだった。
写真印刷も出来ないことはないが、トナーが黒とカラーの2個で、カラーが4色ということもあり、国産プリンターからみれば見劣りするのは間違いない。ただ、黒トナーをはずし、代わりに写真用トナーを装着すれば6色になり、少しは見栄えがよい印刷は可能とのことだった。でもわざわざそういうことをするユーザがいるとも思えない。多分、このプリンターを購入した人は僕と同じに割り切った使い方をすると思う。
さすがに使用感はよかった。まず思った以上に印字速度が速い。A4で分22枚とカタログに載っているが、それよりも早く感じる。印字時の振動も音も静かで、プリンタも進歩しているのだなぁと感心した。
ただ問題が一つある、それはプリンター共有設定で使おうと思ったのだけど、それがうまくいかない。致命的な問題ではないけど、なんとなく気になる。
とにかく久しぶりのプリンターなので、しばらくは遊んで使えそうだ。 印字目的が文書印字中心であればこのプリンター安いしお奨めします。
2005/09/14
「ブラック・ラグーン」小論
人が生きるとは自らの欲望を充足するためだと仮定してみる。そうすると「ブラック・ラグーン」に搭乗するキャラ達の行動が理解できる。
「ブラック・ラグーン」とは「月刊サンデーGX」に連載中のマンガである。掃海艇を使う運び屋のラグーン商会のメンバーを中心に物語は進行する。元軍人の印象を持つラグーン商会トップのダッチ、米国フロリダの大学でハッキング行為によりマフィアとFBIに追われたペニー、二丁拳銃の異名を持つ中国系米国人のレヴィ、そして企業の利益と存続のために見捨てられた「岡島緑郎」ことロック、この4人がラグーン商会のメンバーであるが、物語はロックがラグーン商会に捕まる所から始まる。
マンガのジャンル分けについては、まぁどうでも良いことかもしれない、でもあえて僕のイメージを言えば、「ヘルシンク」のスプラッタ系と萌え系をあわせた感じに近い。僕にとってこのマンガで面白いのは、登場するキャラ達のセリフにある。「ブラック・ラグーン」のキャラ達は実に多弁である。そしてその内容は直線的でとても理解しやすい。さらに各々の物語は筋において破綻が少なく、きちんと作者の世界観が感じられる。これらによって、このマンガは多分多くの人の共感を得られているような気がする。勿論描写が過激な箇所もあるので嫌いな方も多いとは思うが。
僕の中で「ブラック・ラグーン」を語る際どうしても避けられない話がある。これからそれを書こうと思う。「ブラック・ラグーン」の中心人物は誰かと問われれば、言わずもがな、ロックとレヴィにあるのは間違いない。逆に言えば、この二人の関係を考えれば自ずから「ブラック・ラグーン」のことがわかるように思う。
ある時二人は故障により浮上しないまま沈んだナチスドイツ潜水艦に放置された一枚の絵を回収する依頼を受け潜水艦にたどり着く。そこではさながら地下墓地のように白骨遺体が横たわっている。そこでお目当ての絵を回収した後でレヴィは白骨化したドイツ兵の遺体から十字章等の高値で売れる物品を押収してくる。それについてロックはレヴィの行為を否定する。レヴィは骸骨と十字章を両手に持ち、ロックに問いかける。「この二つは何だ」と。ロックは「十字章と骸骨」であることを告げるが、レヴィは「違う」という。これらは還元すれば「もの」であるというのである。さらにこの「もの」には「カネ」という価値がつけられ、「カネ」は力を意味する。レヴィが言うには人の欲望はそこに還元することになる。それを違った言葉に言い直すことも、正面でそれを否定するのは偽善的行為だと彼女は断定する。ロックの否定はレヴィにとって彼女の生き方に対する侮辱である。だからレヴィは金輪際同じことを言うなとロックに言い、言えば殺すと告げる。
次の章でこの話は再び繰り返される。繰り返したのはロックからだった。ロックは「俺は間違っていないし、(お前に)謝るつもりもない」とレヴィに言う。レヴィは怒りロックに銃を向けるが、ロックはレヴィの銃をつかみ弾道をそらし「銃では解決できないこともある」と彼女に対し言い、続けて「カネカネと言うお前には誇りはないのか」と問う。ロックの言いたいことは、人が生きるというのは難しい、それを理解せずに自分の不全感だけを主張し、自分が与えられた状況に悲観するのは卑怯だと言うのだ。そしてレヴィのその考えは、カネと立場を守るためにロックを切り捨てた連中と同根だと言うのである。そして、自分の何かを吹っ切ってくれたレヴィが、それを語ることに拘るのである。
生きるのが難しいとの感覚は誰もが抱いている、と僕は思う。どういうときに難しいと感じるのであろうか。それは様々な関係の中で、自分自身が生きていく何かを見失ったとき、もしくはその実現が難しいとき、生き難さを感じるのではないかと僕は思う。その時人は「モノ」と「カネ」に行きやすい。それらはある程度自分自身で充足可能であるからだ。でも本質的にそれは様々な関係の中で見失った何かではない。だから一時的に行き難さの苦痛を和らげてくれるかもしれないが、モルヒネが切れて痛みが戻るときモルヒネを求めるように、際限なく求め続ける様になると僕は思う。ロックはそのことを知っていた。それ故、レヴィがこのままでは破綻することも見えていた。だから、自分がレヴィに撃たれることを承知で言ったのかもしれない。また、ロックはレヴィに認めてもらいたかった。ロックにとってレヴィは自分の生の中で重く関係する存在なのである。レヴィに認めてもらうことはロック自身の生き難さをある意味和らげることに繋がるのかもしれない。
ロックとレヴィのやりとりでもレヴィの世界観は何も変わらないのかもしれない。それにロックの言い分がレヴィに正確に伝わったとも思えない。その人の一回限りの人生において、何に拘り何をしたいのかの中身が何であれ、生き難さが十分に無くなることなどないとも思うのだ。ただ一つだけ言えることは、レヴィはロックの世界観を、これらの出来事で了解したと言うことは間違いない。その世界観はレヴィとは全く違う、でも彼女はそれを認めた。認めることにより「ブラック・ラグーン」でのレヴィの生き方は少しずつ変化していく。現在進行中の物語(日本編)では、レヴィはロックの「銃」としてロックの命を守るためにだけ在るのである。そういう見方をすれば、このマンガはレヴィというガンマンがロックを通して変化する過程を描いていると言っても良いかもしれない。
「ブラック・ラグーン」とは「月刊サンデーGX」に連載中のマンガである。掃海艇を使う運び屋のラグーン商会のメンバーを中心に物語は進行する。元軍人の印象を持つラグーン商会トップのダッチ、米国フロリダの大学でハッキング行為によりマフィアとFBIに追われたペニー、二丁拳銃の異名を持つ中国系米国人のレヴィ、そして企業の利益と存続のために見捨てられた「岡島緑郎」ことロック、この4人がラグーン商会のメンバーであるが、物語はロックがラグーン商会に捕まる所から始まる。
マンガのジャンル分けについては、まぁどうでも良いことかもしれない、でもあえて僕のイメージを言えば、「ヘルシンク」のスプラッタ系と萌え系をあわせた感じに近い。僕にとってこのマンガで面白いのは、登場するキャラ達のセリフにある。「ブラック・ラグーン」のキャラ達は実に多弁である。そしてその内容は直線的でとても理解しやすい。さらに各々の物語は筋において破綻が少なく、きちんと作者の世界観が感じられる。これらによって、このマンガは多分多くの人の共感を得られているような気がする。勿論描写が過激な箇所もあるので嫌いな方も多いとは思うが。
僕の中で「ブラック・ラグーン」を語る際どうしても避けられない話がある。これからそれを書こうと思う。「ブラック・ラグーン」の中心人物は誰かと問われれば、言わずもがな、ロックとレヴィにあるのは間違いない。逆に言えば、この二人の関係を考えれば自ずから「ブラック・ラグーン」のことがわかるように思う。
ある時二人は故障により浮上しないまま沈んだナチスドイツ潜水艦に放置された一枚の絵を回収する依頼を受け潜水艦にたどり着く。そこではさながら地下墓地のように白骨遺体が横たわっている。そこでお目当ての絵を回収した後でレヴィは白骨化したドイツ兵の遺体から十字章等の高値で売れる物品を押収してくる。それについてロックはレヴィの行為を否定する。レヴィは骸骨と十字章を両手に持ち、ロックに問いかける。「この二つは何だ」と。ロックは「十字章と骸骨」であることを告げるが、レヴィは「違う」という。これらは還元すれば「もの」であるというのである。さらにこの「もの」には「カネ」という価値がつけられ、「カネ」は力を意味する。レヴィが言うには人の欲望はそこに還元することになる。それを違った言葉に言い直すことも、正面でそれを否定するのは偽善的行為だと彼女は断定する。ロックの否定はレヴィにとって彼女の生き方に対する侮辱である。だからレヴィは金輪際同じことを言うなとロックに言い、言えば殺すと告げる。
次の章でこの話は再び繰り返される。繰り返したのはロックからだった。ロックは「俺は間違っていないし、(お前に)謝るつもりもない」とレヴィに言う。レヴィは怒りロックに銃を向けるが、ロックはレヴィの銃をつかみ弾道をそらし「銃では解決できないこともある」と彼女に対し言い、続けて「カネカネと言うお前には誇りはないのか」と問う。ロックの言いたいことは、人が生きるというのは難しい、それを理解せずに自分の不全感だけを主張し、自分が与えられた状況に悲観するのは卑怯だと言うのだ。そしてレヴィのその考えは、カネと立場を守るためにロックを切り捨てた連中と同根だと言うのである。そして、自分の何かを吹っ切ってくれたレヴィが、それを語ることに拘るのである。
生きるのが難しいとの感覚は誰もが抱いている、と僕は思う。どういうときに難しいと感じるのであろうか。それは様々な関係の中で、自分自身が生きていく何かを見失ったとき、もしくはその実現が難しいとき、生き難さを感じるのではないかと僕は思う。その時人は「モノ」と「カネ」に行きやすい。それらはある程度自分自身で充足可能であるからだ。でも本質的にそれは様々な関係の中で見失った何かではない。だから一時的に行き難さの苦痛を和らげてくれるかもしれないが、モルヒネが切れて痛みが戻るときモルヒネを求めるように、際限なく求め続ける様になると僕は思う。ロックはそのことを知っていた。それ故、レヴィがこのままでは破綻することも見えていた。だから、自分がレヴィに撃たれることを承知で言ったのかもしれない。また、ロックはレヴィに認めてもらいたかった。ロックにとってレヴィは自分の生の中で重く関係する存在なのである。レヴィに認めてもらうことはロック自身の生き難さをある意味和らげることに繋がるのかもしれない。
ロックとレヴィのやりとりでもレヴィの世界観は何も変わらないのかもしれない。それにロックの言い分がレヴィに正確に伝わったとも思えない。その人の一回限りの人生において、何に拘り何をしたいのかの中身が何であれ、生き難さが十分に無くなることなどないとも思うのだ。ただ一つだけ言えることは、レヴィはロックの世界観を、これらの出来事で了解したと言うことは間違いない。その世界観はレヴィとは全く違う、でも彼女はそれを認めた。認めることにより「ブラック・ラグーン」でのレヴィの生き方は少しずつ変化していく。現在進行中の物語(日本編)では、レヴィはロックの「銃」としてロックの命を守るためにだけ在るのである。そういう見方をすれば、このマンガはレヴィというガンマンがロックを通して変化する過程を描いていると言っても良いかもしれない。
2005/09/11
こっそりと復活、そしてローレライ
今春公開した日本映画「ローレライ」をレンタルで見た。この映画に関して、時代背景が戦争末期であることから、様々な考えがあるのは想定できるが、僕はとても面白く観ることが出来た。僕にとって「ローレライ」は完全なファンタジー映画だった。だから役者がどんなに素晴らしい演技をしても僕にとっての現実感はなかった。ファンタジー映画としてみて、その世界観の中に没入し、そこからこの映画を眺めると、配役一人一人の動機は納得がいくものではあるが、それは例えばアニメを観て登場人物の行動に納得するのと似ている、そんな感じで僕はこの映画を面白く観たのだった。
僕はこの映画で大きく分けて二つの感想を持った。これからその話をしたいと思う。一つめは、この物語は何故うまれたのかと言うことだ。戦争時代の、特に対米戦を描くことには、ハリウッドに対する一つの挑戦への意味合いもあるのかもしれないが、日本が敗戦を経験していなければこの映画の誕生はあり得ないのは間違いない、と僕は思う。「ローレライ」において殆どの内容は登場人物それぞれの美学の主張であった。
敗者は美学にすり寄る、と僕は思う。それは過去の失敗における心理的な打ち消し作用があるのかもしれない。
さらに言えば、美学の主張は失敗を共有する者達から観れば、何か癒される印象を持つものだ、とも僕は思う。僕がこの映画を観て、面白いと思い、場面によって登場人物の行動に共感するのは、勿論僕が日本人として、映画の中で尊敬できる同国人の姿を見たのは間違いはない、でも別の側面から観た場合、僕の中に前記のような癒しの部分もあるのも事実だと思う。
逆に言えば、あの戦争を体験した者も、それをしらない世代においても、敗戦という出来事に対し、僕を含めいまだに何らかの決着がついていないと言うことが、「ローレライ」をして多くの人の共感を得られことの事由の様な気もするのである。
二つめは、メディアはメッセージだとすれば、「ローレライ」から僕が受け取ったメッセージについてである。それは、一つめで僕があげた美学の部分を出来るだけ排除し、その上で一番に印象に残ったことでもある。
それは役所広司扮する艦長が、若い男女の乗った特殊潜航艇を切り離し(生き残って欲しいという願いから)、二人に向かって言う言葉である。男が「大切なものとは一体・・・」という言葉に対し艦長は一言「考えろ」と言う。「お前なら考えればわかるはずだ」という言葉に、敗者の美学からのり越えの糸口があるように思えたのだった。考えると言うことは、美学の中に止まるということを許さない状況におくことのように、僕には思えたのだ。それは一つのファンタジーの終わりを告げる言葉でもあった。
上記のように考えていくと、物語の筋からみても「ローレライ」は商業的にみて日本市場に的を絞った商品であることがよくわかる。この映画はあくまでも、日本人が作った日本人のための娯楽作品なのだ、と僕は思う。それでもビジネスとして成功することをこの映画は証明している。
ついでにいえば、僕は美学そのものを否定する気持ちは毛頭無い。ただこの映画に僕は何故共感したのかを探ってみたいと思っただけである。
僕はこの映画で大きく分けて二つの感想を持った。これからその話をしたいと思う。一つめは、この物語は何故うまれたのかと言うことだ。戦争時代の、特に対米戦を描くことには、ハリウッドに対する一つの挑戦への意味合いもあるのかもしれないが、日本が敗戦を経験していなければこの映画の誕生はあり得ないのは間違いない、と僕は思う。「ローレライ」において殆どの内容は登場人物それぞれの美学の主張であった。
敗者は美学にすり寄る、と僕は思う。それは過去の失敗における心理的な打ち消し作用があるのかもしれない。
さらに言えば、美学の主張は失敗を共有する者達から観れば、何か癒される印象を持つものだ、とも僕は思う。僕がこの映画を観て、面白いと思い、場面によって登場人物の行動に共感するのは、勿論僕が日本人として、映画の中で尊敬できる同国人の姿を見たのは間違いはない、でも別の側面から観た場合、僕の中に前記のような癒しの部分もあるのも事実だと思う。
逆に言えば、あの戦争を体験した者も、それをしらない世代においても、敗戦という出来事に対し、僕を含めいまだに何らかの決着がついていないと言うことが、「ローレライ」をして多くの人の共感を得られことの事由の様な気もするのである。
二つめは、メディアはメッセージだとすれば、「ローレライ」から僕が受け取ったメッセージについてである。それは、一つめで僕があげた美学の部分を出来るだけ排除し、その上で一番に印象に残ったことでもある。
それは役所広司扮する艦長が、若い男女の乗った特殊潜航艇を切り離し(生き残って欲しいという願いから)、二人に向かって言う言葉である。男が「大切なものとは一体・・・」という言葉に対し艦長は一言「考えろ」と言う。「お前なら考えればわかるはずだ」という言葉に、敗者の美学からのり越えの糸口があるように思えたのだった。考えると言うことは、美学の中に止まるということを許さない状況におくことのように、僕には思えたのだ。それは一つのファンタジーの終わりを告げる言葉でもあった。
上記のように考えていくと、物語の筋からみても「ローレライ」は商業的にみて日本市場に的を絞った商品であることがよくわかる。この映画はあくまでも、日本人が作った日本人のための娯楽作品なのだ、と僕は思う。それでもビジネスとして成功することをこの映画は証明している。
ついでにいえば、僕は美学そのものを否定する気持ちは毛頭無い。ただこの映画に僕は何故共感したのかを探ってみたいと思っただけである。
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