展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。
現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。
と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、それを期待しているかのような行動をしていることだった。
発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。
彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている)によって、企業の宣伝効果は高まる。
それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・
アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。
コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。
おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。
それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。
写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。
例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット)し続けている姿と重なったのである。
恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。
目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。
そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。
消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。
スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。
僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。
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