2007/03/19

産経新聞コラム「正論 教育改革は「道徳教科書」作成から」を読んで思うこと

産経新聞(2007年3月7日)のコラム「正論 京都大学名誉教授・市村真一 教育改革は「道徳教科書」作成から」(Clipmarks)を読み唸った。教育に関して門外漢ではあるが、このコラムに書かれていることは僕にとっては強く抵抗感を抱かせる。
「安倍首相が内閣の第1課題を教育とし、教育基本法の改正を成就されたことは、岸首相の日米安保条約改定につぐ、占領政策是正の重要な第二歩であって、真によろこばしい。だが国民の心の荒廃は実に深刻で、その治癒は容易ではない。なにしろ六十数年の積弊、一挙に改善する万能薬はない。どこから着手するか。」
「占領政策是正」とは使い古された言葉であるが、その内容は、僕などはとんと理解が出来ない。日本の現状は、仮に教育に関してだけを述べたとしても、根本を占領政策だけに求めるのは無理がある、と思うのである。それらの意見に共通することは、戦前の日本に対する郷愁である。しかもその戦前の日本は、江戸幕府以前ではなく明治以降に造られた日本の姿でもある。

「国民の心の荒廃」を叫ぶ者は、常に「荒廃」の外部に位置している。故に語りは上からの見下ろしで書かれることが多い。「私は違うが、周りはこうなっている、故に改善点は私が語れる」、もしくは「こうすればいいのに何故それが理解できないのか」等など。

市村氏のコラムもその語りを踏まえている。しかし、最も的はずれなことは、荒廃した心を持った国民に対して語られる内容にもかかわらず、市村氏自身の問題意識が国民と共有しているがごとき語り口だということだ。

仮に、市村氏の言うとおりに、国民の心が荒廃しているのであれば、上記の引用箇所は、既にその意味を失っている。市村氏は以下の二項目を緊急提言している。
「1、教師の任用更新を厳しくし、その基準を明示する。」
「2、道徳教科書の作成に着手し、著者を厳選する。」
対象は小・中・高等学校の教員となっている。市村氏の考えとしては、 「採用後2年を試用期間とし、最初は助教諭に、後に教諭に任用すること」としている。そして、 「ペスタロッチ等の有名な教育論のエッセンスを踏まえて、立派な「教育者の条件」は何かを真剣に考えた」結果、「(1)学力(2)親切(3)敬虔な心(4)品性」、の4項目となったそうである。

教師の「質」を考える場合、しかるべきスキルが必要であることは当然であると思う。スキルとして必要と思われるものは、担当とする教科のスキルは無論のこと、その他に、広い意味でのコミュニケーションスキルであることは特に異論はないと思う。

僕はここであえて「スキル」という言葉を使った。この意味は、これらの能力は技術として取得可能であることを示している。市村氏はコラムの中で、(2)親切の説明の中で以下のように語る。
「いじめる、ひがむ、憎む、恨むという類の情念や権力欲や支配欲の強い人は教師には向かない」
市村氏があげた「情念」や「権力欲」を持たぬ人間はいるのであろうか、さらにそれらの強い弱いは関係性の中で変化する、と僕は思う。「口頭試問でそれを識別すべき」とあるが、
実際問題としてそれは不可能に近い。仮に様々な測定手法を使い、その人の性格を把握し得たと思い込んだとして、その結果、逆差別がそこに派生する可能性はないと言えるのであろうか。人間性を数値的に判断する世の中が、逆に子供に与える影響を、市村氏はどのように思うのであろうか。

そうではなくて、技術として取得可能なスキルとして、教師に必要なスキルと経験程度を明示的に項目化し、その上で研修などでスキルを段階的に磨く手法を考えた方が、僕には現実的なように思う。さすれば、恣意的な「親切」「敬虔」「品性」などの、時代とともに、もしくは管理する側の変化とともに変貌する、これらの言葉は無用となる。
「日本人の魂を抜こうとした占領政策は、歴史地理教育をやめさせ、修身科を廃止させた。歴史地理は、文科省の努力の結果復活したが、修身が担っていた道徳教育はいまだに復活していない。知育・体育・徳育が並び進むべき事は教育論の常識であろう。」
ここまで来ると市村氏の個人的「恨み」、占領対策に対する「憎しみ」の強さが顕わになっている。市村氏が言いたいことはわかるし、頷く面もあるが、しかし根本的に僕に不明なのは、それほど現在の教育は悪いのだろうか、という事である。確かに、様々な問題はあるし、色々な事件も起きているのも知っている、でもそれでもなお市村氏の語りを聞き感じるのは、彼のヒステリー的な反応でしかない。つまり、市村氏の語りには、過去への郷愁と回帰が根底にあるが、時代はその方には流れていないのではないか、という思いである。

「知育」、「体育」、「徳育」、大いに結構ではある、しかしその根底に、人間の世界は多数性であり、1人1人が個別であり、得難く、かつそれぞれがそれぞれの生を満足しようと生きている、そのことがあるべきで、「徳育」という名の「国のために死ぬ」的な教育はごめんである。逆に「国のために生きる」ことは「自分の生を充分に生きる」ことと同じ事だ、くらいな「徳育」であれば、僕としては結構なことだと思う。

道徳の教科書も、仮に作るとすれば、思考する事、ものを考える事、そういう事に力点を置くべきだと信じる。と言っても、そういう内容であれば、市村氏からしてみれば、既に道徳の教科書とも言えないかも知れないが。

そう考えていくと、今の学生の有り様は、現代を写しているとも思えるのである。つまりは、片方に根強く市村氏がコラムで語られた考え方があり、しかし実際にはその方向には向かってはいない、でも流れをその方向に変えようとする力が、今の政府の中にあり、そこから現実との間に歪みが生じ、結果的に教員と学生に現れているのではないか、ということである。恣意的な言葉の羅列は美しいが、美しいが故に、言葉が一人歩きをする場合も多い、もっと技術的に考えていった方が良いのではないかと、僕は思う。

市村氏にとってみると、現在の日本は荒廃した心の人々の集まった所、と見られているのかも知れない。でも1人の人間の生を考えた時、老婆心ながら、そのように世の中も見る彼の心の不幸を偲ばずにはいられない・・・

追記:本記事で「Amehare's MEMO」も500エントリーを迎えた。しょうもない事ばかり書いてはいるが、それも500となると、良くも悪くもよく書いたものだと思う。

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