「MacBook Air」は美しい。パソコンという道具に「美しい」という感覚がふさわしいかどうかは疑問があるところだ。でも僕が「MacBook Air」の写真を見た時に最初に感じたのは「美しさ」だった。美しさを数値で表すことは難しい。確かに「MacBook Air」は薄く軽い、でも厚さと重さの数値を述べたところで、僕が「MacBook Air」を見て美しいと溜息をついた気持ちを伝えることは出来まい。そこには確かに僕の主観があるのがわかるからだ。
おそらくMacWorldの基調講演でジョブズが封筒からMacBook Airを取り出した時に息を呑んだ者、AppleのホームページでMacBook Airの写真をしばし眺め続けた者、彼らには僕のこの気持ちは多少なりとも伝わるとは思う。
「MacBook Air」は目に見える欠点、つまり「足りない物」が明確にわかるパソコンだ。誰でも「MacBook Air」の足りない物を幾つもあげることができる。僕は複数の友人に「MacBook Air」のデザイン上の感想を求めた。すると彼らは即座に何々が足りないと口にした。面白いことにその足りない何かはそれぞれによって違った。ある者はUSBポートが一つでは足りないと言ったし、ある者はイーサネットの口がないと告げた、またある者はDVD等の読み取り装置が無いと残念がった。おそらく彼らが告げた物は、彼らにとって一番の足りない何かだったのだろう。
逆に言えば、常に人にとって一番足りない物は一つしかないのである。人間は複数の痛みを同時に感じることができない。その一番足りない物が、仮に「MacBook Air」にあれば、二番目の足りない物を見つけるのかも知れない。でも、仮にそうだとしても、彼らが語る「足りない物」は少なくとも何かの代替案が存在するのである。つまりは「MacBook Air」が成功するか否かのハードルは意外に低いと言うことだ。
僕は「MacBook Air」の写真を見た時、何故か「Macintosh SE/30」を思い出した。あの1989年に発売した一体型の系譜の一台である。僕が最初に購入したMacでもあった。本当は前機種であるSEから欲しかったが、何せ価格が高すぎた。僕には、Macの歴史を飾る一体型はアラン・ケイが提唱するダイナブック構想が実体化する種子の様に思えたのである。
その当時、マンマシンインターフェースを含め、パソコンの将来像を語るにはMacをおいて他にはなかった。しかし今回「MacBook Air」が発表された現在は、Web上に様々なASPが存在し、逆にMacである必然性は何もない。
逆にだからこそ、モバイルのデザインをラディカルに考えた結果「MacBook Air」のフォルムが誕生したのかもしれない。一台のパソコンだけで全てを行うためのラディカルな発想がMacの歴史に一体型の系譜を産み出したように、パソコンは何でも構わない時代にラディカルな発想で「MacBook Air」のフォルムが誕生した様に僕には思える。
「MacBook Air」はパソコンの形をした「iPod Touch」かもしれない。「MacBook Air」
の神髄はワイヤレスとしてのシステムにあるより、やはり新たな操作性にあるように思える。ある意味、マウスとウィンドウシステムの登場により、パソコンのインターフェースは新たな段階を創造するのは難しいと思っていた。しかし、「iPod Touch」が新たな地平を垣間見せてくれたし、それをパソコンで実現するには「MacBook Air」の形が必要なのだと思えたのである。逆に言えば、「MacBook Air」からの発展系が、進化するWebの端末としてのマンマシン・インターフェースでありフォルムになり得る、そんな期待感を僕は直感的に抱いたのだ。
しかし残念なことが一つだけある。それは日本での販売価格に他ならない。少なくとも10万円台での販売であれば、おそらくビジネス的にマックフリーク以外にも訴求力が出たことだろう。「MacBook Air」の予想販売台数がどのくらいなのか僕は知らない。おそらくそれなりに売れるだろうが、爆発的に売れることはないだろう。しかし「MacBook Air」はMacの歴史に名を残すことは間違いないと思うし、継続的な発展を行うことで、ビジネスにおいても素晴らしい成功になり得ると信じている。
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