以前にある女性から「歳をとりすぎて生きるのは悲しいことだ」という趣旨の言葉を聞いたことがある。その女性は僕の親戚の一人で、夫を亡くしてから年老い体が不自由になった義母の面倒を見ていた。僕は彼女の現状とか経緯を知っていたので、その彼女の言葉の持つ意味を理解したし、それについて何も言うことは出来なかった。しかし、もう一つの面では彼女のその言葉に対し、「そうではないんだ」と言いたい気持ちも同時にあった。
僕は彼女の言葉についてここで語ろうとは思わない。問題なのは、僕が彼女の語ることに同意したことと、同時にそうではないと思ったことにある。この二つが僕の心の中に同じくらいの重みを持ってあることが、僕にとっての問題だと思うのだ。さらに言えば、僕の心の中の二面性は、大げさに言えばこの国の問題でもあると思う。
敬老の日は祝日法では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」とされている。地域によっては一定の年齢の方にお祝いをされている所もあるだろう。またはご家庭でお祝いをされる場合もあるだろう。長寿を祝う気持ちは自然な感情だと僕には思える。その反面で、高齢化は少子と結びつき、医療費や介護や、はたまた年金保険問題などにも絡み、あまりよい文脈で語られることがない。
日本は、特に女性の場合は、長年平均寿命は世界一を保ち続けている。新聞などでそれが記事になったとき、大方のニュースキャスターは「おめでたい事」ではなく「高齢化社会」の文脈で語る。世界に誇るべき事だと思うのだが、何故か社会は白けているように見受けられるのは、僕のうがった見方なのだろうか。
ゴーギャン展でのあの絵の感想を既に2回ほど書いてきた。でも未だ書いていないこともある。あの絵「我々はどこから来たのか~」は、美術展の説明に寄れば三つの構成によって分けられている。絵の右側から女性二人の部分までが「我々はどこから来たのか」、中央のイヴ付近が「我々は何者か」、そして左側が「我々はどこに行くのか」となっている。
僕がこの絵の中で一番に不明な点が「我々はどこに行くのか」の部分である。それはゴーギャンの絵の全体にも言えることなのかもしれないが、彼の絵にお年寄りは描かれているのは少ない。しかも、あの絵に関して言えば、お年寄りは「我々はどこに行くのか」の部分の左端に死のイメージで描かれているのみである。
左端に描かれた老婆は、ペルーのミイラの姿を模して描かれている。それはゴーギャンが死のイメージとして他の絵にも描いているモチーフでもある。それは勿論、お年寄りイコール死、という短絡的なものではないとは思う。一つの象徴的な記号なのだろう。それでも、その記号に老婆を使い、その他にはお年寄りは登場しないのも事実である。
僕は思うのだが、僕らはあの絵のタイトルとゴーギャンというブランドと、そしてそのゴーギャンが遺書の代わりに描いたという背景によって、騙されているところもあるのではないだろうか。何を騙すというのか。それはあの絵のタイトルに示された問いかけの答えがそこにあるのではないかという思いだ。無論、それはゴーギャンの責任ではない。そしてあの絵が素晴らしいことに何の異論も持ってはいない。
ただ一つそのことで僕が思うのは、ゴーギャンの死生観でもある「我々はどこに行くのか」の部分は、あまりにも思想的に底が浅すぎるのではないかということだ。
そこには「歳月が重なるにつれて、人生は私にとっていっそう豊かな、好ましい、神秘に満ちたものと感じられてくる」という考え方は微塵もない。
これは想像でしかないが、仮にゴーギャンが55歳で死ぬことはなく80歳を越えて生きたとき、おそらくゴーギャンはあの絵を再度描き直すように僕には思える。あの絵は、素晴らしい絵なのだが、それでも49歳のゴーギャンの考えでもあるのは事実だと思うのだ。ただ、その時点でのゴーギャンの身に降りかかったことを考えれば、それはそれであの絵が描かれたのは一つの奇跡でもあるだろう。だからこそ、80歳のゴーギャンがまた新たな奇跡を持ってあの絵を書き直したとき、どのような世界があの絵に宿るのかが知りたいと思うのだ。それが叶わぬ夢であるとしても。
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