評論家であり翻訳家でもある近藤耕人は、「今日あらためて写真を論じようとすれば、01.9.11のテレビ映像から出発しないわけにはいかない」と語る。
その理由として、ある編集者が 知人の電話でWTCから煙が上がっていると聞かされるが信じられない、そしてテレビのスイッチを入れ映像を見て初めて現実となったエピソードをあげている。
「映像が現実認識に取って代わったという事態が、人間の現実感の喪失と転位を含意しており・・・」
確かに9.11は21世紀で語られるニュースの先頭を飾る。僕もその時、家のテレビに釘付けになりその映像を見続けた。家人は横に座り僕と一緒にテレビを見ていた。
誰もが思うように僕もこれから何かが変わると思った。隣の彼女は疑いを持った眼差しで映像を見ていた。そして僕に言った。
「これって本当の出来事なの?」
「もちろんだよ。疑う必然性は何処にもないよ」
あれから8年経ち、毎年9.11がきて、過去の映像をどこかのニュース番組で流すたびに、彼女から同じ質問が繰り返される。
「これって本当の出来事なの?」
9.11以降の世界に幾つもの争いが起きたように、家にも様々な出来事が起きた。
それは「テロへの戦い」という名の覇権・利権争いの一方に日本が組み込まれざるを得ない状況の中で、争いから来る悲惨さのどれ一つとっても我々に関係ないことはないという事への、いわばさざ波のような余波が家を襲っていたのかもしれない。
今から思えば、仕事をコントロールしているようで実は流され、愛すべき人達を守ろうと逆に傷つけていた。それは何処にもある極めて平凡な一つの時代でもあった。
9.11から世界は変わったわけではなく、仮に変わったとしても、それは9.11が変化し続ける人間社会の中で大きな変化に至る過渡期の一つの現象でしかないと今の僕は思う。
変わると認識した僕も含めた多くの人達は、何かが起きるという潜在した意識を9.11の出来事で解放しただけなのだ。
冒頭の近藤耕人の言葉は次への続く。
「その錯誤のために、過去160年にわたって人間の現実感覚を深め、研ぎ澄ましてきた写真が、ついに自ら墓穴を掘って墜落したのである。」
彼の言うところの「人間の現実感覚」とは一体何を示すのか僕には正直わからない。ただ、「写真が現実を撮してきたのか」と言う問いに対しては、「現実とは何か」という問いと共に相殺される問いだと僕には思える。それを「人間の現実感覚」の根底においてあるのなら、その言葉自体が無意味に陥りかねない。
カメラは、写真は、常に僕らの現実とは無関係に存在している。さらに、写真が写っている「何か」に僕らにとっての現実を見たとしても、その写っている「何か」を指し示す「何か」は、僕らにとって経験がなければ、単に表象でしかない。僕らにとっての現実とは、そこに痛みを伴う内実そのものなのだ、と僕は思う。
9.11以降多くの内紛、虐殺、紛争、戦争があった。それらは映像として僕らの前に提示されたものもあったが、殆どは隠された。しかし隠されてもなお、それらは僕らの日常を写す幾多の表象の中に姿を変えて現れる。そして僕はそれらに囲まれて軽い苛立ちを覚えるのだ。
今年もまた9.11がまた巡ってくる。人類がその歩みを止めない限り、時間は止まることは無い、9.11が追憶の彼方に消え去ったとしても、名前を変えてそれは現れることだろう。
今年もまたニューヨークの空に巨大な二本の光の柱が登場するのだろうか。そしてそれを美しく写真に収める人もいるのだろうか。写真はどのような情景も美しくさせる力がある。光の二本の柱は、夜空を確かに美しく、9.11とそれ以降の悲惨を感傷的に彩ることだろう。
8年の年月は僕に何をもたらせたのか。営みの中で僕が感じ確信として得てきたものは何だったのか。おそらくそれは家人のこの言葉に集約されている。
「これって本当の出来事なの?」と。
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