2008/01/01

十人十色への拙い覚書

十人十色ということは、世界に64億人いるとしたとき64億色あるということになる。それだけではない、人類が誕生からそれぞれがユニークな存在であるのなら、その色は膨大になる。そのように考えた時、僕の思考は止まる。無論、僕がユニークな存在であることは一つの推論である。僕自身が対面し話をした人とは違いが実感できた。確かに僕と彼とは違っていた。

確かに僕と彼女は違っていた。でも彼と彼女が違うのを何故僕は知っているのだろう。
それはあくまでも自分から推測した仮定ではないのだろうか。逆に言えば、彼もしくは彼女を仮想的に自分に置き換えている。でもその置き換えは、そもそも彼と彼女が僕とは違うことから、置き換え不能という点で出発点からして矛盾を抱えているのだ。

十人十色と確信を持って信じている人たちは、「日本人」という一つ共同体は一切信じることはないのだろう。企業内で「人それぞれ」と唱える人は、生活のために信念を一時的にでも変えることが出来ると信じているのであろうか。人がそれぞれに違うことを植物に例えて歌う人たち。植物に例えて歌うのは適切だ。なぜなら植物が育つにはそれなりの環境が必要だから。逆に言えば、環境により特定植物だけを生存可能にすることさえ出来る。

無論、十人十色と言いながら、人はその中にある程度の許容出来る範囲があることを前提にしている。「俺は日本人らしくない」と語る人と、「私は古い日本人なんです」と語る人は、同じ「日本人らしさ」の要素を共有している様に思える点で同一面上に位置している。

企業内で十人十色と称している人も、同じ組織内にイスラム原理主義者を受け入れることが可能とは信じてはいるまい。そして、許容できる範囲を超えてのブレがある時、十人十色と呼ばれる前にその人は病と診断され社会から隔離されることになるのだから。

「十人十色」と語る人はその前提を意識しているのだろうか。多くの場合は自分の願望を満足できない時のあきらめと共に使われる言葉の一つとしてあるのでないだろうか。確かに僕はユニークである。それはハンナ・アーレントが言うように「活動」によって顕れる以前からしてユニークである。そして僕は他者との差異により現れる違い以前にして違う。そして僕は孤独を愛している。僕の行動に、意見に、「人それぞれだから」と答える人の意見は、その中に自分という主客が確固と存在している。そして彼・彼女の主格に僕はその中で従属されている。その従属の中で、僕は彼らの世界の中に組み込まれ、そして「人それぞれ」という言葉の内にある特定のカテゴリの中に組み込まれる。その動きの中に、「十人十色」という言葉は背後に押し込まれる。ただ表層的に、対面的に、言葉としてそれは為される。

まだ「人はわからない」と率直に語られることが、そしてそれを出発点にすることが、おそらく人を承認する初めなのだ、と僕は信じる。

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