2007/03/23

北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。

哲学者の池田晶子さんが亡くなられたのを新聞で知った時とても驚いた。今月(3月)の3日のことだ(実際には亡くなられたのは2日)、まだ46歳の死は早すぎると言えば早すぎる。読者の立場から言えば、もうあの平易で奥の深い文章に接することが出来ないという、
一言で言えば残念な気持ちを強く味わった。

その彼女が北朝鮮のミサイル危機について面白いエッセイを書いている。この引用文章の前にイラク戦争に対し若者が「無力感を感じる」という言葉をテレビで聞き、それに応える形でエッセイは書かれている。以下に引用する。
「何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから、そういうことになるのである。
で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。 やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。」
(「週間新潮連載 「死に方上手」 平成15年7月3日号 池田晶子)
3月22日付けの産経新聞朝刊に記事「PAC3 皇居前広場 展開も」があった。日本のミサイル防衛(MD)システムの一環として、PAC3(パトリオット)の緊急時の配置場所として各自衛隊基地の他、皇居前広場を含む日比谷公園などの国有地・都有地の使用も検討しているそうだ。無論、緊急時がどのような基準で発令されるのかは僕には分からないが、一度配置されれば数ヶ月間はそこに設置されることになるのであろう。

僕としては日本のMD計画は全面的に反対の立場をとっている。理由は、Wikipedia「ミサイル防衛」の反対論の中にもあるが、イージス艦とPAC3との連携による防衛しシステムは完全ではなく、かつ膨大なコストを必要とする。しかし、Wikipediaの反対意見(賛成意見も含めて)、僕にとっては重要な一項目が抜け落ちている。つまりMD構想では、首都圏の一部、名古屋、京阪神、福岡などの大都市を中心に考えられているという点である。逆に言えば、たとえば金沢などの都市はイージス艦での防御のみでしか対応しきれないということになる。突き詰めて言えば、日本全土をミサイル防衛で覆うことなど現実的でない以上、どこを守るかということは、どこを切り捨てるかと言うことにもつながる。

日本にとって首都圏地域が最重要な場所であることの理由は、その経済的および政治的な側面からであるが、1人の人間の生死の立場でもの申せば、東京に何千万人住んでいようが、官僚体制の中心地であろうが、そんなの関係ない。それに、仮に北朝鮮が核弾頭を積んだミサイルを発射したとして、それが東京を狙ってとは限らない。ミサイル発射の目的にもよるが、地方都市を標的にする可能性は捨てきれない。たとえば、第二次大戦時に原爆が広島と長崎(小倉は天候不純というだけで回避された)という地方都市に投下された事実が物語っている。さらに、国際社会が、ミサイルを他国に撃ち込むことによって為される北朝鮮側のデメリットを考えれば、論理的に起こりえぬ可能性が極めて高い。

つまりは、可能性は極端に低いけどゼロではなく、その為に一部の政治家が騒いでいるとしか思えないのである。そしてその腹には、切り捨てる者と切り捨てられない者の区別がなされているのである。そう述べると、「じゃテポドンが飛んできたらどうるすの」という意見が必ず起きる。その際に、僕は上記に引用した池田晶子さんのエッセイを思い出すのである。
「北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。」
人は自分の生を全うするために生きている。テポドンごときでそれが変わるのは、一部軍事産業と政治家でしかない。ちなみに、引用した文の中で「生きても死んでも大差ない」とあるが、この意味を僕はハンナ・アーレントの言葉を借りれば以下のようになる。これも引用する。
「自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生と死はない。人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現われ、そこから去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。」
(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P152)
「生きても死んでも大差ない」とあるが、その「大差」ない人間は歴史上において唯一無二の存在でもある。無論、僕はむろん訳のわからぬうちに核で突然に死ぬのはごめんではある。しかしその気持ちは多くの方が同じではないだろうか、でも飛んでくるか飛んでこないかで日常を気にして生きるのはさらにごめんこうむる。

この点において米国におんぶにだっこしなさいというつもりではない。ただ、MDに使うコストを他の面に利用すれば、現在国民の最重要関心事でもある格差の問題解決の試行錯誤に多少なりとも使うことが出来る、もしくは援助が必要な諸外国に使うことで、「防御しています」というメッセージより「もっと仲良くなりたい」というメッセージを送ることが、
なによりもMD構想につながるのではないかと愚考するのである。

追記:たとえば日比谷公園に設置した場合、設置中は何ヶ月も公園の出入りが禁止される可能性が高い。公共の庭園を、安易に利用検討するその無神経さが気になる。そもそもこの記事を書いた動機はそこにある。

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