2008/01/28

2008年1月28日 日記

晴れ、6時半頃に一旦眼が覚める。起きようかとちらっと思ったがあと一時間は眠れると思い再び眼を閉じる。起きたのは7時20分ごろ。眠気が尾を引いている。珈琲を飲む。煙草をすう。徐々に眼が覚める。

思いついたことを脈略なく書き綴る。思いついた時点での書き込みとなるので、起承転結などない。逆に言えば起承転結のある文章など最近は仕事以外では書きたくないので、これはこれで面白い。

「産経新聞 主張 道徳教育 心とらえる教材が必要だ」
「人間」が造られた存在であるのなら、「道徳教育を実践せよ」と声を上げる人々はそのことを熟知しているのかもしれない。大雑把に言えば、「道徳教育を実践せよ」は一つの従来教育への「否定」である。論理的に言えば、最初に何かの「肯定」があったはずだと思う。
ただ面白いことに、肯定A、Aの否定B、Bの否定C、と続いたとき、肯定Aと否定Cは同じではなく、逆に否定Cは肯定Aも合わせて否定しているように思う。「道徳教育を実践せよ」と語る人たちは、無論戦前の「修身」を念頭においているわけではないと思うが、言葉は政治的であり歴史を背負っているため、読み手は彼らの言葉を「肯定A」も否定しているとはイメージできない様に思える。
しかし、教育に関する「論」は何故このように「美しい言葉」で語られるのであろう。教育には一つの「こうあって欲しい」という思いがそこには横たわっている。その根幹を明らかにできず上辺だけを語るしかないからこそ、それを補う言葉として「美しい言葉」を使うしかないのかもしれない。

大阪知事選挙については殆ど興味がない。

日経社説「消費者行政は「器」より実質的な議論を」は面白かったが、社説としての中身はない。その中身のなさが、逆に「実質的な議論をせよ」という提言になってる印象を受ける。
「日本の行政は殖産興業の明治以来、業の振興に主眼を置いてきた。業界ごとに細かく法律を作り、それに基づき監督官庁が保護・育成の任を担う「業法行政」だった。その中では消費者保護は二の次だ。相次ぐ消費者被害を受け、消費安全の部署をつくるなど変化は出ているが体質は容易に変わらない。」
日経の社説が言わんとしていることはわかる。で、体質を変えるための何か意見を日経は持ってるのかな・・・

そういえば今朝通勤時、満員電車の中で立ちながら僕にもたれて寝ている女性がいて、それには参った。彼女は完全に熟睡していた。立ったままこれほど熟睡している女性に今までに遭遇したことがない。最初彼女は具合でも悪いのではないかと疑ったほどだ。

でも停車するごとに出入りする人の流れに逆らうことがなく、それでいて眠ったままなのだ、動いているさまを見て、具合が悪くないとわかった。正直言ってその動きには驚いた。慣れていると思った。もたれられたのは二駅なので10分は経ってないと思う。でも僕としては動くわけにも行かないのでちょっと疲れたと言うわけだ。まぁ別に良いけど。

最近携帯のフィルタリングサービスが話題になっている。未成年向け有害サイトフィルタサービスの話だ。ドコモがフィルタリング設定を保護者側で出来るようにするとのこと。もっともな話だと思っているが、僕としては「未成年向け有害サイトフィルタリング」自体に反対なので、仮に提供するのなら保護者側での設定は最低限必要だと思っていた。

フィルタリングに反対なのは、「有害サイト」の定義が曖昧なことと、フィルタリングをすることで何の効果が得られるのかがわからないこと等、要するに何かしらまず管理が先にあるように思えるのだ。フィルタリングは対象者がサイトを知らないときに有効だと思うが、対象者が有害サイトとされたサイトを知りえたときは逆の効果を生むと思うし、それ以前におそらく対象者はそのサイトを何らかの手法をとって参照するだろう。だれも人がしたいと思うことを止めることはできない。

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